一炊の間に

「おかえり」
 少女は頬を赤くしたまま、外套に鼻先をうずめるようにして、小さく頷いた。面と向かって「ただいま」と返すことが、まだ気恥ずかしように思われた。はにかむ娘を前にして、母はやはり幸せそうに笑っている。伸びてきた両手が、少女の頭を覆う赤い頭巾をそっとはずした。雛鳥の羽毛よりも軽い雪が、こそばゆそうに笑い返す少女の顔のまわりをはらはらと舞う。
 薄い菰を一枚くぐり抜けただけで、まるで別の季節に飛び込んできたかのような暖かさだった。囲炉裏には鉄鍋がかけられ、その炉端には頬杖をついてくつろぐ父の姿がある。背中に注がれるもろはの視線に気づいた様子で、父は半身を玄関の方にひねり、
「おう。帰ったのか」
 もろはがふいと目をそらすのを、上目遣いに見つめていた。
「で、妖怪はいたのかよ?」
「──。いや、全然」
「ほらな。だから言っただろうが、外に出るだけ無駄だってよ」
 父はさも己が正しいというようなしたり顔をする。むっとしかけるもろはの肩を、かごめがなだめるように抱いて炉端へといざなった。
「多分、妖怪もおとなしくしてるんじゃないかしら。この寒さだもん」
「だろうな。わざわざ寒空の下に出てって、洟垂らして帰ってくるこたねえっつってんのに、聞き分けのねえガキだぜ」
「いちいちうるせえおやじだなあ。あたしが何をしようが、あたしの勝手だろ。ほっとけよ」
 どさりと胡坐をかいたもろはが、唇をとがらせてそっぽを向く。犬夜叉は頭に巨大な石を落とされたような顔をした。
「もろは、てめえ、親に向かってなんだその口の利き方はっ」
「あー、ハイハイ」
 至極面倒くさそうに、もろはは小指の爪で耳を掻いている。
「ごめんごめん、本当はパパのこと大好きだから」
「……。全っ然心がこもってねえっ」
「本当だって。いつもあたしを心配して、お節介焼いてくれてアリガトウネ、パパ」
「ばっ、だれがお節介なんか! ……おまえ、本っ当にそう思ってんのか?」
 文句を垂れつつも、愛娘からの思いがけない言葉に、満更でもない様子でそわそわしている犬夜叉。二人に挟まれたかごめは笑いをこらえきれずにいる。
「似たもの親子よね、本当に」
 誰と誰が、という表情で二人がかごめを見る。かごめはもろはに向き直り、幼い子にするように頭を優しく撫でてやった。
「そっくりよ。あなたのお父さんもね、雨だろうが嵐だろうが、いつも敵をさがして外を駆け回っていたんだから」
「へえー、そうなんだ……」
 もろははにやりと片方の口角を持ち上げた。人のこと言えた義理かよ、という娘の心の声が聞こえたのか、ばつの悪くなった犬夜叉は妻に詰め寄る。
「──おいかごめ、こいつに余計なこと吹き込むなよっ。おまえはどっちの味方なんだ?」
「私? 私は両方の味方に決まってるでしょ? だって、二人とも大好きだもん」
 かごめの両腕が、それぞれ犬夜叉ともろはの首に回され、三人の顔はぐっとひとところに寄り集まった。愛おしげに頬ずりされた父と娘は、顔を赤くして押し黙るほかなかった。
「でもね、もろは。こんな雪の日くらいは、おとなしく家にいてもいいんじゃないかしら?」
 母の言葉に、もろはははっとする。間近で見るかごめの瞳は、気遣わしげだった。
「犬夜叉も私も心配なのよ。もろはが風邪をひいたりしたら、どうしようって」
「だ、だってさ。それはありがたいけど、でも──」
 もろはは一点の染みさえ知らぬようなかごめの白い袖を、無意識のうちに握りしめていた。
「ただ黙って家の中にいて、飯を食わしてもらうなんて、なんか落ち着かないっていうか……。あたし、今までおとなしくしてたことなんてないんだよ。だから、きっと外に出てるのが性に合ってるんだ。体はおやじに似て頑丈だし、ちょっとばかしの風邪なんかどうってことないから、そんなに心配しなくて大丈夫だよ。──それに、ほら! 自分の食い扶持くらいは自分の手で稼がなきゃ、賞金稼ぎの名がすたるだろ?」
 あっけらかんと笑うもろはだったが、両親から期待した笑い声が聞こえてくることはなかった。当たり前のことを口にしたつもりが、思いの外真剣な眼差しで見つめられ、もろはは得意の口八丁を発揮するすべを失ってしまう。
「あの、あたし……。何か変なこと言った?」
 おずおずとたずねるもろはの鼻から、つと洟が出た。あわてて勢いよくすするもろはだが、気を抜けばまた垂れてきそうだった。
 かごめはもろはに背中を向けた。そして随分と時間をかけて、籠の中から古布の切れ端をとりあげた。
「──やっぱり、外は寒かったのね」
 振り返った母の顔はいつものように笑っていたので、もろはは安心し、渡された切れ端で存分に鼻をかんだ。つづけざまにかんでいると、頭の上から何かが無造作にかぶせられた。父が綿入りの丹前をかけてよこしたのだった。
「こんなに甘やかされると、どこぞのお姫さまにでもなった気分だなあ」
 薪のはぜるような声で、少女は笑った。


21.02.07

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Boule de Neige