付け文

 女中奉公のきつさが骨身に沁みるのは、無茶ぶりとしか思えないほどの重労働を課せられる時だが、今まさにその憂き目を見ている、と千尋は思った。
 人手の足りない配膳所へ回されたのが今夜の運の尽き。彼女の運ばされている客膳は、座敷と配膳所とを往復するたびにどんどんその重さを増してゆき、今や五客分もの高さとなって、千尋は前を見ることすら難儀する有様だった。
 生まれたての小鹿のようにぷるぷると震える脚は、廊下へ出て三歩もゆかぬうちに、完全に硬直してしまう。負荷のかかった腰も、今にも悲鳴を上げそうだった。どう考えても、これを三階上の客間まで運んでいくことなどできはしない。ひたいに玉のような汗を浮かべながら、千尋はきょろきょろと瞳をめぐらして周囲に助けを求めるものの、通りかかるのは「油」の屋号の一字が染め抜かれた浴衣姿の湯上がり客ばかりで、なかなか朋輩の姿にはお目にかかれない。
「ど、どうしよう? このままじゃ全然動けない。でも、お料理を落としちゃったら大変……」
 足腰の限界が近いことを悟り、千尋は混乱のあまり頭の中が真っ白になりそうだった。──その時、視界の端にふわりと白いものがよぎるのをとらえた。
 両手が、足腰が、重荷から解放されて嘘のように軽くなった。
 彼女の目の前で、五客の膳は、三客と二客に分けられ、それぞれ傍らにひかえている蛙男たちの手へと渡っていく。
「無茶な運ばせ方を強いぬよう、配膳役によく言い聞かせておけ」
 凛とした声が、有無を言わさぬ響きをもって蛙男たちを誡めると、彼らは顔に脂汗をにじませながら、きびきびとした動きで千尋から引き取った客膳を運んでいく。
 千尋は窮地を脱した安堵から、つかの間、なかば放心状態で帳場役とその取り巻きのやりとりを眺めていた。が、蛙男たちが去ってゆくと、はっと我に返って、助け舟を出してくれた相手への礼を口にした。
「あの、ハク様、ありがとうございます」
 竜の若者は上役らしい厳然とした面持ちのまま、コクリと頷いた。周囲の目がある中では、二人の時のように親しい調子で話しかけることはできないのだった。それでも、上役の仮面の下に隠された彼の優しさが、こうしていつも千尋の危機には、そっと手を差し伸べてくれる。千尋にとって、これほど嬉しく、心強いことはなかった。
「さあ、仕事に戻りなさい。次からは気を付けて」
「はい。よく気を付けます……」
 思い返せば、客膳の重みに耐えかねてがっつりと大股を開き、頼りない腰つきのまま、真っ赤な顔をして廊下の端で踏ん張っている様は、決して見目の良いものではなかっただろう。失態を見られた恥ずかしさから、千尋が思わず頬を染めて自分の不注意を反省した時、ふと相手の表情がゆるんだ。──ほんの一瞬、まばたきの間の早業で、青年は水干の合わせ目から矢の字に結んだ白い紙を取り出し、それをそっと千尋の袖口に差し込んでくる。
「あ、あの……」
 真っ赤に上気した千尋の顔に、名残惜しそうな一瞥をよこしながら、竜はひらりと白い袖をひるがえしてゆく。
 千尋は袖口をもう片方の手でおさえたまま、従業員用の階段の下へと走っていった。身をかがめ、少し息を切らしながら、手渡された紙を袖から取り出してみる。矢の字に細く折ってあるものをもとの形に開いた時、彼女の膝の上にはらりと白い花びらが一枚落ちてきた。
 かすかな花の香りをうつした小さな手紙には、謎めいた言葉が流れるような達筆で記されている。
『蓮深きところ 小船通ず』
 千尋の目は、書き出しの「蓮」という一字に留まっている。
 この付け文は、二人の間で取り交わされるある種の符牒であって、文言のなかに花の名があれば、それはすなわちその名のついた部屋をその日の逢瀬の場とすることの合図なのだった。今夜は「蓮の間」で待つ、という懸想文を、竜の鱗の一枚にも似た青白くみずみずしい蓮の花びらとともに胸に押し抱きながら、千尋は夢見心地でそっと両眼を閉じる。
 うずたかく積まれた客膳を引き取ってくれた時、白い袖からちらとのぞいたあの両腕の頼もしさ。あの腕のぬくもりを思うだけで、千尋はせつないほどの胸の疼きを覚える。懐であたためた手紙をふたたび開き、今度は「小船通ず」という部分に思いを馳せた。──花深い水を通ってゆく船。何やら含みのある言葉に、千尋は耳の先まであざやかな血色を帯びる。どの道今夜、からだに多少の無理を強いることはまぬがれようのない運命であったらしいが、彼女は天にも昇る心地だった。
「おっ、千じゃん。どう、一服?」
 階段の上から、先輩が紫煙をくゆらせながらひょっこりと顔をのぞかせた。千尋は小さな付け文を急いで水干の胸元に押し込み、
「いえ──わたし、仕事に戻ります!」
 と、懐に深い秘密を抱えるやましさから、やや上擦った声で返すのだった。




2023.02.14

Boule de Neige