ジェット気流


 ――無理、もう耐えられない。
 なまえは口元にハンドタオルを当てながら、ふらふらと重い足取りで帰路に就いていた。
 作家と担当編集者を交えた打ち合わせの帰り道。仕事中は必死に我慢していたが、もう我慢の限界だった。
 いつも服用している鎮痛剤が無くなってしまい、仕方なく市販薬を飲んだらこのザマだ。前回は薬を飲んだのにも関わらずとてつもなく苦しんだから、今回はきっと軽いと踏んでいた。それが間違いだった。
 ――どうしよう。
 お腹と背中がくっつくぞ。そんな歌があったけれど、腹痛と腰痛が同時に起こり、まさに前後から板挟みにされるような痛み。それに加えて体が重く、吐き気を伴って気分は最悪。今の痛みは一から十で表すといくつ? と訊かれたら、迷わず百と答える。それかもう、数字で表せない程だと断言する。
 既に市販薬を飲んでから六時間が経ってしまっている。なまえは薬が切れかかっているのを身をもって感じていた。
 薬局に寄るべきだろうか。けれど、市販薬が効かないとわかった今、他の薬を使ったところで効果はあまり期待できない。
 ――シャマル様々だな……。
 高校生の時から市販薬はあまり効かず、毎度生理痛に苦しんでいたなまえを救ったのは、Dr.シャマルだった。彼から受け取った鎮痛剤は驚くほどよく効き、それ以来ずっと薬はシャマルを頼っていたのだ。
 普段の女癖はかなり悪く、なまえも度々セクハラ紛いの行為を受けたが、ドクターとしてならばそこら辺の病院にいる医者よりも信用していた。
 なまえは立っていることもままならず、その場にしゃがみ込んでしまう。路地裏に続く道のような場所だから通行の妨げにはならないだろうと思ったが、背中に感じる通行人の視線がなまえを余計に居心地悪くした。
 突き刺すような痛みと吐き出したいのに吐き出せない嘔吐感に、生理的な涙が込み上げる。目尻に溜まったそれは薄く開けた視界の端っこを歪ませた。
 ――なんとかして、帰らないと。
 トイレにも行きたいし、横になりたい。
 なまえは唇を噛み締め、足元を睨みつける。痛みが若干和らいだ時に立ちあがろうと機会を狙っていた。
 すると、視界が暗くなるのを感じた。
「大丈夫ですか?」
 気怠げな体に鞭を打ち、後ろを見るように顔を傾け、声のする方をチラリと見上げた。
 途端、眼に飛び込んできた色に、なまえは息を飲んだ。
「――Firmament……?」
 思わずぼそりと口の中で呟いてしまう。それほどに、綺麗な大空の色が目の前に広がっていた。
 褐色の肌と対照的な瞳の蒼は、信念の強さが伺えた。真っ直ぐに輝きを放ち続ける吸いこまれそうな双眸に、なまえは目を細める。頬を伝った涙に、声を掛けてきた男は少し慌てたように再び同じ言葉を掛けた。
「大丈夫ですか!?」
「……あっ、えっと……すみません。っ、うっ」
 しくじった。イタリアーノがわからないといいけど……。
 自分のやりきれなさに顔を俯かせると、込み上げてくる嘔吐感に小さく唸り声を上げてしまう。
 男はすぐさま隣に跪き、丸まった背中をゆっくり擦りながらなまえ顔を覗き込んだ。
「僕のバイト先、すぐそこにあるんです。休まれていきませんか? ここで蹲っているよりもきっと体に負担が掛かりませんから」
「……っ、でも」
「歩けますか? お連れします」
「……なんとか。お願いします」
 凭れてくださっても構いませんよと言い、男は体の振動が少ないようゆっくりとなまえを立ち上がらせた。よろめいたなまえに断りを入れ、華奢な腰に手を当てて引き寄せる。
 持っていたトートバッグを右肩に掛け直すと、なまえの右腕を自分の腰に回し、着用していたエプロンを掴ませた。
「歩きますよ。ゆっくり、一歩ずつ踏み出して」
 耳元で落ち着いて囁かれる声に、なまえは心なしか痛みが和らぐような気がした。体重をかけられているにも関わらず、歩幅も歩調も合わせてくれる彼の優しさに涙腺が緩みそうになる。
 冷静にどうにかしようと頭では考えていても、気持ちは焦っていたことに気づかされる。こんな歳にもなって一人でなんとかできなかった自分に心の中で悪態をつきながら、なまえは必死に足を動かした。
「ここ……」
 暫く歩いていると、“ポアロ”と書かれた看板と窓が目に留まり、自然と歩みが止まった。それに伴い男も足を止める。
 ――こんな状態じゃなきゃ、すぐに気づいたのに。
 彼がここで働き始めたということは、既に“物語”が次の段階に移ったということだ。
「ここです。僕のバイト先」
 彼の言葉に導かれるように、なまえは再び足を進めた。しかし、頭の中ではずっと近い未来に起きるであろう数々の事件を思い出そうとしていた。
「段差があります。気をつけて」
 男はなまえが躓かないよう、小さな段差にも気を配った。
 店扉の前に着くと、なまえを支えていない方の手で扉を開き、男は店内をぐるりと一瞥する。そして扉に一瞬触れた後、なまえに着きましたよと優しく語りかけ、店に入った。
「あっ、安室さんおかえりなさ……なまえさん!? どうしたんですか!?」
 来客を告げるベルの音に振り返ると、テーブルを拭いていた梓は血相を変えてパタパタと駆け付けた。
「買い出しからの帰り、道端で蹲っていたのでお連れしました。お知り合いでしたか?」
「ええ、時々お店に来てくれるんです……なまえさん、大丈夫?」
 透はなまえをカウンター席に導き座らせると、梓に視線を向け、トートバッグを持ってバックヤードに引っ込んだ。
 透に力強く頷いた梓をぼんやりと見上げ、きっと自分に配慮してくれたことに気づき、流石だなとなまえは透を評価した。
「なまえさん、違ったらごめんなさい……もしかして、“アレ”?」
 言葉を紡ぐのも億劫で、首を縦に一回振る。
「薬は? 飲みました?」
「……飲んだけど、効かなくて……きっと、いつも飲んでるのと、違うやつだったから……」
 体の奥から何かが込み上げてくるのを堪えるよう、持っていたハンドタオルを口元に当てる。苦しそうに眉を潜めながらもくぐもった声で話すなまえに、梓は眉を下げた。
「とりあえず、まずはお手洗いに行きましょう」
 吐き気が収まるかどうかは本人次第だが、一先ずトイレに行ってきた方がいいだろう。梓はそう判断し、なまえが頷いたのを確認すると、なまえがふらついて倒れないよう支えながら手洗い場に連れて行った。
「何かあったら呼んでください。私が飲んでる薬、もしかしたら気休めにしかならないかもしれないけど……。きっと、よく効いてくれるから、用意して待ってますね」
 梓が静かに扉を閉めながら、特に最後の一言を努めて明るい声で話す梓に、なまえは瞼を閉じる。
 梓に気を遣わせてしまった。願かけにも似たような梓の言葉に、なんだかうら悲しくなる。
 扉の向こうにある店内では、きっと梓が薬を用意してくれていて、彼に容態を説明している頃だろう。
 なまえは扉に背を向け、便器に向き合った。
「……苦手、なんだよな」
 でも、やらなくちゃだめだよね。
 目の前に広げた掌を見つめ、長く細い息を吐く。気持ちを入れ替えないと。吐き気をどうにかしないことには一向に楽にはなれない。
 ギュッと手を握り締めて自分を奮い立たせる。
 なまえは便座を上げてその前に膝をついた。袖が汚れないよう肘まで捲り、もう一度、覚悟を決めるように深呼吸をした。

   *

 胃の中身がからっぽになり、胃の中をぐるぐるとうずめいているような気持ち悪さから解消され、なまえの顔色は若干血色が良くなりつつあった。
 どれほどトイレに篭っていたのかはわからないが、トイレから出て店内に戻っても、来客は一人もいなかった。それを珍しく思いながらカウンター席に向かうと、梓と透がほっとした表情で出迎えてくれた。
「はい、なまえさん。これ私が使ってる薬です。効くかどうかは飲んで見ないとわからないけど、飲まないで痛みに耐えるよりマシになると思うから、飲んでください」
「ありがとうございます……」
 梓に礼を言って、白い錠剤と水の入ったグラスが置かれた席に腰を落ち着ける。
 パッケージを押し潰し、錠剤を手のひらに転がす。早く効いてくれという一心でグラスを傾け、薬と水を一気に流し込んだ。
 胃の不快感も無くなり、薬も飲めたことで無意識に入っていた力が抜け、背もたれに体を預けた。息をゆっくり吐き出しながらグラスを置くと、タイミングを見計らっていたかのように褐色の手がグラスを取り上げる。代わりに、グラスがあった場所にはホットココアが置かれた。
「どうぞ」
「え……でも、甘いのは……」
「大丈夫! チョコもカフェインも入ってないから、安心して飲んでください!」
「ほんと……? ありがとうございます。いただきます……」
 なまえはカップを両手でそっと持ち上げ、何度か息を吹きかけた後、口をつけた。口の中にほのかな甘さがじんわりと広がり、コクリと喉が動いた時、なまえの目尻はふわりと緩んだ。
「美味しい……!」
「よかった。梓さんにお出ししても大丈夫な飲み物を訊いて、僕が容れたんです」
「そうだったんですか……」
 なまえは落ち着いて返事をした。けれど、心の中では、なるほどこれは安室さんが……えっ安室さんが!? と思わずココアと透に視線を行き来させてしまう。
 まさかこんなに早く彼が作ったものを口にできるだなんて。思ってもみなかったことになまえはパチパチと瞬きをする。未だに自分に起きた数分間のことが夢のように思えてしまい、熱さも気にせず残りのココアを一飲みしてしまった。
「ふふっ、お代わりもありますよ」
「い、頂いても!?」
「ええ、勿論です」
 ココアを気に入った様子のなまえに笑みを浮かべた透は、綺麗に飲み干したカップを受け取り二杯目を注いだ。熱いから気をつけてと言葉を添えてカップをなまえの前に置くと、改まったように背筋を伸ばした。
「申し遅れました。初めまして。先日からここでバイトをしてる、安室透といいます」
 早速二杯目を頂こうと息を吹きかけていたなまえは、突然名乗り始めた透に慌ててカップを置き、同じように姿勢を正した。
「あっ、えっと、先程は本当にありがとうございました。沢田なまえです」
 ぺこりとその場でお辞儀をし合うなまえと透に、傍で見ていた梓は可笑しそうにクスクスと笑った。
「安室さん、私表のお掃除してきますね」
「ありがとうございます、お願いします」
 あとは若いお二人に……とでも言ったように楽しそうな視線を寄越す梓になまえは首を傾げる。せっかく他の客がいないのだから梓も交えてお話したかったと、梓の背中を見送りながらなまえは少し残念に思った。
 寂しさを押し流すように再びカップに口をつけてココアを飲む。一杯目よりも優しく感じるココアの甘さに目を細めていると、透がじっと見つめてくるのに気がついた。
「? どうかしました?」
「いえ。美味しそうに飲んでくださるので、なんだか嬉しくて」
「だって本当に美味しいんですよ! こんなに美味しいココア、初めて飲んだかも。それに、梓さんの薬の効果もあるだろうけど、痛みが和らいできたような気がして」
「それはよかったです」
 二人の間に柔らかな空気が漂っていると、カランとベルが鳴り、来客が訪れたことを知らせた。
「いらっしゃいませ!」
 透が接客をするために離れていったのを確認し、なまえはスマホを取り出し、テーブルの下でロックを解除した。
 連絡先を開き、誰に連絡しようか思い悩む。未だにズキリと痛むこの腰と腹では歩いて帰ることはできない。かといって、タクシーで帰れるほどのお金は残念ながら持ち合わせていなかった。
 連絡先をスクロールしていくと、昴の名前を捉えた。そのままタップしそうになったが、指を止めて思いとどまる。
 ――シャマルに薬もらわないと。
 工藤邸に戻ってもあの鎮痛剤はないんだと思うと、昴に連絡を入れるのは気が引けた。けれど、だからと言ってシャマルに連絡をするのは嫌だ。今はどこで何をしているかは知らないが、会えばどさくさに紛れて体を触ってくる態度は変わってないだろう。
 そうと決まれば、迎えは彼らの内誰かに頼むしかない。けれど残念なことに、皆の予定は把握出来ていない。そんな中、急な呼び出しに応じて自分の元に駆けつけてくれそうな人といったら……。なまえは携帯を膝の上に置き腕を組んで考える。
 ……だめだ。なんだかんだで皆優しいから、すぐに来てくれそう。
 なまえは軽く頭を振り、考えを改めて安全運転ができそうな人物を絞り込んだ。車道を爆走されては痛みに響く。それだけはごめんだ。
 悩んだ結果、次々表示される連絡先をスクロールしていき、“獄寺隼人”という字を探し出してタップした。
 こんな事で手を煩わせてしまい、本当に申し訳ないと思いながらも文章を打ち込む。確か、あの地下施設に薬のストックが置いてあるはず。
 本当は、薬を持ってきてもらうだけでもよかった。でも、ホルモンバランスが崩れ精神的に滅入っている今、工藤邸に戻るよりもあの場所へ行ったほうが落ち着けるだろう。それに、久しぶりに皆の顔が見たい。
 隼人にメッセージを送信し終え、ついでに昴にも帰りが遅れるとメールを送った。
 これでよしと携帯をテーブルの上に置き、ココアに手を伸ばした。
 再びカランとベルが鳴り、掃除を終えた梓が戻ってくる。いつの間にか接客を終えて戻ってきていた透は、あっという間に注文を作り終えると、梓に伝票と共に料理を運んで貰っていた。
「なまえさん、帰れますか? 車を出せればよかったんですが、僕今日ラストまでで……もしよかったら、タクシーを呼びましょうか?」
「大丈夫です。車を呼びましたから。わざわざありがとうございます」
 ここまで気を遣われると、何か裏があるのではないかと身構えそうになってしまう。
 安室透として心配してくれてる様だから今はまだそっとしておいても大丈夫だろうが、彼の瞳の奥にバーボンや降谷零の影がチラついていた時は注意しなければいけない。公安や黒の組織がどこまでボンゴレについて知っているかはわからないけれど、用心するに越したことはないはずだ。まあ、きっと公安に目をつけられているのは風紀財団くらいだろうけれど。
 すぐにチカチカと点滅する通知ランプに、ほっと息を撫で下ろした。メッセージを見ると、すぐに支度をして向かうといったことが綴られていた。
 一応こちらの重要人物に顔は見られないほうがいいと考え、ポアロから少し離れた場所を指定して返事を送る。
 安室透――降谷零が接触してきたことも伝えなければならないから、ちょうどいい。
 少し温くなってしまったホットココアを口に運んだ。
 それにしても……と、なまえはテーブルに両肘を付き、組んだ手の甲に額をくっつけて重いため息をついた。
 ――もっとまともな初対面にしたかった……。
 よりによって、吐き気を催してる時だなんて。醜態を晒してしまったことに涙が出そうになる。
 徐々に店内が賑わっていくのを耳で感じながら、隼人から到着したという連絡が来るまでの間、なまえは軽く後悔に見舞われた。

16,09.22