下紐

 その日の油屋は特に大入おおいりだった。団体客が五組も大座敷を賑わしたので、宴会を行き来する女中や蛙男たちは文字通りの目も回る忙しさであった。
 五つの宴会場には、湯屋一同総動員で奉仕せねばならなかった。猫の手も借りたいほどの人手不足であったので、当然普段はあまり宴席などにはべることのない上役たちまでもが駆り出されることになった。とりわけ好奇の的となったのは、皆が汗水垂らして大わらわになっている中、ひとり泰然自若として涼しげな微笑を絶やさぬ帳場役だった。
 ある酔客が、戯れに、襖に描かれたあの狂い獅子を退治してみせよと所望すれば、
「仰せのままに」
 と白い筒袖の襷掛けを解きながらすらりと立ち上がり、その襷を襖に向かって投げつけるや、それは絵の中に吸い込まれて、見事獰猛な狂い獅子をとらえてみせた。
 また、酒興に何か縁起の良い歌を詠んでみよ、と水を向けられれば、
「では、一首」
 とよどみなく筆を運ばせ、客の名にちなんだ「春の日」を題材とした歌を、水茎みずくきの跡麗しく差し出された日の丸扇に書き付けた。
 さらに興をそそられた客から、そなたは芸なしの酌童には似つかわしゅうない、ここはひとつ装いを改めて女舞のひとつも舞うてみてはどうじゃ、などという無理難題を突き付けられれば、
「ご所望とあらば、一差しご覧に入れましょう」
 と座を辞したのち、立烏帽子に白衣紫裳、銀の舞扇で覆い隠した顔には薄化粧を施したいでたちで再び現れ、しなやかながらも雄々しい舞姿で宴席を大いに沸かせた。
 千尋も膳部運びでその座敷へ入った時に偶然、金屏風の前で舞うその美しい姿を目に留めた。百畳敷の中ほどから遠巻きに見たのであるが、きりりと正面を向いたその顔がまぎれもなく恋人の造形であることを知ると、つい呆気に取られてしまった。ハクは着痩せのする体質であるらしい。中性的な顔立ちと相まって、女装束をまとったたおやかで凛々しいその姿は、類まれなる半陰陽の麗人の趣きをかもしていた。
 山入後、朋輩たちがくたくたに疲労困憊した体をぬるい残り湯に沈めている刻限に、早々と行水を済ませた千尋は先程の座敷へ引き返していた。今夜は互いに忙しく、逢引の約束をかわすいとまはなかった。だが、何となく心惹かれる思いがあって、消灯後の暗い廊下をひとり足音を忍ばせながら渡っていた。
 百畳敷の座敷は、元通りに襖が立てられ、いくつかの部屋に区切られていた。千尋はそのひとつひとつをちらと覗いては、見知った姿がそこに待ってはいまいかと期待した。最後の[[rb:骨牌 > かるた]]をめくるような希望と不安を胸にあわせ持ちながら、床の間をしつらえた、最も広い座敷の襖を開けてみる。
 一瞬、期待が外れてしまったと千尋は思った。しかし、明り障子を透かして差し込むほのかな月光に、金屏風の箔がきらめいた瞬間、その陰からさらりと衣擦れの音がした。恐る恐る、千尋はその屏風に近づいてみる。黒いふちにそっと指をかけた時、陰からすうっと手が伸びてきて彼女の手をとらえた。あっという間もなく、千尋は屏風の裏へと引きずりこまれていた。
「──誰ぞおるのか?」
 廊下から、見回番の声がする。抱きすくめられた千尋の心臓は、絶えず早鐘を打っていた。屏風の陰の中で少し目が慣れてくると、まだ舞装束のままの恋人が、どこか面映ゆそうな微笑を浮かべているのが見える。
「見つけてくれたのは、嬉しいけど──。千尋には、あまり見られたくなかったな」
 その吐息には、ほのかに酒の香りがまじっていた。宴席での一献一献がつもりつもって、相当な量を干さねばならなかったに違いない。酔いで少し頭痛もするのか、片手でこめかみを押さえている。
「ハク、大丈夫……? 今ならまだ、釜爺が起きてるかもしれないよ。わたしが行って、薬、もらってくる?」
 千尋は心の底からの労いをあらわにして、その薄化粧を刷いた頬に触れた。これまでも何度か、二日酔いで苦しむ同室のお姉さま方に使いを頼まれたことがあったので、勝手は知っているつもりだった。しかしハクは子供のように首を振ると、烏帽子が脱げるのもいとわずに、千尋の膝に頭をのせてしまった。
「少し、休んでもいいかな。薬よりも、こうしている方が楽みたいだ……」
「──そう? だったら、ちょっとだけ……」
 横座りに崩した膝の上で、ハクは心地よさげにすうっと両眼を閉じた。普段の冷涼な面差しに反して、その寝顔はひどくあどけなく見えた。何事にも動じぬ上役の微笑の下に、この竜は今もなお少年の純粋さをまとっている。
 白い額を覆う前髪を撫でるようにしながら、千尋もゆっくりと瞼を閉じた。闇の中に、夜天光のようにぼうっとハクの舞姿が浮かび上がってくる。
 ──ハクは女の人の格好をしても、すごくきれい。お姉さまたちと並んでも、きっと全然分からない。
 男女の別を超えた美しさを、純粋に感心する心持ちだった。そんな千尋の手を、不意にハクが握りしめた。
「ねえ、千尋」
 深い眠りに沈んでいたかに思われたその声は、意外にもはっきりとしていた。
「今、私のことを、女中たちと並んでも遜色がない──、と思った?」
「……えっ?」
 図星をさされた千尋は、分かりやすく動揺をあらわにした。ぱっちりと両目を開けたハクは、夜目が利くという通りに、夜空の星のようにかすかに光る瞳で彼女をじっと見上げている。
「どうして分かるのか、って? ──こうやって額に手を当てるとね、何を考えているのか分かってしまうんだよ」
 そう言って彼が伸ばした指先を千尋の額に触れさせた時、つい先程、夜天光のように脳裏に浮かんだハクの舞姿に、ほかならぬ千尋自身の姿が重なって見えた。──幻の二人は、彼が広げた舞扇の陰で、熱く唇を重ねているのだった。
 真っ赤になった千尋が両手でパッと自分の唇を覆った時、ハクはその頭を彼女の膝枕から離した。じりじりと迫り来る顔が、暗がりの中でも何となく危うげな笑みを浮かべているように見え、千尋は屏風の陰の中を少しずつ後ずさっていく。
「ハク、もしかして、ちょっと怒ってる──?」
「──私が? 千尋に?」
 顔は笑っているようでも、その目は笑っていない。
「まさか。少しがっかりしただけだよ。ほんの一時でも、千尋に"女みたい"だと思わせてしまったことにね」
 ついに明り障子で背後が行き詰まった時、千尋はその華奢な体を畳の上に組み敷かれていた。遠目に見た時にはあれほどたおやかに映ったハクの女装束も、ここに至ってはもはやひどく不釣り合いだった。彼と共有した幻の再現のように、二人は熱く互いの唇を求め合った。千尋の浴衣の裾がハクの片脚で割り開かれ、あらわになった赤湯文字と、彼の紫色の女袴とが交ざり合い、揉みしだき合う。
 千尋の唇から首筋、鎖骨や胸乳の合間に至るまで、ハクの薄い口紅の跡が、桜の花びらを散らしたようにほんのりと色づいていた。咄嗟に千尋が握りしめたものは彼の夜半の下紐したひもで、それは少し力をこめただけではらりと解けてしまった。
 ちょうどその時、部屋の襖がすうっと音を立てて開かれた。
「やはり、そこにおるのだろう。わしの目はごまかせぬぞ」
 見回番が中へ踏み込んできたのであった。千尋はしどけない格好のまま、あっと叫びそうになる口元を片手で封じた。しかしハクは闖入者の存在など気にも留めずに、その唇の先に彼女の乳首をふくんでいる。千尋が注意を促そうとその肩を押し返すも、びくともしない。むしろ甘噛みされて、あられもない声を抑えねばならなかった。
「早う出てこんか。もはや隠れおおすこと、ままならぬぞ」
 苛立たしげな声とともに、ずかずかと畳を踏み鳴らす足音が近づいてくる。千尋は万事休すと息をのんだ。兄役の手が金屏風の黒椽をつかみ、だいだい色の灯りをその陰へとかざしかける──。
 その時、ハクは畳の上に落とした銀扇を拾い上げ、背後に向けてバッと開いて見せた。灯りを照り返された見回番は目を眩ませた。その怯みをついて、彼は開いた扇を大きくあおいだ。すると扇から突風が放たれ、腰を抜かした兄役は「うわあっ!」と情けない声を上げながら、ほうほうの体で部屋の外へと逃げ出していった。
 たった今、邪魔者を煽り出したその扇を閉じて、竜の青年はにっこりと千尋に笑いかける。
「これで、静かになった」
 そして、閉じた扇の先で彼女を差し招くようにしながら、
「じゃあ、続きをしようか、──千尋」
 千尋せんじんの谷底に銀鈴を落とすように、深く、長く尾を引く声で、ささやきかけるのであった。




2023.07.16

Boule de Neige