1. 邂逅(2013/1/14)
部屋のカーテンを開けてみると、空は見事に晴れ渡っていた。
すがすがしい始まりの朝。
太陽が雲のあいだからまぶしい朝日を放っている。その恵みを受けて、眠りについた街はようやく目を覚ましつつあった。
千尋は机の上に置いてあるランドセルに、そっと触れた。
夏休みの間は使うことのなかったランドセル。ひっくり返すと、背中のクッションのところに、前の学校で仲良しだった友達からのメッセージが書かれてある。母親に見つかったら、ランドセルに落書きなんかして、と叱られかねないので、引っ越しの間中これを隠すのに気をもみっぱなしだった。
『千尋ちゃん、元気でね』
『またこんど遊びにきてね』
『千尋ちゃんのこと、わすれないよ』
最後のは、お別れカードと花束をくれた、一番仲良しだった「理砂ちゃん」からの寄せ書き。こざっぱりとしたショートカットの、運動が大好きな、誰よりも明るい子だった。いつか千尋の引っ越し先に遊びにいく、と言ってくれた。
──わすれないよ。
その言葉に息が詰まる。パジャマ越しに胸をおさえたとき、もやもやとした気分がなんなのかを、千尋は思い知った。
新しい学校に、行きたくなかった。
前の学校に戻りたかった。
あそこには確かな居場所があった。ずっと仲良しの友達がいた。五年生にもなって今更、一から全部やり直しだなんて、あまりにも酷な話だった。
千尋は泣きたくなったが、なんとかこらえた。転校そうそう泣きべそをかいていたりしたら、変な子だと思われる。両親からも、きっと呆れられる。
着替えを終えると、リビングにおりて、千尋はいつもより少し早めの朝食をとった。
緊張で胃がきりきりといたんだ。けれど嫌いなブロッコリーを残さずに食べた。それが千尋なりの意地だった。
母は「偉いじゃない!」と感心して手をたたき、父は読みかけの新聞から顔を上げた。
「そうか、千尋は今日から新しい学校かあ。いいなあ、あたらしい出会いがありそうで」
大人にはわかりっこない。
ごちそうさま、と千尋はうつむきがちに言った。
とちの木小学校。それが、千尋が新しく通うことになる学校。
荻野一家が引っ越してきた新興住宅街「グリーンヒルとちの木」からも、たくさんの児童達がこの学校に通っている。
五年生は三クラスあって、千尋はそのうちの二組に転入することになった。
担任は若くてきれいな、けれど男勝りなしゃべり方をする女の先生だった。
「あたいはイナリ ランコ。みんなからは『キツネ先生』とか『ラン先生』って呼ばれてんだ。よろしくな、千尋」
握手を求められて、千尋は緊張気味にそれに応じた。先生は形のいい赤い唇を引いてにっこりと笑った。どこかで見たような顔だと、ほんの一瞬千尋は思った。
「こわがらなくていいんだぜ。みんな、千尋が来るの楽しみにしてたんだからな」
先生の言う通り、五年二組の児童達は千尋をあたたかく歓迎してくれた。転校生が来るのがよほどめずらしいのか、千尋が自己紹介するときには、他のクラスからも野次馬がやってくるほどだった。
どちらかというと引っ込み思案なたちの千尋は、好奇の視線にさらされてすっかりあがってしまった。席に座ってからも、注目されていてどうも落ち着かない。
そわそわしながらうつむく千尋。すると隣から、呼ぶ声がした。
日光がまぶしくて千尋は顔をしかめる。
左隣は日当たりのいい窓際の席なのだ。
「荻野さん」
もう一度、声が千尋を呼ぶ。
千尋は何度かまばたきした。
強い光に目がなれると、入道雲が立ちのぼる青空が見えた。
それを背景にして、ひとりの少年が彼女をじっと見つめていた。
「はじめまして」
透き通るような声で、少年はあいさつしてきた。
「──はじめまして」
千尋は緊張しながら返した。その少年は、人形のように端整な顔立ちをしていたのだ。
「隣にきてくれてうれしいよ」
笑いながら、少年がほんの少し首を傾げた。肩口で切りそろえた髪が揺れる。いまどき珍しいおかっぱ頭だ。
きれいな男の子だ、と千尋は思った。
「よかったら、友達になってもらえませんか」
「え?」
「僕と」
「う、うん──」
「じゃあ、友情のしるしに握手しませんか」
少年が白い手を差し出してきた。
千尋は、少しためらってからその手を握った。
けれど恥ずかしくなって、すぐに離そうとした。
すると、少年の手が力をこめて握り返してきた。
「荻野さんの手、あたたかいね。いつまでもこうしていたいくらいだ」
少年が感じ入るように言う。
男の子とこんなふうに手を握っているなんて。千尋はむずがゆくて、握られた手を引きぬいた。
驚きも残念がりもせずに、少年は前に向き直った。背筋は定規をあてたようにまっすぐで、机の上はきれいに片づいている。几帳面な性格がうかがえた。
その涼しげな横顔に、つい目を奪われてしまいそうになる。
握られた手を、千尋は膝の上でひらいたりとじたりする。
何かで気をまぎらわしていないと心が落ち着かない。
一時間目開始のチャイムが、蝉の鳴き声にまじって聞こえた。