とける

 彼女にとって、その日が「特別」であったことはなかった。
 一年に数多くあるイベントのうちのひとつに過ぎなかった。毎年、この時期になるとどこの店先にも現れる特設コーナーで、小遣いをにぎりしめて祖父や友達に手渡すものを選ぶ一時は楽しいが、それ以上でもそれ以下でもなかった。
 今までがそうだったように、今年も、特にその日に深い意味はない──。
 その日が近づくにつれて何度も自分に言い聞かせる菜花だったが、そう思えば思うほど、ますます意識せずにはいられなくなる。それは彼女の心に棲みつく「ただ一人」のせいだった。その人に渡すものだけは、どうしても選ぶことができないまま、とうとうその日の前日を迎えてしまった。
「──菜花お嬢さま。何かご用ですか?」
 しばらく前から台所をじっとのぞき込んでいたのを、家政婦はとうに気付いていたらしい。振り返ったその姿に、菜花は思い切って取りすがることにした。
「お願い、魚住さん。助けてっ!」
「どうしました。──もしや、また猫鬼が現れましたか」
「ううん、違う。猫鬼よりも、もっとずっと深刻なことなの」
 菜花は背中に隠していたビニール袋を、勢いよく突き出して見せた。
「バレンタインは明日なのに、私、何も用意してない! ──だからお願い、作るの手伝って!」
 式神の特徴である深い穴のような瞳で、家政婦は菜花の顔と、手渡されたビニール袋の中身とを交互に見比べた。袋の中には、彼女が悩みに悩んで買ってきた板チョコやアラザン、生クリームなどが入っていた。
「チョコレートの材料ですね」
 夕食の献立について話すような単調さで、家政婦は言う。
「今年は手作りになさるのですか?」
「……う、うん。お世話になってる人に渡すものだから、その方が気持ちがこもるかなって」
 菜花は心臓の音が耳に聞こえてきそうなほどの緊張を覚えていた。それ以上踏み込まれたら、どう答えていいのかわからない。が、幸いなことに相手は余計な詮索をすることはなかった。
「わかりました。お夕食の支度は済んでいますから、お手伝いしましょう」


 そして今、またしてもかつてないほどの緊張に声を裏返しながら、彼女はその人と相対していた。
「私に、手作りの菓子を?」
 差し出された箱を見つめる陰陽師は、きょとんとしている。滅多なことでは目を丸くすることのないその人だが、その時ばかりは素直に驚かされたらしい。
「今日は、何か特別な日だったかな」
「……べっ、別に"特別"なんかじゃ!」
 菜花はむきになって、かっとその顔を直視した。だが目が合うと途端にまた気恥ずかしくなって、すぐに俯いてしまう。今、その人と向き合っているのが大正時代であることに、彼女は心底感謝しなければならなかった。二月十四日という日は、この時代においては何ら特別な意味を持たないのだから。──もしこれが百年後の世界なら、きっとその人の目の前に立っていることすら居たたまれなかっただろう。
「いつも摩緒にはお世話になってるから、お礼がしたかっただけっ」
 自分自身にも、そう言い聞かせた。だから、臆する必要などどこにもないのだと。
 けれど、勇気を出して再び顔を上げた時──
「そうか。──ありがとう、その気持ちが何より嬉しいよ」
 胸をくすぐるその優しい微笑み、心をふるわすその穏やかな声に出会ってしまった菜花は、今度こそ、正しく息をすることを忘れた。
 普段感情を露わにすることのない人だからこそ、心からの喜怒哀楽が如実に感じられる。今の彼は、惜しみなくその喜びを伝えようとしていた。
「あ……」
 あんまり期待しないでね。
 お菓子作りは、そんなに得意じゃないから。
 魚住さんに手伝ってもらったんだよ。
 摩緒が向こうに飛ばしてくれた式神だよ。
 ──言葉がいくつも浮かんでは、彼女の心の奥底に溶けて消えていく。
「開けてみてもいいかな?」
 その人の手が、箱にかけられた紫のリボンを丁寧にほどいていく。こんなに大切そうに解いてもらえるのなら、もっと綺麗に見栄えよく結んでおけばよかったと菜花は思う。そっと開けた箱の隙間から、甘いチョコレートの香りがただよう。小鍋の中で一生懸命かき混ぜている時には、これほどうっとりとはさせられなかった。白い前髪の合間からちらとのぞくその瞳と出会う瞬間、彼女の心もまた、温かいチョコレートの渦の中にとろけていくようだった。
「いい香りだね。これは……?」
「チョコレート、っていうの。食べたことない?」
「……ああ。いや、ないね」
 答える相手の顔が一瞬ひきつった、ような気がした。菜花は気のせいだと思うことにしたが、待てど暮らせど、彼は一向に箱の中身に手を付けようとしない。胸を高鳴らせながら相手の反応を期待していた彼女も、徐々に夢見心地からさめていくのがわかった。
「──ねえ。苦手なら、はっきりそう言ってくれない?」
「え? いや、そういうわけでは……」
 言いよどむ彼だったが、能面のような菜花の顔を目の当たりにし、本音を打ち明けることに決めたらしい。
「"猪口令糖"には、牛の血が入っていると聞いたことがあるんだが……。まさか本当に、入ってはいないだろうね?」
「はあ?」
 突拍子もない問いかけに、菜花は眉を逆立てた。
「牛の血? なんで? そんなの入ってるわけないじゃんっ」
「──うん、そうだね。私が悪かった」
 彼女の感情を逆撫でしたことを悟り、素直に反省する摩緒だった。しかし菜花の溜飲は少しも下がらない。
「いいよもう。無理して食べなくたって。どうせ私の手作りなんて、おいしくないんだし」
 一人で浮かれていたことが急に馬鹿らしくなった。菜花は彼に背を向け、大きな溜息をつく。
「しかもそれ、一人で作ったんじゃないし。あっちでもこっちでも、誰かに頼らなきゃ何もできないんだもん。私」
 言ってしまってから、自己嫌悪に見舞われた。それを彼にぶつけることは完全に間違っていた。自分から持ちかけたバレンタインを自分で台無しにしたことを悟り、菜花はすべてに嫌気がさしてきた。
「──もう、帰る」
「菜花、待ちなさい」
 肩にそっと手が触れてくる。振り払ったが、二度目は力づくで振り向かされた。
「菜花」
 有無を言わさぬ声の響きから、菜花は叱られることを予感した。──しかし、彼女の視界に映り込んだその瞳の様子は、単なる怒りとは形容しがたいものだった。
「──おまえが、何もかも一人でできる子なら、きっと私を必要とはしないだろう?」
 冷たく突き放すよりもむしろ、どうしようもないものを訴えかけてくるかのようなその瞳。
 式神の瞳をのぞき込むよりも、ずっと深くて底が知れなかった。
 そのきらめきの奥には、何か、とてつもないものが沈んでいるのかもしれない。
「……摩緒?」
 背を向けて拒絶したことなど忘れて、菜花は心もとなくその名を呼びかけた。まるで、まったく見知らぬ相手を見ているような気がした。
「何でも一人でできてしまう人など、どこにもいないよ。──私だって、おまえには助けられてばかりいるからね」
 菜花が真正面から向き合った時には、すでにその人は平生の静かな眼差しで、なだめるように彼女を見つめるばかりだった。
 ────おまえも、いなくなるのか。
 そんな声が奥底から聞こえてくるかのような、あの瞳は、やはり見間違いだったのかもしれない。
 そう思うことで、ようやく菜花は息をつくことができた。
「……チョコが"牛の血"入り、かあ。昔の人って、ヘンなこと考えるよね」
 すべての元凶となった手製の贈り物を見下ろす。ややいびつな形をしたチョコレートの上に、銀のアラザンがきらめいていた。ひとつ目線の高さまでつまみあげて眺めていると、横から長い指がのびてきてそれをかすめ取っていった。腹を立てることに疲れた菜花は苦笑する。
「無理して食べなくていいってば」
「いや。いただくよ」
「ご機嫌取りなんていいよ。カルチャーショックだったんでしょ? もう怒ってないから」
 そういう間にも、彼はそれを口の中に含んでしまう。菜花は思わずどきりとした。せっかく心を込めて作ったものを、まずいと言って吐き出されたらどうしよう、という懸念だった。
 ──心を込めて。
 その贈り物に深い意味などないはずだったのに、その人が受け取った途端、俄然特別な意味を成してしまう。
 頭が理屈で認めることを拒んでも、高鳴る心は正直だ。
「──うん。おいしいね」
 想い人は微笑んで、ふたつめのチョコレートに手をのばす。その笑顔が、声が、いつになく甘いものに感じられるのは、おそらく今日という日の功罪だ。
 その一言に。
 その一挙手一投足に。
 ささいな表情や、声の変化に。
 ──これから先も、どれほど心悩まされるのだろう。



令和四年二月十三日

Boule de Neige