化天一夜
帰路、目抜き通りを進む長い葬列に行き合った。
「あの旦那、ついこの前までは元気だったんだがね」
店先まで出てきた商店の帳場役が、立ち往生する彼にぽつりとつぶやく。その葬列は、町内のさる名士を送別するものであるらしい。
「まだ隠居って年でもないはずだが。いきなり倒れて、カンフル注射もまるで効かなかったってね。まったく何があるかわからんよ。『人間五十年』だなあ……」
久しく聞かぬ言葉に、彼はそっと瞳を伏せた。
葬列が去るのを待ち、診療所へ戻る頃にはすっかり暮れていた。薬問屋で買った包みを式神に手渡しながら、ランプに照らされた少女の寝顔を見やる。出かけた時と変わらぬ姿で彼女はそこに眠っている。
「私が留守の間、一度も起きなかったのか?」
「ええ。菜花さんも、きっとお疲れなのでしょう。お言いつけ通りに患部の包帯は取り替えてありますから、どうかご心配なさらず」
薬研を繰る手をとめずに、乙弥は彼の問いかけを先読みしたようなことを言った。うん、と摩緒は頷くが、外套を脱ぐ間にも心配は尽きない。座敷に上がり、寝具から投げ出された手で脈をとる。脈診を終えた後も、力の抜けた手を両手で握り、その体温を感じていた。
『人間五十年……』
ふと耳によみがえるのは、あの帳場役の声ではない。もはや容貌すらもおぼろげな人の声だ。
──動乱の世に出会ったその人は、薬持ちとして彼を召し抱えた。死地へ赴く前夜、その人は戦勝祈願の舞を奉納した。陰陽道の禹歩に通ずるかのような厳かな足取りが、わずかに彼の記憶に残っている。
『人間五十年、化天の内をくらぶれば、夢まぼろしのごとくなり──』
さる戦国の傑物が愛好したという一節を、それよりも遥か以前に吟ずる人がいた。その人は摩緒に言った。化天の一夜は人の世の八百年。おまえがまこと不死の者であるならば、たかが五十年、あるいは八百年という年月ですら、ほんの一睡の間に過ぎぬであろうと。──言葉を交わしたのはそれきりだった。鼓の音のようにあっけなく、その命はけたたましい戦乱の中にかき消えていった。
人の命は儚い。五十年にさえ満たずに燃え尽きる命もある。紋切型のように使い古されてきた言葉は、彼の心にもくっきりとその字を刻みこんでいる。だから、去る者は追わない。そうして生きてきた。それなのに、今この瞬間、その手を握り締めていなければ、途方もない恐怖に駆られてしまいそうになる。夢まぼろしのようにその存在が消えてしまわないように、何があろうと引き留めておかなければならないと思う。──五十年、あるいは八百年よりも長い一夜があるとすれば、まさに今日こそがその夜なのかもしれない。
「摩緒さまも、少しお休みになられては?」
乙弥が気を利かせるが、彼は首を横へ振った。目を閉じたとしても、一睡もできそうにない。
「様子を見ているよ。菜花が目を覚ますまでは」
「そうですか」
「少し脈が弱いようだからね。心配なんだ」
彼女の枕辺に死神の影など見えはしない。それでもその手を離せそうにない。手を握り返してはくれまいか、目を開けて、いつものように名を呼んではくれまいかと、願い事ばかりが胸の中で尽きない。
しばらくして、茶を淹れていた式神が「あ」と声を上げた。
「摩緒さま。見てください」
差し出された湯呑をランプの灯にかざして覗いてみれば、底に小さな茶柱が立っているのが見える。
「菜花さんにもお見せしたかったですね。こういうの、お好きでしょうから」
「うん。──そうだね」
頷く彼の瞳が、ランプの光を映して小さく輝いた。
2022.5.8
Boule de Neige