内証

 彼は素知らぬふりをしていた。帳簿を付けている時にも、上客の応対に出ている時にも、女中を客間へ采配する最中にも。終始物問いたげな視線を横顔に感じながらも、竜の若者はつねと変わらぬ平静さで仕事をこなしていた。
 我ながら人の悪いことだ、と彼は内省する。けれど、言い出すに言い出せぬ様子で、やや離れた場所で煩悶しているであろう少女を思うと、引き結んだ唇が自然と解けてしまいそうになる。どのような理由であれ、恋人の関心がただ一点自分にのみ寄せられていることを、ハクは純粋に楽しんでいるのだった。
 千尋は心に気がかりを抱えながらも、客間や配膳所をせわしなく立ち回っていた。その健気さが心の琴線に触れる。ハクは側に呼び寄せていた父役と兄役を、ようやく持ち場へ戻らせた。すると、いかにも話しかけづらそうにしていた彼女が、彼が一人になったと見るや、それでもまだ周囲を気にする素振りを見せながら、すかさず駆け寄ってきた。
「あの、えっと……」
 勢いでつかまえたはいいものの、どう切り出したものかと考えあぐねた千尋は、もじもじとして口ごもってしまう。恋人の健気さを愛おしみながらも、ハクは涼しい顔を崩さずに笑ってみせる。
「どうしたの?」
 水を向けてやれば、うつむく千尋はごくごく小さな声で、
「──忘れもの、しちゃったの。ハクの部屋に……」
「忘れもの──。ああ、これのこと?」
 いかにも今思い出した、という顔つきで、青年は白水干の合わせに片手を差し入れる。綺麗に畳まれた藍染めの腹掛けがそこから出てきた時、千尋はひったくるようにしてそれを自分の背後へ隠してしまった。普段から血色の良い頬が、長湯でのぼせ上がったように真っ赤に上気していた。
「ああ、あせった……。今日、着替えの時、ごまかすの大変だったんだよ」
「──そう。何と言ってごまかしたの?」
「お風呂場に忘れてきちゃった、ってことにしたんだけど──」
 揩スけた女中たちの含み笑う顔が、ハクの目に見えるようだった。彼女が懸命にこしらえた言い訳を、誰も鵜呑みにはしなかっただろう。
 公然の秘密というものが、いつまで内証の形を保っていられるかは定かではない。けれど、竜神の心は自由そのものの伸びやかさで恋をしていたから、大した障害にはならなかった。
「襷も忘れていたね。──後で取りにおいで」
 その口実としてわざと部屋に置いてきたものの存在を、彼はその耳元で仄めかす。千尋の視線が、上へ、斜めへ、下へ──さまよった挙句そっとハクをとらえ、潤みがちなその瞳に彼を釘付けにする。
「……じゃあ、お風呂の帰りに、寄るね」
「──湯冷め、しないようにね」
 少女が恥ずかしそうに頷いて、背中に隠した肌着を桜色の水干に押し込めるのを見守りながら、今日も人肌恋しい夜になりそうだ──と予感する竜であった。



2023.06.09

Boule de Neige