Ⅺ あの日の川
 捜さなければならない人がいる。
 行くべき場所はわかっている。
 瞳の端に浮かんだ涙の乾ききらないうちに、千尋は決意を固めた。机の脇にかけている鞄から、携帯を取り出す。自習時間で教室内がざわついているのは好都合だった。昼休み明け早々から堂々と早退しようとする千尋に注意を向けたのは、隣の席に座るクラスメートだけだった。千尋は適当な理由をつけて、担任に伝言してもらうことにした。一刻の猶予さえも惜しく感じられた。
 授業時間の廊下には、他に誰の姿も見当たらない。窓から差し込む陽光が、真っ直ぐに伸びるリノリウムの床をつややかに照らしている。千尋は携帯から家に電話をかけた。三度目の呼び出し音の後、非番で家にいる母の悠子が出た。たった今高校で授業を受けているはずの娘からの電話に、母の声は驚きと心配の色を隠そうともしない。
「どうしたの? こんな時間に電話なんて。具合でも悪い?」
「お母さん。何も聞かないで、わたしの質問に答えてほしいの」
 階段を駆け下りながら、千尋は矢継ぎ早にたずねた。
「昔、わたしが溺れた川があったでしょ? ……コハク川っていう川。あの川って、どこあったんだっけ? 一番近い駅とかバス停の名前、わかる?」
 電話越しに、母がぽかんと呆気に取られているのが察せられた。やや間をおいてから、答えを探しあぐねているような慎重な声で返してくる。
「急に何? どうしちゃったのよ、千尋。あなた、ちょっと変よ?」
「──お願い、お母さん!」
 焦れた千尋の声が、泣き出しそうな切実さを帯びる。
「お願いだから教えて。わたし、どうしてもあの川に行かなくちゃならないの。今すぐに」
「ええっ? 今すぐにって……。急に何を言い出すのかと思ったら」
 母は当惑していた。無理もないことだが、今の千尋には他のことに気を配る余裕がない。
「わたしの大切な人が迷子になってるの。だから、わたしが見つけてあげなきゃいけないの。そうしないと、もう二度と会えなくなっちゃうかもしれない。二人とも、今までのこと、全部全部忘れちゃうかもしれない。そうなったら、わたし──。
 ──わたし、きっともう、生きていけない」
 自分の口からこぼれた言葉に、千尋ははっとさせられた。
 下駄箱でローファーに片足を差し込みかけたまま、爪先から上が石化したように体が動かない。まるで、自分自身に金縛りをかけたかのようだった。勢いで口にするには、あまりにも重い言葉だった。──けれど、千尋は恐れることをやめた。それはまぎれもなく本心から出た声だったから。
 ゆっくりと深呼吸をし、履きかけの靴を履く。
 開け放された玄関には、昼下がりのゆるやかな風がよく通る。校庭からホイッスルの音が流れてくるのは、どこかのクラスが体育の授業中なのだろう。
「──少しだけ待ちなさい。すぐ、迎えに行くから」
 電話越しの母は、先程までの困惑が嘘のように冷静な声で、そう言った。


 近頃は、母が運転する機会が増えた。父が出張の時には、車を置いていくようになったからだ。
 あの日と同じ車、母が座っていた助手席で、千尋は今まで語ることのなかった体験にまつわる全てを打ち明けた。いつか話す時が来ることはわかっていたが、いざ迎えてみると驚くほど心が軽くなった。信じてもらえるか、もらえないかという心配はとうに消え失せていた。誰に否定されようと、真実は決して揺るぎないものだと気が付いたからだった。母はハンドルを握ったまま、黙って千尋の告白に耳を傾けていた。蛇行する山道を、いつにも増して安全運転で進んでいく。
 国道の長いトンネルにさしかかった。陽光をさえぎられた暗がりの中、千尋の脳裏にふとあの日の出来事が思い出される。トンネルの中ですがった母の腕はよそよそしく、幼い千尋を優しく抱き寄せてはくれなかった。今でこそ女友達のように対等に接することのできる母だが、あの町に引っ越してきた当時の千尋は、母と二人きりの時にはいつもその顔色をうかがっていた。つねに母が何かに不満を抱いているような気がしていたからだった。その時の癖がちらついて、そっと運転席の母の横顔を見ようとした。
 今まで口を閉ざしていた母が、前を向いたまま静かに言葉を発したのは、ちょうどその瞬間だった。
「ごめんね。千尋」
 たった四文字。それが、なかなか頭に入ってこなかった。千尋は口をかすかに開けて、呆けたようにその横顔を見つめていた。
 その反応は全く予想していなかった。打ち明けた真実を否定されたなら、信じてもらえるまで何度でも同じことを伝えるつもりだった。万が一にも肯定してもらえるのなら、今度こそ思う存分その腕に抱き着いてみたいと夢想した。母の示した反応はそのどちらでもなかった。とるべき選択を失った千尋は、口にするべき言葉が見つからない。どういった感情表現が正しいのかさえわからない。ただ一刻も早く、長いトンネルが出口にさしかかってくれることを待ちわびる他なかった。
 カーナビの示す目的地に到着するまで、親子の間に会話らしい会話が交わされることはなかった。千尋にとっては、ハクとともにあの赤い橋を渡った時よりもずっと、息の詰まるような時間だった。引き留められているわけでも、背を押されているわけでもない。だから、車が駅の駐車場に停まった後も、逸る心とは裏腹に、なかなかシートベルトを外すことができない。
「千尋」
 名を呼ばれた時、千尋は叱られることを予感した子供のように、大きく肩を震わせた。その肩に、母の手が触れてきた。
「あの川があった場所を、教えてあげる。……でもその前に、お母さんとひとつ約束してちょうだい」
 その手もかすかに震えていた。それでも、千尋の肩には確かな温もりが感じられた。
「どんなに遠くへ行っても、絶対に帰ってきてくれるって」
 千尋は思わず両手を伸ばし、母の腕に抱き着いた。子供の頃のように思い切り甘えたかった。母は今度こそ千尋のなすがままにさせながら、その背をそっと撫でてくれた。千尋の心の中に、このうえなく温かいものが少しずつ嵩を増して満ちていく。
「絶対に帰ってくる。約束だよ。──お母さん」


 電車とバスを乗り継ぎ、母から聞いた町を目指す。
 初めての地名、初めての路線。道中を共にする相手もいない一人旅だったが、千尋は心細さを感じなかった。行くべき場所があり、帰るべき場所がある。そのどちらにも大切な人が待っている。どれほど遠くへ旅をしようと、もう二度と道を見失うことはないという確信に、背を押されていた。
 降車したバス停は、住宅街の一角に立っていた。小学校がすぐ近くにある。下校時間が迫っているらしく、ランドセルを背負った子供たちが次々と校門から出てくるのが見えた。小学校を通り過ぎれば、学校帰りの児童が通う学習塾や、駐車場の少ないコンビニエンスストア、ガラス越しに暇を持て余しているのが見える美容室などがある。歩いてみればみるほど、どこにでもありそうな郊外の町並みが広がっていくばかりだった。
 当時、この町に母の旧友が暮らしていた。千尋は電柱につけられた表示板の番地を確かめながら、母から教わったその友人宅を目指す。あれから十数年、友人一家は遠方へ引っ越したので、今その家が空き家になっているのか、別の住人が暮らしているのかまではわからないという。ただ、かつてあの川はその友人宅の裏手にあったので、千尋がそこへ行くための目印にはなるはずとのことだった。
 電柱でたどる番地がだんだんと目的地に近付いていくにつれ、千尋は不思議と、「あの日」を追体験しているような気分になってくる。
 母によれば、あの日は友人の出産祝いでこの町を訪ねたのだという。
 ──母に手を引かれて、幼い千尋は今と同じ道を歩いていた。もう片方の母の手には、出産祝いの品が入った紙袋が提げられている。ちりん、ちりん、と歩くたびに背後から鈴の音が聞こえる。千尋のリュックにつけてある鈴だ。迷子にならないようにと、母がポケットのファスナーに結び付けてくれたものだった。
 バス停から十分ほど歩いてたどり着いたのは、瓦葺の古い一軒家だった。表札はなく、もう何年もの間空き家であることが、敷地内に伸び放題の雑草や、錆びついた干し場などからうかがい知れる。空き家とはいえ勝手に中へ入ることはさすがに気がとがめたので、千尋は家の裏手に回ることにした。そこには朽ちかけた木戸が立てられていた。かすかに開いた戸の向こうに、夕日のさしこむ手つかずの裏庭が見える。
 ──あの日、母は家の中で友人の赤ちゃんをあやしていた。暑い夏の日だった。ほったらかしにされた千尋はリュックを背負ったまま、裏庭の木陰でじっとしていた。ミンミンと頭上から蝉の鳴き声が聞こえていた。初めはそれが珍しくて聞き入っていたけれど、しだいに飽きてきてしまった。そうして次に興味をそそられるものを探すうち、ふと、外へ出るための木戸が開いているのを見つけた。
 その戸をくぐり抜けた先には、青い生垣が続いている。西日がアスファルトの道に長い影を投げかけていた。千尋は心臓の高鳴りを感じながら、先へ先へと歩いていく。あの日の自分をさがしながら、一歩ずつその道を踏みしめようと思うのに、逸る心に躍らされて、しだいに足が早まっていく。
 生垣の途切れたところに、小さな公園ができていた。あの頃はまだそんなものはなかった。砂場の白い砂の上には、子供たちの残した足跡がある。その足跡に導かれるように、千尋はさらに先を行く。
 心があの日へたぐり寄せられていくのがわかる。遠い陽炎のような記憶をたよりに、あの日の川をさがしに行く。──たとえ今は冷たいコンクリートの下に埋め立てられ、跡も形も残っていないとしても。

「必ず、会いに行くよ」

 ちりん。
 鈴の音とともに、少女の泣き声がした。悲嘆に暮れながら交わした、遠い昔の口約束。誓った相手は誰だっただろう。
 木々のざわめきの中、空高くそびえるマンションが、アスファルトの道に濃い影を落とす。千尋はその道にたたずみ、堰切ったようにあふれる涙を止めることができずにいる。手のひらに受けとめた涙には、きらりと輝く欠片がいくつも混じっていた。千尋は手のひらを返して、それらの欠片を両手にかき集めた砂のように、きらきらとアスファルトの上へ落とした。
「あなたの言う通りだった」
 アスファルトの下で、かすかに水の流れる音がする。いつも心の奥底で聞いていたような、懐かしいせせらぎ。千尋は膝をつき、両手でじかにその道に触れてみる。その手はざらつくアスファルトを通り抜け、どこからか、冷たく澄んだ水をすくい上げていた。
「わたしが持っていたんだね。ずっと昔から、あなたの大切なものを。──コハク」
 両手にすくった水が、指の間からこぼれ落ちていく。水滴は銀の鱗になって、きらきらと散らばる。千尋の膝はいつしかアスファルトの感触を失い、水に削られてなめらかになった川底の石を感じていた。道なき道に水が満ちていくにつれ、その体は流れに身をまかせて水中を浮遊していく。
 目を閉じて、千尋はさやかなせせらぎに耳を澄ませる。その中に、水泡のはじける音が聞こえる。──名を呼び返す声が聞こえる。
 あの日の川が、千尋に向かって、滔々と流れてくる。
 
 




Boule de Neige