神くずれ

 何を食べても味がしない。全てが土塊となって吐き出されることを知っているからだ。それでも何かを口に入れねばならない。こんなところで力尽きるわけにはいかない。
 その身を巣食う忌まわしき虫はすでに存在しない。しかしそれはあまりにも長く彼の腹の内に留まり続けた。その魔力の残滓を余すことなく体内から取り除くには、まじない虫による支配をうけていたと同じだけの時を要するという。
「私の蒔いた種だ。これはその結果だ」
 土塊を吐き出すたび、彼はかさねて自分に言い聞かせた。我を失いかけるほど苦しくとも、これは耐えるべき試練なのだと。彼はただひたすら生き延びたかった。その胸の内には生きる糧があった。
 ──ある日、吐き出した土塊が人のような形になった。
 始めはかろうじて頭や胴体があると判断できる程度の代物だった。しだいにそれは具体性を帯びはじめた。髪が生え、腕が伸び、二本の足で立ち上がるようにまでなった。そして床に伏せる彼の枕辺までたどたどしく歩いてくると、
「ハク。──つらいの? 苦しいの?」
 と、気の遠くなるように懐かしい声でその名を呼ぶのだった。
「ねえ、ハク、こっちを見て。わたしはここにいるよ。ハクのすぐ側に……」
 土塊のまやかしは、彼の耳元に優しく囁きかけてくる。彼はその甘美な誘惑にあらがわんと、かすかに震える瞼の裏にたった一人の姿を思い描いていた。
「──千尋ではない」
「どうして?」
 声の主は寝具の中にその手を滑り込ませ、頑なな彼の手を探り当てる。彼は咄嗟に振りほどいた。しかしその時、記憶の中の千尋が永遠の笑顔のまま、その口を開いた。
「会いに来たんだよ。ハクに」
 千尋ではない。だが千尋の声だ。固く目を閉じたまま、ハクはかぶりを振る。
「言うな」
「会いたかったから。あの時、約束したでしょ? ……ハクはもう、忘れちゃった?」
「違う。忘れるはずがない。いや、違う、そうではない──」



22.4.4

Boule de Neige