通り雨がやんだら


 突然訪問してきた少年探偵団に腕を引かれ、あれよあれよという間に隣の阿笠の家に到着する。靴を揃えさせてもくれない子どもたちの勢いに、引っ張られながらリビングに到着すると、既にその場にはあまり見慣れない人物がいた。
「……あれ? 昴さん?」
 朝出掛けたはずの昴がなぜここにいるのか。しかも、大量のレジ袋をテーブルに置いている。
 朝出掛けて買い出しに行っていたってこと……? 近くで朝市なんてやってたっけ?
 今朝読んだ新聞に挟まっていた広告を思い出してみたけれど、特に朝市等は開催されていなかった。それに、知っていてもまず自分が動き出し、昴に車を出してもらう。特売関連は昴より数倍敏感なのだ。
「それじゃあなまえさん、始めましょうか」
「え?」
「餃子パーティー開始ー!」
「……は?」
 悶々と考えごとをしていると、昴の声を皮切りに、少年探偵団がノリノリで手を洗い腕まくりをしながら掛け声をあげる。状況が把握出来ず、なまえはその場でこてんと首を傾げ固まってしまった。

 テーブルの上に乗った、野菜や肉や豆腐等、様々な変わり種で作った焼き餃子。その他にも水餃子や揚げ餃子、そして、餃子の皮で作ったおやつが所狭しと並んでいた。
 餃子を包む際に使った薄力粉がエプロンや袖に付着したまま、美味しい美味しいと餃子を頬張る子どもたちに頬が緩む。
 たくさん餃子を作って味見と称して一つずつ食べていただけでなまえは満腹になってしまった。そのため、子どもたちが楽しそうに食べている様子を見ながら、餃子が綺麗さっぱりいなくなった皿をまとめて下げたり、飲み物のお代わりをついであげたりしていた。
 先程まで一緒に食べていた昴と阿笠は、新しい発明品を見せてもらうとかで既に席を外していた。そうは言いつつも、きっと変声機のメンテナンス関係だろうなと予想した。念のため、子どもたちが二人にくっついていかないよう、デザートとして食べられる揚スイートポテト等を振る舞い、気を引いておいた。
「そういえば、どうして突然餃子パーティーしようと思ったの?」
 お菓子作りやバーベキューなら少年探偵団からやりたいと声を挙げる様子は目に浮かんだ。けれど、なぜ餃子。いや、餃子が嫌いという訳では無いが、今回のようにプレートを使うなら、お好み焼きのほうが先に思いつくだろう。
「言い出しっぺは彼よ」
「彼?」
「昴さん!」
「えっ……」
 哀と歩美の言葉になまえは目を丸くする。赤井さん餃子好きだったの……と頭の隅っこで一瞬思いつつ、発案者が昴という事実はなまえに衝撃をもたらした。てっきり少年探偵団が企画し、せっかくだからと自分と昴も誘われたんだと考えていた。
 あの昴さんが……と、驚きすぎて言葉を失うなまえに、コナンは経緯を説明した。
「昴さんから頼まれたんだよ。一角岩の時からなんだか元気がないから、みんなで元気づけてあげてくれって」
「そんな……いつ……?」
 ぽつんと一人取り残されて、仲間はずれにされたように話についていけないなまえ。動揺する様子に、コナンは目元を和らげた。
「この前博士ん家に遊びに来てた時にね。ちょうど昴さんがやって来て話してくれたんだ。なまえさんはその日、仕事でいないから作戦会議には丁度いいって昴さん言ってたよ」
 一角岩の件以来、昴が夕食作りを手伝ってくれるようになり、次第に煮込み料理なら一人で任せられるようになってきた。そのため、夕食を作る時間帯も翻訳に費やせるようになり、編集社に赴いたりして家を空けることが以前より多くなっていた。
「何がいいか皆で考えてたら、ちょうど博士が大きなプレート見つけてね。たまには餃子が食べたいってボヤくものだから……博士の体調を考えて私は反対したんだけど」
「歩美たちも久しぶりに食べたいってなって、餃子パーティーになったの!」
「とっても楽しかったです!」
「こんなうんめー餃子食えたしな!」
 はしゃぎながら感想を教えてくれる少年探偵団。調理中、度々こちらの様子を伺うような視線を寄越し、今は安堵するように経緯を話すコナンと哀。そして、なまえの耳に残って離れなかった、昴の“気分転換も必要”という言葉。
 不思議に思っていた全てがつながり、なまえは口元から溢れ出そうになる感情を、そっと手で隠した。

   *

 大きな皿の上にあった沢山の餃子は綺麗になくなり、昼食を兼ねた餃子パーティーはお開きとなった。腹いっぱいになった子どもたちは今、阿笠が作った新しいゲームを攻略しようと奮闘している。
 昴はなまえと子どもたちの楽しそうな声を聞きながら、洗い物をしていた。阿笠も一緒に片付けると申し出たが、子どもたちが博士の新作ゲームに期待していたため、二人はやんわりと断って博士の背中を子どもたちの元へ押した。
「昴さん」
 改まったように名を呼ぶなまえに、昴は手を止めてチラリと視線を向ける。
「ありがとうございます。聞きました。今日のパーティー、昴さんが発案者だって」
「気分転換にでもなれば良いかと思ったんですが……結局、なまえさんの手を煩わせてしまいしまたね」
 餃子の作り方を先に知っておくんだったと昴は反省した。なまえだけでなく哀や歩美が作り方を知っていたのが幸いだったが、これで子どもたちまで知らなかった場合、なまえが大変なことになっていたかもしれない。まあそうでなくとも、餃子一つ作るにしてもこんなに賑やかになるのかと若干後ずさりしかけたが……。
 子どもたちは粉まみれになりながらも、特有の発想力を発揮し、一つずつ餃子を作っていった。それを見守っているなまえの横顔はとても晴れやかだった。時折楽しそうに声を上げて笑う彼女に、少しはマシになったのではないかと胸を撫で下ろした。
「そんなことないです! 楽しかったです、とっても!」
 勘違いされないようにと、いつも会話する時よりも少しだけ大きい声で必死に訴えたなまえ。その割には、すぐに皿を拭く手を止めて俯いてしまう。
 一角岩の一件から、彼女の表情が陰っているように見えた。原因を突き止めようと
あの時のことを思い出しても、人質にされナイフを突きつけられたからというのが一番しっくりくる答えだった。しかし、男に捕らえられた時のなまえはどこ吹く風とでも言うような表情で、むしろ逃げる時を伺っていたようにも見えた。
 彼女の様子が気になったのは、寧ろそのあと。男の気を逸らしてなまえの腕を引っ張り助け出した時からだ。
 なぜ緊迫した状況よりも浮かない顔をしていたのか。どんなに考えても答えが見つからなかった。
 それなら、なまえに好きなことをさせて気分転換してもらおうと思い立った。そうすれば、きっと余裕が出てきてポロっとあの時の真相につながる何かを話すかもしれない。
 自分でもどうしてこんなに彼女が気になるのかはわからなかったが、彼女の笑顔が陰っているのは、とても居心地が悪かった。
 試しに先日、夕食作りを申し出た。予想通りなまえは、料理が苦手な自分を手助けするよう、一つずつ丁寧に工程を教えながら進めていった。
 食事を作るなまえの背中はいつも楽しそうだから、少しは気晴らしになるだろうと思っていた。ましてや彼女はコナンの話を聞く限り、他人を手助けする気質がある。きっと、他者が成長したり気づきを得る瞬間に立ち会ったりすることに、喜びや達成感を感じているはずだ。
 その考えは当たっていたようで、俺が玉ねぎを教わった通り無事に切り終えた時は、自分のことのように喜んでいた。
 そして、カレーを煮込んでいる際、様々な対話を重ね、気づいたのだ。
 ――なまえは、俺を見ているのではなく、俺を通して弟の影を探している。
 すとんと体の中心に何かが落ちてきたような感覚だった。思考が止まると同時に、頭の中で複雑に絡み合っていた糸が一本ずつ解れていくようだった。
 ――彼女が求めていたのは、沖矢昴でも、ましてや赤井秀一でもなかった。
 その事実がひどく虚しくて、胸の中が空っぽになった気分だった。
 だから腹いせではないけれど、作りすぎたカレーをお裾分けするか訊いてきたなまえに、首を縦に振らなかった。彼女と二人だけで作ったカレーである。彼女の思考が弟で埋め尽くされているなら、俺がこれくらい望んだって罰は当たらないだろう。
 どす黒いものが腹の底から渦を巻いて感情を支配してくるようだった。それを悟られないよう、わざと暫くしてからなまえの言葉に返答したのだ。まるで、幼児が母親を誰にも取られたくないと駄々をこねているようだと、心の中で自分自身を嘲笑いながら。
「……懐かしくて」
「ん?」
「昔、実家で暮らしていた時に、弟やその友だちとこうやって餃子パーティーしたなあって、思い出したんです。こっちに来て、こういうことするの久しぶりだったから、すごく楽しかった」
 指先でゆったりと皿の縁を撫で、穏やかな声で語られるなまえの心境に、秀一は口の中に苦いものが込み上げてくるのを感じる。
 ――ああ、ほら。そんな顔をされてしまったら、怒りたくても怒れないじゃないか。
 彼女に弟を求めているかのように接されたことが、心のどこかでいつまでも許せないでいたのに。満足した表情を浮かべるなまえは、自分が発案したことで得られた結果なのだと考えると、年甲斐もなく自惚れてしまう。
「それは、よかったです」
 震える心臓が声にのらないよう、ゆっくりと当たり障りない返事をする。今の秀一にはそれが精一杯の言葉だった。
 なまえが大切にしているものを、俺は無碍にはできないし、する資格もない。それどころか、家族を恋しく想うなまえの心に空いた穴に、自分から入ってしまいたくなる。
 ティーンでもあるまいし。隣にいるなまえに気づかれないよう、細い息を吐いた。
 彼女の存在は、とんだ誤算だった。ここまで一人の、しかも10も年の離れた女に、これしきのことで心を乱されるだなんて、思ってもみなかった。
 傍から見たらきっと、そんな些細なことで振り回されているのかと笑うだろう。しかし、俺にとってはなまえとの一つひとつの出来事が架け替えのないもののように思えて、大事にしていかなければならないと考えるのは当然のことだった。
 全て皿を洗い終え、なまえも拭き終えたところで、長いようで短い後片付けは終わりを告げる。
 なまえは手を洗い、着ていたエプロンで丁寧に水気を拭き取ると、昴に向き合った。
「だから昴さん、本当に……」
 一言ずつゆっくりと、大切そうに紡がれる言葉。なまえの視線と自分のそれが絡み合った瞬間、息を呑んだ。
 ――なんて俺は浅はかだったんだ。
 今まで自分にしてくれた行動の全てが、弟にしてあげたかった事だったのかと思ってしまった時から、なまえときちんと向き合うことから逃げてきた気がする。一度浮かんだ疑惑は、ちょっとやそっとでは姿を消してくれない。きっとただの思い過ごしだと自分に言い聞かせる度に、なまえが求めているのは弟であってお前ではないと、もう一人の自分が囁き続ける。自分でも気付かぬうちに、心のどこかでいつも不安を抱いていた。
 そんな中、ふとした時に彼女の瞳に自分だけが映し出されているのを確認して、その都度、胸が満たされていた。今、彼女が見ているのは弟ではなく、沖矢昴だと。そして、温かくやわらかい琥珀の瞳に映る姿が赤井秀一だったら、どんなに心地良いだろうか。
「本当に、ありがとう」
 今、目の前にいるなまえの瞳は、沖矢昴の仮面を通り越し、赤井秀一の心をしっかりと捉えて離さなかった。なまえは確かに、“俺”を見つめていた。
 胸がつまったような、締めつけられているように苦しかった。呼吸をするのが少し難しくて、掌がじんわりと湿っていく。瞳の奥から漣が迫ってくるようだった。
 なまえの笑顔は、秀一が今まで見てきた中で、一番綺麗なものだった。けれど、少しだけゆらりと光った双眸が、瞼に焼きついて離れなかった。

16,09.13