西瓜提灯



 白昼の日が青天に少し傾き始める頃、藍染めの玄関暖簾を、内側から白い手がそっとめくり上げた。
 暖簾の隙間からさしこんだ光線が、沓脱石くつぬぎいしのなめらかな上面に長い影を投じた。影の主はちょっと首を傾げながら、玄関口から赤い橋の袂を見通していた。そしてすぐに視線の先で何かを見出したらしく、水干の肩先で暖簾の合間をかいくぐって外へ出た。
 大股で橋を渡ってゆくにしたがい、少年の瞳には、砂金の粒ほども小さかった人の姿が、だんんだん明瞭な形を成してくる。定紋のついた大灯篭のすぐそばに、その少女は前のめりにしゃがみこんでいた。キラキラと太陽光を反射しているのは、地面に置かれた大きな金盥かなだらいの縁であった。その中から、小さな水飛沫が上がっていた。
「──わあっ、冷たい!」
 少女は満面の笑みを橋の方へ向けた。片腕ではかばいきれずに、その頬や桃色の水干の衣紋えもんに、細かい水晶の粒のような水沫をもろに浴びていた。水遊びの楽しさに浮かれる少女の瞳が、橋の上に立つ少年をとらえた。あっ、と無邪気な声がはじけた。
「ハク、おはよう!」
「おはよう、千尋」
 言葉を返すハクの心に、えもいわれぬ清涼な風が吹き通った。少年はさらに歩みをすすめ、にこにこしている少女のそばに腰を下ろした。
 金盥の中には、透明な水がいっぱいに張ってある。そのきらめく水面には、やや小ぶりな西瓜がひとつと、小太りな子ネズミが一匹、プカプカとのんびりした様子で浮かんでいた。金盥の縁にとまったハエドリが、ネズミの気儘な水遊びを見守っている。
「そこのお店の人が、遊んでもいいって言ってくれたの」
 大灯篭のかたわらにたたずむ茶店を目先で示しながら、千尋が嬉しそうに笑う。ハクもにこやかな表情で金盥の中に言葉をかけた。
「坊、千尋に遊んでもらえて良かったね。外は楽しいだろう?」
 チュウ、とネズミがつぶらな瞳をきらめかせて頷いた。
『冷たいおぶう、楽しい!』
 という赤ん坊の声が、彼の耳の内に聞こえてくるような気がした。少年と少女は顔を見合わせて、どちらからともなく和やかに目の端をゆるめた。盥の中でネズミが小さな手足でかいた水が、二人の括り袴の膝にはらはらときらめく雫をそそいでいる。
 ハクは右手の人差し指を盥の水に浸した。そうして口の中で小さく呪文を唱えながら、水の中にぐるりと円を描いた。すると、その円に沿って渦を巻くように、金盥の中の水はゆるやかな時計回りにめぐり始めた。流れる水の中を、ネズミは大喜びで泳ぎ回った。流れに身をまかせて仰向けにゆらゆらとたゆたってみたり、流れに逆らってパシャパシャと水を掻いてみたりした。
「流れるプールみたい。気持ちよさそう!」
 と、ハクの隣で千尋がはしゃいだ。
「いいなあ。わたしも親ゆび姫みたいだったら、一緒に遊べるのに」
「親ゆび姫?」
「おとぎ話に出てくるの。親ゆびくらい小さい女の子なんだよ」
「そう。千尋がその親ゆび姫なら、私は金盥の中の川の主かな」
 手に乗るほど小さな千尋の愛らしい姿を想像しながら、ハクはちょっと満更でもないような心持ちで相槌を打つ。西瓜がネズミに当たって怪我をさせぬための用心に、水の中からそっと引き上げた。
「この西瓜は、随分小さいね」
「うん。うまく育たなかったんだって。遊んでもいいけど、食べてもあんまりおいしくないよって、お店の人が言ってた」
 千尋も、ハクの手元の小ぶりな西瓜をじっと見つめている。ハクはふと思い立って、その西瓜を千尋の手にゆだねた。そして立ち上がると、大灯篭の脇の茶店に歩み寄ってガラス戸越しに中を覗き込んでみた。幾枚ものガラスが、氷を通したように冴え冴えと、昼下がりの青空や松葉の深緑を映し出している。その奥で、前掛けをかけた茶店の主が、ハクに気付いてぺこりと会釈をしてきた。
「千尋、少し待っていて」
 ハクは背後をかえりみてそう言い置くと、茶店のガラス戸を横へ引いて中へ入っていった。この茶店もまたこの街の他の飲食店同様、「油屋」の御用をつとめる店舗なので、彼はよく顔が利いた。
「手数をかけてすみません。匙と、皿と、果物ナイフ、それから蝋燭を一本拝借したいのですが」
 要望を伝えると、それらはただちに少年の元へ運ばれてきた。ハクは丁重に礼を言い、空いている方の手で再びガラス戸を開けた。茶店の軒下の水引暖簾にとまっていた赤トンボが、その物音に反応してスイと飛び立った。かと思うと、大灯篭の脇にしゃがんでいる千尋の肩の上にとまった。千尋は両手で西瓜を抱えたまま、にこにこしながらどこかを見つめている。金盥の中を見ると、きらきらと円を描く水面が輝いているばかりで、ネズミの姿が見当たらない。
「もう、水遊びは飽きてしまったかな?」
 ハクは独り言のように言いながら、数蓋にも伸び上がった松の木陰から、日向の千尋の方へと歩み出た。千尋が笑顔のまま彼の方を向いた時、赤トンボはその肩をフイと離れて、音もなく茶店の脇の庭の四ツ目垣にとまった。
「ううん、ちがうの。ちょっとお花を摘みに行ったみたい」
「花を?」
 ハクがトンボから目を離そうとした時、その垣根に接した花の植木の中で、がさがさと物音がした。躑躅つつじの茂みの中から、ネズミがひょっこりと小さな顔をのぞかせた。ネズミは意気揚々と、四ツ目垣をくぐり抜けて金盥の方へ戻ってくる。お付きのハエドリが、その体を千尋の抱えている西瓜の上にそっとおろしてやった。ネズミは小さな両腕いっぱいに摘みたての躑躅の花を抱えていた。
「きれいだね」
 と千尋が褒めると、赤ん坊の変化へんげのネズミはチュウと得意げに鳴いた。ネズミは抱えている花の中から、ちょうど千尋の衣の色合いと調和するひとつを選り抜いて、誇らしげに彼女に差し出した。
「これ、わたしにくれるの? ──ありがとう!」
 千尋の嬉しそうな様子にすっかり満足した様子で、ネズミはハクに向き直った。彼にも、水干の色をいたような花が贈られた。ハクは思いがけぬ贈り物に驚いて瞳をみはり、しかしすぐに柔らかな調子で礼を述べた。
「ありがとう、坊」
 ネズミは両頬を喜びにふっくらと膨らませながら、残りの躑躅を金盥の中にパッと散らして浮かべた。透き通った水のところどころに、薄桃や紫がかった赤などの色彩がにじんだ。ネズミはその水の中をふたたび自由気儘に泳ぎ回る。
 千尋はもらった躑躅の花を、しばらく大切そうに眺めていた。それから、その花を、束ねた髪の結び目にはさみこんだ。
「かわいいね。千尋によく似合うよ」
「本当?」
 混じり気のないハクの言葉に、その顔色がますます華やぐ。千尋はふと、白い花を預けるのとひきかえに、ハクが彼女から引き取った西瓜に果物ナイフを当てようとするのに目を留めた。
「それ、食べるの? ハク」
「食べてみたい?」
 ハクは逆に聞き返して微笑した。彼はひっくり返した西瓜のへその周りを丸くくくり抜き、銀の匙で中の赤い果肉を皿の上にすくい出した。皮をなるべく傷つけまいとするその切り方に、千尋が小首を傾げた。
「どうして、皮ごと切らないの?」
「それは、まあ見ていてごらん」
 手品をしかける奇術師のように、ハクは種を明かすことを持ち越した。ふうん、と千尋はまだ不思議そうにしながら、皿と匙とを受け取った。茶屋の主はその小さな西瓜を不出来だからと打ちやっておいたが、食べてみればそう悪いものでもなかったらしい。千尋はネズミと一緒になって、おいしそうに匙ですくった西瓜の果肉を口にしていた。
 ハクは西瓜の中身をきれいにくり抜いてしまうと、水干の懐中から懐紙と白い襷をとりだした。懐紙は手拭きに使い、襷は手早く袖にかけた。千尋は西瓜を頬張りながら、その一連の所作を見守っていた。そして食べ終えてしまうと、匙を置いて白い躑躅の花に持ちかえた。
「ハク。ちょっと動かないでね」
 と注意を与えて、千尋はハクの片頬を覆う、絹糸の房を切りそろえたような髪を指先でその耳にはさんだ。そしてその耳の上に白躑躅をそっと差しこむと、陽光を受けてきらりと光る一本の留針ヘアピンでその位置に固定した。
「これで、わたしとおそろい。──ハク、似合ってるよ」
 千尋が楽しそうに笑うのに釣り込まれ、ハクはちらと横目を流して笑いかけた。花の甘い香りが、ほのかにその鼻先をかすめてただよっていた。
 ハクはがらんどうになった西瓜の縞の上に、果物ナイフの刃を当てていった。切っ先を細かく動かしていくと、しだいにその皮の上に透かし模様が現れてきた。彼はまずそこに大輪の打ち上げ花火を刻印した。それから、小さな躑躅の花と、その周りをくるくると這う西瓜の蔓を切り抜いていった。
「これ、花火? ──わあっ、ここ、この花と同じ!」
 千尋はそれらの図柄がひとつ完成するごとに、両目をいっそう輝かせた。小さな西瓜なので、完成までにさほど時間はかからなかった。ハクは最初に丸くくり抜いておいたへその内側に、短く切った蝋燭をつけて、
「西瓜提灯だよ。明かりが入る頃に、この蝋燭にも火をつけてもらうようにしよう」
 と言った。
「私はこれから、所用で出かけなければ。戻ってくる頃には、ちょうどこの提灯にも明かりが入っているだろうね」
「うん。わたしも後で見に来てみる。──ハク、一緒に見れたらいいね!」
 待ちきれないとばかりに、千尋は西瓜提灯の中を覗き込んでいた。


 帳場の名札を白札から赤札へ返す千尋の手つきは、もうすっかり手馴れたものだった。さらに今日は鼻歌までもが交じる上機嫌とあって、知らぬ間に先輩たちの噂話の種になっている彼女であった。
「よっぽどいいことがあったのかねェ」
「そりゃ、いい人がいるんだもの。いいことのひとつやふたつくらいはあるでしょうよ」
「あれ、あの頭の花を見た? ──ハク様ったら、ああ見えて案外女心に気の付くのねェ」
 その花の来歴など知る由もない湯女たちは、小休憩の茶請け話に、あれこれと勝手な想像を繰り広げているのだった。
 千尋はそうした好奇の眼差しにはまるで気が付かずに、開店前の雑務に一生懸命励んでいた。今日は日没の刻限が待ち遠しくてならなかった。玄関に明かりが入るまでの間、彼女はいつにも増した熱心さで板敷の上を水拭きしていった。
「あのっ、わたし、ちょっとだけ失礼します!」
 朝食のまかないが運ばれてきた時、千尋はそれには目もくれず、待ちかねたように庭先へ飛び出していった。潜り戸を抜けて玄関口へ出た。嬌声を上げて客を出迎える湯女たちの合間から、入相いりあいの薄暗い空をじっと見上げた。一瞬、そしてさらにまた一瞬、彗星のように銀の尾を引いてちらちらと流れ落ちる姿が、その目に留まった。千尋はすっかり嬉しくなり、踊るような足取りで太鼓橋の袂へと駆け出していった。
「所用からの戻りだ」
 清涼たる声が、大灯篭の陰にひびいた。白い竜の化身である少年は、白昼と寸分たがわぬ優しい微笑をその白面にたたえて、千尋が橋の方から駆け寄ってくるのを見守っていた。
「ヘイ、お戻りくださいませ」
「──お戻りくださいませ!」
 おかえりなさい、と言うつもりがつい蛙男につられてしまった千尋に、彼はちょっと面白そうに目の端を細めつつ、
「うん。ただいま」
 と言った。その片耳の上には、まだ千尋が留めた白躑躅の一輪が、楚々としてその髪を飾っているのだった。彼は肩で息をする千尋を差しまねき、背後のある一点をそっと指さした。
「ちょうどいい時に会えたね。──見てごらん」
 茶屋の前にそびえる一本松の枝に、昼間の西瓜提灯がかけてあった。へたの付け根を細引きでくくり、枝から吊るしてあるのだった。中には蝋燭がともっていた。透かし彫りの花火が、松葉の濃い陰の中に幾筋もの淡い光線を投げかけている。
「きれい……!」
 千尋は首を大きく反らしながら、西瓜提灯の下をぐるりと一周した。花火から躑躅の花へ、そしてくるくるとうねる西瓜の蔓へと、まるで走馬灯を見るように視線を移していった。紅灯の光ちらつく大通りから石段を上がってくる神々も、この小さな西瓜提灯に物珍しそうな一瞥を与えてゆく。
「川開きの日には、花火が上がったものだよ」
 千尋の背後から、過ぎし日を懐かしむ口調でささやく声がした。少年は、片腕を長く伸ばして西瓜提灯のへそに触れた。指先でちょっとつつくと、それはゆっくり回転した。ゆらゆらと揺れ動く提灯の明かりが、松の根元に、茶店のガラス戸に、油印の大灯篭に、そして二人の顔や肩口に、まだらな光模様を描き出す。
「浅瀬で西瓜を冷やす子供たちがいた。──千尋が私の河原へよく遊びに来たのも、ちょうど西瓜のなる頃だったね」
 竜の少年は、めぐりを止めることのない記憶の走馬灯を眺めるように、千尋の顔を優しい微笑を含んだおもてで見つめていた。千尋は心の中に、柔らかく温かな灯火がポッと点じられるのを感じた。頬を撫でる夜風さえも、心なしか過ぎゆくのが名残惜しかった。
「さあ、そろそろ戻らなければ。──行こうか」
「……うん」
 それでも橋の中程まで歩いてゆくと、二人はほとんど同時に足を止め、後ろを振り返った。松葉の陰には依然としてあの透かし彫りの花火が、淡く、小さく、しかし定紋の大灯篭にも数珠つなぎの赤提灯にも及ばぬ温かな光を、橋向こうにふんわりと灯している。
「明日、また、あの西瓜提灯の下で会おう」
「──うん!」
 少年と少女は、淡い月のかかる橋の上で約束の微笑みを交わした。躑躅の花の香りが、二人の周りにほんのりと、目には見えないかさをかけていた。




2023.08.09



Boule de Neige