こゝろばせ

 「本日休診」の札がかかる診療所の扉を、無遠慮と知りながらも、訪問者はそっと押し開けた。
 平日、午後一時半。普段であれば医者と患者の会話がもれ聞こえてくるはずの午下がりの診察室は、今はしんと静まり返っている。かといって、まったくの留守というわけでもない。小座敷に目を向けてみれば、よく見知った顔が、その唇に人差し指をあて、神経質そうな眼でこちらを見つめている。
 やれやれ、と首を振りながら、百火は音をたてぬように細心の注意を払って扉を閉めた。
「……で? 今度は、何日目だ?」
「──ううん。まだ、さっき寝たばっかり」
 耳をそばだてなければ聞き取れないほどの小声で、相手は答えた。
 その膝の上には、このうえなく安らかな弟弟子の寝顔が見て取れる。
 百火は確かな安堵と少しの興味がまじった表情で、その顔をまじまじと覗き込む。
「乙弥は?」
「代理往診。隣町だって」
「ほお。おまえは付き添わなかったのか?」
「……うん」
 瞳を伏せて微笑む菜花。膝枕に眠る弟弟子の額にかかる前髪を、春風のような手つきで撫でている。とんだ愚問だった、と百火は自分の鈍感さを少し恥じた。
「ったく、いいご身分だな。真昼間から女の膝でうたた寝なんてよ」
「……しーっ」
 菜花が内緒話をするように、また人差し指を立てた。百火は口を噤まざるを得なかった。以前、枕辺で大声を出して熟睡していた弟弟子を起こしてしまった時、彼女の大目玉を食ったのだった。同じ轍は踏みたくない。
 極力声量をおさえつつ、百火は敵に関する情報の伝達を試みた。菜花も今や真剣な顔つきで彼の話を聞いている。彼女のかたわらにはつねに刀が置いてあった。いざという時には、無防備な弟弟子を守るために躊躇なくその刀を引き抜くだろう。
「ありがとう。何が来てもいいように、十分気を付けるよ」
 百火の警告を受け取った彼女は、おそらく無意識のうちにその愛刀を固く握りしめていた。目には強い闘気がやどり、見えない敵の姿をとらえるように窓の向こうをじっと見据える。何が襲いかかってこようと、一歩も退きはしないという覚悟がその瞳にみなぎるのを目の当たりにした百火は、思わず感心の声をこぼした。
「──菜花。おまえ、本っ当に変わったよな」
 その横顔は、出会った頃とはまるで別人のようだった。単にほんの数年ばかりの年月を経たというだけではない。それは今や、命を賭して戦うことを知る者の顔だった。──あるいは、自分の運命をかけて誰かを愛することを知る者の顔でもあった。
「それ、褒めてる? それとも、けなしてるの?」
 口をとがらせるその瞬間だけは、年相応の顔をする。共闘者としてその目覚ましい成長を歓迎する一方、百火はその心の奥底では、今の顔と向き合う方がよほど気安いように思っていた。そんな人心地のついたような生ぬるい感情を悟られまいと、いつものように鼻であしらう。
「自惚れんなよ。前よりは、ほんのちょっとばかし使い物になるってだけなんだからな」
「ひっどい。他にもっと言い方があるでしょ」
 売り言葉に買い言葉で、ついいつもの声量を出してしまう菜花。膝の上から、安眠妨害に抗議するようなうなり声が聞こえてきたのを、百火のせいだとばかりの目つきで非難してくる。
「おい、おれのせいかよ」
「……他に原因がある?」
 しょうがねえなあ、と百火は羽織の袖に両手を差し入れたまま、大儀そうに立ち上がった。
「用は済んだからな。邪魔者はそろそろお暇するぜ」
「──え、もう帰るの?」
 菜花がはたと置いてけぼりにされる子のような顔をする。うるさいと言ってきたかと思えば、今度はこうして引き留めようとするのだから、勝手なものである。
「なんだよ。一人じゃ怖いのかよ」
「はあ? 別に怖くなんか──」
 そこで言葉が途切れた。口に出すまで、自覚がなかったらしい。菜花は小さく震える自分の手を、まるで生まれて初めて見るもののようにじっとながめていた。
『自分を守る術を教えておきたいのです』
 百火の脳裏に、いつかの摩緒の言葉がよみがえる。
 あの時のひ弱な少女は、今やみずから前線に出て強敵に立ち向かおうとしている。いつか自分という存在が彼女の前から消えるだろうことを見越していた弟弟子は、成長を遂げたその姿をさぞ頼もしく思っていることだろう。
 ──ただひとつの誤算は、菜花の強さの源が、他ならぬ摩緒自身であるということだった。
 彼の眠りが深ければ深いほど、その命を守るため、菜花はますますその能力を発揮しようとする。だが一方で、その心は絶えず喪失への不安に苛まれているのかもしれない。巧妙に「強さ」という鎧をまとっているようでいて、どこかそれが彼女の本来の姿ではないという気がしていたのも、無理からぬことだった。
「怖くなんかないよ」
 百火ははっとその顔に視線を向けた。
 少女の瞳は、弟弟子の静かな寝顔を見つめている。
「……手、震えてんじゃねえか」
「これはほら、武者震いってやつ」
 自分に言い聞かせるように、菜花はその手で刀を握りしめる。
「前に華紋さんから聞いたの。言葉は呪いなんだって。"怖い"って言ったら、本当に怖くなって、足が竦んじゃうような気がする。でも、私には立ち止まってる時間なんてない。
 だから、"怖くない"って言うようにしてるの」
 そうかよ、と百火は言った。彼女の言うことにも一理あった。言霊の力で自分を鼓舞できるのなら、それにあやかるに越したことはない。
「でも、たまには戻ったっていいんだぜ。──前みたいな、鈍くせえ小娘によ」
 しょっちゅうそれだと足手まといだけどな。そう言って照れ隠しのように鼻を擦っていると、相手も思わずといった様子で吹き出した。
「何それ、変なの。百火のくせに」
「ああ? 今のは聞き捨てならねえな。おまえはもっとこの百火さまを敬えっ」
 百火は、少年のようなその短髪を両手でぐしゃぐしゃにしてやった。菜花は声を上げて抗議した。──するとその膝の上でまたもうるさそうな声がしたので、今度こそ火の兄弟子は診察室から締め出されることになった。




令和四年二月五日

Boule de Neige