若葉のさすらい


 キッチンテーブルの上に置かれた人参や玉ねぎ、じゃがいもに豚肉、そしてカレールー。エプロンを付けて袖を肘まで捲り、手首まできっちりと手を洗って準備は完璧である。
「じゃあまずは野菜を洗って皮を剥いて切りましょうか」
「はい」
 昴が夕飯づくりを買って出た。
 夕方、自室として使っている客間でPCに向かい、そろそろ夕食を作り始める時間だなと時計を見ていた矢先、昴が訪れ申し出たのだ。まさかそんなことを言われると思っていなかったため、口を開けたままじっと見つめてしまった。
 理由を訊くと、いつまでも三食作らせるのは申し訳ないからと。好きでやっていることだから別に構わないのに。忙しくはないのかと尋ねると、昴は気分転換も必要だからと微笑んだ。
 阿笠邸に行くための口実が必要だからかと納得し、それじゃあ今夜から一緒に作りましょうと提案した。
 確か煮込み料理が得意だったかと思い出し、頭の中で冷蔵庫の中を確認する。するとちょうどカレーが作れそうだった。以前コナンも交えてビーフシチューを作ったし、要領は同じだからきっと滞りなく出来るだろう。こうして今夜はカレーに決まったのだ。
「そしたら、皮を剥いた後、じゃがいもは一口大くらいの大きさになるように切りましょうか。じゃがいもが終わったら、玉ねぎを櫛形切りで六等分くらいにします」
「わかりました」
 一応ピーラーを用意したが、昴は包丁を上手く使いじゃがいもの皮を剥いた。最初は桜の花弁くらいの大きさだった剥いた皮も、最後の一つを剥いている時には既にするすると途中でちぎらすことなくできていた。
 その様子を眺めながら、昴が話した“気分転換も必要”という言葉がなまえの耳にこだましていた。
 普通、今まであまり触れてこなかった世界に挑戦することは、慣れないことへのストレスが伴うはずだ。だから、ほぼ料理初心者のような昴が“気分転換”という言葉を使うのは些か不自然だった。
 一緒に暮らし始めて確信したが、彼は何事も卒なくこなしてしまうタイプである。きっと、観察眼や洞察力が優れていて、物事を行う上でコツを掴むのが上手なんだろう。だからきっと、新しいことにも気後れせずに取り組むことが出来る。その証拠が今のじゃがいもの皮剥きだ。
 それを考慮すれば不自然さはなくなるが、なまえは腑に落ちなかった。
 ――本当にそれだけなのかな……?
 なんだかしっくりこない。
 なまえは持っていた人参を親指で撫でながら首を傾げた。
 彼は、必要最低限の言葉しか相手に伝えない傾向にある。古い記憶を溯ってみても、最低限の言葉以外は胸の奥に押し留め、誰にも悟られることなく生きていこうする姿が鮮明に思い出せた。だから今回のことも、もしかしたらこれに当てはまっていそうである。“気分転換”の言葉の裏には、もっと広くて深い海のような思考がたゆたっているのかもしれない。
 必要最低限の言葉しか人に伝えないというのは、酷く寂しく感じる。
 一つひとつの本音は小さいものかもしれないけれど、積み重なればいつかバランスを崩して倒れてしまう。伝えられる時に本当の気持ちを伝えないと、後々後悔するという事は、きっと彼だって気づいているはずだ。気づいててもなお、赤井さんはずっとそのままのスタイルを崩してはいない。まるで、誰かが見つけてくれるのを待っているかのように。
 ――私はまだ、“赤井秀一”のことを何も知らない。
 彼が沖矢昴としてしか私の前に姿を現していないのだから、何も知らないことは当然のこと。けれど、少しずつ沖矢昴の中から赤井さんの心が見え隠れしているような実感をする時がある。それは一瞬であったり会話の中の一言だったりするけれど、彼の心が見えた時の、翡翠色の瞳と少し緩んだ目尻がとても印象的だった。空気がふわりと軽くなったような感覚がとても心地良く、なまえにとって、その微かな瞬間はお気に入りの時間となっていた。
 ――赤井秀一とは正反対である、沖矢昴を演じていくうちに、本当の気持ちが素直に出せる機会が増えれば、きっと……。
 なまえは慣れた手つきで人参を切り終えボウルに移す。一旦手を洗い、タオルで拭きながら、あとはここに玉ねぎが加われば野菜は準備万端だと息をついた。
 この生活が、疲労した彼の心を少しでも安らかに出来たらいいのに。けれども、暗闇に明かりが灯るように生まれた小さな希望を、なまえはそっと心の奥に隠した。こんなこと、思ってはいけない。何故かはわからないけれど、直感がそう告げていた。
 なまえは緩く首を振り、気持ちを切り替えた。そして、眉間を押さえて玉ねぎと格闘を終えた昴に向き合った。
「……! すごい昴さん! がんばりましたね!」
 指示した通りの形に切れた玉ねぎが鎮座する前で、昴は眼をしばしばと瞬かせて必死に涙を流さないように努めていた。無言でこくりと数回頷く昴はどこか愛らしくて、なまえは自分のことのように嬉しくなった。
 そういえば昔、同じような経験をした気がする。なまえは目を細めて記憶を辿った。
 そうだ、あれは小学生の頃、奈々が帰りが遅い日に綱吉とカレーを作った時だ。確かあの日、玉ねぎを切る私の隣にいた綱吉は目がしみてしまい、必死に堪えようと何度も瞬きをしていたっけ。それ以来綱吉は一時期玉ねぎを見る度に顔を顰めるようになって、そんな姿が可愛らしくて、わざと玉ねぎを近づけ反応を楽しんでいた。
 懐かしいことを思い出し、笑みをこぼすしていると、昴がどうかしたのかと首を傾げる。
「……きっと、美味しいカレーができますよ」
 光の当たり具合によってはハニーブラウンだと錯覚してしまう、昴のピンクブラウンに染まった髪に腕を伸ばしそっと撫でる。これは綱吉とカレーを作った日にもしてあげた、おまじないのようなものだった。
 あの子はもう少し柔らかい髪質だったなと、言葉にならない吐息が舌の上を転がっていった。

   *

 昴の活躍もあり、カレー作りは順調に進み、鍋に食材とカレールーを入れて煮込み始めてから数十分が経過した。
 カレーを慎重にかき混ぜながら、たわいない会話を繰り広げていた時、昴がふと疑問に思ったように口を開いた。
「なまえさんは昔から料理をしていたんですか?」
 昔からと問われ、頭の中でざっと料理歴を換算してみる。しかし、前世の時を合わせると恐ろしい数字になってしまったので、具体的な数字を伝えるのはやめようと、咄嗟に浮かんだ数字を記憶から消し去った。
「そうですねー……小さい頃から弟の面倒を見ることばかりしてたので、その延長でご飯も作ったりしてました。今思えば、周りからはお母さん気取りに見えてたんだろうなあって気がします」
 話した後に、ませていると思われたかも……と恥ずかしくなり、鍋に視線を落とす。しかし、カレーの中に見え隠れする玉ねぎが綱吉の玉ねぎ騒動を思い出させ、自然と顔が綻んだ。
 昴が黙ったきりなので、不思議に思い隣にいる昴を見上げると、複雑そうな顔をしていた。
「どうかしました?」
「……いえ。だからこんなにしっかりしているんだと納得していました」
 昴は話しかけられすぐに唇を引き上げ返事をしたけれど、誤魔化されたことはすぐにわかった。でも、ここで本心を問いただすような訊き方をしたって、双方あまり気持ち良くない思いをするだろうから、敢えてそのことには触れなかった。
 話題を変えようと、いい匂いが漂う鍋と昴を交互に見ながら尋ねた。
「おっきい鍋で作っちゃったけど、どうしますか? 阿笠博士にお裾分けします?」
 そうですね、とすぐに答えが返ってくると思っていた。しかし、昴は鍋を一瞥もせずに自分をじっと見つめてきたため、なまえは身を固くする。鍋の様子が気になるけれど、目を逸らそうとしても、なぜか昴から目が離せなかった。
 知らず知らずのうちに気の触ることをしてしまっただろうか。心当たりがないけれど、もしそうだったらと、申し訳なさから肩をすくめる。すると昴はふっと力を抜いたように笑った。
「いえ、今回はやめておきましょう」
「……? わかりました」
 珍しい。てっきりお裾分けすると思っていたのに。
 今日の昴はコロコロ表情が変わるなあとしみじみ感じながら、なまえはコンロの火を消した。

 毎食カレーでは飽きてしまうけれど、じゃがいもは足がはやいため早く消費しなければと、なまえは翌日の昼食にカレーうどんを出した。すると、昴は眼鏡や洋服にカレーを飛び散らせてしまいながらも、器用に麺を箸ですくって食べ続けた。
 その不格好ながらも必死な姿に、なまえはとうとう笑いを堪えきれず、本人には失礼だとわかっていながらも声を出して笑ってしまった。同時に、そうか、アメリカンだから麺をすするのは苦手なのかと、頭の片隅で冷静に判断する。
 食べ終わり、羞恥とあまりの悲惨さに戦慄している昴を宥めながら、なまえは濡れた布巾を昴の洋服にぽんぽんと叩きつけて染み抜きに専念した。

16,09.10