恋は野の鳥


 どこかで聴いたことのある旋律だった。
 ジュースのグラスを両手で握りしめたまま、菜花はその音源を振り返る。それは、ミルクホールのカウンターに置かれた蓄音機から流れてくる歌声だった。紳士達の笑い声や食器の立てる音をかいくぐり、彼女の耳元へ印象的なメロディーを運んでくる。
「あら。菜花さん、ご注文ですか?」
 女給の貂子がその様子にふと気づいて、微笑みながら近寄ってきた。聞き覚えのある音色に気を取られていた菜花は、はっと頬を染める。
「──すみません。あの、注文じゃなくて、ただ蓄音機を見ていたんです」
「まあ、そうでしたの。何か気になることでもおありかしら?」
「はい。今流れているこの歌、私も知ってる曲なんですけど、どこで聴いたのか思い出せなくて……」
 あら、と貂子は目を丸くして、音色をよく聴こうと、耳かくしの巻き髪に白い指を添えるようにした。抒情画に描かれるモダンガールそのもののような美しい所作に菜花がみとれていると、
「これは確か、流行りの歌劇の曲だそうですよ。演目は、『カルメン』といったかしら? ねえ、マスター?」
 麗人は振り返り、蓄音機の傍にひかえている支配人に声をかけた。水を向けられた支配人は、つられて蓄音機の方へ顔を向けた菜花に、ほがらかにうなずきかけてくる。
「ええ。これは『カルメン』の、『恋は野の鳥』という歌ですね。この曲を御存知ということは、もしや帝劇でオペラをご覧になったことがおありなのでは?」
「い、いえいえ! オペラなんて、一度も観たことないですっ」
 話が飛躍してしまったので、菜花は苦笑いを浮かべた。そのような高尚なもので聞き覚えたのではなく、おそらくテレビのCMか、学校の音楽の授業で流れてきたものを耳にしたというだけに違いなかった。それは大正の時代では「モダン」な歌曲かもしれないが、令和ではいわゆる「クラシック」音楽として扱われているものなのだろう。
「ありがとうございました。どんな曲か知れて、すっきりしました」
 親切な女給と支配人に礼を言い、再びテーブルに向き直る。
 隣の式神は、いつものように感情のない目を見開いたまま、一連のやりとりをじっと傍観していたようだった。
 向かいの窓際に座る陰陽師は、開いた新聞に視線を落としたまま、他のことにはかけらの興味も示そうとしない。
 百年越しの旋律に耳を傾けながら、夕日の差すテーブルからグラスを取り上げる菜花は、小さなため息をついた。
「『恋は野の鳥』、かあ……」
 外国語で歌われる歌詞は、何を伝えようとしているのかさっぱり分からない。とはいえ、それが翻訳された歌詞だったとしても、きっと彼女には理解できないことばかりだろう。
「若い女性のため息は、大抵が恋わずらいによるものだそうですね」
 横から飛び込んできた思わぬ指摘に、菜花はあやうく口元に運びかけたグラスを両手からすべり落としそうになった。
「……乙弥くんっ、そんなことどこで覚えたの?」
「はあ。長くこの世にあれば、それはもう色々なことを見聞きするものですから」
 雛人形のようなその容姿にはおよそ似つかわしくない、達観した物言いだった。菜花の視線は自然と、窓辺に座る人の静かないずまいへとひきつけられていく。──式神という存在には、作り手の人格が作用するものなのかもしれない。彼らの醸す雰囲気には、どこか似通ったものがあった。
「あの。菜花さん」
 傍らから、呼びかける声がする。うん、と彼女は気もそぞろに返事をした。

「菜花さんは、恋をしていらっしゃるのですか。
 ため息が出てしまうのは、その所為ですか」

 夕日が、その人の肩口にじわりと色彩を滲ませていくのを見ている間、菜花は問いかけられたことを意味もなく頭の中で反芻させていた。
「恋なんて……」
 つぶやきかけた言葉は、蓄音機から聞こえてくる歌曲の旋律にさらわれて、窓の向こうへと流れ去っていく。
 ──鳥を追いかけようとすれば、手の届かないところへ飛び去ってしまう。
 かつてその人にとっての恋は、きっとそういうものだった。
 彼女自身にとっても、そうなのかもしれない。
 だとすれば、本当は、気が付いても見て見ぬふりをするべきなのだろう。
 ──けれど。
 菜花の瞳はどうしても、その人の姿を追うことをやめられそうにない。
「……私だって、恋のひとつやふたつくらい、知ってるもん」
 悔しまぎれに小声で言ってみてから、そんな自分の幼稚さがおかしくなって、笑えてきてしまった。
 しかし隣の式神は、それを真に受けたらしい。心なしか大きな目をさらにみはり、菜花の顔をじっと覗き込んでくる。
「菜花さん。あちらの世界に、恋人がいらっしゃるのですか」
 彼女の脳裏に、頼もしい同級生の顔が浮かんだ。今度こそ吹き出してしまいそうになる。
「ううん。全然、恋人ってわけじゃないよ」
「でも、お相手は菜花さんに好意があるのでは?」
「うーん、どうなんだろ。友達はみんなそう言ってるけど、よく分からないや。優しくて、すごく頼りになる男の子だけどね」
 その時、正面から小さくむせる音がした。テーブルの上に新聞を置いた陰陽師が、片手で口元をおさえてせき込んでいる。
「ちょっと、摩緒! 大丈夫?」
 驚いた菜花は思わず席を立った。
「──うん、なんでもないよ。少し珈琲が熱かったから」
 言葉とは裏腹に、相手は珍しく狼狽した様子だった。余程熱い珈琲だったんだろうな、とにわかに同情心が芽生えた菜花は、カバンからハンカチを取り出してテーブル越しにその人へと手渡してやる。
「分かるよ。私も猫舌だもん」

 式神は、テーブルに置かれた珈琲カップをじっとながめていた。
 女給がそれを運んできたのはもう何十分も前の出来事だったはずだったが、主が「むせるほど熱かった」と言うのならば、きっとそうだったのだろう。




令和四年一月二十九日


Boule de Neige