song of light



 嫌な夢を見ていた。その緊張と焦燥があまりにも馴染み深いものだったから、トーマスは始めそれが夢だと気づかなかった。とにかく現実ではないのだと分かっても安堵からは程遠い。
 夢でも現実でも同じだった。今まさに直面している事態が泣きたくなるほど怖かった。
 ここはビジルの地下迷宮に違いない。幼い頃に誤って入り込んでしまったことがある。一人ぼっちで泣きながら暗闇をさまよい歩き、やがて疲れ果ててその場にへたりこみ、永遠かとも思える時間が流れ、ようやく発見されたときにはトーマスは気を失っていたそうだ。その後も数日寝込むほどの恐ろしい体験だった。
 当然ながら父にもひどく叱られた。それでもいなくなったトーマスをエリッサが探しに来てくれたのだと教えられ、今度は嬉しくてまた泣いたのを覚えている。
 如何に好奇心旺盛な彼女といえども悪夢の中にまでは助けに来てくれないだろう。あのときは偶然ビジルに遊びに来ていただけ、運がよかっただけなのだ。助けの来ない暗闇に一人。幼い子供のように泣きたかったが、夢の中では涙が出なかった。

 まるで鉱山の奥深くのように暗くて息苦しい場所だ。周囲にはおびただしい数の蝋燭に火が灯されているが、ちっとも明るくないどころか影の揺らめきで不気味さが際立つだけだった。たくさんの人が取り囲んでこちらを見つめている。目を凝らして父親を探したが、居並ぶ人々の顔は黒く影になって分からなかった。
 遠く離れた高い場所に厳かな祭壇があり、どこからともなく光が射し込んでいる。この世で唯一の明るい場所に彼女がいた。そして歌が聞こえた。
 ……結婚の儀式だ! トーマスは無意識のまま暗い足元に這いつくばって闇の中から古びたロープを探り当てる。震えて言うことを聞かない指を叱咤し、結び目を確認した。
 彼女が聖歌を最後まで歌いきる間に神の呪縛を解かなければならない。その結び目をほどいた年数だけ彼女は神のもとを離れて自分の隣に居てくれる。あの明るい場所にいる人。強く気高く勇ましく、いつもトーマスを助け出してくれる人。
 光の聖歌とは違うその歌はなぜだかやけにテンポが速い。エリッサは歌が下手だから、長く他人に聞かれるのを避けるために急いで歌い終えたいのだ。トーマスも慌ててロープに取りかかるが、焦れば焦るほど新婦を束縛する結び目は強固になっていくようだった。
 早まる歌声、ほどけない結び目。彼女がここにいたくないと言っているみたいだ。俺のところには来たくないと。結婚などしたくないと。お前など一人ぼっちで永遠に泣いていればいい。闇のなかで、一人ぼっちで、永遠に……。
「い、やだ……いやだ。嫌だ!!」
 夢だというのに痛みが走る。結び目に引っかかって爪が剥がれていた。暗闇に目が慣れたのか、そんなことだけははっきりと見えるのだ。
 そして、歌が止まった。終わってしまった。まだ一つもほどいていないのに。

 茫然自失に陥ったトーマスはロープを離してしまった。ハッとして見上げるとエリッサが歌っていた祭壇には一条の光が射すだけで彼女の姿はなくなっている。
 彼女は、いつの間にかトーマスの隣に立っていた。意地悪を言ったあとのようにばつが悪そうな顔をして、はにかんだ。
「急に叫ぶから歌の続きを忘れちゃったよ」
 周りを取り囲んでいる何者かがいっせいに嫌な顔をするのが分かった。そうか、彼らは結婚させたくないのだ。エリッサを与えたくないのだろう。トーマスの頭は真っ白になった。
 この嫌な空気に気づいているのかいないのか、エリッサは彼女の父親によく似た朗らかな笑顔を見せると、地面に落ちたロープをさっと拾い上げる。
「指先を動かすと脳が活性化するらしい」
「えっ」
「歌を思い出せるだろう」
 トーマスの手を取ってロープを持たせ、自分は反対側を引っ掴んで彼女は再び歌い始めた。神に捧げる讃美歌を高らかに響かせる。自棄っぱちのような大声は相変わらず下手くそな旋律を紡ぎだし、彼女の声に呼応して蝋燭の炎が輝きを強めた。
 闇が晴れてゆく。こっちを見つめていた影たちの顔が明らかにされる。トーマスは目を見開いた。彼らの顔は、よく知るものだった。
 その光景に一瞥をくれるとエリッサは更なる大音声に乗せてロープをするすると解きはじめた。トーマスに対してあれほど頑なだった呪縛は彼女の指先に応えて素直にほどけていく。歌はもうすぐ終わりを迎えるけれど、彼女はあっという間に何十もの結び目を真っ直ぐにしてしまった。
「大丈夫だ。君は一人ぼっちじゃない」
 その声で目が覚めた。

「トーマス!」
 驚いて飛び起きた拍子に涙がぽろりと一滴こぼれる。顔のすぐ前にいたエリッサが目を見開いた。
「な……泣くことないのに」
「え、あ、なっ、泣いてない!」
 顔を真っ赤にして瞼を擦る。指にあたたかな水が触れたようなのは気のせいだ。幼い頃はしょっちゅうだったけれど、大人になった今エリッサに泣き顔を見られて呆れさせるのは嫌だった。
「夢を、見てたんだ。結婚の夢」
「私との? ……君が私をあまり好きじゃないのは知ってたけど、そんなに魘されるほどなら結婚しない方がよかったんじゃないか」
「そ、そうじゃなくて」
 魘されたのだろうか。確かにエリッサが来るまでは悪夢だった。
「結婚できないかと思った。すごく怖かった……」
 どうしてアヴァー人の風習なんて夢に見たのか不思議に思う。妻は夫のために歌を捧げ、夫は彼女の時間を神から購う、今は古く廃れた儀式だ。しかしトーマスはアンドラステ教を信仰しているため、結婚式はアマランシンの教会で誓いをたてたのだった。
「ふぅん。式のときは嫌だ嫌だってぐずってたくせに。いつ心変わりしたのかな? ま、心配しなくても私はここにいるよ、旦那さま」
「……うん」
 夢の余韻に怯える必要もない。言葉と口づけでエリッサはすでに己の妻になっていた。

 ようやっと心が落ち着き、トーマスは思い出した。アヴァーの結婚式の話はずっと昔、父から聞かされたのだ。まだ彼に恐怖を感じる知恵もないほど幼かった頃に。
 成長するごとに父親の心が分からなくなった。闇そのもののように得体の知れない彼を怖がるようになった。もっとよく知ろうと手を伸ばしてみるのさえ怖くて、父が自分を愛していないのではないかと疑い、それを確信に変えるのが嫌で、彼の視線に背を向けていたのだ。しかしエリッサが闇をはらって明らかにしてくれた。伯爵の影を照らし出し、レンドン・ハウの顔を見せてくれた。
 彼女の力強さが自分を支えてくれる。トーマスには彼女が必要だった。あの厄介な性格を好きになれるかと言われれば疑問が残るし、正直かなり苦手な女ではあるけれど、それでもなお、どうしてもエリッサが必要なのだ。
 彼女は隣にいて、必要なときに慰めも救いも与えてくれる。彼女がいれば闇の中でも平気だ。父を前にしても落ち着いていられるだろう。見ないふりしてきたその顔を、その心を、恐れずに覗き込むことができる。
 逃げ続けてきた父親の背中を追いかけて父の後継ぎとなる自分自身とさえ、向き合う勇気を持てるのだった。
「ずっとそばにいてほしい、エリッサ。お願いだ」
 彼女は夢とそっくり同じ自信に満ちた瞳を輝かせて、言われずともと笑った。



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