イザ、ショウブ



 ──と、五月人形のような勇ましさで啖呵を切りながら、子どもが背後から襲いかかってきた時、菜花は完全に不意をつかれていた。予期せぬ出来事に、ハッと振り返った瞬間、どうにか頭をかばうので精一杯だった。
 しかし、振り下ろされた「武器」が彼女の頭部を直撃することはなかった。かたわらから伸びてきた手が、既のところでその刃を食い止めたのだった。
「──不意打ちは、いけないよ。いくら真剣ではないといってもね。当たれば、大怪我をしてしまうから」
 取り上げた竹刀を返してやりながら、やんわりとした口調で諭す陰陽師。すっかり安堵した様子で彼と話していた子どもの両親が、眉をつり上げて同調する。
「全く、憑き物が落ちたそばからこれだもの。鍾馗さまのバチが当たりますよ」
「とんだ腕白坊主だな。ほら、早くお嬢さんに謝りなさい」
 子どもは菜花に向かってベーッと舌を出す。ムッとした菜花は思わずその腕を捕まえようとした。相手はそれをひらりとかわして、駆け出しざま、五月人形のそばに立ててあった花瓶を盛大に倒していく。水と菖蒲の花が畳の上にまき散らされたのを、母親は溜息をつきながら見下ろした。
「……ご覧の通りの我儘放題で、お恥ずかしいかぎりですわ」
「しばらく寝たきりだったので、動きたくて仕方がないのでしょう。元気が戻ったのは、良いことです」
 彼は当たり障りのないことを言い、肩身の狭そうな母親を慰めた。
「菖蒲の花を飾っておられるのですね。道理で元気なお子さんが育つはずだ」
「はあ。いやなに、これも武家の習いでしてね。武士の世から、菖蒲は”尚武”と”勝負”に通ずると言いますからな。ハッハッハ……」
 いかにも旧士族らしい物言いで、父親は機嫌良く頷いている。
 菜花はあの子どもが襖の向こうで聞き耳を立てていることに気が付いていた。散々金太郎ごっこだの桃太郎ごっこだのに付き合わされた挙句、木刀で頭を強打されたのでは到底割に合わない。これ以上甘やかす義理はないと無視を決め込むことにしたのだが、子どもがチラチラと様子をうかがうので、どうも尻の据わりが悪かった。
 すると摩緒が子どもに向かって「おいで」と手招きをした。子どもはしばらく迷っていたが、やがて拗ねた顔をしながら彼の膝の上に座る。
「お姉さんと、仲直りしなくていいのかい?」
「……ゴメンナサイ」
 子どもは彼の膝から下りた。そして自分が蹴散らした菖蒲の花を畳の上から一本拾い上げ、不安げな上目遣いでそうっと菜花に差し出してくる。
 菜花は腹を立てていたこともすっかり忘れて、健気な子どもを目一杯抱き締めた。
「もっと遊びたい?」
「──ウン」
「じゃあ、いい子になるって指切りげんまん」
 子どもは林檎のように赤い頬をして、コクリと頷いた。指切りを終えると、今度は菜花の膝の上を陣取り、借りてきた猫のように大人しくなる。
 かたわらの彼は、子どもに訊ねた。
「お姉さんのことが、好きなのかな?」
「ウン」
「そうか。いい子だね」
 凪いだ水のようなその瞳が菜花に向けられる。膝に乗せた子どもを見る目と何ら変わりないようだった。思わず心の溜息がこぼれる。──それでも、その唇の端がわずかに持ち上がれば、それだけで彼女の顔には自然と確かな笑みが浮かんでくるのだった。



2022.4.29



Boule de Neige