3. 神隠しの森(2013/1/26)


 十一月、五年生は野外活動がある。
 千尋の前の学校は、都会にあったので、学年総出で大型バスに乗って遠出したらしい。
 けれどこのとちの木小学校は、もともと自然に囲まれていて、野外活動に適したスポットが身近にたくさんある。
 千尋たちが行くことになったのは、学校からすぐ近くの森だった。
 千尋がいつも部屋の窓から見下ろしている、あの森だ。今は紅葉が美しく色づいていて、ちょうど見頃の時期だった。
 四人一組の班になって、森の中を散策する。景色の写生をしたり、めずらしい生き物を見つけたり。自分たちの好きなように行動できる。夕方になったら、今年できたばかりだという新しいコテージに集まって、夕飯のカレーを作る。
 紅葉をながめながらみんなで食べるカレーは、どんなにおいしいだろう。
 リュックを背負い歩く千尋の足どりは軽い。
「荻野さん、すごく楽しそうだね」
 前を歩くハヤミが振り返った。彼は千尋の班の班長だ。
「そういうハヤミくんも楽しそうだよ。ね、スイちゃん!」
 千尋は隣のヒスイと顔を見合わせて笑った。ヒスイは千尋の後ろの席で、一緒に準備をするうちに仲良しになった。
『もっとまわりをよく見てごらん。荻野さんと友達になりたい人、僕はいっぱいいると思うけどな』
 ハヤミにそう言われてから、千尋は少しずつ周囲に心を開くようになった。自分のからに閉じこもるのをやめたのだ。勇気を出してみてから、クラスメートとすっかり打ち解けるまで、そう時間はかからなかった。
 前を歩くハヤミの後ろ姿を、千尋は見つめる。
 肩で切りそろえられた髪が、歩くたびにさらさらと揺れている。
 彼はときに顔を上げて、空を見る。
 そのたびに千尋の視線も上へ引き寄せられる。
 透き通るような空には、うっすらと有明の月が浮かんでいた。
 ──ハヤミ コハク。
 クラスで一番頭が良くて、スポーツもできる。何をやらせてもそつなくこなしてしまう。そろばんや習字は先生をも感心させ、手本にされるほどの腕前。クラスメートからの人望があつく、学級委員もやっている。
 物静かで何を考えているか分からないようなところがある。けれど、思いやりのある優しい人だということを、千尋はよく知っている。

「千尋ちゃん」
 班行動を始めてすぐに、ヒスイが千尋の脇腹を小突いてきた。
「なに? スイちゃん」
 ヒスイはにやにや笑いながら、
「ハヤミくんのこと、どう思ってる?」
「え?」
「ほら。ハヤミくんって、千尋ちゃんのこと好きみたいでしょ」
「ええっ?」
 千尋は持っていたペットボトルを落としてしまった。物音に気付いたハヤミと、もう一人の班のメンバーのハシモトが振り返る。
「どうしたの?」
「な、なんでもない」
 あわてて千尋はペットボトルを拾い上げた。その隣でヒスイは笑いをかみ殺している。
「……スイちゃん、勘違いだよ。ハヤミくんとわたし、ただの友達だよ?」
「でもハヤミくん、千尋ちゃんにはすごく優しいよね」
 ヒスイは大きな目をきらきらと輝かせた。
「私はお似合いだと思う。二人のこと」

 紅葉の見事な場所で、四人は落ち葉拾いをすることにした。
 後日、班ごとに発表があるので、拾った落ち葉で何か作ろうということになった。
 ビニール袋いっぱいに色とりどりの落ち葉をつめながら、千尋はハヤミととりとめもない話をした。ヒスイのせいで少し緊張しながらも。
「そういえば、さっきはアマカワさんと何を話していたの?」
 思い出したようにハヤミが聞いてくる。アマカワはヒスイの名字だ。
「べ、べつに何も」
 千尋の声が不自然にうわずった。虫食いのある葉っぱを拾い上げていたハヤミが、千尋の方を向いた。どこか楽しそうに目を細める。
「友達に隠しごと?」
「……友達でも、言えないことだってあるもん」
 スニーカーの紐をいじりながら、千尋ははぐらかす。
 あきらめきれないらしい。ハヤミがしゃがんだまま千尋の方に寄ってきた。
 千尋はますます落ち着かなくなる。
「友達にも言えないことって、どんなことだろうね?」
「……さあ?」
 千尋が視線を泳がせると、ハヤミはくすくすと笑った。

 担任の許可をもらって、四人は森のもう少し奥まで行ってみることにした。
 途中、同じクラスのタクミが班に加わった。どうやら単独行動をとるうちに、班のメンバーとはぐれてしまったらしい。
「勝手に歩き回るから、迷子になりかけるんだよ」
 ヒスイにからかわれて、タクミは口をとがらせた。
「森の奥に『何か』あるような気がしたんだよ」
「『何か』って?」
 反応したのはハヤミだった。歩きながら、タクミが首を傾げる。
「わかんない。ただ、『何かあるような気がする』ってだけだから」
「そう。──でもその感じ、僕もわかるような気がする」
 一瞬、ハヤミは遠い目をした。
 木々の合間からのぞく空に、飛行機雲が線を引いている。
 彼の視線がその雲に引き寄せられるのを、千尋は不思議な気持ちで見ていた。
 ──あの雲によく似た『何か』を、前にどこかで見たことがあるような気がする。
 あれは、一体なんだっただろう。
 千尋のポニーテールを結う髪留めが、きらりと光った。横目に入ったそれがまぶしかったのか、ハヤミがさらに目を細めた。
「ねえ、ハヤミくん」
 千尋はハヤミの手を引いた。ハヤミは立ち止まって、千尋を振り返った。
 風に乗って、色あざやかな落ち葉がはらはらと舞い落ちてくる。
 他の三人は先に行ってしまった。
 けれど、ハヤミは千尋を急かしはしなかった。
「どうしてかな。やっぱりわたし、ハヤミくんとはじめて会った気がしないの」
「うん。──僕も同じだ」
 ハヤミは静かに頷いた。
「一目見たときから思っていたよ。どこかで、君と会ったことがあるって」
 ──どこかで。
 背後から突風が吹いた。あまりの強さに立っていられなくなり、二人は落ち葉の上になぎ倒される。
「千尋!」
 彼がすばやく身を起こして、かばうように風から千尋をさえぎる。
 千尋は目を見開いた。
 一瞬、風の吹いた方で人影を見たような気がしたのだ。
 けれどもう一度目を凝らしてみても、誰もいない。
「千尋、後ろを見てごらん──」
 いつのまにかハヤミに名前で呼ばれるようになったことに気付くよしもなく、千尋は振り返った。
 木々の間に、古ぼけた赤いトンネルがあった。その前には、ダルマのような形の石像が置かれていた。にんまりと笑った顔がなんとも不気味だった。まわりには草がぼうぼうと生い茂っている。
「──このトンネルって」
 胸騒ぎがする。千尋はトンネルに近寄ろうとした。けれどハヤミに手首を掴まれてとめられた。
 振り向くと、彼が首を横に振った。切羽詰まった眼差し。
「行ってはいけないよ」
「どうして?」
「あの先に行くと、帰ってこられなくなる」
 ハヤミはこめかみのあたりをおさえた。形のいい眉が、泣き出しそうにゆがむ。
 ぱっくりと口を開けたトンネルが、風を飲み込んでうなり声を上げた。吹き付ける風の強さに、千尋の足がよろける。まるでトンネルに呼び寄せられているかのようだった。そうはさせない、というようにハヤミは千尋の手を強く握り締めた。
「行かないで、千尋」
「ハヤミくん?」
「手を──」
 千尋は動揺した。──ハヤミの頬を、一筋の涙がつたい落ちている。
「離したくなかった。この手を」
 ハヤミが千尋の手を引き寄せた。勢いでぐらりとかたむいた身体を、包み込むように抱き締める。
 千尋の息が詰まりそうになる。
「ハヤミくん──?」
「……」
「コハク」
 名前で呼ばれて、彼は肩を揺らした。
「わたしは、どこにも行かないよ」
 コハクは安堵の溜息をついて、頷いた。
 身体を離して、ふたたび千尋の手を握る。
「……行こう、千尋」
 蚊のなくような声。千尋は頷くしかない。
 振り返ってみると、あのトンネルはもうどこにもなかった。

 はぐれてしまった三人とは、すぐに合流できた。
 コハクが千尋の手を離さずにいるのを見て、タクミは眉をひそめる。
「何かあったのか?」
 二人は顔を見合わせた。コハクが申し訳なさそうに苦笑して、千尋の手を離す。
「こうしないと、はぐれてしまいそうだったから」
 コハクが弁解する。タクミはそれでもまだ不満げだ。
「二人だけで奥の方まで行ってきただろ。ずるいぞ」
「ごめん、ごめん」
「で、何か見つけてきたのか?」
 一瞬、間があった。コハクはほほえみながら首を振った。
「いや、残念だけど何もなかったよ」
「嘘だろ」
 きっぱりとタクミは言い切る。
「あーあ。俺も行きたかったな」
 恨みがしい眼差しを向けるタクミ。コハクは困ったように笑うだけだった。