The Lake Full of Stars



T. She Kindles a Fire

 新しい城の完成祝いに、住人の総意でささやかな晩餐会を開こうということになった。ソフィーのこの思いつきは、窓から差し込む朝の光のように、家族の食卓を心地よい温もりでつつみ込んでいる。
「そうと決まれば、早速準備しなくちゃ。今日は忙しくなるわよ」
 フォークを握りしめて意気込むソフィーを、隣のマルクルは子供特有の輝かしい瞳で見つめていた。
「ソフィー、僕は何をしたらいい? 僕、パーティーなんてはじめてだよ」
「マルクルは、そうね、あたしと一緒に街へ行きましょうか。今日は買い物がたくさんあるのよ。きっとすぐ手一杯になってしまうから、手伝ってくれたらとても助かるわ」
「うん!」
 魔法使いの小さな弟子は、お安い御用というように、屈託のない顔で笑った。その口の端についているパンくずを、ソフィーは親指でそっとぬぐってやる。
「じゃあ、君達が出かけてる間、僕は花屋の店番をしていようか」
 彼と一緒にね、と、椅子の下でソフィーが用意してくれたミルクを舐めているヒンをちらと見下ろしながら、ハウルがにこやかに申し出る。
「帰ってきたら、あの庭へ花を摘みに行こう。晩餐会のテーブルには、とびきり素敵な花をたくさん飾らなくちゃね」
「まあ、それはいい考えだわ。──ね、おばあちゃんもそう思わない?」
 荒地の魔女は、ソフィーが差し出したひとさじのポリッジを、口の中でゆっくりと咀嚼している。そしてそれを飲み下す時、目元を和らげて、うん、と頷く動作をした。
「ソフィー。あんた、ポプリにするために、ドライフラワーをこさえていただろう? それを何束か拝借して、私はのんびりリースでも作っていようかねぇ」
「おばあちゃん、それ、とても素敵ね」
「そうかい? 魔法が使えないからねぇ、あまりうまくできないかもしれないけど」
 それから魔女は思い出したように、水差しの補充のために立ち上がりかけたソフィーの、白い前掛けを引っ張った。
「その子達と出かけてきて、まだ時間が残っていたら、ちょいと私にも付き合っておくれよ」
「ええ、もちろん。おばあちゃんも何か、外に用事があるの?」
「ああ、荒地にね」
「荒地?」
「あそこに、とっておきのものを隠してあるのさ」
 フフと訳知り顔で笑う魔女に、暖炉のカルシファーが口をはさんだ。
「おい、ばあちゃん。ソフィーを荒地に連れ出すなんて、まさか、妙なことを企んじゃいないだろうね?」
「おや、人聞きの悪いことを言うねぇ。魔力をなくした老いぼれに、いったいどんな悪だくみができるっていうんだい?」
「いや、わからないね。魔力がなくたって、ばあちゃんは、あの怖ーい荒地の魔女なんだからさ!」
 誇張するように天井まで燃え上がる火の悪魔を、魔女は瞬きしながら面白そうにながめている。
「随分と私を買いかぶっているんだね。まあ、いいさ。そんなにソフィーが心配なら、カルちゃん、あんたも一緒についてくればいいんだ。ハウルとの契約は解消されたんだから、もう自由に動けるだろう?」
「まあ、まあ」
 ハウルが椅子から立ち上がり、暖炉のそばに寄った。ちらちらと火の粉を散らしている長年の友人に、手ずから新しい薪を与えてやる。
「カルシファー、マダムはもうこの城の家族なんだよ。家族を疑うのはよくないな。みんなで仲良くやっていこうじゃないか」
「ちぇっ! そんなのわかってるよ。おいらはただ、ちょっとでも長くソフィーと一緒にいたいだけなんだ。なのに、おいらが城を飛ばしてる間、みんなしてソフィーを外へ連れ出しちゃうんだからさ……」
 火の悪魔はやけ食いのように、新しい薪にかぶりついた。ハウルはソフィーを振り返り、困った友人だよ、とばかりに笑って肩を竦めてみせる。
「ねえ、カルシファー?」
 ソフィーは駄々っ子をあやすような声色で、暖炉に身をかがめて呼びかけた。いじけて灰に顔を埋めていたカルシファーが、ちらりとつぶらな片目だけをのぞかせる。
「あなたの魔法は一流よ。その素晴らしい魔法で、このお城を星のうみまで動かしてほしいの。カルシファーが連れて行ってくれる場所はどれも素敵だけど、あの湖はあたしの一番のお気に入りだから」
「……そうなのかい?」
 おだてられて満更でもなさそうに、火の悪魔はちらちらと赤い火先ほさきを躍らせる。
「ええ。そしてお城を動かしてくれたら、あなたも一緒に荒地へ行きましょう」
 欲しかった言葉を得たカルシファーは、いよいよ灰の中から嬉々として身を乗り出した。
「おいらも連れて行ってくれるのかい?」
「もちろんよ。カルシファーだって、あたしの大事な家族だもの」
「嬉しいよ。ソフィー」
 あたしもよ、と彼女は笑った。両手をのばして暖炉の中からその小さな火をすくい、愛情をこめたキスで、喜びをやさしく焚きつける。



U. Jewel and Casket

「カルシファーがあんなになつくなんて、やっぱりソフィーはすごいや」
 マルクルの尊敬の眼差しが、彼女の真剣な横顔にそそがれている。魚屋の前で足を止めたソフィーは、今、頭の中の天秤に、サーモンとサーディンの二択をかけているところだ。
「悪魔は人間の言うことなんか聞かないんだよ。困らせたり、怖がらせたりはするけどね。なのに、ソフィーがお願いすれば、カルシファーはどんな願い事だって叶えてくれる。全然悪魔らしくないや。悪魔っていうより、そうだなあ、まるで流れ星みたいだね」
 魚嫌いの少年は、母のような姉のような同居人が、結局選びきれなかった魚を両方とも注文するのを、別段とがめるでもなく、子供らしい好奇心から首を伸ばして硬貨と商品のやりとりをながめていた。
「どんな魔法を使ったら、ソフィーみたいに言うことを聞かせられるんだろう? 僕がお願いしたって、カルシファーはお茶さえ沸かしてくれないんだよ」
「どうもありがとう。──あら、おまけしてくれたの? あなたはいい魚屋さんね」
 魚の包みを受け取ったソフィーが、にっこりと笑いかけた。お得意様だからね、と相手も愛想よく帽子を上げてみせる。ソフィーは手を振って魚屋に別れを告げ、その手でマルクルの小さな手を握りしめた。
「いいお天気ね。せっかくだから、ちょっとチェザーリのお店に寄って行こうかしら」
「ソフィー、チェザーリって?」
「あたしの妹が働いてるカフェよ。この辺りでは有名なお店でね、おいしいお菓子を置いているの。買い物に付き合ってくれたお礼に、マルクルの好きなものを買ってあげるわ」
「ほんと?」
 マルクルは嬉しくなって、石畳の上を子ウサギのように飛び跳ねた。二人のそばを走っていく路面電車の蒸気音に負けないよう、帽子を押さえたソフィーが声を張り上げる。
「ただし、ちゃんと歯みがきするって約束できたらね!」
「うん、約束する!」
 横丁に折れ、二人で歌を歌いながら近道を行くと、そのカフェは見えてきた。陽気な音楽とともに、人々の歓談する声と、焼菓子の甘い香りが流れてくる。
 妹に会う名目でこの店を訪れる時には、いつも私用であることをはばかって裏口の戸をたたくソフィーだが、今日は客として来たので、エントランスから中に入った。店内はまさにジャム詰めで、ついこの前まで戦時下にあったことなど感じさせないにぎわいを見せている。ソフィーとマルクルは、それぞれ市場で買ったものが詰まったバスケットと紙袋を胸の前に抱えて守った。他の客と押し合いへし合いしつつ、どうにか最前列へ躍り出る。
「あら、お姉ちゃんじゃない!」
 カウンターでは、チェザーリの看板娘レティーが忙しく立ち回っていた。大勢の客の中に思いがけない姿を見つけ、嬉しそうな歓声を上げて姉の手を握りしめる。
「今日はどうしたの? そんなにたくさん買い込んで、掃除婦の次は料理人にでもなるつもり?」
 ソフィーは打ち解けた笑顔で、妹の手を握り返した。
「今夜は新居の完成祝いなの。その買い出しで、つい張り切っちゃったわ」
「ふうん、ハウルの新しい城ってわけね。──何にせよ、お姉ちゃんが無事で本当に良かった!」
 姉に熱烈なハグをするレティーを、マルクルは呆気にとられて見上げていた。マドンナの瞳が姉の肩越しにその小さな姿をとらえると、途端に気まずくなって下を向く。
「あら、かわいい坊やね。こんにちは、魔法使いハウルのお子さんかしら?」
「違います! 僕はマルクル、ハウルさんの一番弟子です!」
 マルクルは顔を赤くして訂正した。きょとんと目を見合わせた姉妹は、一見あまり似ていないようなのに、不思議とよく似た笑い方をする。
「マルクル、どれでも好きなお菓子を買ってあげるわ。何が欲しい?」
「小さな魔法使いさん、うちはマドレーヌとチョコレートがおすすめよ。ほら、これとこれ。それから、新作のあれもどうかしら?」
 姉の連れの機嫌をとるように、レティーは棚に並べられた看板商品をあれこれと見つくろってやる。次々とカウンターに積まれていく宝石箱のようなお菓子の数々に目を輝かせるマルクルのかたわらで、ソフィーは妹目当てでこの店を訪れた何人かの客の関心を引いていた。
「君、レティーのお姉さんなのかい?」
「ええ。妹の店をごひいきにしてくださって、どうもありがとう」
「きれいな髪の色をしているね。あなたのお名前は?」
 はたから割り込んできた聞き覚えのある声に、ソフィーはあっと目を見開いた。相手の兵士もその反応に驚いたのか、彼女の顔をまじまじとながめる。
「おや? 髪の色が違うけど、君はあの時の子ネズミちゃんじゃないか」
「子ネズミじゃありません。あたしには、ソフィーって名前があるんです」
「ふうん、ソフィーか。あの時はお名前を聞きそびれてしまって、とても残念でしたよ」
 ソフィーは不機嫌を隠そうともせずに兵士を見上げていたが、相手は一瞬たりともきざな笑みを取りこぼそうとしない。
「お嬢さん。この素晴らしい再会を記念して、向こうの席でお茶でもいかがです?」
「あいにくですけど、あたしは魚が腐る前に、家へ帰らなくちゃならないんです」
「魚は腐ったらまた買えばいい。でも運命の再会というものは、二度や三度手に入るものではありませんよ?」
 エスコートして差し上げようとでもいうように、兵士はソフィーの手になれなれしく触れかけた。──しかしその手は、はたから突然差し出されたものによって容赦なくはばまれる。
「兵隊さん、僕、これほしい!」
 お菓子がぎっしりと詰めこまれた化粧箱だった。眉を逆立てたマルクルが声高にねだるのに、兵士は苦笑する。
「君。これを買ってあげたら、僕がこのお嬢さんの手を取ることを許してくれるかい?」
「だめ!」
「しょうがないな」
 兵士はやれやれと肩をすくめ、カウンターの上に数枚の金貨を置いた。レティーがリボンがけするのを待って、受け取った菓子箱をマルクルに渡してやる。
「わいろのつもりだったんだけどな」
「わいろって?」
「不誠実なプレゼントってことさ」
 見ず知らずの青年に頭をくしゃくしゃに撫でられ、マルクルはシュークリームのように頬を膨らませる。お菓子の代金を支払おうとするソフィーに、兵士は笑って首を横へ振った。
「お近づきになれなくて残念です。──でも、サーモンとサーディンの腐った臭いは、確かにたまったものじゃないな」
 ソフィーは一瞬目を見開き、それから引き結んでいた唇をふとゆるめた。
「あたしの買い物を、よくご存じなのね。兵隊さん」
「適当に言ってみただけですよ。当たりでしたか?」
 青い兵帽のつばを親指と人差し指の先でつまんで、兵士は片目をつむってみせた。ソフィーは思わず笑い返してしまう。
 兵士が去った後も、彼女に話しかけようと近づいてくる紳士達はいた。けれど皆、ことごとく「回れ右」をして、まるで隊列を組むかのような整然とした足取りで、手ぶらのまま店を出て行ってしまうのだった。



V. The Ninth Daisy

 昼時をむかえ、花屋の客足は落ち着きを見せていた。店番を任されたハウルは布張り椅子に深く腰かけて、片手には魔法書を持ち、もう片方は人差し指を左右にかるく振りながら、机の上で休んでいるヒンの両耳を、上げたり下げたりしている。
「ハウル。あたし達も、そろそろお昼にしましょうよ」
 キッチンから戻ってきたソフィーが、彼の遊び相手になっているヒンを呼んだ。犬はすばやく身を起こし、絨毯の上に置かれたエサの皿めがけて突進していく。読みさしのページを机の上に伏せたハウルは、首を後ろに反らしながら背伸びした。
「休憩中の看板をかけておこうか?」
「ううん、マルクルが代わってくれるって」
「そう。ところで、さっきからずっといい匂いがして、気になってたんだけど。晩餐会のごちそう?」
 犬のように鼻先を動かすハウルに、ソフィーは笑って頷く。
「ハウル、あなたからも甘い匂いがするわ」
「花の匂いかな。午前中、ずっと花瓶に囲まれていたからね」
「いいえ、これはお菓子の匂いね。──焼きたてのマドレーヌかしら? それともチョコレート?」
「何の話かな?」
 目をそらして口笛を吹く魔法使い。何の話かしらね、と彼女も壁のレリーフに目を向けて笑いをこらえる。

 日差しはあたたかく、風は穏やかで、ピクニックには最高のひとときだった。サンドイッチを水で流し込むと、ソフィーはスカートについたパンくずをはらいながら立ち上がる。広大な庭は、見渡す限り、色あざやかな草花のカーペットで埋めつくされていた。青い空から小鳥が飛んできて、ソフィーの頭上を旋回したかと思うと、降下し、草の上に落ちたパンのかけらをついばみはじめる。
「見て、ハウル。なんてかわいいのかしら」
 ソフィーはしゃがんで、小鳥がささやかな食事をとる様子を見守った。ハウルも小鳥の近くに頬杖をつき、その高らかなさえずりに耳を傾けている。
「子どもの頃、よくここでこうして鳥を見ていたよ」
「ハウル、あなた、鳥が好きなの?」
「鳥だけじゃないさ。虫でも動物でも何でも良かった。ひとりで退屈だったから、何か動くものを見ていようと思っただけ」
 ハウルが指先を伸ばすと、小鳥はさっと羽ばたいて飛び去っていった。やわらかそうな羽毛が、タンポポの綿毛のようにソフィーの目の前をただよう。流れる雲の向こうへ吸いこまれていく小鳥の姿を、二人の目はまぶしそうに追いかけた。
「でも、ひょっとすると心のどこかで憧れていたのかな。ああいうものに化けたってことは」
「──あなたの気持ち、少しだけ分かるような気がするわ」
「そうかい?」
 ハウルの指先が、風に揺れるソフィーの髪をもてあそぶ。二人はとうに鳥を追うのをやめ、魔法にかけられたように互いの瞳の輝きを見つめていた。
「どんなに優れた魔法でも、決して手に入らないものがたくさんあるんだよ」
「たとえば、自由とか?」
「うん」
「温かい家族?」
「ああ。それに──人の心もね」
 ハウルは草花の枕からゆっくりと頭をもたげ、ソフィーの髪に触れていた指先を、その頬から顎へとすべらせていく。
「時間は、どうかしら」
 ほころびかけた花びらのようにそっと押し開かれた唇から、ひとりごとにも似た囁きがこぼれ落ちた。
「魔法使いは、時間を手に入れることができる?」
 いいや、と彼は黒髪を揺らす。
「巻き戻すことも、止めることも、早めることもできない。少なくとも、僕の知る限りでは」
「そう。でも、あたし、一度だけ時間を手に入れたことがあるわ。ハウル、今あなたといるこの場所で。あなたも知っているでしょう? 魔法では得られない奇跡を、何と呼べばいいのかしら。あの日のことは、九十歳のおばあちゃんになっても決して忘れはしないわ」
 ハウルの青い瞳には、空飛ぶ城の今夜の目的地である、あの湖を思わせるかのような、穏やかな静けさが広がっていた。
「君は確かに九十歳のおばあちゃんだったね、ソフィー。そして過去の僕に会った。君は、二度も時間を手に入れたんだよ」
 蝶を追いかけるのに疲れたヒンが、小川の水を飲んで小休止している。
 バスケットに入りきらないほどの花を摘んだ二人は、腕にも抱えきれないほどの花をたずさえて、小さな家族の名を呼んだ。犬は鳴き声を上げ、置いて行かれまいと懸命に草花の中を駆けてくる。
 ソフィーはふと、足元で風に揺れている白い花の名を思い起こす。
「デイジーを九本踏んだら、春が来るんですって」
「今日だけで、もう何本踏んだかわからないな」
「じゃあ、きっともう春ね」
 その花を踏んでしまわないように、彼女は一歩、二歩、彼の方へと歩み寄る。
「どうりで、あたたかいわけだわ」



W. Silver Lining

 リボンの色は、金にするべきか、銀にするべきか。出来上がったリースを膝の上にのせて、荒地の魔女はしばし考えあぐねていた。日の当たる窓辺に置かれたドライフラワーが、かすかな隙間風にかさかさと乾いた音を立てている。その他にはただ、暖炉の火の消え入るような声が囁きかけてくるばかり。
「……ばあちゃん。さっきは、ごめんよ」
 若い住人達の不在は、火の悪魔を心細くさせるらしい。そのうえ、ただ黙々と真新しい城を飛ばし続けることにも飽きてきたようだった。悪魔らしからぬ神妙な様子で、城に残された唯一の話し相手と向き合おうとする。
「おいら、ばあちゃんを怒らせちゃったかな?」
「あんなことくらいで、年寄りはいちいち腹を立てたりしないものさ」
「そうかなあ……」
 しょんぼりとしたカルシファーは、いっそう火勢をおとろえさせる。魔女はリースを手に取り、その間から、つぶらな片目だけをのぞかせて暖炉の方を透き見した。その目を見つけた悪魔がぎょっとする。
「なんだよ、ばあちゃん。そんな風に見られたら怖いよ」
 荒地の魔女は、フフ、とお茶目に笑う。
「私だって、一度はカルちゃんを危ない目にあわせたんだ。知っての通り、ハウルの心臓欲しさにね。もし、まだそっちの気がとがめるっていうなら、これでもうおあいこにしようじゃないか」
「わかった、それはもうわかったよ──なんでそんな風においらを見るんだい?」
「仲直りのしるしに目玉をくれというなら、この目をあげようと思っただけさ」
 カルシファーは、またしてもバケツいっぱいの水をかけられる寸前のような目をした。
「おいらはそんなひきょうな取引はしないよ!」
「そりゃ助かるよ。老眼だってなんだって、年寄りの目は貴重だからねぇ」
 魔女がリースをおろしたちょうどその時、魔法のドアの色が変わり、生暖かい風とともにさまざまな植物の香りが城の中まで吹きこんできた。
「おっ、星の湖に着いたみたいだね」
「もう? 今朝まであんなに遠くにいたのに、さすがカルシファーね」
 魔法使いは、ドアの前で花束ごと恋人を抱擁する。
「花は外に飾っておくよ。あと、オーブンを見ればいいんだね?」
「ええ。パイを焦がさないようにね」
「マルクルにも言っておくよ。たまにキッチンをのぞくようにって」
「そうしてもらえると助かるわ。でも、味見はほどほどにしてちょうだいね?」
 くすくすと笑う声。ばれちゃったか、とハウルは舌を出す。
「店番もお願いね」
「うん。それじゃ、また後で」
 ようやく閉まったかと思いきや、バネではじかれたようにまたしてもドアが開いた。片手にバスケット、もう片腕に花を抱えた魔法使いが、背中でドアを押さえながら、
「忘れ物だよ、ソフィー」
 スカートをたくしあげたソフィーは、階段に片足をのせたまま、頭だけで振り返る。
「何?」
「手がふさいでて渡せないよ。ソフィーがこっちに来て受け取って」
「いったい何なの?」
 荒地の魔女と火の悪魔は、にやりと目くばせした。──魔法使いハウルの純真な心をうばった少女は、その代償として、可憐なその唇を、夜空に散る星の数ほどもささげる運命にあった。

 昼下がりの荒地には、時折身震いするほど冷たい風が吹いた。ソフィーはフライパンにのせたカルシファーが吹き消されないよう、背中で風を受けるようにしながら、荒涼とした大地を踏みしめている。
「おばあちゃん、疲れてない?」
「大丈夫だよ。あと少し」
 荒地の魔女は、ソフィーと歩行杖に支えられ、ほんの少し歩いただけですぐに息を切らした。かつて暮らしていた土地は、老体が足を踏み入れるにはあまりにも厳しい世界だった。見渡す限り荒れ果てた景色がつづくばかりで、人の暮らした痕跡はどこにも見当たらない。
「おかしいねぇ。この辺りだったはずなんだけど」
「おばあちゃん、探し物って何? あたしが行って、見つけてきてあげることはできないのかしら」
 ソフィーの申し出が聞こえているのか、いないのか、魔女はにごった眼をしきりにこすっている。
「目印があるはずなんだ。あたしゃそこにちゃんと隠しておいたんだよ。消えてなくなったりするもんか……」
 うわごとのようにぶつぶつとつぶやくのを、フライパンの上のカルシファーが心配そうに見下ろしていた。
「ばあちゃん、大丈夫かなあ。ひょっとしたら、ボケちゃったんじゃないのかなあ」
「おばあちゃんは、長い間この荒地に住んでいたのよね。この辺りに家があったのかしら?」
「そうかもしれないね。でも、ばあちゃんは魔力を根こそぎ奪われちまったんだろ。だったら、もう家なんかあとかたも残っちゃいないさ」
「そう……」
 魔法の城が崩壊する様子は、ソフィーも目の当たりにした。いたたまれない思いで、ショールをかき合わせながら身震いしている魔女を見つめる。
 歩いては立ち止まり、また進んではひと休みすることをくりかえしていくうち、いつしか太陽は西の稜線を炎のように赤く燃やしていた。
「──ああ、見つけたよ!」
 根気づよく地面に目を凝らしていた荒地の魔女は、突然歓声を上げた。杖で指し示すところをソフィーとカルシファーが見てみれば、太陽と月をたがい違いに組み合わせたような、不思議な紋章の描かれた古いタイルが一枚、乾いた土の中に埋もれている。魔女は杖の先でタイルに覆いかぶさる土をはらいのけた。
「カルちゃん。ちょいと力を貸しておくれ」
「いいけど、おいら何をしたらいいんだい?」
「ソフィー、このタイルの上にフライパンを置いとくれ。カルちゃんは、ただそこにいるだけでいいよ」
 ソフィーは言われた通りにした。オレンジ色に染まる荒地は、ちょうど日没の時をむかえようとしている。
「もう何十年も忘れていたよ。またここを開ける日が来るなんてねぇ……」
 つづいて荒地の魔女は、二言三言、なにやらソフィーが聞き取れない言葉をつぶやいた。西日を受けたカルシファーがフライパンの中でひときわ大きく燃え上がり、チカチカと流れ星のような火花を散らす。
「お先!」
 タイルに吸い込まれるように、カルシファーの炎がかき消えた。荒地の魔女がソフィーの手をとり、カルシファーの後を追うようにタイルを踏んだ瞬間、二人の体はどこか深い場所へと落ちていく。
 たどり着いたのは、暗く小さな部屋だった。ランプのホヤの中にともる火のように、小さくなったカルシファーが揺らめいている。壁は一面モザイクタイルで覆われ、そこにはあの太陽と月の図柄がはめこまれていた。絨毯の上には、大小さまざまのガラクタのようなものが無造作に置かれている。
「ここは私の物置だよ。もういらなくなったものを置いていたんだ」
 もの珍しそうに部屋を見回す少女と悪魔へ、荒地の魔女が説明した。四隅にタッセルのついた布張りの箱の上に、大儀そうに腰をおろす。
「若い頃に使っていたものなんかをね。ソフィーが欲しいものがあれば、どれでも好きなのを持っておいき」
「でも、おばあちゃんの思い出のものでしょう? せっかく大事にしまっておいたんだから、このままとっておくべきじゃないかしら」
 物置部屋のあるじは、愛嬌のある笑い方をした。
「とっておいたってしょうがない。老い先短いこの私だからねぇ」
「そんなこと言わないで! おばあちゃんは、こんなに元気じゃない」
 ぎょっとしたソフィーが、置き去りにされることを恐れる子供のように、魔女の巨体にひしと抱き着く。
「大好きよ、おばあちゃん。どうか長生きして、ずっとあたし達と一緒にいて」
「お前は優しい子だね、ソフィー」
 皺の寄った手が、ソフィーの星色の髪をあやすように撫でていた。
「お前に渡したいものがあるんだ。手を貸しておくれ」
 荒地の魔女は、ソフィーに支えられながら、うずたかく積まれた荷物のひと山をくずしていった。古びた分厚い魔法書、黒いレースの手袋、中身の残った香水瓶、リボンで結われた手紙の束などが、別の場所に新たな山をなしていく。やがて魔女は、銀色の取っ手のついたひとつの青い小箱を探し当てた。小さな鍵は穴に差し込まれたままで、開けてみると、中から淡い光を放っている。
「見てごらん」
 ソフィーはうながされるまま、小箱を覗き込んだ。魔女がそれをほんの少し傾けてみせれば、海辺の砂のような、小さな白い粒がキラキラと輝きながらひとところへ流れ落ちていく。
「星の花の種だよ」
「星の花?」
「どうしても咲かせられなくて、ずっとしまいこんでいたのさ。お前とハウルなら、きっと咲かせられるだろう」
 小箱は持ち主の手から、ソフィーの手へと譲り渡されていった。ソフィーは贈り物への感謝を込めて、たるんだ魔女の頬にキスをする。
「今夜、みんなで種を蒔きましょう。そうしたら、きっと素敵な花が咲くわ」
「そうかねぇ。どんな花が咲くのか、私も楽しみだねぇ」
「おいらも、おいらも。楽しみだなあ」
 ソフィーと一緒に小箱の中を覗いていたカルシファーが、青くなったり、赤くなったりした。



X. The Lake Full of Stars

 ソフィーが花屋へ顔を出した時は、ちょうど最後の客と入れ違いだったらしい。店番をまかされていた魔法使いの師弟が、店じまいをしているところだった。
「おかえり、ソフィー。荒地はどうだった?」
 空になった花瓶を乾いた布で拭きながら、マルクルがみやげ話をせがむ。
「なにかおもしろいもの、見つけた?」
「ええ。おばあちゃんの『とっておき』をね」
「えー! なに、なに?」
「後で見せてあげる。二人とも、ご苦労さま」
 晩餐会が待ち遠しいマルクルに手を引かれ、ソフィーは小走りに中庭へ出る。月の光がひときわ明るい。腕にヒンを抱いたハウルがそっと追いついて、穏やかな声でねぎらった。
「今日は一日、外に出っぱなしだね。疲れてない?」
「ううん、ちっとも。お楽しみはこれからなんだもの」
 なんだかおなかが空いてきちゃった、とソフィーは彼を振り返って明るく笑う。
「テーブルにごちそうを並べなくちゃ。おいしくできてるといいんだけど」
「とびきりおいしかったさ。僕が保証するよ」
「──あっ。やっぱり味見したのね?」
「ちょっとだけね」
 一番星のように、ウインクする魔法使い。

 空飛ぶ城は、夜の湖のほとりにその羽を休めていた。住人達は、星空の下に城の居間から運び出したテーブルや椅子を並べ、ささやかな晩餐会の支度にとりかかっている。
 テーブルの上には、肉や魚の料理、サラダ、果物の盛り合わせ、デザートのパイなどが所狭しと並べられた。リボンをかけたままの菓子箱はマルクルが置いたもので、キャンドルホルダーには荒地の魔女お手製のドライフラワーのリース、花瓶にはハウルとソフィーが庭で摘んできた草花をさしこんである。
「さあ、支度はできた。諸君、席につきたまえ」
 ハウルがにこやかに手を打った。一度目の拍手で皆の椅子がひとりでに後ろへ引かれ、二度目で椅子に腰かけた住人達のひざの上にナプキンが敷かれ、三度目で蝋燭と花瓶の花にほのかな明かりが灯る。
「花が光ってる!」
 マルクルが身を乗り出して、生花のランプを興味津々にながめた。指で花びらの露をはじくと、楽器のように高らかな音が鳴る。魔法使いの弟子はこの仕掛けに、さらに興奮した。
「音が聞こえてきますよ、ハウルさん!」
「マルクルはせっかちだなあ。今からお披露目するところだったのに」
 魔法使いは肩をすくめたかと思いきや、気を取り直し、楽団の前に立つ指揮者のように、長い人差し指を振ってみせた。すると花瓶の花々が、明かりにやわらかな強弱をつけながら、美しい音色を奏ではじめる。
「きれいな花だねぇ。ずっと見ていたいねぇ」
 荒地の魔女の惜しみない賛辞に、ハウルが微笑を浮かべた。
「喜んでいただけて光栄です、マダム」
「本当に、憎いことをする子だこと」
 紳士然とした彼の表情に、一瞬、いたずらを見とがめられた少年のようなはじらいが宿った。けれどすぐにそれをかき消すように、彼は小さく咳払いをして、自分のグラスを高く持ち上げる。
「諸君。最初の乾杯を、我らの新たな城へ捧げよう」
 空飛ぶ城へ、という笑いまじりの荒地の魔女の合図に、他の住人達もグラスをかかげてならった。今は地上の城となっている彼らの居城は、自分が祝福されていることをさとったのか、まるで人のまねをするように、金属でできた片腕を宙へ持ち上げてみせる。
「そして、ヒンへ」
 犬は皆の周りをぐるぐると駆け回り、ちぎれんばかりに尻尾を振った。
「次は、おばあちゃんへ」
 荒地の魔女がウインクする。
「マルクルへ」
 魔法使いの弟子ははにかんで笑い、
「カルシファーへ」
 火の悪魔は蝋燭と火くらべし、
「魔法使いハウルへ」
 と人間の少女が合図をすると、魔法使いは負けじとグラスを高く高くかかげ、
「愛するソフィーへ」
 星の光にも似た澄んだ音を鳴らして、それぞれが大切な家族に乾杯を捧げた。

 野外での晩餐会のひとときは、穏やかに過ぎていった。ごちそうの皿は空になり、食後のお茶がカップの中で香り良い湯気を立てている。湖の水面には幾すじもの流れ星が輝いていた。
 ソフィーは紅茶に合う甘味を求めて、チェザーリの菓子箱を覗きこんだ。マドレーヌ、チョコレート、フィナンシェなどが甘い香りを放っている。ふと、紙箱の底に不思議な絵が見えた。中身をすべてテーブルの上に出して、空き箱を花の明かりに近づけてみる。
「どこかで見たことのあるような絵だわ」
 彼女が首をかしげていると、荒地の魔女が横からちらと紙箱の底を覗いた。
「ふうん。これは絵じゃないね。まじないに似せた恋文だよ」
「恋……? 何て書いてあるのかしら?」
「<汝 星の光をとらえし者 心美しき人 私の心臓は貴女のもの>」
 魔女はにやりと笑う。「あら。どこかで見たような、情熱的なラブレターだこと」
 贈り主についてたずねられたソフィーは、耳をほんのりと赤らめて知らぬ存ぜぬを通した。花にかけた音楽の魔法を確かめるふりをして、聞き耳を立てているテーブルの向こうの魔法使いが、いたずらっぽく唇の形を変えたのを、彼女は見逃さなかった。
「──それより、おばあちゃん。おばあちゃんがくれた星の花の種、今夜蒔いてみたらどうかしら?」
「ああ、あれかい。そうだねぇ、ソフィーがそうしたいなら、そうすればいいさ」
 ほてった頬を両手でおさえながら、ぎこちない足取りでソフィーは城へのがれた。
 荒地の物置部屋で受け取った小箱は、自分の部屋に置いてあった。それを持って、住人達のもとへトンボ返りする。
 荒地に同行しなかったので、事情を知らない留守番組は、ソフィーの小箱におおいに興味を示した。
「星の花の種なんだって?」
「ええ、そうよ。おばあちゃんが譲ってくれたの」
「星みたいに光ってるよ。ソフィー、これどうするの?」
「お城が連れて行ってくれる色々な場所に、この種を蒔いてみたいわ。次来た時には、芽が出てるかもしれない。ひょっとしたら、花が咲いてるかもしれない。──そんな楽しみがあるって、素敵なことじゃない?」
 この意見に、空飛ぶ城の家族は誰一人として異を唱えはしなかった。
 それから、皆で花の種を手に取り、湖のほとりに少しずつ蒔いていった。そうしている間にも、いくつかの流れ星が夜空から湖の中に落ちてきた。湖面のきらめきが土の上に反射するのを見つめながら、城の住人達は口々にどんな花が咲くかの想像を共有し合った。その想像はまちまちで、いつとも知れない花の芽吹きが、いっそう待ち遠しく思われた。

 晩餐会がおひらきになった後、ソフィーは今一度城の外へ出て、種を蒔いた場所を見に行った。
 テラスで望遠鏡を覗いていたハウルは、彼女が外を歩いていることに気づくや、夜空の星から湖のほとりへとレンズの向きを変えた。
 肩掛けを胸の前でかき合わせながら、ソフィーが水辺にゆっくりと腰をかがめている。
 耳をすませてみれば、彼女はまだ見ぬ花に、今日の思い出話を語りかけているようだった。その声は優しく、澄んで美しかった。花にとって、どんなに清らかな水よりも素晴らしい糧となるだろう。耳に心地よい音楽に聞き入るように、魔法使いはそっと目を閉じる。
「今日もいい一日だったわ。明日もこの城に住むみんなが、素敵な一日を過ごせますように。みんなが笑顔でいられますように──」
 その祈りには、どれほど優れたまじないでさえ、決して打ち消すことのできない魔力がこめられている。
「君はこの世で最も素晴らしい魔法使いだよ。ソフィー」
 テラスの上でそんな賛辞を受けていることなどつゆ知らず、こらえきれずに小さなあくびをこぼすソフィー。
「まだ、やることがあるんだったわ……」
 ひとりごとをつぶやいて、城の中に帰っていく。
 何か仕事が残っているなら手伝いを申し出ようと、ハウルは彼女の後を追って居間に上がっていった。
 けれどそのわずかな間にも、ソフィーは眠気に抗いきれなかったらしい。テーブルに突っ伏したその唇から、静かな寝息がこぼれおちている。テーブルの上には、チェザーリの紙箱とはさみが置かれていた。空き箱は切りかけで、どうやら底だけを切り取っておこうとしたらしい。
 紙箱の底に描かれたハートを、彼は指先でそっと撫でた。
「本当はこの箱に、僕の心臓も詰めてプレゼントしたいくらいだ」
 かまどの中から、カルシファーがうげっと奇声を上げた。
「それは悪趣味だぜ、ハウル……」
「わかってるさ。物のたとえだよ」
 魔法使いはそっと笑いながら、その笑みにひけをとらない静かな動作で、眠れる恋人を抱き上げた。
 炎に照らされるあどけない寝顔を前に、彼の心臓はひときわ強く鼓動する。胸が熱くなるとはこういうことなのだろう。誰かに恋焦がれる喜びというものも。長らく心臓を失っていたハウルにとって、それは何よりも甘美な発見だった。
 心ゆくまで見つめた後、そのひたいに、夜のように長いキスをする。
「おやすみ。──僕の小さなお星さま」




2021.04.02


Boule de Neige