星になる少し前に


 近所のスーパーで美味しそうな牛肉が安く手に入ったため、今夜はハヤシライスにしようと心に決めた昴。
 そそくさと買い物を終わらせて帰宅し、さっそく夕食の支度をしていると、なまえが脱稿したと嬉しそうに報告しに来た。この所、部屋に篭もりきりの時間が多くなり、食事時以外で顔を見合わせることはめっきり減ってしまっていた。
 脱稿したテンションで自然と夕食作りを手伝うなまえをやんわりと断ったが、彼女はそのまま楽しそうに料理を続ける。仕方が無いと、久しぶりに浴槽にお湯を溜めましょうかと提案すると、目を輝かせてスキップをしながら浴室に向かった。
 夕食も美味しそうに食べ、ゆっくり風呂に浸かったなまえ。風呂から上がり、解放感溢れにこにこと自室へ向かおうとするなまえに廊下で声を掛けた。
「なまえさん、よかったら一緒に飲みませんか?」
「……私、あんまりお酒飲めませんよ?」
「なので君が飲めそうな物を買ってきました」
「本当ですか!? ありがとうございます! お酒飲むの久しぶり!」
 喜ぶなまえに昴は目を細めた。
 あれはいつだったか。食事中、酒の話題になった時、なまえは愚痴を零すように語っていた。
「私、弟とかには家以外で飲むなって耳にたこができるくらい言われるんですよ」
「おや、酒で何か失態を?」
 なまえは悩ましげに眉を潜め首を振った。
「ううん。でも、私お酒飲むとすぐ顔赤くなっちゃうんです。それが恥ずかしくてあまり外では飲めなくて……。それに弟も、“すぐ顔が赤くなるって酒弱いってことだろ”って言われて。弟は、すごく強いのに」
「ホォー……」
 唇を尖らせ話すなまえは、不満そうに食事を再開していた。
 この話を聞いた時、興味本位で彼女と酒を飲んでみたいと思った秀一。
 実は一人で買い出しに行く度、どの酒ならなまえが飲めそうかと毎回こっそり商品棚を眺めていた。彼女は甘口を好むから、きっとそういう酒なら楽しんで飲めるだろうと、いくつかピックアップしておいた。
 そして今日、そろそろなまえの仕事も落ち着くのではないかと買い込んだ次第である。彼女は仕事を仕上げた翌日、きっとのんびり過ごすと見越していた。予想は的中し、風呂場から微かに聞こえる、明日はオフだと鼻歌交じり歌うなまえの機嫌のいい声には、思わず小さく吹き出してしまった。
 ゆったりと寛げる方がいいだろうと、場所はキッチンではなくリビングを選んだ。てっきりローテーブルを挟むように座ると思っていたため、自然と隣に座ったなまえに眉を上げそうになる。
「お口に合えばいいんですが……」
 氷を入れたグラスに度数が低めの冷えた果実酒を注ぎ、なまえに振舞った。
 珍しいものでも見るようにグラスに入った酒を眺めたなまえは、昴にいただきますと頭を下げ、こくりと一口飲み込んだ。
「美味しい! ジュースみたい!」
 嬉しそうにちびちびと果実酒を飲むなまえに自然と頬が緩む。
 暫く観察していると、なまえの頬は徐々に赤みを帯びてきた。
「本当にすぐ赤くなるんですね……」
「うっ……そう言われるのが恥ずかしいからあんまり人と飲まないんです……。何でみんなそんなに強いの……」
 目を潤ませ赤面し、視線を惑わせ見上げてくるなまえに息が詰まる。
 ――なるほど……弟くんの言う通りだな。これは外で飲ませない方がいい。
 外で飲ませれば悪い虫を刺激してしまうのは容易に目に浮かぶ。
 しっかり者のなまえとはいえ、酒が回っていれば正常な判断ができるとは限らない。なまえの性格だから、知らない人間に話しかけられても、そのまま会話を楽しんでしまうだろう。
 秀一はまだ見ぬ弟に感謝した。なまえの弟やその周りの人間は、きっと彼女を悪い虫から守る騎士のような務めも果たしていたのだろう。なまえが酒を飲むまでは、彼女の弟がそこまで言及する理由をきちんと理解できなかったが、これは流石に心臓に悪い。
 包容力もあり器量の良い彼女が、酒を飲むとこうなると知れれば、ギャップにやられる男も多いだろう。寧ろ、彼女の周りの者達はそうならなかったのだろうか。だとしたら、強靭な精神力の持ち主である。
 秀一がバーボン片手に悶々と考え込んでいると、先程まで機嫌良く酒を嗜んでいたなまえはグラスを持ったまま固まっていた。バーボンの瓶と昴の手元を交互に見つめるなまえに、なんとなく彼女が考えていることを予想した上で昴は話しかけた。
「どうしました?」
「ウイスキーって、どんな味するんですか?」
 こてんと首を傾げるなまえに、昴は悪戯っ子のような笑みを浮かべる。
「飲んでみます?」
「えっ……だって昴さんが飲んでるの、すごく強いやつじゃ……?」
「ハイボールにすればなまえさんも飲めますよ」
 話しながらも手早くハイボールを作ってやり、どうぞと差し出すとなまえは恐る恐るといった様子で手を伸ばした。
 そんなに緊張しなくてもいいのにと笑いそうになるが、彼女はまだ味わったことのない未知の世界へ足を踏み入れるのだろう。
「大丈夫、飲んでごらん」
 娘の成長を見守るような、妹の背中を押すような気分で囁くと、なまえはちらりと視線を寄越してグラスに口をつけた。
「ん……っ! 美味しい……!」
「それはよかった」
「ウイスキーって、アルコール強くて、なんだか手の届かないお酒だと思ってました!」
 ウイスキーの布教に成功した昴はにんまりとほくそ笑んだ。
 すっかりハイボールを気に入ったなまえは、多少口数が多くなり、仕事の話や少年探偵団と遊んだこと等を昴に話し始めた。楽しそうに話すなまえに、昴はバーボンを飲みながら相槌を打つ。会話が進むにつれ、翻訳についてや優作とのやり取り等、巷に知れ渡っていない話題が出始め、昴も食い入るように話を聞いた。
 そんななまえが酒に酔いしれるのはあっという間だった。
 気づけば、なまえは口数が減り、まるで一枚一枚写真に収めるようにゆっくりと瞬きを繰り返していた。とろんとした瞳は涙を溜めたように潤んでおり、随分赤く染まった頬は果実のようだった。
 これ以上飲むのは無理だろう。
 昴はハイボールと水の入ったグラスをこっそりすり替えると、なまえは気づかぬままグラスを口につけた。一杯分の水を一気に飲み込んだなまえに、もう一杯飲みそうだと足しておこうと水を注ぐ。
 すると、何を思ったのか、なまえはピッチャーを持っていた昴の手をゆるく掴み、自分の頬に押し付けた。
「ん……昴さんの手、冷たい……」
 結露した水が付着していたこともあり、冷えていた昴の手はなまえの火照った頬を少しずつ冷ましていった。もっとと強請るように昴の手の平にさらに頬を擦り寄せる。
 なまえに手を離すようにも言えず、昴は溜息をつきそうになるのを堪えて声を掛けた。
「水、飲みますか?」
「んー……。もうちょっと、このまま……」
 頬に添えた昴の手が離れていかないよう、昴の手の上に自分のそれを重ねて捕まえる。昴の手に体温が吸い取られていくような感覚が心地よく、なまえは目を閉じた。
 どうすることも出来ない状況に、昴は自由の効く手でぽりぽりと頭を掻いた。
 どれくらいそうしていただろう。喉が異様に渇いた昴が自分のグラスに手を伸ばそうとすると、なまえがぽつりと呟いた。
「……私が」
「……?」
「私が、もっとお酒強かったら……昴さんのお相手できたのに……」
「っ……」
 伏せていた瞳をゆっくりと開け、昴のグラスを見つめながら言葉を紡ぐなまえに息を呑む。
「いつも、一人で飲んでて……寂しそうだなって思うことがあるんです。もちろん一人の時間を楽しむっていう、楽しさもわかりますが……偶には誰かと一緒にっていうのも、楽しいんじゃないかなって……」
 なまえは必死に瞼を開けて喋ろうとするが、眠気に耐えきれず睫毛を震わせた。話しながらも段々と俯いていき、それに伴うように目を閉じてしまう。力が抜けたなまえの手は、昴の手をそのままに、すとんと膝の上に落ちてしまった。
 ――まさか、なまえがそんなことを思っていたとは。
 昴はヒュッと小さく息を吸い込んだ。
 なまえは、どこまで俺のことを支えてくれるんだろうか。変声機を見ても何も言わず、有希子が毎週通っていたことにも目を瞑り、自然と振る舞いつつもさり気なく助け舟を出してくれた。そして、この発言である。
 ここまでされてしまうと、引き際が分からなくなってしまうじゃないか。
 俺を支えようと差し伸べ支えてくれるなまえの手を握ってしまいたくなる。少しだけなら、寄りかかっても構わないのでは……だなんて、馬鹿なことを考えてしまう。
 彼女を巻き込むだなんて、そんなこと、あってはならないのに。
「……では、なまえさん。また一緒に飲んでくれますか?」
 酒も回っているから、きっと忘れてくれるだろう。
 口に出た言葉は、少し震えているような気がした。
 沖矢昴の声でよかった。これが本来の、赤井秀一の声だったら、本当に格好がつかなくて笑ってしまう。
 ぴくりと閉じられていたなまえの瞼が動く。ゆっくりと瞳を開き、視線だけそろりと上に逸らして、昴の顔を見た。
「でも……私、弱いから……」
 きっと彼女はこの後“つまらないだろう”と続けようとする。
 そうじゃない。違う、気づいてくれ。
 そう想いを込めて、真っ直ぐなまえを見つめた。
「君と、飲みたいんだ」
 カラカラに渇いていた口は、語りかけるように言葉を紡いだ。
 昴の言葉を聞き入れたなまえはぽかんと口を開け、潤んだ瞳を大きく開かせる。視線を惑わせながら昴の言葉を口の中で復唱し、噛み砕いて理解すると、緩く唇を噛み視線を上げた。
「……へへっ、よろこんで……うれしいなあ」
 花が開花するように笑ったなまえは、昴の肩に寄りかかり、そのまま眠りについた。
 時間が経っても未だに風呂上がりの香りに包まれる髪に鼻腔がくすぐられる。薫香に誘われるようになまえの髪に手を伸ばし、そっと撫でた。甘く絡みつく飴色の髪の毛は、とかしていると指の隙間をさらさらと滑り落ちていく。
 彼女の肩に回そうとした腕は、ソファの背もたれに不時着した。
 昴がもぞもぞと動いたため、昴の肩に頭を預けていたなまえは、少し声を漏らしつつも昴の胸になだれ込むように体勢を変えた。眠ったまま器用に昴の脚に自分のものを絡ませ、より快適に眠りにつけるよう、なまえは昴の胸に抱きつき顔を埋める。
 抱き枕状態になってしまった状況に唖然としつつ、これは絶対寝にくいだろうと眉を潜めた。ぐっすりと眠りにつく様子に、心を許されたのだと純粋に嬉しく思いつつ、無意識でここまでやってのけてしまうなまえを末恐ろしく感じる。
 なまえの薄い寝間着越しに女性独特の柔らかさ伝わってきて、そういえば彼女も女性なんだと、遠い景色を見るようにぼんやりと考えた。そう意識し始めると、酒が多少回っている脳は思春期の子どものようになっていった。
 なまえのつむじから順に視線を落としていくと、細い腰の先にある、酒で火照って淡く色づく太腿が目に入る。触れれば手に吸い付きそうな白さに、くらりとしそうになった。
 邪な気持ちを忘れようと頭を振ると、無造作に投げ出されたなまえの手が視界に入った。なまえが起きないようそっと彼女が寄り掛かっていない側の腕を動かし、指のつけ根に薄らと残った傷にそっと指を這わせる。
 十日ほど前のことだ。珍しくなまえから帰りが遅くなると連絡を貰った翌日の朝食時、彼女の手に絆創膏がつけられていることに気づいた。その時は、顔色が良くなり、心なしか情緒も落ち着いている様子だったから、あまり気にしてはいなかった。
 だが、と秀一は考えを改める。
 絆創膏で隠れていた傷痕を見る限り、これはきっと噛み痕だろう。
 ――吐いたのか。いや、吐こうとして口に指を突っ込んだか。
 仕事柄、傷痕は見慣れているため、傷を見ればどのようにつけられたのか等の状況は簡単に予想がつく。経験から見てみても、きっとなまえは吐くことに慣れていない。そしてこの傷は、指を突っ込んで舌を刺激した時、こみ上げた嘔吐感に耐えきれず噛んでしまったのだろう。
 彼女が苦しむ様子は見たくないが、自分の知らない場所で苦しんでいたと考えると、あまりいい気持ちはしなかった。
 体の奥底からふつふつと湧き上がってくる不釣り合いな情を抑えるように、変声機のスイッチを切る。そうして抑えることができればどんなに楽だろう。けれど、残念ながらそう上手くできた身体ではない。
「……参ったな」
 なまえを視界に入れないよう、グラスに入ったウイスキーを一気に飲み干す。
 掠れた声が熱を孕んでいることに、秀一は気づかないふりをした。

16,10.01