冷たい手
 お邪魔だったかな、と部屋を覗いた彼は一瞬気がとがめた。しかし戸口にその姿を見出した少女が、「おとうさん」となぜか安堵の表情を浮かべながら彼を呼ぶので、引き返す機を逸してしまった。
「やあ。どうしたんだい、桜ちゃん」
「すみません、ちょっと入って来てもらえますか?」
 助けを求めるような様子に首をかしげながら、相も変わらず猫の額ほどの質素な二畳敷に歩み寄る。少女の柔らかそうな膝枕に、少年の赤い頭が載っている。一見うら若き恋人達が二人きりでひと夏の思い出を謳歌しているかのようだが、よく近づいてみると、それにしては少年の顔つきがあまりにも険しいことに気付かされる。
「六道くん、気分が悪いみたいなんです」
「そうなのかい?」
「熱もあるみたいで。軽い熱中症かもしれません」
 言われてみれば、その顔は湯上がりのようにほてっていた。Tシャツの袖を肩まで捲り、ジャージのズボンを膝までたくし上げているが、汗で衣類がべったりと地肌に張りついているのがわかる。
「この暑さじゃなあ……。ここ、エアコンも扇風機もないんだろう?」
 彼は手うちわを扇ぎながら、高温多湿の灼熱地獄と化したクラブ棟の室内を見回す。つい先程まで滞在していた元妻の涼しい子供部屋が、早くも恋しくてたまらない。
 少女は自分の膝から畳の上へ、そっと少年の頭をおろしてやっている。
「私、追加で冷たい飲み物とか、何か食べやすそうなもの買ってきます。おとうさん、六道くんに付き添っていてあげてくれませんか?」
「──ぼくが?」
 他に誰がいるんですか、と言いたげな目つきで少女が彼をちらと見た。
「今日は六文ちゃんが留守なんです。六道くん、さっきまで受け答えできてたから大丈夫だと思うんですけど……。万が一の時のために、誰かがそばにいてあげた方がいいです」
「わかったよ。そういうことなら……」
 本心では一刻も早くこの暑苦しい廃屋から立ち去りたかったが、目の前の少女の視線から何やら圧を感じた彼は、殊勝らしく畳の上に腰をおろした。
「──なあ、りんね。桜ちゃんって、時々ちょっとだけ、ママに似てるような気がしないか?」
 階段を下りていく足音が途切れるや、彼はひそひそと息子に耳打ちする。熱で朦朧としているりんねからの返事はない。
「まあ、おまえも六道家うちの男だから、頼もしいお嫁さんに引っ張っていってもらうくらいでちょうどいいんだろうけどねっ」
 あははは、と笑う声が、誰に拾われることもなく古びた床の上に落ちていった。普段ならばこうした戯言にはむきになって噛みついてきそうなものだが、こうも反応がなくては張り合いもない。
 暇を持て余した彼は、よいしょとりんねの横に寝転がった。蒸された藺草のにおいが鼻先にたちこめる。添い寝などいつぶりにするだろう。畳の上に肘杖をつきながら、まるで飼育ケースの中の昆虫を観察するように、しばらく息子の顔をながめていた。高校時代の自分の寝顔を見ているようだった。何やらうなされているようなので、彼は手うちわでその汗ばむ顔へ風を送ってやった。──が、腕が疲れるうえに、開け放した窓から絶えず流れてくる蝉の鳴き声に嫌気がさして、すぐにやめた。
 頭元に、少女が差し入れたであろうスポーツドリンクのペットボトルが転がっていた。ボトルはまだ冷たい汗をかいたままだが、中身はほんの一口しか残っていない。彼は無性にのどの渇きを覚えた。蓋を開け、口をつけようとした時、ボトルの向こうにある息苦しそうな顔がその目に留まった。一度は無視しようとしたが、どうしても無視できなかった。
「う〜ん……。しょうがないなあ」
 汗ばむ頭を畳の上から少し起こしてやり、口元にボトルの飲み口をあてがってやる。熱に浮かされているりんねは両目を薄く開け、ゆっくりとその中身を飲み干した。
「──……ありがとう」
 息子の口から思いがけずこぼれた言葉に、彼は耳を疑った。感謝など、された試しがない。どうやら朦朧とした意識下で、世話を焼いている相手を恋人と勘違いしているようだった。
 どれほどの高熱なのかと彼はその額に手を当ててみる。焼けるような熱さだった。すると、苦しげだったりんねの表情がほっと和らいだ。彼の手についたペットボトルの水滴が冷たくて、ほてった肌には気持ちがよかったらしい。
「しょうがないなあ……」 
 目の前の子供が、急に幼くなったように見えた。彼はこめかみを伝う汗もそのままに、四角く切り取られた青空をまぶしく見上げた。



12周年御礼リクエスト
えび様「六道鯖人」

2022.08.17


Boule de Neige