こいのぼせ

 夕食の時間はとうに過ぎていた。「沼の底」の住人達は、スープが冷めるのもいとわずに、彼の帰りを待っていた。遅くなったことを開口一番に詫び、
「先に食べていてくださったらよかったのに」
 と申し訳なさげにこぼす彼に、
「ハク竜。お前、ディナーの意味を知ってるかい?」
 大鍋のスープを温めなおしながら、振り向いた魔女が片目をつむってみせた。
「一日の中で、一番大切な食事のことさ。覚えておきな。ディナーを皆で食べなきゃ、今日という日が終わらないんだよ」
 あ、あ、と、同意するように仮面の住人が頷いている。手ずから彼のカップに茶を注ぎ、こぼれないようにそっと差し出してきた。ハクはややぎこちなく笑い返しつつ、定位置となっている向かいの席に腰かけようとするが、ふと片手にたずさえているものを思い出し、流しを使うために銭婆の横に立った。
「──おや。また捕ってきたの?」
 銭婆の視線が彼の獲物に向けられる。それは丸々と肥えた一匹の鯉だった。それをハクは慣れた手つきで洗い、俎板の上にのせる。
「毎日食べて、よく飽きないもんだね。お前の好物かい?」
「いえ、そういうわけでは」
 鯉の身を包丁でさばきながら、彼は首を振る。
「ただ、なぜか食べたくなるのです」
 言っているそばから、薄く切った一枚を口元へ運んだ。沼から捕ってきたせいか、水で洗っても落としきれない泥臭さが残っている。特別美味しいというわけでもない。それでも無性に食べたくてたまらなくなるのだった。それも魚と名がつくものであれば何でもよいという訳ではなく、必ず「鯉」でなければならない。
「可哀想に。お前は満たされないんだね」
 横で魔女が呟いた言葉を、ハクは思わず手を止めて聞き返した。
「今、何と?」
「呪いのようなものさ。満たされないものを、他のもので満たそうとしているんだ」
 満たされない──。
 風鳴りを聞いているように、耳がざわざわとした。彼は魔女の白い庇髪から、きれいに切り分けられた鯉の刺身へと視線を落とす。白みがかった筋にじっと目を凝らすと、しだいに水の揺らぐ模様が浮かび上がってくる。堰き止めた川がふたたび流れだすことを恐れ、彼は首を振ってその幻想をふりはらった。
「──外のカンテラにも、食事を」
 戸棚の蝋燭を一本手にとり、網から逃げる魚のようにすばやく魔女の横をすり抜けていく。その背中を、住人達は気遣わしげに見送った。
 彼が近づくと、門番をつとめるカンテラは大喜びで地面に降りてきた。ちょうど蝋燭の長さが心もとなくなってきた頃だった。ハクはガラスの蓋を開け、中に替えの蝋燭を入れてやる。新しい蝋燭にぽっと明かりがともる代わりに、短くなった蝋燭の火は静かに燃え尽きた。
「そなたのように、私も一日を終えられたら……」
 ゆるやかな煙の流れに、悩める若者のかすかな溜息がまじる。
 本当の名を取り戻した。契約からは解放された。「沼の底」の住人達はこんなにも温かい。
 ──それでもなお、彼は長い一日の中から抜け出せずにいる。
 

21.02.06

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Boule de Neige