乙女の誓い



 ようやく部屋に帰る頃には酒と疲労による気だるさばかり感じていた。今夜の義務がまだ残っているが、疲れたままの勢いでなんとでもなるだろう。どうせあちらも何が必要で何が不要かを心得ているはずだから、場合によってはすぐに眠れるかもしれない。
 扉をくぐれば今夜から我が妻となった者がいる。名前は……なんだったか。客の歓待に追われて隣にいたはずの彼女の顔もろくに見ていなかった。話した記憶もない。今頃思い返せばこの一日、めでたい結婚の宴を彼女はどうやって過ごしていたのか?
 名前は、そうだ。エリッサ・クーズランド……いや、今日からはエリッサ・マク・ティアとなったのか。視界の端にちらつくプラチナブロンドだけは微かに覚えている。父親似か、母親似か。クーズランドの子といえば長男のファーガスの顔は記憶にあるが、あれが花嫁衣装を着て待っていたらさすがに私も打つ手がないな。
 いずれにしろあのハイエヴァーの狸親父が強引に売り込んできた自慢の娘だ。心優しい姫君にせよ凛々しい女戦士にせよ、ブライスに私を御しきる自信があるというなら面白い。奴の繰る人形をしっかり見てやろうではないかという気分で部屋に入った。
 ベッドに座って待っていたのは所在なげに窓の外を見つめるごく普通の女だった。……まあ、顔の造詣は普通とは言えない。月明かりのベールに包まれて美化されているにしても、昼の陽射しのもとでも変わらぬであろう美しい女性だ。実直そうな顔に陰謀を秘めているとはとても思えなかった。

 僅かながら衝撃を受けたのは事実だ。床で私を待っていた新妻は、控え目に見てもアノーラより年若い。ブライスにとっても苦渋の決断だったであろうとは想像に難くないが、それはどうでもいいことだ。相手がどれほど年下であろうと年上であろうと公爵家の者が結婚の契約を交わした時点でそこには政治的な意図しかないのだから。
 セリアのときとは全てが違う。意味のある婚姻ではない……そう言い聞かせながらも、相手がまだ責務など知らぬ子供にしか見えないというのは。……少々、厳しい。
「あっ」
 ようやく私に気づいたエリッサは髪を手櫛で撫で付けて座りなおし、何か言おうと口を開いたまま硬直した。かけるべき言葉を用意していなかったのは私も彼女も同じらしい。
「だ……、旦那様、ええと」
 どうすればいいのかと助けを求めるように見上げてくる。緊張しているようだが声には張りがあった。若く、瑞々しい。そのように呼ばれるとまるで金で女を買いつけるくだらない貴族にでもなったようだ。自分が急に老人になった気もする。
「名前で呼んでくれないか、せめて」
「はい……、ロゲイン」
 これと今夜をともにするのか? 悪趣味な冗談であればよかったのだが。結局なんの救いになる言葉もかけられず、ベッドの反対側へ並んで腰かけた。気まずい沈黙だけがその場を満たしている。

 妻を亡くして以来結婚の話は度々持ち上がったがすべて揉み消してきた。既に王家に次ぐ地位を得ている以上、貴族諸侯が権力の階をのぼる手伝いをする気は全く無かったし、妻のほかに誰かを愛そうという気持ちももちろん無かった。理想もそれを実現する力も今あるもので足りたのだ。
 しかし今回ばかりは地位を使っても手を煩わされずには済まなかった。諸々の面倒を鑑みて結婚を承諾するほかなかった。相手は同じ公爵位を持つブライス・クーズランドの娘だ。そのうえ成り上がり者のこちらと違い、カレンハドよりも古い由緒ある家系。断るのに割く労力を考えれば捧げ物のみ受け取ってブライスの思惑への対処に集中した方がいい。
 私の立場を第三者として見るなら彼の焦りも理解できないではなかった。この数年でより実際的なものになっているオーレイとの交流やケイランの不義……私と王との間に溝ができているのは事実だ。そして彼に同調するイーモンやブライスとも反発が大きくなっている。
 しかしまさか反逆を疑われるとは。この私がフェレルデンを裏切ると本気で思うのか。ケイランが気に入らない、オーレイが憎い、それだけで私が、全てを捧げて取り戻したこの国をただ感情のためだけに捨てると思っているのか。馬鹿馬鹿しい。
 私がフェレルデンを害するなどあり得ない話だ。もしこの溝が深刻なものになるときが来るとしたら、それは彼らの方が国を裏切ったときだけだろう。だがとにかく婚姻によって同盟を結ぶというのはつまりそういうことだ。私はブライスの意向に同意する必要がある。王家に忠実な公爵であることを証明せよと、そう言われたのだ。
「あの……私はどうすればいいでしょう」
 言うなればこの娘は我々が交わす協定書のようなもの。
「お前はどう扱われたい? 私は優しい夫には向かないだろうが、幸いにも誠意をなくしてはいない。互いに思うところがあるなら自由に振る舞って構わん。お前が何かを望むなら私もそれを演じようではないか」
 籠絡を目的としているなら最初から割り切ろう。なにも寝所でいちいち夫婦の真似事をする必要はないのだ。

 彼女は灰色の目を瞬かせ、微動だにせずこちらを見つめていた。始めに交わした言葉はいかにも夫婦めいてはいないが、思ったほど険悪でもなかった。
「私の主人は父ではなく、あなたです、ロゲイン。私がここにいることにどのような意図があろうと……貢物として与えられた娼婦ではありません」
「なにもそこまで下品なものだとは思っていないが」
「では何でしょう? 刺客か、密偵のように見えますか?」
「さほど器用には見えんな。少なくとも、私のもとに送り込まれるほどそちらに精通しているとは思えない。……つまり、汚れ仕事に」
「父はなにかしらの意図があり私たちの婚姻を持ちかけました。私はそれを支持する立場でしたが、政略の道具に甘んじたわけではありません。私にも拒絶する権利があり、そうしなかったからここにいるのです」
「これが政治だと理解していながら、自分の意思で私の妻になったと言うのか?」
「国を想うのは家族を想うことですから、父は私を蔑ろにしてまで政治を重視しません。私はあなたの妻です。ただそのように扱ってください」
 嘘のない瞳に見えた。謀略に身を浸したことのない、貴族というよりも……根っからの武人のような。我がマリクの盾の兵士たちのような、素直な顔つきだ。しかし信じることはできない。宮廷に長く留まりすぎたのか、一目見て感じたものが真実だと納得できなくなっていた。
 彼女は公爵の娘だ。素直に見える内心がどれほど強かなのか分かったものではない。それに彼女の真実がどうであろうとも背後には家という名の影が伸びているのだから、同じことだ。

 私はよほど頑なな態度でいたのだろうか。エリッサは失望か哀しみかそのような感情を眼差しに乗せ、それでも折れずに私の手をとり彼女の胸に押し当てた。薄絹の向こうで鳴る脈動は速く、上気した肌は酔いを煽るように熱い。
 見てはならないものとしてきた生身の人間がそこにいる。
「父は私の結婚相手を好きに選ばせると言っていました。政略結婚など向かないのです、私には。自分に誇れない相手を夫と認めることができなくて」
「ではなぜ承諾したと言うんだ。話が持ち上がった時点でお前には断る権限などなくなったのだ。他に理由があると思うか?」
「例え花婿が造物主そのひとだとしても、私が嫌だと言えば父は結婚を破棄するでしょう。だから本当に私の意思ひとつなんです」
「お前の意思が私に向いていたとでも? おかしなことを言うものだ」
「私の生まれた大地を取り戻して守ってくださった英雄に、どんな不満を抱けと? 言い出したのは父でも選んだのは私です。あなた以上に望ましい夫君はこの世のどこにも……天上にすらいないでしょう」
 ああ、まあ確かに、予想外だった。ブライスの思惑を越えて彼女自身が野心を抱いていたとしても、それはおかしくはないが。ここにいるのは政治家ではなく貴族ではなく人間の女だと言いたいらしい。信じがたいことに。そう、信じられるわけがない。
「では私は造物主をも袖にしたアンドラステを娶る幸福な夫というわけかな」
「す、すみません……そんな畏れ多いことを言ったつもりは……ただ私にとって、この結婚は決して強制された不幸なものではないと言いたくて……」
 懐に刃を忍ばせるのと同じことだ。エリッサが誠実であればあるほど、私が彼女を信頼するほどにブライスの意図が強く絡む。彼女が契約の証書だということを忘れてはならない。
 私はフェレルデンを愛している。この国の端にある僅かな土地さえ二度とオーレイに踏み荒らさせはしない。彼女がケイランの同調者と私を繋ぎ止める楔なら、いずれ断ち切ることになるのだ。
「この結婚は私事ではない。言えるのはそれだけだ」
 私の手を握った彼女の指に力がこもり、胸の鼓動はさらに速度を上げた。エリッサが私の言葉に傷ついているのが、とても不思議に思えた。
「私はクーズランドの娘ではなくあなたの妻です。私の王、私の主君は最早ただ一人。あなたの周囲にどのような謀が巡らされようとあなたを裏切らない。私自身と、あなたに誓います。例え……信じてくれなくとも」
 彼女が紙切れではなく意思する人間だと、その意思ゆえに私のもとに来たのだと、そんなはずがない。政略の世界に真心など存在しないのだ。
 泣き出しそうな娘の顔を見ずにすむよう背を向けて寝そべった。ともあれ今夜はただ眠るだけで済みそうだ。……それでいい。そうすべきなんだ、きっと。



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