バルカローレ


 一つ仕事を終えた帰り道。下校途中の少年探偵団とバッタリ遭遇し、そのまま腕を引っ張られ阿笠邸へ。
 また何かのドッキリなのだろうかと、靴を揃える時間をくれたことに感謝しつつ、手を動かしながら考える。
 後ろを振り向くと既に子どもたちは既に消えて、リビングから漏れるワイワイと賑やかな声が早くおいでと手招きをした。哀が出してくれたであろう、隅に置かれたスリッパを履き、ゆったりとリビングに向かう。
 子どもたちが阿笠の家を自分の家のように寛ぐ姿は、まさに“勝手知ったる他人の家”状態である。子どもの愛らしさに頬を緩ませつつ、親しい大人の家でもそろそろマナーを覚えた方がいいのではという気持ちが、複雑に脳内で絡み合ってしまう。
 コナンや哀は中身が少年少女ということもあり、割と落ち着いた関係が築ける。けれど、歩美や光彦、元太の三人はまさに等身大の小学生といったようで、彼らと遊び終わると体を動かしていない時であっても疲労を感じることがあった。子どもと遊んで疲れるだなんて経験は、ランボたち以来だったから、彼らと知り合い遊ぶ仲になって暫くは感覚を取り戻すのに苦労した。でも、彼らの事件現場に目を輝かせながら向かおうとする姿勢を除けば、ランボよりもまだ可愛いものだと思ってしまう。
 ランボには手を焼いた思い出が多い。いや、正直、手を焼いた記憶しかない気がする。しかしそうは言っても、今では多少我が儘や泣き虫が落ち着き、着々とより守護者らしく成長している。子どもの成長は早い。
 もし、ランボが三人いるのと、少年探偵団の三人、どちらと一緒に遊ぶ? と選択に迫られたら、ランボには悪いが迷わず少年探偵団を選ぶだろう。ランボ一人でさえ手一杯だったのに、流石に三人もランボがいたら、それはただのホラー映画である。
「なまえさんやっぱり昴さんと付き合ってるの!?」
「……は?」
 リビングに到着した途端、脳内を埋め尽くしていたランボは歩美の一言で瞬殺された。
「なんでそうなったの?」
「だって! この前の餃子パーティーだって昴さんが言い出しっぺだし!」
「二人の作る飯、すんげーうめぇもんな!」
「元太くんそれ関係ないですよ!」
「歩美たちがゲームしてて、なまえさんと昴さんが一緒に片付けしてる時、なんかいい感じだった! 大人の雰囲気って感じ!」
「……ほぉ」
 見られていたのか。というか、子どもからはそう見えるのか。
 大人の雰囲気という可愛らしい表現に口元が緩みそうになるが、そうすると勘違いに拍車をかけてしまうため唇を引き締めた。
「つまり、一緒に住んでいるにも関わらず、男女の関係がなんにもないなんて、そんなこと有り得ないって言いたいらしいわ」
「へえ……園子ちゃんたちの影響かな?」
「なまえさん分析してどうするのさ……まあ、あながち間違ってないけど。蘭姉ちゃんとか園子姉ちゃんとか、なまえさんと昴さんの関係すんごい気になってたし」
 哀とコナンの翻訳にも似た解説に納得する。
 女子高生はやはり恋愛話に花咲かせたいお年頃なのだろう。恋愛話をする蘭と園子のテンションにはついていけないことが多い。カムバック真純ちゃん。いや、だめだ。知らないことを知る楽しさを覚えている彼女だからこそ、迂闊に助けを求められない。真純は二人よりも詮索するのが得意だから、何かを見破られてしまう気がする。
 自分が高校生の時は蘭たちのように恋愛話に興味あったかなと高校時代を振り返る。いや、あの頃はちょうど綱吉と一緒にマフィアのあれやこれに巻き込まれていった時だ。だから、これまでずっと恋愛のことなど頭からすっぽりと抜けてしまっていた。
 自分と比べてしまうのはあまりにも環境が違いすぎるが、蘭たちのように年相応に恋愛事などに興味があるのは良いことだなと他人事のように考えた。
「若いねえ……」
「なまえさんも充分若いよ! 綺麗だし可愛い!」
「本当? 歩美ちゃんは優しいねえ。そんな歩美ちゃんには、さっき貰ったお菓子をあげよう」
 編集社に寄った時に頂いた金箔入りのカステラを取り出す。昴と半分こして食べようと思っていたが、食べ物に目がない小学生からこの話題を取り上げるにはもってこいだ。
 黙って成り行きを眺めていた阿笠に目配せをして、小皿とフォーク、そしてナイフを持ってきてもらう。こちらの思惑が伝わったのか、阿笠は快く人数分の食器を持ってきてくれた。そんな博士には、あとで三人分くらいカステラを献上しようと心に誓った。
 目分量で一人分程に切り分け、小皿に移してフォークを添える。目を輝かせていい子に待っている歩美に渡した。
「わーい!」
「あっずりぃぞ歩美!」
 カステラを落さないように気をつけながらも、パタパタとスリッパを鳴らして歩美はソファへ向かう。そんな小さな背中を光彦と元太は羨ましそうに見つめていた。
 そして、光彦はなにかに気づいたように、バッとこちらを振り返る。その瞳の奥は闘志に燃えていた。
「なまえさん! なまえさんはいつも優しくて素敵です!」
「光彦くんは紳士だねえ。よしよし、光彦くんにもお菓子をあげよう」
「やったー! これすごく高そうです!」
 カステラを貰った光彦は歩美の元に向かっい、早速パクパクと食べ始めた。取り残された元太は、焦燥感を抱きながら必死に頭を悩ませている。
「えっ! あっ! んー……ネーチャンの料理、うちの母ちゃんより美味ぇぞ!」
「わあ、それは嬉しいなあ。元太くんにもお菓子を授けよう」
「よっしゃー!」
 二人に遅れてソファに向かった元太は、大きな口を開けてカステラを食べ始めた。あの大きさでは、一口で食べ終わってしまうんじゃないだろうか。けれど、頭の中がカステラに埋め尽くされた今の三人だったら、早々に食べ終わったとしても話を逸らされたことに気づかないだろう。
 計画通りとほくそ笑んでいると、二人分の乾いた視線が注がれているのに気がついた。
「……なまえさん」
「完全にあの子たちで遊んでるわね」
「いやあ、つい」
 ついって……とコナンは呆れながらぼそりと呟く。聞こえているぞ名探偵。哀は口には出さなかったが、コナンと同じことを思っているというのが顔を見ただけで理解出来た。
「で? 本当のところどうなの? 彼との関係」
「えっ……哀ちゃんも気になるの? えーっと……みんなのご期待に応えられず、ごめんなさい?」
「私にとっては万々歳だわ」
「オメーまだ昴さんのこと疑ってんのかよ」
「当たり前でしょう!? 逆にどうして貴方はそうもすんなり受け入れられるのよ!」
 そりゃあ昴さんの生みの親はコナンくんだしなあ……とは口に出せず、なまえは静かに目の前で交わされる痴話喧嘩にも似た現象を見守ることに決めた。
「ああもういいわ。どうせ貴方のことだから“だってシャーロキアンだから”とでも言うんでしょ。シャーロキアンが全員良い人だなんて、夢物語にもほどがあるわ。現実を見なさいよ」
「オメー、ホームズを馬鹿にしてんのか!?」
「そうとは言ってないでしょ!」
「私と昴さんより、コナンくんと哀ちゃんの関係を疑うべきでは……?」
「はあ!? なんでだよ!」
「なまえさんでもそんな笑えない冗談許さないわよ!」
 えっ怖い。険しい顔で下から睨みつけてくる二人に、思わず銃を突きつけられた時のように両手を上げてしまう。
 恋人通り越して夫婦みたいだなんて、余計な事言わなくてよかった。言ってたらもっと怖いことになってたかも。なまえは後退りをして視線を逸らした。
 完全に機嫌を損ねたそっぽを向く哀の後頭部で、キラリとバレッタが光ったのを視界に捉えた。
 イタリアンビーズで施されたバレッタは、イタリアの土産に哀に渡したものだった。白衣を着ているイメージが強い哀は、研究に没頭するあまり髪の毛を邪魔に思う時もあるかもしれないと考え、買っていこうと決めたのだ。
 そろそろ機嫌を直してもらおう。まるでバレッタの存在に今気づいたかのようになまえは反応した。
「あっ、哀ちゃんバレッタ使ってくれてるんだねー。ありがとう。ふふっ、やっぱり可愛い哀ちゃんに良く似合う」
「…………ふんっ」
 頬を微かに赤く染めて鼻を鳴らした哀は、踵を返して歩美たちの元へ向かった。ちゃっかりカステラを自分で切り分け持って行ったあたり、哀も食べたかったんだなあと目を細める。
 照れ隠しで離れて行く哀をコナンは呆れ顔で見送り、なまえに向き合った。
「で? 何か困ったこととか起きてない?」
「困ったこと? んー……優作さんが早く原稿仕上げてくれないことくらいかなあ。彼、“自分の作品のイタリア版は、ぜひ君に翻訳してほしい”って言っておきながら、書き上げるのは締切ギリギリか過ぎちゃってからだから。彼の新作を待ち望んでいるのは世界共通なんだから、翻訳本が発売されるのも同時がいいだろうって何回も話してるんだけど……やる気スイッチのオンオフ激しいからね」
 コナンは話を聞くと、思い当たる節があるのかハハッと乾いた笑みを浮かべた。親子という関係でもきっと優作に振り回されてきたことがあるんだろう。
「相変わらずだね優作おじさん。……昴さんについては?」
「昴さんは早寝早起きも板についてきたみたいだし特にない……あっ、そうそう! 最近は昴さん、夕ご飯担当になったんだよ! しかも、もう煮込み料理なら一人で作れちゃうの!」
 楽しそうに話すなまえに、そういうことが聞きたいんじゃなくてとコナンは心の中でツッコミを入れた。
 二人が生活を始めてすぐに変声機の存在を知ってしまったなまえに、昴に対して疑いや疑問は何も浮かばないのかと正直尋ねたい。しかし、共同生活自体を楽しんでるようななまえの話しっぷりに、コナンは開きかけた口を閉ざした。
「というかコナンくん、私に訊かなくても、時々私がいない日に遊びに来て昴さんとそんな話してるんじゃない?」
「えっ……どうしてそう思うの」
「ただの勘だよ」
 もちろん、全てが勘というわけではない。コナンが度々やって来ていると裏付けるような確証はちゃんとある。
 仕事から帰ってきた時、昴が晴れやかな顔をして出迎えてくれる時がある。それを不思議に思っていると、キッチンのゴミ箱の中には折り畳まれたケーキの箱が捨ててあったり、水切り籠には洗い立てのグラスやフォークが入っていたりする。そして、リビングで寛ぐ昴の手には、書斎には置いてなかった真新しい本があったりだとか。それらの様子から、ああ今日はコナンと秘密の会議をしたんだなと結論に至るのは容易なことだった。
 これは推理でもなんでもない、一緒に住んでいるからこそ気づけることだとなまえは考えている。けれど、顎に触れて俯き、頭を回転させているこの小さな探偵はどこまで理解出来ているんだろう。
 コナンは神妙な顔つきになり、なまえを見上げた。コナンの眼鏡がキランと光り、なまえに真剣な声が向けられた。
「……ねえ、聞いてもいいかな」
「なあに?」
「この前、一角岩での事件で犯人に捕まっちゃった時、なまえさん言ったよね? “慣れてるから”って」
「言ったね。それがどうかした?」
 コナンの言葉に頷きながら、まだ疑問に思っていたのかと内心驚いた。
 好奇心は猫をも殺すと言うが、彼はこの世界に張り巡らされている見えない線に早く気づいた方がいい。その線に触れれば最後、これからも幸せに暮らしていけたはずの生活が、一瞬にして幕を閉じることになる。
 黒の組織だなんて、ボンゴレから見たら三流以下な組織にだって手こずっているくらいだ。例え類まれぬ推理力を持ち“平成のホームズ”だなんて持て囃されていたとしても、コナンは紛れもなく一般人だ。自分の領分はしっかり把握しておいたほうがいい。
「それって、どういう――」
 それでも君は、そのまま進むと言うのだろうか。この世界の全てを解き明かしてやるとでもいったような気持ちは、いったいどこから生まれてくるんだろう。
 今度こそ逃がさない。そんな決意が見て取れる双眸を受け止めながら、なまえはどうやって答えようかと考え始める。
 その時だった。
「なまえさんもしかして、もう付き合ってる人がいるの!?」
「ええっそうなんですか!?」
「なまえのネーチャン、昴のニーチャンが好きなんじゃなかったのかよ!?」
「……何がどうしてそうなったの」
 いつの間にかバタバタ駆けつけた三人に溜息がこぼれた。無邪気な発想力は恐ろしい……。
 カステラを食べていただけだったのに話が飛躍していることに頭を抱えた。
「まさか、もう付き合ってる人がいるとか!?」
「オメー男いんのかよ!」
「でもなまえさんなら3人、4人、彼氏がいてもおかしくないですよ!」
「なにその結婚詐欺してる女の人みたいな感じ……性格悪そう……」
「それを言うなら、引く手数多って言うんじゃないの?」
「さっすが灰原さん!」
「それにどう考えたって、なまえさんは数人と同時に付き合える人じゃねーだろ。元カレがたくさんいるとかだろ」
「残念ながら今までお付き合いした人は一人もいないんだなー」
 子どもたちの話に若干の修正を加えつつ、あの恋愛に初心なコナンが会話に入ってきたことに目を丸くした。
 彼らの驚き声を右から左に受け流しながら、ここをどう切り抜けようか考える。話を逸らそうにも、既にカステラは完食してしまったようで、とうとう逃げ道がなくなってしまった。
 ここは少しだけ乗ってあげるか。
「まあ、好きな人がいるっていうのはあながち間違ってないかも……」
「本当ですか!?」
「だれだれ!?」
 期待した視線を受け止め、流すようにコナンに目を向けた。なまえにじっと見つめられ、肩に力が入るコナンを見届けると、ふっと微笑んだ。
「私には、“神さま”がいるからね」
「神様?」
「そう、“神さま”」
 嬉しそうに微笑むなまえに、子どもたちは首を傾げ、コナンと哀は眉を潜めた。
「私はもう、身も心も“神さま”に捧げてるの」
 肌身離さず付けているマンダリンガーネットのネックレスにそっと触れる。
 彼が生まれたその時から、彼の存在は希望であり、生きる意味になった。
 彼が生を受けてもう二十年。この二十年間、ずっと綱吉とその仲間が幸せになることだけを胸に行動し、生きてきた。
 この異常なほどの胸懐は、きっと他人からすれば依存や執着だと鼻で笑われるだろう。けれど、そうして生きてきた私は、もう彼の存在に縋ることでしか存在意義を感じられなくなってしまっていた。
「――ね、つっくん」
 瞳を閉じて、今頃書類整理にてんてこ舞いになっている弟に想いを馳せる。
 これまでもこれからも――綱吉は、永遠に私の“神さま”なのだ。

16,09.18