いつか来た道


 そこは、一面灰色に染まる世界だった。冷たくも暖かくもない。手を握ってみても、自分の体温が高いのかどうかさえわからない。
 ――これは、夢か……?
 非現実的な現象に、秀一は冷静に判断する。だって、昨夜はきちんとバーボンもそこそこに、寝室のベッドに戻って眠りについたのだ。書斎で寝落ちして、翌朝なまえに「またですか」とでも言ったように笑われるのは、今はもう昔の話だ。
 秀一が自分の成長にしみじみとしていると、視界が少しずつ変わり始めた。
 一つずつ彩やかな色が足元や頭上から溢れ出し、キラキラと耀きながら虹のように放物線を描き始めた。それは周囲を回り、いつしか秀一を包むかのように一つの大きな玉になる。
 今まで体験したことのない光景に、秀一は目を丸くした。ぽかんと開いた口からは、いつもならするりと出てくる口癖すら顔を出さない。本当に驚いていると声すら出せなくなるというのは、あながち間違っていないなとどこかで納得した。
 現実世界なら一向に警戒を解かないだろうが、夢だと理解してしまえば話は別だ。日頃は悟られないよう抑えていた好奇心と探究心がむくむくと湧いてくる。
 慎重に指先を近づけ触れてみると、色水のようなそれは一気に弾け飛び、視界は光に覆われた。
 眩しさに耐えきれず、秀一は一旦目を閉じる。暫くしてからゆっくりと瞼を上げると、お伽話の世界に迷い込んだかのような世界が広がっていた。
 緑溢れる森の中にひっそりと佇む、大昔に建てられたような大きな城。少しだけ開け放たれた扉の隙間から、ひっそりと中を覗き込み、音を立てないように城の中へ足を進めた。
 暫く歩いて到着したエントランスホールは、豪華絢爛なシャンデリアが耀いていた。
 ふかふかとした足元の赤い絨毯に目を見開く。周囲を見回していると、遠目に額縁の中に描かれた10人ほどの男女が目に入る。この城の主だろうか。
 近寄って確かめようと一歩踏み出すと、微かに服が擦り合う音が耳に入り、秀一は動きを止めて肩に力を入れた。息を潜めて音の出どころを探す。すると、音の正体はゆったりとした足取りで、目の前にある大きな階段の踊り場に姿を現した。
 それは、シフォンイエローのドレスを纏った女性だった。淡い色合いは白い肌を映えさせ、眩しさと相まって目を細める。まろい胸部は繊細な刺繍が施されており、裾はまるで一枚ずつ花びらをまとっているかのように柔らかい印象を与えた。
 顔は逆光でよく見えなかったが、どこか懐かしい雰囲気を醸し出している。微かに伺える口元は、品が良く儚げだった。
 彼女の背後にある大きな窓から一層強い光が降り注ぐ。すると、彼女の体は空気に溶け込むように揺らめき、徐々に体が薄く透け始めた。
 今しかない。今捕まえなければ、彼女は消えてしまう。
 こちらに向かってゆっくりと階段を降りてくる彼女の元へいち早く駆けつけようと、秀一は床を蹴った。
 しかし脚は動かず、秀一の視界はぐらりと揺れる。眉間に皺を寄せて視線を落とすと、真紅の絨毯に足先から埋まっていっていた。必死にもがき抜け出そうと試みるが、動けば動くほど体は絨毯に飲まれていく。
 秀一は咄嗟に手を伸ばした。
 ――俺は、アイツを知っている。あれは……。
 名前を呼ぼうにも声は形にならず、口からはただ、はくはくと息が漏れた。何故だ、彼女の名前は既に喉まで出かかっているのに。
 彼女は階段の途中で歩みを止めて、口元は笑みを浮かべたままだった。追い詰められている自分とは正反対の彼女に、胸が締め付けられる。
「――っ!」
 答えがもう少しで出ると思った途端、秀一の世界は暗転した。

 美しいピアノの音色につられ、意識が浮上する。
 瞼を上げると、見慣れた天井と自分の左腕が目に入った。天井に向かって伸ばしていた腕をゆっくりと下ろし、体を起こした。
 なんだかすっきりしない夢見だ。夢の内容を思い出そうとして見ても、霧がたちこめているかのように、もやもやとしていた。
 手を伸ばして捕まえようとしても、いつまでも手が届かずに捕まえられない焦燥感。夢であったとしても妙に現実的で、未だに心臓が暴れていた。
 しかし、目を擦りながら聴こえてくるピアノに耳を澄ましていると、気分が落ち着いてくる。そして次第に脳が覚醒し始めた。
 この曲は確か、有名なアニメ映画の主題歌だったか。昔、一度だけテレビで放送されているのを見たきりだったが、その美しい旋律は今でも多くの人々に愛されている。最近では、魔法学校が舞台の映画でたちまち話題になった女優が実写映画化の主役に抜擢されたとかで、音楽番組やラジオで流れているのをよく耳にするようになった。
 奏でられるメロディーに目を瞑る。音楽のことは詳しくはわからないが、段々と音が何層にも重なっていき、サビに入るんだなということがわかった。
 サビに入るとより一層伴奏が主旋律を引き立てる。ペダルにより音が深く広く響いていき、心臓の鼓動を後押ししているような感覚になった。
 流れるように進んでいくと、途端に曲の雰囲気がガラリと変わる。転調だ。数少ない音楽知識で転調したと理解できたことに、少しだけ口角を上げる。
 自然と唇はピアノと共に音を口ずさんでいた。
「Certain as the sun
Rising in the east
Tale as old as time
Song as old as rhyme
Beauty and the Beast」
 そうして曲は後奏部分に差し掛かる。音の一つひとつがまるで天に登って星になるかのように、小さく輝いて消えていく。
 ――Beauty and the Beast……まさに彼女と自分のようだ。
 寝起きで掠れた声で紡がれた歌は、失笑に溶けてしまった。
 ついこの間まで重かった瞼はすんなりと開けることができた。これもなまえのおかげだろう。貧血気味だった体調は、彼女が作るバランスの取れた食事を食べることによって、日に日に改善されていった。
 体を起こして携帯を確認すると、ここ毎日同じくらいの時間に目覚めていることに気づく。なまえから遅寝遅起きを数回指摘されてから、自力で生活習慣を改善しようとしてみたものの、一度緩んでしまったものを自ら引き締めようとするのは苦労した。
 ベッドから出てカーテンを開けると、朝日の眩しさに思わず目を細める。陽の光を浴びると嫌でも脳が覚醒するため、眠気の逃げ道を無くすように、全身で朝日を受け止めることを習慣づけようとしていた。
 秀一の苦労を知ってか知らずか、共同生活が始まってから、なまえは起床時間になると部屋にやって来て昴を起こすようになっていた。
 仕事柄他人の気配には敏感な方だったが、何故かなまえの気配には未だに気づけないでいる。彼女が意図的に消しているのか、そもそも察しにくい気配をしているのかはわからない。これまでの疲労が蓄積された結果かもしれないが、秀一はなまえが近くにいても熟睡したままということがほとんどだった。
 誰かに起こされるというのは、仕事を除けばあまり経験したことがなかった。だから、なまえが起こしに来てくれて、目が覚めて眠気眼でまず初めに見るのが彼女の笑顔というのは新鮮だったし、それなりに気分が良かった。
 なまえには手間を取らせてしまっているという後ろめたさは無いわけではなかった。けれども、朝起きて自分以外に誰かがいるというのは、温もりに包み込まれているような安心感をもたらした。
 しかし、そんなある日、それがぱたりと行われなくなる。
 その代わりに、彼女は毎朝ピアノを弾くようになった。
「まるで誓いのキスだな……」
 キスの出番はないが、まるで自分となまえは、眠り姫と姫を目覚めさせる王子のような立ち位置だと溜息がこぼれる。
 なまえのピアノは効果抜群で、煩わしいアラームで起きた時の感覚とは全く違う清々しさを覚えた。
 今では起床してから暫くの間は、なまえのピアノを少しだけベッドの上で堪能してから、ピアノの音をBGMに身支度を整えることが昴の一日の始まりになっている。
「これは……初見か」
 所々つっかえながら進んでいく曲に、初めて演奏する曲ということがわかった。それでも数回同じところを弾けば音やリズムを間違えずに弾きこなしてしまうなまえに感嘆する。
 なまえがこの曲を完璧に弾くようになっている頃、自分はもう少し朝の時間を有意義に使えているといい。
 昴はどこかで聴いたことのあるような、なまえが弾く懐かしいメロディーを古い記憶から掘り起こそうとしながら、洗面所へ向かった。
 この時にはもう、どんな夢を見ていたのか綺麗さっぱり忘れてしまっていた。

   *

 疑問に思っていたことを朝食中に尋ねてみると、なまえはぽかんとした顔をしてそのまま停止してしまった。
 今日の朝食は彼女特製のバケットサンドウィッチ。レタスやスライスしたトマト、チーズやベーコン等豊富な種類のそれは、もう喫茶店でも開けるのではないかというくらい絵になるものだった。
「……ふぁい?」
「……中身、こぼれてますよ」
「あっ、ふ、うそ……ごめんなさい」
 腕を伸ばし、なまえにより近くなるよう小皿を移動させる。
 なまえは顔を赤らめ、恥ずかしい……とつぶやきながら皿の上にこぼれてしまった中身を見つめる。その表現は、年齢相応というよりかは少し幼く見えて微笑ましかった。
 隅に置いてあった手拭き用の布巾を彼女に渡すと、頭を下げながら受け取り濡れた指先をひと指ずつ丁寧に拭いていく。
 この指があの美しい音色を奏でているのかと思うと、なまえの指をじっくりと見つめてしまう。
 自分の指とは正反対の、真っ白くて力を入れたらすぐにポキリと折れてしまいそうな華奢な指。これまで俺がライフルを握り標的の運命を人差し指で左右してる時間、彼女は料理やピアノを弾くためにこの指を動かしていたのか。そう考えると、本当に自分たちは美女と野獣のようだと思えてしまう。
 平穏な暮らしに触れることになるとはこれっぽっちも想像していなかった。しかし、沖矢昴として生活している今、なまえや有希子に教わり段々と楽しさに気付き始めた料理等、ガラリと変わった生活環境に慣れ親し始めた自分がいる。もしかしたら、料理と似たようにピアノも触れれば触れただけ上手くなるもので、やってみたら弾けるようになるのではないか。そんな、自身に新しい可能性を感じるようになるまでになった。
 ――ここまで変化が訪れるとはな。
 秀一は、沖矢昴という仮面が無意識に行動してしまう一つ一つのことを思い出しながら舌を巻いた。最初は成りきらなければと考えていたのに、いつの間にか沖矢昴は秀一の気持ちを口調は変えつつも純粋に伝え、秀一がしたいと思ったように昴は素直に行動できている。
 何がそうさせているのか。それはもう明白だった。答えは目の前にいるのだから。
「ピアノ、うるさかったですか?」
「いえ、毎朝いい目覚まし時計のようになってますよ。あの音色で毎朝起きれるなんて、僕は贅沢ものですね」
「昴さんはお世辞が上手だから、なんて返したらいいのかわからなくなります……」
「おや、本心を言ったまでですよ? それで、どうして突然パタリとやめたんです?」
 起き抜けになにか失礼なことを口走ってしまっただろうか。寝不足気味、さらに低血圧なこともあり、起きた直後の記憶は曖昧なことがある。もしその時なにか気に障るような物言いをしてしまい、それが原因だとしたのなら、頭が痛くなりそうだ。
 なまえは珈琲を一口飲むと、首を傾げた。
「起こされるのって嫌じゃありません? 昴さんは声を掛けると割とすぐに起きるので、双方そこまで重荷になってない……と私は思いたいんですけど……。やっぱり、起き抜けの顔を見るとか、プライバシーの配慮にかけてたかなと思って」
 起こしに来てくれなくなったことを寂しいと、素直に伝えなかったこの唇はお利口さんだ。
 恋愛関係にあるならまだしも、出会ってまだ一ヶ月経ったくらいの男にそう言われたら、彼女はどう受け止めるだろう。その反応を見たくて少し試したくなるが、その後関係がぎくしゃくしてしまっては元も子もない。
 若気の至りとも言える20代なりたての頃だったら、軽く口走り流れに身を任せた人間関係を構築しただろうが、今は勝手が違う。
 昴は下唇に一瞬前歯を立て、唇を引き締めた。
「私の弟がそうだったんですけど、起こしに行く時より、朝ピアノの音で目覚めた方が一日気分がいいんですよ。本人は気づいてませんでしたが。他人に起こされたのではなくて、ピアノを聞いて自力で目が覚めたっていうのが自信に繋がってたんだと思いますけどね」
 目を細めながら語る表情から、彼女がどれほど弟のことを大切に想っているのかが伝わってくる。
 今ではもう心に余裕が生まれ、弟の話題でも素直に聞き入れることができるようになっていた。餃子パーティーを経て、なまえとの会話に少しずつ弟やその友だちの話題が出てくるようになった。それが、なまえに受け入れられたかのように思えて、少し胸の奥がくすぐったかった。
「まあ弟の場合、ピアノの音で目を覚ましても、私が練習を終えるまでずっとベッドの中に篭もりっぱなしだったんですけど……。だから結局、毎日朝の身支度は忙しなくしていて、あんまり意味無いかなと思って本人に訊いてみたんです。そしたらあの子、“姉さんのピアノ聴いてるのが好きだから”って言ってくれて」
 なまえの話に耳を傾けていると、ゆっくり時間が流れているように感じる。
 同時に、今では疎遠になっている弟妹に自然と思いを馳せていた。弟の活躍はメディアで報道されることがあるし、妹はコナンを介して会うこともあるため、元気に生活できていることはわかっている。しかし、兄として二人の前に姿を表せられないことに、少しだけ残念に思うこともある。
 なまえといると、なぜこうも蓋をしていた想いが溢れてくるのだろうか。
「ピアノを弾いていたら、ピアノの音で弟が目を覚ましていたことを思い出して。それがなんだか懐かしくて、つい同じことを昴さんに試したくなったんです。そしたら弟と同じで、起こした日よりもピアノで起きた日の方が顔色も良かったり機嫌も良さそうに見えたので、この方法にしようかなって」
「そんなに違いがありましたか?」
「はい、とっても!」
「自分ではあまりわかりませんが……」
 顎に指を当て、なまえが起こしに来てくれた時と今朝の自分の違いを探し出す。強いて違いがあるとするならば、今はきちんとベッドに戻り就寝していることくらいだろうか。まだなまえとの生活が始まったばかりの頃は、よく書斎でそのまま寝落ちしてしまったことが多かった。
 決定的な違いが見つけ出せず頭を悩ませていると、なまえは食事を終えて、皿を下げていた。シンクに置かれている洗い桶に水を注ぎ、中に皿やマグカップを沈める。朝の食器洗いは昴の担当だ。
 食事を終えてもその場から動かずに答えを導き出そうとする昴に、向かい側にいるなまえは悪戯っ子のように笑う。
「がんばって見つけてください、シャーロキアンさん!」
 陽だまりのような声が降り注ぎ、昴は一瞬息を止め、眩しそうに目を細めた。

16,09.15