表通りに面した民家の門から、一人の少女がひょっこりと顔をのぞかせた。破風の陰から暗雲たちこめる雨空を見上げると、糸のように降りしきる雨によってぬかるんだ街路へと視線を向ける。途端に少女はしかめっ面になり、背後にいるらしい誰かに声をかけた。
「すごい雨だよ。道がぐちゃぐちゃ」
「そうか。では、暗くなる前に帰らなくては」
 可憐な顔にますます嫌気の気配がさしてきた。
「──家の人の言う通り、雨が落ち着くまで待たせてもらったら?」
「いや」
 陰陽師は紫色の蛇の目傘を開きながら、少女の提案をきっぱりとはねつける。
「乙弥に留守を任せてある。それに、こういう大雨の日こそ、急患が入ってくることが多いものだからね」
 そう言われては仕方がない。菜花は憂鬱そうに、今一度水溜まりだらけの目抜き通りを見やってから、くるりと依頼主の家の表戸へ向き直った。その行動の意図を先読みしていたらしい摩緒が、彼女の肩に手を添えた。
「傘はひとつで大丈夫だよ」
「えっ? でも……」
「ぬかるみで足が汚れてしまうといけない。私はおまえを背負うから、おまえが傘を差しなさい」
 そう言って、彼は開いた傘を彼女に手渡し、門下の敷石に片膝をつく。菜花は予想外の申し出に、傘の柄を握りしめたままぼんやりとその背を見下ろした。
「菜花」
 促すような、それでいて存外優しい呼び声にハッとして、少女は顔を赤らめた。首をちぎれんばかりに横へ振りながら、一歩後ずさる。
「い、いいよっ。自分で歩くから」
「でも、傘はひとつしかないよ。それに、足場が悪いのは嫌だろう? 泥まみれになってしまうよ」
 菜花はぐっと言葉に詰まる。彼の言うことはいちいち理にかなっているのだった。
「おいで。暗くなる前に、早く帰ろう」
 その声に背中を押されて、彼女は遠慮がちにその肩へ手を置く。
 門の陰から一歩外へ出た途端、菜花が差し掛けている蛇の目に槍のような雨がザーッと降りかかってきた。傘の骨が軋まんばかりの大雨だった。まだ午後五時までは小一時間ほど猶予があるはずだったが、街燈なしには心もとなく思われるほど辺りの空気は暗く淀んでいる。往来の至るところに、人力車や自動車の轍に交じって、まるで落とし穴のように黒々と大きなぬかるみができていた。摩緒がそれらをうまくよけながらすたすたと足を運んでいくのを、菜花は申し訳半分嬉しさ半分の心持ちで、彼の肩越しにじっと見つめていた。
「摩緒。……重くない?」
 彼が長い脚でまたいだ水溜まりに、幾重もの水紋が広がっていくのが見えた。雨音にまぎれて、ふと笑う声がする。
「鞄よりは、少しだけ重いかな」
「……ちょっと。そこは、お世辞でも"全然軽いよ"とか言うものじゃない?」
「そうかな。少しくらい重い方が、私は安心できるけどね」
 菜花の傘がわずかに傾いだ。その拍子に蛇の目の縁からこぼれた雨の雫が、摩緒の目と鼻の先で、透き通った玉簾のようにはらはらと揺れていた。






Boule de Neige