色と香

 千尋が部屋へ入ってくるなり、彼はつと柳眉をひそめた。
 一目その顔を見ただけで、千尋が何か心に屈託を抱えているらしいことが察せられた。無理を強いて笑顔を繕っているが、そのためにどことなくぎこちなさを感じさせた。山入り後、大部屋へ寄らずに真っ直ぐここへ来たと見えて、近頃衣替えさせられたという御殿女中ふうの白小袖に、襷をかけたままの姿でいる。彼の傍で、ほっそりとしなやかに伸びる両腕が、紅打袴の膝をぎゅっと抱えた。
「……どうしたの?」
「──えっ?」
「何か、嫌なことがあっただろう?」
「どうして?」
「顔色で判るよ。──今日は、悲しそうな色をしてる」
 すると千尋は膝頭に額を押しつけて、ちがうちがう、と言うように首を振った。その背中を撫でる手つきに労りと慰めのかぎりを尽くしながら、ハクは幼子をなだめる語調でささやきかけた。
「何があったのか、私に話してごらん。──大丈夫、誰にも言いはしないから」
「……本当?」
「うん」
「リンさんにも、言わない?」
「誰にも言わないよ。私の胸ひとつにしまっておくから」
 それを聞いてようやく千尋はほだされたらしい。膝からゆっくりと顔を上げて、物憂い表情を浮かべながら、その顎の先を膝頭に乗せた。
「あのね……。今日、廊下でお料理を運んでたら、後ろで誰かに言われたの。"人くさい、ここは人くさくてかなわんわ"って──」
 ハクはまた少し眉をひそめた。
 穢れを忌み嫌う湯屋の者たちは、何よりも俗界の臭気に敏感であった。ゆえにクサレ神などは、文字通りの鼻つまみ者として忌避されるのだった。殊に人間という存在は、彼らにとっては俗塵にまみれたけがらわしい生き物であり、初めの頃千尋に向けられた嫌悪もまた甚だしいものだった。
 しかし、同じ釜の米飯を口にし、同じ釜の薬湯に浴した年月は、大抵の者からそうした感情を洗い落としたはずであった。にもかかわらず、千尋にいまだ偏見の眼差しを注ぐ者がいるとすれば、それは彼女ではなく、その者自身の心が何らかの俗悪に満ちているせいではないのか。
 ハクは千尋の屈託のない笑顔を曇らせる悪意に、我慢のならぬ心地がした。しかし、当の千尋からは、そしりを受けた悔しさや憤りなどは少しも感ぜられなかった。
「わたしって、そんなに人くさいのかなあ……。毎日お風呂に入るし、洗濯だってちゃんとしてるんだけど」
 むしろ、人に不快を与えたことへの申し訳なさが、ありありとその声ににじんでいた。襷をかけた小袖の肩口に鼻を寄せて、不安げにくんくんとにおいを嗅いでいる。
「ねえ、ハク。人くささって、どうしたらとれるの? 石鹸を変えてみたらいいかなあ……。それとも、何か薬を飲んだ方がいい?」
「そんなこと、千尋が気にかける必要はないよ」
 陰口を叩いた者へ敵意を抱くでもなく、むしろこまやかな配慮さえ見せる千尋の心の清らかさが、ハクにはいじらしかった。
「千尋は堂々としていればいい。リンや相部屋の女たちは、もうそんなことは言わないだろう?」
「……うん」
「千尋の傍にいる者たちには、よく分かっているよ。千尋がもう余所者ではなくて、大切な仲間だということが」
「そうかなあ……」
 千尋の返事は半分まだ心残りな様子であったが、もう半分はハクの慰めに感じ入るようだった。横顔がちらと彼の方へ向いた。
「面と向かって口にできない言葉に、魂は宿らないものだよ」
 そう言って、ハクはちょっと首を傾げるようにして微笑んでみせた。千尋もようやく、つぼみのほころぶような顔つきになる。
「わたし、人間だから、みんなとはやっぱり違うって思ってた。──でも、仲間って思ってもらえてたら、嬉しい」
「何も違わないさ。こうして同じ町に暮らし、同じ世界で生きているんだから」
 でも、とハクはその桜色の頬に指先を這わせながら、密談めいた語調に変えてささやきかけた。
「私にとっての千尋は、ただの仲間──ではないけどね」
「うん……」
 千尋の視線が抱えた膝の上に落ちた。喜びに混じるはじらいの色が、ゆるやかな曲線を描く頬の上にほんのりとにじんだ。
 ハクはそっと懐中物を抜き出すと、紫色の帯紐をほどいた。それから上領の襟元を解き、片方の肩からすべり落とすようにして上衣を脱いだ。なめらかな衣擦れの音に千尋がふと横顔を彼の方へ向けた時、その背中にふわりと彼の白水干がかけられた。
「……ハク?」
 きょとんとする千尋の肩を、ハクは水干ごと包み込むように自分の方へ抱き寄せる。畳の目を擦る千尋の白足袋が、一度、そしてまた一度彼の方へ動いて、その体はしっぽりとハクの腕の中にしなだれかかった。
「──私の衣に、千尋の香りを移しておくれ」
 彼女の髪の毛に鼻先をうずめて、彼はそっと目を閉じた。
 千尋はちょっとはにかんだ笑顔を浮かべながら、片手を小袖の胸元にやってかいつくろうようなふりをして、肩口にかかる水干の襟を指先でそっと顎の下へたぐり寄せた。



2023.08.06

Boule de Neige