穏やかな午後


 透に助けられた日から数日経過したある日。なまえは並々ならぬ覚悟を決めてポアロに足を運んだ。
「いらっしゃいませ! おや、なまえさん」
「こんにちは、安室さん!」
 お好きな席にと案内されたため、なまえはカウンター席ではなくソファの方へ足を進める。ソファに腰を落ち着けると小さなグラスに入った水とお絞りが手渡された。
「もうお体は大丈夫ですか?」
「はい、お陰様で。あの時、安室さんに声を掛けて頂いたからです」
「そんな、僕は何も……」
「だから今日は、そのお礼をと思って来ました!」
「お礼、ですか? 別にそんな、当たり前のことをしたまでで……」
 そう言うだろうと思っていたと、なまえは心の中でポツリと呟く。
 お礼をしたいという気持ちもあるが、それだけではない。透にとって強烈だったであろう、自分の第一印象を払拭すべくやって来たのだ。実はこれが本日の、本当の目的である。既に張り付いてしまった“吐き気を催している女”というイメージを、“売上に貢献する気前のいいお客さん”にレベルアップさせるのである。
「そんな! お礼をしなければ私の気持ちが収まりません! 今日のためにお腹を空かせてやって来たので、ポアロの売上に貢献できますよ!」
 メニューを広げて美味しそうな写真に目移りしそうになる。メニューから視線を外し、気合に圧倒されつつある透をそっと上目遣いで様子を伺った。
「……と言いつつ、本音は私が安室さんの料理食べたいだけなんですけど」
 先程までの威勢の良さはどこへ行ってしまったのかというくらい、なまえは小さな声で遠慮がちに本音を漏らす。
 尻すぼみしていく声と比例するように段々と恥ずかしそうに視線をメニューに戻す姿に、透は目を丸くする。そして、こみ上げてきた笑いを抑えきれず、口元を手の甲で隠しながら笑い声を上げた。
「ぷっ……ははっ! 随分と可愛らしい人ですね、貴女は!」
「えっ、なんでそうなるの安室さん」
 話した後も笑い続ける透になまえは思わずツッコミを入れてしまう。知らぬ内に彼のツボを刺激してしまったのだろうか。いやでも、本当のことを言ったまでだしなあ……となまえが笑われた理由を考えていると、目尻を拭い呼吸を整えた透は、ようやく落ち着きを取り戻した。
「わかりました。この時間帯はもうほとんどお客様はいらっしゃいませんし、貴女に腕をふるってご馳走しますよ」
「やった! ありがとうございます! それじゃあ……」
 メニューを透に見える様にテーブルに置き、次々と食べたいものを伝えていく。
 聞き終えた透は注文を確認し、それではお待ちくださいとなまえに伝えて踵を返した。
 厨房で作業を開始した透に時々こっそり視線を送る。
 ――よし、これで絶対第一印象は払拭されたぞ。
 テーブルの下で小さくガッツポーズを取るように両手を握りしめると、持ってきたノートパソコンを取り出して電源を入れた。料理が運ばれてくるまでの間、出来る限り仕事を進めておこうとキーボードを叩き始めた。

   *

 注文をしてから15分も経たずに目の前に広げられた料理の数々に、なまえは目を輝かせた。ずっと食べたかったハムサンドをはじめ、どの料理もとても美味しくて、なまえは味わいつつもぺろりと平らげてしまった。
 その様子を遠目で眺めながら透の口元は自然と緩んでいた。そして、タイミングを見計らい、気持ちのいいくらいきれいに完食した皿とバトンタッチするようにデザートのレモンパイとアイスティーを運んだ。
 なまえは目の前に置かれたレモンパイを興味深そうに様々な方向から観察をする。横から見ると、レモンクリームの上にその二倍以上の厚さもあるメレンゲが乗っていた。それは雪のようにふわりとしていて、思わずゴクリと唾を飲み込んでしまう。
 なまえは目を輝かせながらお絞りで手を拭いた。
「あの、安室さん」
「はい? どうかしましたか?」
 伝票をテーブルに置き去ろうとするとなまえに呼び止められる。透は振り向きながら、もしかして何か不備があったかと首を傾げた。
「あの……もしよかったらなんですが、少しお話しませんか?」
「お話し、ですか?」
「安室さん、お話し上手だから、色んな話を知ってるんじゃないかと思って。それに安室さんのことも、もっと知りたいですし」
 直球で投げかけられた言葉に透は目を丸くする。話し上手だと言われた経験は数多くあるし、自身も話をすることはとても好きだ。仕事上、このトークスキルは探り屋と謳われるほど役立っている。
 しかし、それを会って間もないとも言えるくらい数える程しか会話をしていない女性に指摘されるのは、初めての経験だった。それに加え、なまえには他の女性から感じるような下心が全く感じられない。安室透という人間と会話をしたいと嘘偽りなく告げた瞳は、温かく優しい色をまとっていた。
 時刻を確認すると、まだ客足が薄い時間帯だった。さらに店内にはなまえしかおらず、貸切状態のようになっていた。それに今日は梓も店長もいないということもあり、自分一人で店を回している関係上、まだ休憩を取れていなかった。
 来客があればまた接客を再開すればいいか。顎に指を当て考えた透は、デザートに手をつけず見つめてくるなまえに向き直った。
「ええ。構いませんよ」
 透の返事を聞くと、なまえは嬉しそうに両手を合わせ喜んだ。
 きっと自分と話しながらデザートを食べようと考えていたであろう彼女の喜び様に、胸の奥がくすぐられるような照れ臭さを感じる。
 せっかくだから自分用の珈琲も煎れてしまおうと、一度厨房に入り手早く珈琲を作ると、カップを持ってなまえの向かい席に腰を下ろした。
 透が座ったことに頬を緩めたなまえは、小さくいただきますと頭を下げてからレモンパイを一口分にフォークで切り分け、口に運んだ。
「んっ……美味しい! 美味しいです安室さん!」
「それはよかったです。この前も思いましたが、なまえさんは美味しそうに食べてくださるので、作りがいがあります」
「本当ですか? そう言っていただけると嬉しいです。それに、作りがいがあるって気持ち、わかります」
「なまえさんも料理をなさるんですか?」
「はい、小さい頃から手伝いとかでやってたんですけど……でも、安室さんみたいに、こんなに美味しく作れません。安室さんこそ、普段から料理されるんですか?」
「ええ。恥ずかしながらこの歳にもなって未だに独り身なので、仕事以外に趣味になることと言ったら数える程しかなくて……。それに、一度始めたことは極めたい性分なんです」
 料理は自炊していくうちに自然と覚えていったが、この他にも潜入捜査をするために取得した技術は多い。その甲斐あってか、組織での仕事にも役立ち、頭角を現していく道筋をつくることができた。
 透の話を聞くと、なまえはまるで子犬や赤ん坊を見かけた時のように頬を緩めた。
「頑張り屋さんなんですね、安室さん」
「……え?」
 珈琲を飲もうとしたカップに伸ばした手を止めて耳を疑う透に、なまえはただにこりと笑みを深めた。
「コナンくんから聞きました。安室さんが毛利さんの弟子になったって。安室さんも探偵さんだったんですね!」
「……え、あっ、ああ! そうなんですよ! プライベート・アイとして依頼を受けていたんですが、縁あって毛利先生の弟子にして頂いたんです。コナンくんとも知り合いだったんですね」
「はい。毛利さんたちにはいつもお世話になりっぱなしで……。ところで、“縁あって”って……もしかして、事件に遭遇してしまったんですか?」
 なまえの問いかけに、透は眉を下げて力なく笑う。それは肯定の意味を表していた。
「あっごめんなさい。探偵さんのお仕事は守秘義務でしたよね」
「いえ……もう秘密にしておく理由もありませんし、大丈夫だと思います」
 透は前置きをすると、掻い摘んで小五郎と出会った、夫婦になる予定だった男女が真相を知ってしまったウェディング・イヴの夜について話し始めた。

 透が事件について話している間、なまえは何も手をつけずに静かに耳を傾けていた。
 事件が解決して弟子になったところまで語ったところで、これで話は終わりだという合図のように、透はすっかり冷めてしまった珈琲を口につける。黙ったままのなまえを不思議に思い、声を掛かけようか迷っていると、彼女は頬杖をついて窓の外を眺めた。
「……別に死ななくてもよかったのに」
「えっ」
「好きな人と一緒にいられるなら、例え血を分けた家族だったとしても、別にそんなに気にしなくたって……」
「それは……」
 これまでずっと愛していた人との血の繋がりを知ってしまえば、誰だって衝撃を受ける。自ら命を絶ってしまったということは、それほど真実に苦しんでいたとも言えるだろう。
 それを、彼女はまるで、馬鹿馬鹿しいとでも言うかような口振りで言葉を吐いたのだった。
「性別も年齢も、血統だって、後から付随してきたものです。それらに最初惹かれて好きになったんじゃなくて、相手の性格や個性、心に惹かれ次第に好きになっていったはず。好きな人がたまたま血が繋がっていたり、性別が同じだったり、年齢が離れていた……たったそれだけのこと」
 目の前にいる女性は、本当にさっきまで自分の振舞った料理をニコニコと食べていた人なのかと疑うほど、なまえの纏う雰囲気はガラリと変わっていた。
「好きな人は、どんな事があっても大切にした方がいい」
 この人は、一体どんな人生を送ってきたんだ。普通と表現するにはありきたりすぎるが、一般家庭に生まれ順風満帆に生活してきた場合、こんなことを真剣な眼差しで口にするだろうか。
 まるで、大切な人を助けられなかった過去があると匂わせる口ぶりに、微かに眉が動く。
 透は公安や黒の組織での仕事で数多くの人間と出会っている。しかし、なまえはその中のどのタイプの人間にも当てはまらないように感じた。一般人だと思っていれば、一般人らしからぬ陰りを見せるなまえ。けれど、その表情は事件の被害者や裏の世界で息をする者と同じ分類にするには、あまりにも綺麗で汚れないものだった。
 これまで白と黒の間を走り抜けて来た経験から、透は出会った人間を性格や行動・思考パターンによって大まかに分類し、それぞれに合った対応をして相手を懐柔したり服従させたりと、言葉巧みに操っていた。
 しかしそれらを考慮してみても、なまえという人間は、掴みどころのない風のような存在だった。
「――居なくなってから、後悔するものだから」
 哀しそうに微笑むなまえに、透は言葉を失った。
 なまえの少し掠れた声が空調に吸い込まれると、店内はお互いの息遣いさえ聞こえてしまいそうなほどの静寂に包まれた。
 透は大理石のように洗練されたようななまえの横顔を盗み見る。けれど、ここではないどこかを見つめる瞳から心境を読み取ることができず、テーブルの上に視線を落とした。
 視界に入ったなまえのアイスティーは、まだ半分ほど中身が残っている。事件の話を初めてから彼女が手をつけていないそれは、既に氷が全て溶け切ってしまっていた。結露した水滴が流れ星のようにグラスを滑り落ちていく。
 透はそれが、何故だかなまえの涙に見えて仕方がなかった。

16,09.26