花七日


一.

 何か粗相をしたのだ、と思った。頭が割れるように痛むのは、きっと、その仕置きとしてぶたれた所為に違いない。
「──お許しください」
 言葉が口を衝いて出てきた。二つの顔が上から彼を覗き込んでいるのがわかるが、頭が朦朧として、その容貌をはっきりと認識できない。
 そのうちの一人が、これ見よがしに溜息をついた。
「ったく。医者が介抱されてちゃ、世話ねえな」
 若い声だった。突慳貪だが、どこか人の良さそうな様子が窺える。あの「家」の中にこんな声の持ち主はいただろうか。痛む頭でぼんやりと思案をめぐらせる間にも、彼の頭上から別の声が聞こえてきた。
「打ち所が悪かったのかも。一瞬、気絶してたし……」
 少女と思われる誰かの手が、気遣わしげに彼の頭に触れてきた。出血は少ないが、そこにたんこぶができているのがわかった。痛みに眉をひそめると、少女は「ごめん」と慌てた様子でその手を引っ込める。
「ねえ百火、ちょっと手伝ってくれない?」
「ああ?」
「診療所まで連れて帰らなくちゃ。私一人じゃ無理だよ」
「ったく……仕方ねえな。今回は貸しにしとくぜ」
 その頃には彼の視界もいくらか明瞭になっていた。隻眼の少年と短髪の少女が、左右から彼の肩に手を添え、上体をゆっくりと助け起こしてくれる。彼はようやく人心地がついたように長い息をついた。
「──ありがとうございます。助かりました」
「なんだよ。やけにしおらしいな」
 奇妙なものを見る目で、少年が横から彼の顔を凝視する。彼はその少年が「百火」と呼ばれていたことをぼんやりと思い起こしている。
「歩ける? 摩緒」
 反対側から少女が呼びかけてきた。反射的に頷く。その少女と立ち並んでみてようやく、摩緒は自分が童子らしからぬ体格であることに気付いた。
「帰ったら、乙弥くんに薬を塗ってもらって、ゆっくり休んだらいいよ」
 また新しい名が出てきたが、聞き返すことはせずに小さく頷いた。親切に世話を焼いてくれる相手が自分の名を呼んでいるのに、自分がその人の名を知らないというのはひどく失礼なことだと思った。
「ありがとうございます。このお礼は、いずれ必ず──」
 まだ痛む頭を下げ、少女にも感謝を伝える。するとまたも腑に落ちないような様子で彼の顔を覗き込んできた。
「ねえ、摩緒、やっぱり打ち所が悪かったんじゃない?」
「──いえ、そんなことは」
「ほら。さっきから、なんかよそよそしいよ。絶対おかしい……」
 怪訝な目で見つめられ、摩緒はさりげなく目線を反対側へと逸らしていく。百火という少年が、面倒くさそうに白髪まじりの頭を掻いていた。
「おい、いつまで立ち往生してるんだ? 行くならさっさと行くぞ」

 少年の肩を借りて帰路を行く。帰路といっても、それがどのような「家」に通じる道であるのか、彼には知る由もない。
 少なくとも、彼のよく知る「捨童子の家」でないことだけは明らかだった。童子と称するには、今の彼はあまりにも育ちすぎている。
「あの辺のお店、せっかく建て直したのに、また崩れちゃったみたい」
「さっきの余震だな。救護所やら炊き出しやら、たたんだそばからまた呼び出しが来やがる。まったくきりがねえって言うぜ」
 同行者達の会話の断片から、彼は自分の置かれている状況を把握することに専念した。どうやら彼はしがない町医者で、地震による負傷者の治療を行っていたところに、余震があったらしい。
「患者さんをかばうのは摩緒らしいけど、さっきは本当に危なかったんだからね」
 少女によれば、地震の揺れによって、近くの建物から瓦礫が落ちてきたという。それが運悪く彼の頭に直撃した。記憶が曖昧なのはその所為らしいが、彼はそのことは口には出さず、ひたすら聞き役に徹していた。
「そういえば、百火もボランティアとかするんだね」
「あ? ぼら……? 何訳わかんねえこと言ってやがる」
「炊き出ししてたでしょ。ちょっと見直したよ。ちょっとだけね」
「──おい小娘、てめえ、やっぱりそこはかとなくおれをナメてやがるな?」
 二人はつねに行動を共にする仲間というわけではないようだが、ある程度の信頼関係にはあるらしかった。彼は百火と呼ばれる少年がもう一人の同行者の名を呼ぶのを待ったが、その機会はようやく到来したかと思えば、あっけなく去っていってしまう。
 帰路の街並みは見慣れないものだった。行き交う人々も、どこか浮世離れして見える。
「ちょっとここで待ってろ」
 少年は少女の肩に摩緒を預けると、商いをしているらしい間口の大きな建物の中に入っていった。少女が重たそうに体の均衡をくずしているのを見て、彼は無配慮を詫びる。
「もう大丈夫。一人で歩けるよ、ありがとう」
 他人行儀だと言われたので、そうならないように心掛けた。少女は彼の手をとり、店先の腰掛へといざなっていく。
「無理しないで。座って待ってたらいいよ」
「うん」
「頭はどう? まだ痛い?」
 彼は首を横へ振った。ちょうど差し向かいの屋根から、夕日がちらちらと差し込んでくる。光の刺激を受けてか、患部が一層ずきずきとした。目をすぼめる彼の前に、少女の薄い影が立ちはだかる。
「座らないの?」
「うん」
「隣が空いているよ」
 少女はまた頷いたが、彼の言葉は聞き流した。
 そうしている間に少年が三人分の飲み物を手にして戻ってきた。それは飲んだこともない奇妙な水で、喉がじわじわと焼けるようだった。いたずらでもされたのかと訝る摩緒だったが、他の二人は至って普通の様子でその縁に口をつけている。それにならって少しずつ喉をならしていき、最後まで飲み干すころには、それが美味とまで感じられるようになっていた。
「で、頭は元通りになったか? 摩緒」
 隻眼が彼の横顔に向けられる。
「ええ」
「嘘つけ」
 即座に否定され、彼は思わず目を丸くした。少年がやれやれと首を振っている。
「こりゃだめだな。頭ん中から、色んなもんが抜け落ちてやがる」
「やっぱりそうだよね。様子がおかしいと思ったんだよ」
 少女の顔には不安の陰りがあった。
「ねえ摩緒、正直に言って。──私が誰だか、わかる?」
 摩緒はかすかに眉をひそめ、相手をじっと見つめ返すが、どうしてもその名が浮かび上がってこない。
「……すみません。あなたは私を知っているようですが、私は、あなたを知らないようです」
 少女は、はっと息をのんだ。動揺したように、少年の腕をつかんで自分の方へ引き寄せる。
「それじゃ、百火のことは?」
 彼は少年の怪訝な顔を今一度ながめてみるが、やはり同じことだった。
「摩緒の兄弟子だよ。覚えてない?」
「兄弟子……。いえ……」
「だったら、乙弥くんは? 猫鬼のことは? ──紗那さまのことも、覚えてないの?」
 どの名も、彼には聞き覚えのないものだった。相手が期待する答えを返すこともできず、ただ首を横へ振り続けるばかり。
「私が覚えているのは、自分が孤児だったということだけです」
「孤児……。じゃあ、『捨童子の家』にいたことは覚えてるの?」
 摩緒は少女の口からその名称が出たことに驚き、目を見開いた。相手は自分の生い立ちを知っているらしい。
「覚えています。私は、その『家』で暮らしていましたから」
 少女は、彼の「兄弟子」だという少年と目を見合わせた。少年が溜息をつく。
「紗那さまの名を出しても、この反応だ。──ったく、思ったよりずっと深刻なことになっちまってるみてえだな」

 「診療所」では、一人の童子が留守をあずかっていた。人ではない。彼のことを「摩緒さま」と呼んだ。
 少女が事情を説明する間、彼は今の住処だという空間に目を走らせていた。自分は医者だというが、揃えてある道具はいずれも用途のわからないものばかり。机上の硯と筆だけが、なじみ深い友のように感じられる。
「摩緒、どうしたの? 怪我してるんだから、休んでなきゃだめだよ」
 所在なげに机の傍に立っているのを、少女が見とがめた。摩緒は言われるがままに、畳の上にもうけられた寝床へその身を横たえる。先程の童子は、薬棚の引き出しから膏薬の入れ物を取り出していた。彼が尋ねるより先に、自己紹介をしてくる。
「手前は乙弥と申します。摩緒さまの式神で、従者です」
「私に、従者が?」
「長年お仕えしてきました。──失礼します」
 式神は断りを入れ、摩緒の頭のたんこぶに膏薬を塗っていく。
「傷自体はそれほどではありません。あれを飲まれるほどではないでしょう」
「──あれ、とは?」
「いずれ思い出されます」
 少女がちらと視線を動かした先へ、彼も目を向けてみる。そこには一つの壺が置いてあった。中で何かが蠢いているような、奇妙な気配にぞわりと悪寒がする。
「寒いの? 摩緒」
 それを見た少女が、自分の着ている上着を脱いで摩緒に被せかけた。衣にはまだ温もりが残っている。他人から、ましてや女性から世話を焼いてもらうことには不慣れな彼は、それを丁重に返そうとした。すると少女は口をとがらせて意見してくる。
「返してくれてもいいよ。でも、私の名前を思い出さないうちは、絶対に受け取らないから」
「あなたの名前、ですか?」
 摩緒は視線で式神に助け舟を出してもらおうとするが、少女は思いのほか目ざとかった。
「あっ。乙弥くんに聞くのはナシだからね!」
「どうして?」
「どうしてって、それは……」
 律儀に答えを待つ。少女の耳が、みるみるうちに赤くなっていく。
「もういいよ、この話はっ。──怪我人は大人しく寝てなくちゃだめ!」
 

二.

「おはようございます、摩緒先生」
 見ず知らずの町人が、気さくに挨拶をしてきた。この早朝に誰も出歩いてはいないだろうと油断していただけに、摩緒は一瞬身構えてしまう。
「──おはようございます」
「いやあ、昨日はまた揺れましたね。先生の診療所はご無事で?」
 当たり障りのない問いかけに、ひそかに胸を撫でおろしつつ、ええ、と頷く。そりゃ良かった、と髭面が愛想よく笑った。
「うちもね、幸い大事はなかったですよ。でも、お向かいでは怪我人が出たみたいでね。じいさんが階段ですっ転んで、足をひねったって言ってましたよ。慌てて診療所に連れてったけど、先生がお留守だったから、助手の方に世話してもらったって」
「それは……難儀なことでした。生憎、所用で空けていたものですから」
 摩緒は頭に鈍い痛みを感じ、そっと両目を閉じた。膏薬と睡眠が効いたようで目覚めは良好だったが、体はまだ安静を必要としているらしい。努めて平静を装うものの、その顔色の悪さは誤魔化しきれなかった。
「先生、どこかお悪いんで?」
「いえ。どうぞご心配なく……」
「そうですかい? でも、医者の不養生なんて言いますからねえ。──まあ、これでも召し上がって、養生なさってくださいよ」
 相手はそう言って、五、六ばかりの卵の入った小さな籠を、彼に押しつけるようにした。気を遣おうとするあまり、かえって厚意を無下にするのも失礼だと思い、ちょうど生みたてらしい、まだ生温かい贈り物をしかと両手で受け取る。
「お気遣いに感謝します」
「ハハ、これくらいどうってことねえですよ。先生のところには、うちのかかあと腕白坊主がいつも世話になってるんですから」
 屈託のない笑顔だった。摩緒も思わずつられてしまう。こざっぱりとした町人気質に親しみを覚える。頭痛が少し楽になったような気がした。

 診療所の玄関先には、慣れた様子で長い箒を繰る式神の姿があった。彼の助手で従者だというが、同じような年頃の童子に敬称で呼ばれることには、まだ慣れていない。
「私が代わろうか?」
 それでも一歩、歩み寄るつもりで申し出てみる摩緒だったが、
「いえ、もう終わりましたから」
 と一蹴されてしまった。式神特有の、二つの穴のような目がじっと見上げてくる。
「傷の具合はいかがです?」
「……ああ。まだ少し痛むけど、昨日よりは良いよ」
「そうですか。通りを歩いてみて、何か思い出されましたか?」
「ううん。──いや」
 自分の言葉がやけに子供じみて聞こえ、咄嗟に外見に合うように言い直した。大人のふりをするというのは、なかなか難しいことだ。
「昨日、私が留守の間に、患者さんが来たようだね」
「ええ。地震の後に、人間のかたがいらっしゃいました」
「人間の?」
「はい。人間の患者さんが」
 摩緒は式神の目を見つめ返す。つまりこの診療所には、人間ではない患者もやって来るのだろう。思った通り、未来の自分はごく普通の町医者というわけではなさそうだった。
 昨日の少女も人間ではなかった。預けられた上着は、薬棚の前に綺麗にたたんである。借り物をいつまでも手元に置いておくわけにはいかない。
「あの人はどこへ行ったんだろう?」
「──あの人?」
「あの人だよ。昨日、私をここまで連れて来てくれただろう?」
「ああ、あの人ですか」
 卵を茹でる湯を沸かしながら、式神が抑揚のない声で返す。摩緒は、その小さな口からうっかり少女の名がころげ落ちてくることを期待したが、聡い相手はその手には乗らなかった。
「毎日ここにいらっしゃるわけではないんです。遠くにお住まいですから。何日も姿の見えない時もありますよ」
「……そうか。それなら尚更、早く思い出さなくては」
 頭の傷に触れる。軽く押してみるだけで、眉をひそめるほどの痛みを感じた。記憶が抜け落ちるほどの衝撃とは、どれほどのものだったのだろう。
「痛みますか。あまりひどいようでしたら、あれをお飲みになることもできますが」
 式神が例の壺を指差した。摩緒は視界の端にちらとそれをとらえるや、すぐさま首を横へ振る。ただそれに意識を向けるだけで、昨日と同じ、得体の知れない怖気を感じるのだった。
「いらない。どうしてかはわからないけど、飲みたくないんだ」
「そうですか。お飲みになるのは、お嫌ですか……」
 深く失望したように、式神が長い長い溜息をつくのを、摩緒は訝しむ。
「……私は何か、乙弥を傷つけることを言ってしまったかな?」
「いえ、お気になさらず」
「本当に?」
「お気になさらず」
 ぐらぐらと、湯の煮える音がする。水面下で狂ったように卵が踊り、ぶつかり合うのを、主従は奇妙な沈黙の中で見つめていた。
 会話のきっかけをつかみあぐねる摩緒の耳に、ふと、独り言のような呟きが入ってくる。
「──忘れておられるなら、その方が摩緒さまにとっては幸せなことかもしれません」
 彼は湯気の向こうに隔てられた、式神の童顔に瞳を凝らす。相変わらずの人形のような無表情だったが、頭の中に反芻する声からは、不思議と長年を共に過ごしてきた同伴者の温かみが感じられた。


三.

 昼下がりには、診療所を訪れる患者の姿も大分途切れがちになっていた。摩緒はようやく首にかけっぱなしの聴診器を机の上に置き、一息つくことができた。
 彼が予想した通り、彼の「患者」は千差万別だった。人の次には妖が。そしてまた妖が駆け込んできたかと思えば、今度は人がやって来る。
 忙しく立ち回る式神に、それら全てを任せておくのはどうにも気が咎めてならなかった。養生するようにという助言を聞き流し、病床から身を起こした摩緒は、意を決して自分の定位置であるという場所に腰をすえた。
「摩緒先生。体の調子が、どうもいかんのです」
 ──青い顔をして訴えかけてくる患者を前にして、記憶喪失の自分に一体何ができるのだろう、と途方に暮れかけた。
 だが、それはほんの一瞬の杞憂だった。考える間もなく彼の手は机上の聴診器をとり、新生児が自然に呼吸することを覚えるように、ごく慣れた手つきでそれを首にかけていたのだった。
「頭では忘れていても、体が覚えているものだね」
 式神の淹れた茶を吹き冷ます摩緒の表情は、満ち足りて穏やかだった。「先生」の務めを果たすことができたという達成感が、その心を占めていた。
「人の役に立つというのは、良いことだね」
「摩緒さまらしいです」
「そうかな?」
「はい。そういうところは、本当にお変わりありません」
 摩緒はこそばゆく笑って、やや斜めに傾いている乙弥の帽子を元の位置に直してやった。急に自分に頼もしい弟ができたような心地になった。
 ふと、本当の兄のように慕う人の顔が脳裏をよぎる。その人は幼心に秘めた夢を語りかけてくる。──まるで何百年も昔に去った人を思い出すように、その顔と声は、不思議と遠く、懐かしく感じられた。
「時々、私はどんな大人になるだろう、と考えるよ。捨童子の身では、その日を生きるのが精いっぱいで、自分の行く先なんてままならないけど。──でも、実際この体になってみたら、想像したよりもずっと良かった。この街の人は親切で、私は医者として彼らを助けることができて、何より優秀な助手が傍にいてくれるからね」
「──摩緒さま」
 乙弥が自分の膝小僧に視線を落とした。そして、繰り出すべき言葉を頭の中で探していたのか、そのまましばらく口を開こうとしなかった。

 往診の帰り道、吹き抜ける風は次第に湿り気を帯びてくる。片手で外套の首元を詰めるようにしながら、摩緒は覚えたての診療所への道筋をたどっていく。
 通りに面した商店などは、暖簾を外して店じまいをしていた。食堂には明かりが灯り、帰りがけに夕食をとる人々の背中をほのかに照らし出している。
 奇妙に思われた街並みも、人々の姿も、見慣れてしまえばそれが日常となる。ただこうして、他の通行人と同じように夕暮れ時の街路を歩いているだけで、彼もまたまぎれもなく「五行町」の住人なのだということを実感できた。
 自分を取り巻く環境にすっかり馴染んだつもりになって、少し油断していたのかもしれない。道端で立ち止まっている若い女性の前を、何気なく通り過ぎかけた時だった。──その人が突然、体の前に下げている太鼓をバチで力いっぱい打ち鳴らしたので、摩緒はいったい何事かと飛び上がらんばかりに驚いてしまった。
 まるで合わせ鏡のように、彼とよく似た反応を示した歩行者がいた。新参者である彼と同じく、そのけたたましい騒音が、この町の日常であることを知らない人間だ。
 摩緒は目を丸く見開き、片手でまだ高鳴りの治らない胸を押さえたまま、その場で唯一の共感者を見つめていた。その顔には覚えがある。それはまぎれもなく、あの日上着を貸し与えてくれた、彼がまだその名を思い出すことのできない、あの短髪の少女の面差しだった。
 ──チンチキドンドン、チンチキドンドン。
 太鼓持ちの派手な女性は、陽気な調子で口上をつらねていく。どうやら商いの宣伝によって生計を立てているらしい。張りのある声で流行歌らしきものを歌いだせば、一人、また一人と、野次馬めいた見物客が近づいてくる。
 はじめに、あの少女が小さく吹き出した。つられて摩緒も何やらおかしくなって、肩を揺らす。──百鬼夜行を目の当たりにした時ですら、これほど竦み上がることはなかったかもしれない。笑う少女の影が、彼に向かって伸びてきた。
「びっくりしたね、あの音」
「はい。驚きました」
「心臓が止まるかと思っちゃった」
 少女は物珍しそうに、人だかりの方へ目を向けている。彼はチンドン屋のせいで落とした鞄を地面から拾い上げながら、一見普通の人間であるその少女から、なぜ妖気が感じられるのかを考えてみようとした。が、顔を上げた時には彼女の関心はすでにあの喧騒を離れ、包帯の巻かれていない彼の頭に寄せられていた。
「もう出歩いてるんだね。傷は大丈夫?」
 こくりと頷く摩緒を、疑わしそうに見つめる。
「本当に? 摩緒って結構無理しがちだよね。もう少し休んだ方がいいと思うけど……。あれから、こっちではどれくらい経った?」
「助けていただいた日から、ですか。あれは一昨日で……」
「まだそれしか経ってないの? だめだよ、ちゃんと休んで治さなきゃ!」
 少女が険しい顔で詰め寄ってきた。呆気に取られる摩緒の腕をつかみ、牛の鼻面をとらえたように診療所へ至る路地へと引いていく。
 摩緒は、従順な牛になって彼女についていきながら、先程の奇妙な質問を頭の中で反芻していた。
 ──あれから、こっちではどれくらい経った?
 考えれば考えるほど謎は深まった。どれほど遠くに住んでいても、どこの空にも日は同じ数だけ昇るはずなのに。

 まだ眠くないと訴えかけたところで、聞き入れてもらえそうもない。
「摩緒がちゃんと休むまで、私帰らないから」
 少女はそう言って、乙弥の隣を陣取った。摩緒は頭の傷がいかに快方に向かっているかを説明しようと試みたが、小さくなったたんこぶを彼女に触らせたことが、かえってあだとなる。わずかな痛みに顔をしかめたのを、少女は見逃してはくれなかった。
「言うこと聞いたら、いいものあげるよ」
 しまいにはこんなことを言い出した。
「私は大人です。そういうものにはつられません」
「でも、心は子供なんでしょ?」
 面と向かってそう言われると、本当に自分が聞き分けのない子供のように思えてくる。
「……わかりました。今日はもう、休みます」
 結局、摩緒が折れることになった。善意からの忠告であることは承知していた。そして、少女の帰宅が遅くなることへの配慮もあった。
「なんか不思議。いつもは私が子供扱いされるのに」
 彼女は色とりどりの包み紙にくるまれた飴玉を、彼の枕元に置く。摩緒が言うことを聞いたので、今やその顔つきは穏やかそのものだった。視線を動かすと、彼の頭の下で小豆の詰まった枕がさらさらと耳に心地よい音を鳴らした。
「あの上着を、お返ししたいのですが」
「いいよ。全部思い出してからで。まずはちゃんと休まなきゃだめ」
 少女は摩緒に背を向けて、隣の乙弥に話しかけた。その姉と弟のような後ろ姿をながめる。本当に彼が寝付くまでそこに居座るつもりらしい。病人の眠りにさわりのないように、ごく抑えられた話し声が、彼の心に不思議な安らぎをもたらしていた。


四.

 車夫に運賃を支払い終えた瞬間、背後から何か堅いもので肩を叩かれた。振り向いてみれば、警棒を手に仁王立ちした巡査が、厳めしい顔つきで見下ろしてくる。
「きみ。その手に持っているものは、一体何だね?」
 巡査が尊大に顎をしゃくるのを、摩緒はきょとんとして見つめる。相手の質問の意図が読めないまま、手元に視線を落とした。
「これは、財布ですが……」
「そんなことは見ればわかる。財布ではなくて、その細長い得物のことを言っているのだ」
 見当違いな答えを返す彼に、巡査は苛立ちを隠そうともしない。
「はあ。これですか」
 摩緒が言葉を濁せば、仁王像にも似たその顔貌はより凄まじいものになった。
「まさか、刀剣のたぐいではなかろうね?」
「──ええ。これは、刀です。何か問題でも?」
「問題でも、だと?」
 巡査は目を剥いた。その形相から、摩緒はおのれの失言を悟る。
「この不届き者め。きさまは廃刀令というものを知らんのか?」
「ハイトウ……」
「知らんとは言わせんぞ。白昼堂々、憚りもなく帯刀して交番の目前をうろつくとは!」
「──あのっ!」
 突然割って入った声に、摩緒ははっとする。彼の鞄を二人がかりで人力車から降ろしていた少女と式神が、剣呑な空気を察して駆け寄ってくるところだった。
「あの、すみません!」
「何だね、きみたちは。この不審者の仲間か?」
 巡査に睨みつけられ、少女は一瞬怯んだ様子を見せた。けれど拳をきつく握りしめ、相手の威圧を跳ね返すように「はい」と力強く頷いてみせる。彼女は摩緒の腕の中から、諍いの火種となっている刀をひったくった。
「これは、呪いの刀なんです。触ると恐ろしい祟りが起きるそうです」
「何? 祟りだと?」
「はい。この刀は依頼者から引き取ったもので、これからこの人が持ち帰って、お祓いをするところなんです」
 巡査のしかめっ面に、目に見える変化は表れなかった。
「この男は何者なのかね?」
「この人は、──陰陽師です」
 少女が一瞬摩緒を横目にとらえた。その声がかすかに震えていた。巡査が怪訝に聞き返す。
「何と言ったのだ?」
「陰陽師です」
 今度ははっきりと告げる。
 巡査の懐疑の眼差しは、いまだ摩緒の顔から離れる気配がない。
「……ふん。祟りだの、呪いの刀だの、陰陽師だの、文明の世には似つかわしくない荒唐無稽な話だな。それが罰則を免れるための出まかせでないと、どう証明する?」
「嘘だと思うなら、向こうのミルクホールでこの人のことを聞いてみてください。女給の貂子さんというひとに聞けば、ちゃんとわかりますから」
 むっとした少女が、往来の奥に見える洋館を指さした。摩緒はその不機嫌な横顔を、それからその指先が示す今日の目的地を見遣る。
 意外にもすぐ近所に確固たる証人がいるらしいことを知らされた巡査は、心なしかその疑念を薄れさせたかのように見えた。「冤罪」という不名誉を被る可能性を見出したに違いない。
 けれど、ふと刀を抱く少女に目を留めた時、またもその瞳には拭い去れない不審感が表れてきた。
「ところで、お嬢さん。きみはその刀に触れていても、何ともないようだが?」
「えっ?」
「祟りや呪いはどうなっているのかね?」
 少女は大きな目で彼から奪った刀を見、それから思い出したように、首を横へ振り出した。
「違うんです。鞘から抜いて、刀を振るったらだめなんです」
「──ほう。では、その『呪い』とやらがいかほどのものか、私が確かめてみよう」
 巡査が刀に手を伸ばしかけた。その瞬間、摩緒が横から割って入る前に、少女は素早く後退した。そして袋からその刀を取り出すと、地面と平行にかかげ、鞘にぐっと手をかけた。
「何をするつもりだ?」
 顔色を変えた摩緒の声が、巡査の声と重なった。巡査は怪訝な顔つきで彼を見たが、摩緒の瞳は今にも呪いの刀を引き抜いてしまいそうな少女へと向けられていた。
「大丈夫。本当に呪われちゃっても、摩緒は陰陽師だから、何とかなるよ」
「いや、呪いを侮ってはいけない。この世には、陰陽師の手には負えない呪いもあるんだよ」
「うん。知ってる」
 少女は顎を引いて笑った。その顔はどこか猫に似ている。──そう思った瞬間、摩緒は鈍い頭痛を覚えた。──猫とは一体何だろう。知っているようで、まるで見当もつかない。
「きみ、やめなさい!」
 巡査の静止を無視して、少女が素早く鞘を抜いた。
 摩緒は片手で頭を押さえたまま、空いた手で少女に手を伸ばす。その手は届かないまま、彼女は呪われた刀を大きく振るった。──苦しげなうめき声がその細い喉からもれた。突然体を痙攣させ始めたかと思うと、刀を強く握りしめたまま、少女はその場に力なく倒れ伏した。
 通行人の中から悲鳴が上がった。刃傷沙汰があったものと勘違いしたらしい。巡査は顔面蒼白になって、少女の傍らに膝をついた。
「──命が惜しい者は、その人から離れなさい!」
 摩緒の張り上げた声に、野次馬たちは火に触れたようにおののいて後ずさった。すかさず倒れている少女の呼吸を確かめ、脈をとるのを、巡査だけが険しい目をして見つめている。
「……医者に診せるべきだ」
「いえ、私が診ます」
 彼は鋭く申し出をはねのけた。
「ご覧になったでしょう。普通の医者では、手に負えません」
「だが……。きみには治せるというのか?」
「はい。──私は、陰陽師ですから」
 もはや相手に異論はなかった。摩緒が少女の指をほどいて刀を抜き取り、再び入念に鞘に納めるのを、無言のままじっと見届ける。

 数歩も行かないうち、背中からこらえきれなくなった笑い声が聞こえてきた。
「……笑いごとじゃない」
 摩緒は目上への敬意をかなぐり捨てて、その声の主をたしなめた。
「本当に、刀に呪われたのかと思った」
「迫真の演技だったでしょ?」
 背後ではまだあの巡査が見送っていることを知っていたので、振り向いて少女の顔を見ることはできなかった。
「あれくらいやらなきゃ、信じてもらえないと思って」
「──あなたは、無茶なことをする人だ」
「そう? 摩緒には敵わないよ」
「私がいつ、無茶を?」
 沈黙は、数歩ともたなかった。彼女は摩緒にしがみついたまま、
「あれが呪いの刀っていうのは、本当だよ」
 と耳元で打ち明けてきた。
「あのおまわりさんが刀を抜いてたら、きっと、ひどいことになってた」
「ひどいこと?」
「うん」
「でも、あなたは無事だった。呪いなんてなかった」
「そうだよ。あの刀に触って平気なのは、私と、摩緒だけ」
 摩緒はちらと横に視線を流した。少女はちょうど行く手にあるミルクホールを見上げていたので、目が合うことはなかった。
「──そんなに危ない刀なら、持ち歩かない方がいいんじゃないかな。それに、そもそもこの町では刀が禁じられているようだし」
「いいえ」
 横を歩く乙弥が、主の言葉を否定した。
「摩緒さまの身を守るためです。その刀は、肌身離さずお持ちください」
「……うん」
 腑に落ちないながらも、彼は小さく頷いた。腰に差してある刀を見下ろす。見えない紐で何重にも胴体にくくりつけられているように、その刀が彼を離そうとしないのだという気がした。──気味が悪いと思った。何やら頭の中がざわざわとする。
「寒いの、摩緒?」
 思わず身震いしたのを、背中の少女が心配する。
「今日はコート、置いてきちゃったもんね。──寒がりで猫舌なんて、本当に摩緒らしいよね」
 猫、という言葉に摩緒はまた頭痛がした。けれどそれはほんの一瞬のことだったので、何でもない様子を装って聞き返した。
「猫舌、って?」
「すぐにわかるよ」
 どこか楽しげな声だった。

 乙弥がミルクホールの扉に手を伸ばした時、それは触れもしないうちに内側から開かれた。控えていた給仕の歓迎を受けながら中に入ると、少女は自分で摩緒の背から下りていった。摩緒は急に背中がうすら寒くなったように感じた。だからといって、その温もりを呼び戻すわけにもいかない。
 いつもの定位置だという窓辺の席に通される。同行者たちは慣れた様子で椅子に腰を落ち着けていた。
「摩緒はここだよ。座って、座って」
 少女が手招きした。彼が席についたのを見届けると、立ち上がって椅子の後ろをさっと通り抜けていく。背中を横目で追えば、一人の女給が彼女の方に向かって歩いてくるところだった。どうやらそれが話に聞いていた妖のようだった。二人の女性は額を突き合わせるようにして、立ち話を始める。
「ああしていると、二人とも、人にしか見えないね」
 摩緒は乙弥に水を向けてみる。出来るかぎり刀のことから意識を逸らしたかった。乙弥はちらと二人を見てから、彼に視線を戻した。
「お一人は、人間ですよ」
「彼女だね? わかってる。でも、妖気を感じるんだよ」
「あの方も、そういうお体ですから」
 ──あの方も。まるで、他にも同じような人間が存在するとでもいうような口ぶりだ。摩緒はじっと乙弥の目を見つめた。
「彼女は、私のことをよく知っているみたいだね。でも私は、彼女のことを何も知らない。名さえも」
 式神の目は、瞬きひとつしない。
「いずれ、思い出される時が来ます」
「いずれ。そうだね、きっと」
 予想通りの返答に、摩緒は困ったように笑う。
「思い出したいよ。いずれじゃなくて、今すぐに。でも……」
 でも、何故だろう。開けてはいけない箱の蓋に触れているような、胸騒ぎがするのは──。
 会話が途絶えて程なくして、少女が席に戻ってきた。続いて女給が三人分の飲み物を運んでくる。
「お話は伺いましたわ、摩緒先生。本当に大変な目に遭われて……。お怪我の具合はいかがです?」
 顔見知りだという女妖に、摩緒は頭の傷が快方に向かっていることを告げた。相手は安堵の笑みを浮かべながら、彼の前に湯気の立つ飲み物を置いた。
「ありがとう、貂子さん」
「いいえ。そうしていらっしゃると、いつもの摩緒先生のようですわね」
 笑みを深めながら、どうぞと新聞を差し出してくる。摩緒が受け取ると、他の給仕に呼ばれて持ち場へ戻っていこうとした。その時になって、摩緒はようやく忘れていた用事を思い出した。
「貂子さん」
 呼び止め、鞄に入れていた処方薬を手渡す。今度は女給が礼を言う番だった。
「ありがとうございます。お二人も、ごゆっくりしていらしてくださいね。それでは」
「あっ、貂子さん」
 二度目の呼びかけは、少女が発したものだった。
「もしあの人が来たら、伝言、よろしくお願いします」
「ええ、間違いなく」
 女給は笑って頷いた。その背を見送った後に摩緒は少女に向き直り、
「あの人って?」
「摩緒の知り合い」
 そう、と新聞に手を伸ばしかけた。けれど不意に喉の渇きを覚え、目の前に置かれた温かい飲み物を選ぶことにする。
「これは何という茶だろう?」
「コーヒーですよ」
 乙弥が答える。香りを吸うと、彼はふうと湯気を吹いた。それでも熱そうなので、また吹いた。入念に冷ましたのち、白い縁にそっと口をつけた。小さくすすってみれば、あれほど冷ましたはずなのに、舌をやけどしそうなほど熱い。
「摩緒、それが猫舌っていうんだよ」
 窓辺の白い日だまりで、少女が快活に笑っていた。またしても猫という言葉を聞いたが、不思議と彼の頭が痛みを訴えることはなかった。


五.

 仲良く並んだ、二つの背中を見ていた。
 きっとまた、あの少女と式神が他愛もない話をしているのだろう。石油ランプの柔らかな灯りが彼女達の前でかすかに揺れる。まどろみから覚めやらぬ目には、その光すらも眩しい。彼はまだ夢見心地に薄目を開けたまま、今の自分にとってかけがえのない二人を見つめていた。
 かけがえのない二人──。
 その人達の顔を思い出そうとした瞬間、激しい頭痛に見舞われた。何か硬いものを上から落とされたような衝撃に、彼は思わず頭を押さえる。指の間からドクドクと血があふれてくるのがわかる。額へ流れた血が両目まで伝い落ちてきて、視界に黒いものが滴るのが見えた。
 ランプの灯火と思われたものは、今やより鮮烈な光となって彼の両目をつらぬいていた。それは夕日だった。黒い雨の降る中、二つの背中が人目を忍ぶように寄り添っている。固く結び交わされた手と手は、その二人が相愛の間柄であることの確固たる証しだった。
 バタバタと雨脚が強まる。恋人達は、日没を名残惜しんでいるのか、はたまた夜の到来を待ちわびているのか、ひしと抱き合ったまま、暮れなずむ空を見上げるばかり。望まれぬ恋路に迷い込んだ二つの背中を見つめながら、彼もまた、迷子のようにそこに取り残されていた。心には、拭い去りがたい感情があった。


 遠目にも、その姿は際立って見えた。住人として市街に溶け込んでいるようで、その何かが平凡な景色とは相容れない。そういう意味では、この果てしなく長い人生を浮草となって漂泊してきた彼と、あの弟弟子は、同じ穴のむじなと言えるだろう。
 震災から復興したばかりと見える小さな商店の前で、その背はふと歩みを止めた。そのまま一向に動き出そうとしないので、店先に並べられた商品のどれかに見入っているものと彼は推測する。近寄ってみるとしかしそれは見当違いで、弟弟子の目は奥の帳場に置かれた張子の招き猫へとひきつけられているようだった。
 彼が話しかけるより先に、弟弟子は気配を察して振り向いた。挨拶がわりにシルクハットのつばを指先でつまむ。
「朽縄だよ」
「朽縄さま」
「ミルクホールに寄ってみたら、おまえの話を聞いてね。とりあえず、様子を見に来たというわけさ」
 見舞いの花束を手渡すと、わざわざすみません、と相手が礼を言う。往来の真ん中で男が男に花を贈るという状況は一見すると異様らしく、方々から奇異なものを一瞥する視線が感じられた。目立つということになんら抵抗を覚えない彼は、弟弟子と連れ立って午下りの商店街を闊歩する。
「思ったより普通に過ごしてるじゃないか。記憶喪失だなんて言うから、もっと深刻かと思ってたけど」
「ご心配をおかけしました。乙弥のおかげで、不自由はしていません」
「それなら良かった。まあ、おまえの周りは何かと物騒だからね」
「──はい。万一の場合に備えて、これは肌身離さず持っているようにと言われました」
 その腰には因縁の太刀が差してあった。大正の世には似つかわしくない代物だ。案の定、それを巡って警察との間に一悶着があったという。
「呪いの刀だということで、どうにか乗り切りました」
「たかが刀一本に目くじら立てるなんて、警察も青いね」
 彼は笑った。
「まあ、しょうがないか。そこら中で斬り捨て御免だの仇討ちだの叫ばれるよりは、ずっと平和な世の中だし」
 ほんの五十年前までは、刀などとりわけ珍しいものでもなかった。今となっては、その時代を記憶している人間の方が希少なのかもしれないが。
 維新回天、天下泰平、戦国の乱世。いつの世も刀が新時代を切り開いてきた。しかし弟弟子の帯びる刀は、新時代などには見向きもしないだろう。遠い過去に滅びたはずのものにのみ、それは永遠の忠誠を尽くす。
「破軍星の太刀か。物騒なものが残ったな」
「……」
 幼さの消えた弟弟子の顔は、やはり別人のもののように見えた。
 刀と持ち主は、そうして拵えを変えながらも、今もなお彼の目の前に存在している。酸いも甘いも噛み分けた歳月を頭の中で遡るうち、いつしか彼と同行者は商店街の賑わいを離れ、どこへ続くとも知れない田地の砂利道を歩いていた。その一区画は黄色い花に一面覆われている。東京が江戸と呼ばれた頃には行灯に花の油が使われたものだが、石油ランプのあおりによってその灯りは吹き消されつつあった。春の陽気を一所に集めたような、古い時代の名残の花畑を弟弟子はじっと見ている。何かを思い出しつつあるのではないかと感じた彼は、しばらく様子を見ることにした。不意に花の何本かが揺れたかと思うと、黄色の中から白いものがぱっと飛び出してきた。驚いた弟弟子が横で一歩後ずさった。それは野良猫だった。赤ん坊のように鳴いて足元にすり寄ってくるのを、弟弟子はすっかり固まって見下ろしている。
「摩緒、おまえ、やっぱり猫に好かれるんだなあ」
「好かれているんでしょうか、これは……」
「じゃなきゃ寄ってこないだろ。撫でてやったら?」
 ためらいがちに、摩緒は腰を落とした。猫が彼の花束に小さな鼻先を近付けてくる。摩緒の手がまずは頭に触れ、次に首から背中にかけてのなだらかな曲線をそっと撫でてやる。猫は金の目を閉じてゴロゴロと喉を鳴らした。弟弟子が手を引っ込めても、まだ構ってもらおうとその膝に頬を擦りつける。ならばと横から彼が手を出してみると、飼いならされたように大人しかったはずの猫は、全身の毛を逆立てて威嚇してきた。
「あーあ、振られた」
 野生の中にひらりと帰っていくのを見送る。摩緒は少年のような丸い目で花畑を見ていた。猫との対面で、欠落していた何かがその頭の中に戻ってきたのではないかと彼は考えた。すると摩緒は立ち上がり、花畑よりもさらに遠くに目を凝らしはじめた。黄色い花々の向こうから、弟弟子の名を呼ぶ声がした。摩緒が手を振り、彼方でその声の主も手を振り返している。
「迎えが来たみたいじゃないか」
 ええ、と弟弟子は言った。春風を受けた菜の花が、畑一面に黄色く波打っている。その横顔がいつになく生き生きとして見え、気が付けば彼はこんなことを口走っていた。
「忘れた方が、気楽なこともあるよな」
 黄色い波の中に様々な記憶がひらめいては消えていった。美しいものだけを連れて行けるのなら幸せかもしれない。「でも」──と彼は隣へ視線を向ける。
「おまえがいつまでも無防備なままでいると、それだけあいつらに付け入る隙を与えてしまう。別におまえの肩を持つわけじゃないが、みすみす寝首を掻かれるようじゃ、僕の寝覚めが悪いんでね。一応忠告はしておくよ」
「──はい」
 弟弟子は美しい世界に目を閉じて、静かに頷いた。まるで物分かりの良い子供のようだった。
「ありがとうございます。華紋さま」
「うん。早く行ってやりなさい。女性をあまり待たせるものではないよ」
 送り出してから、彼は踵を返した。そして式神を呼び出そうとした時、何か拭い去れない違和感を覚えて振り返るが、弟弟子はすでに菜の花畑の案山子かかしのように遠く小さい姿となっていた。
 

六.

「なんだか、楽しそうだね」
 同じ言葉を日に二度、別の人から聞かされることになるとは思わなかった。
 一度目は、出がけに祖父が口にした。浮かれているという自覚がなかったので、彼女は肯定でも否定でもない曖昧な返事をした。年頃の孫娘にも鼻歌をうたうほど心待ちにすることの一つや二つ、あって然るべきだと思ったのかもしれない。祖父は深く追究することもなく、じゃあ気を付けて行っておいでと、いつもの優しい微笑みで彼女を送り出したのだった。
 そして今、隣を歩く陰陽師が祖父とまったく同じことを言った。言葉は同じでも、相手と状況が違えば反応もまた変わってくる。終始にこにこしていた彼女は急にばつが悪くなって、さっと顔をそむけた。
「べっ、別に楽しんでなんかないよ。遊びに行くわけでもないのに」
「そうかな。今さっきまで、ずっと笑っていたから」
「それは……。その、今日はすごく天気がいいな、と思っただけ」
「天気? ──ああ、確かに」
 彼は手庇のかげから白い日の照る空を見上げて、納得したように頷いた。
「うん。本当に、気持ちのいい天気だね」
 見慣れたはずの横顔の、温かくほころんだその口元。彼女の唇にも、自然とまた抑制していた笑みがにじみ出てくる。
 この数日間は、驚きの連続だった。
 確かに摩緒自身でありながら、彼女の知る摩緒ではないその人。普段の彼らしからぬ顔をいくつも見た。──怪我の功名、と言うのはあまりにも不謹慎かもしれない。けれど、いつも二歩も三歩も先を行くその背を追うのに必死な彼女にとって、今この瞬間ほど彼の隣に立っているという実感を得たことはなかった。それは胸をくすぐられるような、奇妙にむずがゆい感覚を伴っていた。
「摩緒が元気そうで、良かった」
「怪我のことかな?」
「それもだけど」
 ──摩緒が今、笑ってるから。
 民家の垣根越しに、ゴム鞠をついて遊ぶ子供達の笑い声が聞こえてくる。摩緒の視線がそちらへ向いたのを幸いに、彼女は話題をボール遊びへ切り替えることにした。
 乙弥が言うには、彼の主人は徐々に本来の自分を取り戻しつつあるようだった。
 記憶喪失の状態が長く続くことは望ましくない。殊に彼のように過去のさまざまな因縁にしばられて生きている人間にとっては、無知であることが命取りとさえなりうる。遠からず彼がすべてを思い出すだろうことは、初めから分かり切っていたことだった。
 何より摩緒は、自分の過去に責任を感じている。だからたとえ身を切るようにつらい記憶であったとしても、取り戻すことでむしろより多くのものを失ってしまうような思い出だとしても、彼が記憶喪失という不運に乗じてそのいっさいを脳裏から放棄し、気楽に生きるなどという選択ができるような性質でないことは、彼女も十分過ぎるほどよく知っていた。
「でも蹴鞠は──」
 言いさして摩緒はちらと首を斜め後方へ傾けた。彼女の肩に手を置いて舗道の端へよせた直後、制帽をかぶった学生の漕ぐ自転車の車輪に触れるか触れないかというところで、紫の外套の裾がはためくのが彼女の目に映った。彼女が息を詰める真横で、彼は遠ざかる自転車を見送っている。
「速いね。急いでいるのかな」
 そして何事もなかったかのように、彼女の肩から手を離すのだった。
 ひょっとすると彼女が心浮かれているこの瞬間も、その人にとってはままごとの一瞬に過ぎないのかもしれなかった。彼はもうとっくにその頭の中にこれまで生きてきた九百年という年月を取り戻していて、まだ何も知らない少年に接するかのような彼女の親近さを、心は何歩も離れたところから、あの達観した目を通じて見ているのかもしれなかった。
 彼女はその手が触れた肩に、そっと自分の手を重ねる。
 ──たとえすぐにまた元通りになるとしても。まだ名前を呼ばれないうちは、誰よりも側にいたかった。真新しいものや、まだ見ぬ未来に目を輝かすその人を見ていたい。今しか咲かない花を大事に摘んで握りしめていたい。
 決して自分から教えることはできない。でも心の奥底では、いつか知ってほしいと願っていた。天気の良い日に誰かと並んで歩く──あるいは誰かの隣でそっと笑っている。ただそれだけのことで、彼という人は誰かの心をこんなにも温かいもので満たすことができる、そんな存在なのだということを。

 その庭では、塀を越すほどの桜の木が見頃を迎えようとしていた。文久の年に植えられたもので、かつて旗本家の上屋敷だったというその古家もまた、同じ時代にこの地に杭を下ろしている。
「震災でどうにか持ちこたえたのはいいが、何しろ明治以前の家ですからね。あちこちがたが来てしまいましたよ」
 家主が苦笑する。それでも先祖から引き継いだ屋敷には愛着があり、できることなら長く住んでいたいので、是非とも家内の厄除けと火伏せを依頼したいとのことだった。事情を聴かされた摩緒は、まず始めに屋敷の案内を頼んだ。家中に貼られている古くなった護符をはがして回ることが、最初の仕事だった。
「立派なお屋敷ですね」
 彼は当たり障りのない感想を口にしたが、依頼主は満更でもなさそうな顔をした。
「そうでしょうか。娘などは、こんな古い木造家は早いこと取り壊して、巷で流行りの洋風な屋敷を建ててほしいと申しておりますがね……。先生のようなお若い方にそう言っていただけると、まだまだこの家も捨てたものじゃあないと思われてきますよ」
 その時、縁側からひょっこりと白い顔がのぞいた。束髪に赤い縮緬のリボンをかけた着物姿の少女が、細目でじっと家主をにらみつける。
「あら、お父さま。まるで私が聞き分けのない駄々っ子みたいなおっしゃり様ね」
「──これ、これ。なんだね、そんなところで聞き耳を立てているなんて」
「居ないと思って私の悪態をついていらっしゃるんだもの。聞きたくなくたって聞こえてきてしまうわ」
「いやいや、悪態などと……。私がいつそんなひどいことを言ったのだね?」
 旧旗本家の威風はどこへやら、愛娘からの追及に依頼主はしどろもどろになっている。同年代と思われる令嬢の、日本人形が生きて動くようなその姿に彼女がぼんやり目を奪われていると、
「──行っておいで。話し相手になってやりなさい」
 後ろからささやく声が聞こえてきた。
 無秩序な自転車から守ってくれた時と同じ肩の上にまたその手を置いて、彼女が振り返った時にはもう、依頼者の方にその顔を向けている。娘のご機嫌取りに時間を費やそうとする家主に、次の部屋への案内をやんわりとうながしているところだった。恨めしいような、もどかしいような気持ちを押しとどめて、彼女は言われたとおりに縁側の令嬢へ向き直る。
「あの、すみません」
 自分に話しかけてきたのだと気付いた令嬢が、摩緒にうながされて廊下へ出て行った父親から、彼女へ視線をうつしてきた。
「あなたも祈祷師の方?」
「いえ、違います。私はただの付き添いで……普通の学生です」
「あら。じゃ、あなたも女学に通っていらっしゃるの?」
 いえ、女子校じゃなく共学です、と訂正しかける彼女だったが、令嬢の態度が一転して打ち解けたものに変わったので、話を合わせておくことにした。すると令嬢は縁側の特等席にこころよく彼女を招待した。それはちょうど庭の桜の木がよく見える位置だった。
「きれいですね」
「そうかしら?」
 賛辞のつもりだったが、相手の反応は淡泊なものだった。
「もしこの庭を好きにできるのなら、私、ここに洋花を沢山植えてみたいわ。ダリアにヒヤシンスにコスモス……。ポプラの木もね。桜はもう見飽きてしまったもの」
 令嬢は彼女を見て微笑んだ。
「あなたのその髪、とってもモダンね。素敵だわ」
「そうですか?」
「私のお友達もみんな短く切っているわ。私だけ置いてけぼりよ」
 耳の上あたりの髪を手でおさえながら、ふう、と令嬢が憂鬱の溜息をこぼす。
「お父さまはあんな風に江戸趣味を大切になさるけど、私には分からない。周りはみんな素敵な洋館に住んでいるんですもの。私だけがいつまでもこんな武家屋敷暮らしよ。小言のひとつやふたつ、言いたくもなってしまう」
 あなたのおうちは、と聞かれて、彼女は祖父と暮らす実家を脳裏に思い浮かべてみた。
「私の家も、他のお宅と比べたらちょっと古いです。だから遊びに来る友達には、レトロって言われるけど……。そういえば、それが嫌だって思ったことはないかもしれないです」
「あら、どうして?」
 令嬢が小首を傾げた。彼女の頭の中に、同級生の言葉がよみがえってくる。
「私の部屋、レトロでかわいいって言ってくれる人もいました。そう言われてみたら、私、あの家が結構好きだなって思って。──大好きなおじいちゃんとの思い出もいっぱいつまった家だし」
「思い出……」
 令嬢がそうつぶやいた時、塀を越えてきた一陣の風が、二人の膝元へ無数の桜の花びらを吹き散らした。不思議と音のしない風だった。彼女はふと、令嬢の傍に裁縫道具が並べられているのをみとめる。
「縫い物の途中ですか?」
 令嬢は心あらずの様子でそこに座っていたが、彼女に顔を覗き込まれると、冷水を浴びたようにはっとして何度か瞬きをした。
「──ああ。これは裁縫の課題で、お細工物を縫っていたところなの」
 風に飛ばされないよう、裁縫箱の下にはさんでいた型紙と縮緬の切れ端を手渡してくる。
「今日までに終わらせなくちゃいけないの。あなた手伝ってくださる?」
「えっ?」
 彼女の頬がぴくりとひきつった。裁縫には、まったく自信がなかった。
「その、えっと、下手で良ければ……」
「冗談よ。本当はもうほとんど仕上がっているの」
 しどろもどろになる彼女に、令嬢がくすくすと笑いながら、隠していた自作品を披露した。それは桜の花をかたどった、薬玉くすだまの縮緬細工だった。あとひとつ、花を縫い足せば完成するという。
 彼女は型紙通りに縮緬を切るという仕事を任された。針仕事は苦手でも、これならどうにかなりそうだった。
「お母さまから教わった、布を切る時のおまじないがあるのよ」
 彼女がはさみを手に取ると、隣で器用に針を動かしながら、令嬢が伸びやかな声でそのまじないを唱えた。
『朝ひめの、教えはじめしからころも、断つたびごとによろこびぞます』
 まじないの合間に、ちょうど鋏で縮緬を断つ音が区切りよく聞こえる。彼女が切ったそばから、令嬢はその切れ端を受け取り、同じやりとりが五回なされたのち、あっという間に一輪の小さな花を縫い上げていった。薬玉の頭につけた赤い紐を中指に通して、出来栄えを確かめるように目線の高さへ持ち上げてみせる。するとつまみ細工の花びらが房となって風に揺れ、房の先に縫いつけられた小さな鈴がチリン、チリンと鳴った。
「うわあ……! 売り物みたいにきれいですねっ」
 令嬢の手軸を、彼女は目をかがやせて称賛した。くすぐったいような顔をして令嬢が微笑む。
「そうかしら。裁縫の先生は、優良をくださるかしら?」
「もらえますよ、きっと!」
「そうしたら、きっとお父さまもお喜びになるわね。一度くらいは良い娘になりたいものだわ。お父さまは優しくて、いつもつい我儘ばかり言って困らせてしまうから……」
 そう言って客間を振り返るのにならえば、いつの間にか令嬢の父親と、儀式用の装束に着替えた摩緒がそこに立っている。淡い桜の花びらが、縁側の板敷から畳の上のその足元にまで吹き寄せられていた。
 飼い慣らされた猫のように、彼女は自然とその人へ引き寄せられていく。──けれど近づけば近づくほど、彼の瞳はより遠くにあるものを映し出そうとした。縁側を見ているのでもなければ、庭の桜の木をながめているのでもなかった。覗きこんだ望遠鏡から目を離せずにいるその様子に、彼女は「摩緒」と、強く呼びかけずにはいられなくなった。
 屋敷内のどこかで、報時鐘が鳴る。
 待ちぼうけを食う彼女の顔に、陰陽師の視線がゆっくりと巻き戻されてくる。
「どうしたの。もう、全部終わったの?」
「──うん。儀式は、ひと通り済んだ。これから火伏せの札を貼るから、ちょっと手伝いなさい」
 そう言って何事もなかったかのように、墨の匂いも新しい護符を数枚、彼女に手渡ししてくる。
 縁側を振り返ると、依頼主が背を向けて軒下にたたずんでいた。そこについ今し方まであったはずの令嬢の姿が忽然と消えている。宿題を終えて部屋へ戻ったのかもしれない。置いたままの裁縫道具に、二、三枚の花びらがはりついては、風でどこかへ吹き飛ばされていった。
 彼女は、摩緒についていくつかの座敷や台所を回った。広い屋敷だが、どこを歩いても不思議と人気がなく、薄く埃をかぶった廊下はしんと静まり返っている。最後にたどり着いた仏間には、線香の煙がゆったりとただよっていた。摩緒が仏壇の前に座り、位牌に向けて手を合わせるのに彼女もならう。
「これ、あの辺りに貼ればいいんだよね?」
 札を貼る場所を学習してきたので、ここでは彼女がその役目を引き受けることにした。踏み台につま先立ちになり、摩緒が刷毛で裏面に糊を塗った護符を、柱にていねいに押さえつける。そうしていると、鴨居にかけられた遺影の数々が自然と目についた。古い遺影は写真ではなく白黒の肖像画だった。なんだか怖いなと思いながら一つ一つたどっていくうちに、最後の遺影と目が合った。
「えっ──」
 彼女の心臓が、どくりといやな音を立てる。
 それはまぎれもなく、あの人形のような令嬢の顔だった。
 そんなわけがない、と彼女は大きくかぶりを振る。
 動揺は震えとなって足の先にまで伝わり、小さな踏み台ではその全身を支えきれなくなった。
「──危ない!」
 畳の上に横ざまに倒れた彼女へ、摩緒が血相を変えて駆け寄ってきた。すぐに起き上がれる程度ではあったので、彼女は「大丈夫」と言ったけれど、倒れた時に下にした方の半身がひりひりとした。それでも長袖に覆われた腕はまだましな方で、短いジーンズから出ていた脚は畳ですりむけてしまった。
「痛いだろうね。少しだけ我慢しなさい」
 摩緒は鞄を開けると、中から消毒液と包帯を取り出して手早く処置をほどこした。液が傷にひどく沁みたので、彼女は涙目になりながら我慢しなければならなかったが、それよりももっと気がかりなことがあった。
「ねえ、見た?」
「何を?」
「あの遺影……」
 ああ、と彼は言ったきりだった。彼女も口をつぐみ、包帯の巻かれていく脚からあの鴨居へとそっと視線をうつす。真新しい遺影は今にも彼女に微笑みかけてくるかのようで、なんだか白昼夢を見ているような気がした。
「帰ろう」
 摩緒は彼女の肩に自分の外套をかけてやり、その手を取った。それもまだ夢の続きの出来事のようで、彼女はぼんやりとしながら頷いた。手を引かれて薄暗い廊下をあるいていく。どこかでまた、時計が鳴り出した。
 客間を通りかかる時、依頼主がまだあの縁側に立っているのが見えた。摩緒は声をかけることはせず、その背中に頭を下げて挨拶するにとどめた。彼女は令嬢の姿を探したけれど、ついぞ見つけられないまま、彼に手を引かれていった。
 花びらが冷たい廊下にまで流れてくる。
 縁側から、チリン、と小さな鈴の音が聞こえたような気がした。

 自分の足で歩けると彼女は言ったが、無理をさせるわけにはいかないからと相手もまた退かなかった。
 その結果、怪我人は彼の背中におぶわれて帰路につくことになった。会話がとぎれるとなにやら気恥ずかしいので、いつになく彼女の口数は増えた。あの令嬢とかわしたやりとりも、話題に上った。
「それで、おまじないを教えてもらったの。朝ひめがなんとか、っていうのだったと思うんだけど……」
「それは物裁ものたちのまじないだね」
 摩緒が言った。
「まじないといえば、腫れ物に効くものもあるんだよ」
「へえー、どんなの?」
『朝日さす、夕日かがやくからゆむぎ、よそへちらすでここで枯らさん』
「朝日……夕日……。えっと、もう一回言って?」
 一度では覚えきれなかった彼女は頭を前に乗り出して、もっとよく聞こうとする。摩緒は彼女が復唱できるように、ゆっくりと区切りよく言い直した。
『朝日さす』
「朝日さす」
『夕日かがやく花畑』
「夕日かがやく花畑」
『なのかののちもとわに枯らさじ』
「なのかののちも……って、なんかさっきのと違くない?」
 彼は、それは思い違いだと言った。じゃあもう一回言ってみてと彼女はまたねだってみたけれど、覚えなくても一度唱えれば充分だからと言って、却下されてしまった。
 夕日さす商店街に戻ってきた時、彼女は借りた外套を返そうとした。すると摩緒は彼女をゲートの前で待たせておいて、自分はいったん診療所へ引き返した。暮れなずむ空を見上げながら、彼女が予想したことは的中する。戻ってきた彼が手にしているものは、いつか彼女が貸してやったあの上着だった。
「そっか」
 という一言が、その口からこぼれ落ちた。
 彼は彼女の上着を、彼女は彼の外套を元の持ち主に返すことにした。上着のほかに、摩緒は消毒液と包帯も彼女の手に握らせた。怪我を負わせたことに責任を感じているらしい。
「私の怪我が治った代わりに、厄をうつしてしまったような気がする」
「そんなわけないじゃん。大げさだよ」
 つい笑ってしまう彼女に、彼も少し目を細めた。
「帰ったら、よく休みなさい」
「摩緒もね」
「うん」
「包帯が取れたら、また来るね」
「そうだね。──ありがとう、菜花」
 握りしめてくる手は温かく、その声もいつになく優しく聞こえる。思わず「おかえり」と言って脇目もふらずにその人を抱きしめたくなるのを、彼女はどうにかこらえた。


七.

 訪ねていこうと予定していた相手が、折良く向こうから診療所へやって来たので、彼の主にとっては好都合だった。
「もう元通りになったみてえだな」
「おかげさまで。ご心配をおかけしました」
「まあ、心配してたわけじゃねえけどな。おまえがいつまでもあのままだったら、万が一不知火と白眉の野郎が襲ってきた時に、色々面倒だと思っただけだ」
 火の術者は、やれやれと小上がりに腰を下ろす。その隣には先客がおり、脇目もふらずに自分の手仕事に集中していた。
「で、おまえはなにやってんだ?」
 横から覗き込まれていることに気づくと、菜花はあわててそれを背後に隠そうとした。だが相手の方が一足早く、さっと取り上げてしまう。
「返して、百火!」
 彼女が取り返そうとするのを、火の兄弟子は背を向けて阻止した。雑巾をつまむような仕草で、目線の高さまでかかげてみたそれは、作り手の頭の中では細工物になる予定のものらしかった。
「なんだこれ、へったくそだな。あちこちほつれてるじゃねえか」
「い……いいのっ。こういうのは、まずやってみるっていう気持ちが大事なのっ」
「おまえ、本っ当に何をやらせても鈍くさいんだなあ」
 呆れ顔のその人は、すでに興味を失ったものを、ポーンと後ろへほうってやった。両腕を伸ばして豪快な体勢で受けとめた菜花は、あやうく座敷から転げ落ちそうになる。大事につくっているものを雑に扱う不届き者に、口をとがらせて文句を言った。非難される側には、当然のごとく反省の色は見られない。
「乙弥」
 一連の茶番を惰性で傍観していた乙弥は、主の呼びかけに振り返る。机の上に置かれていたものが、その手から式神の手へとゆだねられた。ちょうど彼の顔ほどの大きさの木箱だった。使者を仰せつかり、細心の注意をはらいながら受け取り手の元へと運んでいく。
「百火さま。これを」
「ん?」
 得体の知れない木箱を差し出された百火は、怪訝な顔をした。箱と自分の顔とを見比べられながら、主が言い添える。
「先日、助けていただいたお礼です」
「──礼だあ? なんだよ、改まって」
「いえ。貸し借りのない方が、お互いに気楽かと思いましたので」
 主がふと表情を和らげたのを、乙弥は見て取った。助ける時には貸しだと言っておきながら、そんなことなどすっかり忘れている様子の兄弟子に、こころよいものを感じたようだった。
「開けたら発動する呪い、とかじゃねえだろうな?」
「そんなわけないじゃんっ」
 怒ったように否定するのは、彼女だった。
「本当だろうな。なーんか『水』の気を感じるんだが……」
 火の術者は念入りに箱の蓋を開け、中身を覗き込んだ。「んん?」とその眉根が寄り、いよいよ手に取ってじっと確かめたのち、「あっ!」と驚きに両目を見開いた。
「──これって、あれか?」
「なに、なに? あれって」
 好奇心をくすぐられたらしい菜花が、説明を欲するように乙弥と彼の主を交互に見た。
「『水』を封じる土器だよ」
 と主がこたえた。
 主から兄弟子への贈り物は、二枚の古い皿を貝のように合わせて赤い紐で結わえたものだった。皿の内側にはそれぞれ「火」の字が書かれ、それは無数の「封」の字で囲まれている。本来は水に沈めて「火」を封じるための呪物だが、長い年月を経たものは、使いようによっては逆に「水」の気を抑制することができるのだという。
 貴重なものを手にする火の術者は、笑いがこらえきれなかった。
「すげえな、今の時代にまだ残ってるのか。どこで手に入れた?」
「先日、依頼を受けて伺ったあるお宅から譲り受けたものです。火伏せの儀式を行った時、井戸の底から出てきました。とても古いもののようですから、百火さまにお役立ていただけるかと」
「ああ。見た感じ、相当『水』の気が溜まってるからな。不知火のやつが卑怯な手で襲ってきても、これで返り討ちにしてやるぜ」
「わあー、頼もしい」
 彼女がとりあえずという様子で、パチパチと手をたたいた。火の兄弟子は、その淡泊さに対して大いに不満をぶつけた。細工物の意趣返しのように、彼女はそれを右から左へ聞き流している。
 式神は、机に向かう主がふとこらえきれずに笑うのを見た。ガラス窓から差し込む柔らかな日光に照らされて、その横顔があまりにもあどけなく見えたので、思わず両目をこすった。
 主は見られていることに気づき、机の引き出しをそっと開けた。そして小さな手に、いつかもらった色鮮やかな飴玉をひとつ握らせる。まるでとっておきのお裾分けのように。食べるでもなくじっと見つめていると、外からいきなり大きな太鼓の音がした。かねも加わり、にぎやかな調べが奏でられる。──チンチキドンドン、チンチキドンドン。
「またあの音!」
 もうこりごりというように、胸を押さえて彼女がさけんだ。
「あれって何? すごくびっくりするんだけどっ」
「チンドン屋だよ」
 と、落ち着き払った声がこたえる。
午砲ドンの時も、初めは驚かされたけどね。──慣れてしまえば、どうということはないよ」
 同意を求めるように、主が式神を見た。そうだったかもしれない、と記憶をたどる間にも、時計の針は淡々と新たな時をきざんでゆく。



令和三年六月十三日



Boule de Neige