歩み寄る勇気


 カーテンの隙間から朝日差し込み、意識が浮上する。朝日から逃げるように寝返りを打ち、片手で目をぐりぐりと擦った。
 今何時だろう。もう一方の手で携帯を探り出そうとする。いつもなら目を瞑っていてもすぐに携帯を引き寄せられるのに、今日はどんなに手を伸ばしても、携帯には辿り着かなかった。
「んー……?」
 仕方なく目をしばしばと瞬きをして、無理矢理脳を覚醒させる。起き上がり辺りを見回すと、チェストの上にぽつんと携帯は置かれていた。
「あれ……?」
 どうしてあそこにあるんだろう。寝相で乱れた頭をポリポリ掻きながら首を傾げる。
 横着だと思いつつも、まだ眠気が体を支配しているため、その場から動かずに手だけを伸ばして携帯を掴もうとする。けれど、それだけでは届かなかったため上半身も一緒に伸ばし、やっとの思いで携帯を手に取った。
「ぅえ!?」
 起動させたスクリーンに映し出された時刻は八時過ぎ。いつもの起床時間から数時間は経っていた。
「ね、寝坊した!」
 急いでベッドから飛び上がった。着替えようと寝間着に手を掛けたところでなまえは我に返る。
 ――待って、私なんでベッドにいるの?
 なまえは昨夜の記憶を遡った。昨日は風呂上がりに昴に誘われて一緒に酒を楽しんだ。酒が回りとろんとした視界の中、昴と何か大事なことを話して、それで……。
 それで、その後は?
「うそ……何も覚えてない……」
 なまえは頭を抱えて力をなくしたようにベッドに座り込んだ。
 どんなに昨夜のことを振り返っても、昴と話した後のことが思い出せない。記憶がないということは、寝落ちしたということだろうか。そうだったら安心だけれど、その後二人でベッドに沈んだとかだったら……。
「いやいやいや、ないないない。あるわけない絶対ない」
 不埒な予想を首を振ってかき消した。全力で首を振ったためか少しくらりとする。
 まさか、そんな展開あるわけがない。有り得ない。絶対ない。それに、身体が痛くないし、赤井さんだってそんなホイホイ女に唾つけるとかはない……はず……。
 心臓がバクバクと騒ぎ出す中、“焦りは最大のトラップ”という誰かさんの言葉を思い出し、冷静さを取り戻そうと深呼吸を一つした。
「お酒飲んで、寝落ちして、昴さんが運んでくれて、今に至る。……そう、そうだよ、絶対そう」
 誰に聞かせるわけでもなく、自分に言い聞かせる。手繰り寄せた記憶と想定される展開を、起承転結を確認するように指折り唱えた。もはや後半部分は願望に近い。
「はぁー……」
 なまえは両手で顔を覆って項垂れた。暫くそのままでいると暴れていた心臓が落ち着いてくる。
 とりあえずこの後は着替えて、顔を洗い、歯を磨いてリビングだ。
 寝起きだが既に一日分頭を回転させたような疲労感に気づかない振りをして、なまえは身支度を開始した。

 気持ちの整理がついたなまえは手早く身支度を済ませると、パタパタとスリッパを鳴らしてきっと昴がいるだろうキッチンに駆け込んだ。
「おはよう昴さんごめんなさい!!」
 勢いよくキッチンに入ったなまえは、早口言葉のように挨拶と謝罪をした。
「おや、おはようなまえさん」
 ――あれ?
「ちょうど今起こしに行こうと思ってたんですよ」
 振り返りテーブルに皿を運びながら昴は、ポカンとしたまま扉のとこで固まっているなまえに微笑んだ。
 ――いつもなら、“おはようございます”なのに……。
 なまえが首を傾げていると、全て皿を運び終わった昴は手を洗いなまえに向き直った。
「さあ、食べましょう。座って」
 昴に促され、はっと我に返った。
 そうだ、一応訊いておかないと。なまえは早くなる心臓を抑えようと、昴に気づかれないように深呼吸をする。さり気なく左手を自分の後ろに隠し、ぎゅっと手を握った。
「は、はい……。あの、昴さん昨日……」
「ああ、昨夜はいつの間にかなまえさんが眠ってしまってお開きになったんです。ソファで寝るのは体が休まりませんから、部屋まで運びました。事情が事情とはいえ、無断で女性の部屋に入ってしまい、しかも事後報告ですみません」
「……紳士?」
「はい?」
「い、いえ! 何でもないです! ありがとうございました。お恥ずかしいところお見せしちゃってごめんなさい……」
 部屋に入ってきて謝るなんて人、周りにいた……? なまえはこれまでを振り返ってみるが、ボンゴレにいた時はTPOも弁えずにズカズカ部屋に入って来る者ばかりだった。もはや人権なんてものはあの自室には存在しない。私の周りには、自分の都合しか考えていない子ばっかりだった。
 ――無断で部屋に入ってごめんなさいって何!?
 思わず心の声が漏れてしまうほどなまえは戸惑っていた。それに加え、身内と昴の違いに驚きは尽きない。
 しかし、いつまでも突っ立っていてはいけないと、渋々考えることをやめて席に着いた。そしてテーブルの上に広がる朝食に目を疑った。
「き……」
「き?」
「キラキラしてる……!」
 テーブルには、スクランブルエッグにサラダ、トーストにポタージュといった、まるで海外ドラマに出てきそうな朝食が並んでいた。
 なにこのNYの朝みたいな感じ。なんだか今日は驚きっぱなしなんだけど、どういうことなの。
 口をぽかんと開けているなまえに昴はクスッと笑った。
「早く食べないと冷めちゃいますよ」
「いただきます!」
 昴に言われ、なまえは冷めたらもったいないと慌てて挨拶をして食べ始めた。
 なまえが手を付けたのを見届けると、昴はエプロンを外し隣の席に座った。
「すみません、こんなものしかできなくて」
「ーっ! 美味しい!」
 なまえは口の中に広がるスクランブルエッグのふわっとした優しい味に舌鼓を鳴らした。
「美味しいです昴さん!」
「それはよかった。なまえさんにそう言っていただけると、自信が持てます」
 自分のトーストに小さく切ったバターを落としながら昴はほっとしたように肩の力を抜いた。自分の分が終わると、昴はなまえのトーストにもバターを落とし、シュガースティックをなまえの近くに置いた。
「昴さんもやっぱり朝ごはん作りますか!? 作りません!?」
「いえ、朝は君の作ったものを食べないと元気が出ないので」
「っ……そうですか」
 即答されてしまい、しかもすごいことをさらっと言ってのけた昴に息を飲みかけた。
 昨夜を経て、昴はなんだか尖っていたものが丸みを帯びた気がする。いや、違う。尖っていたというより、開き直ったのだろうか。
 明らかに昴は口数が多くなっている。そんなに昨夜の飲みが楽しかったのかな。そうだったらいいんだけど。
 なまえは思考を完結させ、手を止めて昴に向き合った。
「昴さんに朝作ってもらっちゃったし、今日の夕飯は私が作りますね」
「そんな……僕が好きでやったことだから気にしなくても」
「気にします! 昨日は寝落ちしちゃった私を運んでくれただけじゃなくて、後片付けまで一人でさせてしまったんでしょ!? それに加えて寝坊に朝ごはんまで……! 埋め合わせさせてください!」
 なまえの言葉を聞きながらトーストを食べ終えた昴は、手近にあった布巾で両手指を拭くと溜息を一つ零した。
「それでは、こうしませんか? まず、夕飯は一緒に作りましょう。そろそろ煮込み料理以外にも挑戦したいところだったので、隣で教えて頂けると助かります。そして、埋め合わせの分ですが……」
 指を立てながらなまえに提案していく昴は、人差し指に続いて中指を立て、一度言葉を切った。
「一つ、お願いを聞いてください」
「お願い?」
 お願いとはなんだろう。昴が自分にお願いすることなんてあっただろうか。なんでも一人でこなしてしまう印象がある彼からそんなことを言われる日が来るとは思ってもみなかった。
 首傾げるなまえに、昴は悪戯成功とでも言うような晴れやかな笑みを浮かべた。
「ピアノを弾いてくれませんか?」
「……へ?」
 予想の斜め上をいったお願いに、なまえは素っ頓狂な声を漏らした。

   *

 なまえが自室として使っている部屋にピアノはある。部屋の内装は工藤邸に来た頃から全く変えてはいないが、昴を迎え入れるのは初めてだったため少し緊張した。
 どこに座ってもらおう。少し考えて、なまえはピアノの近くに椅子を持ってきて昴を促した。
 なまえは本棚から楽譜を取ってピアノの椅子に座り、ずっと引っかかっていたことを昴に訊いた。
「ピアノ、聴きたかったんですか?」
「ええ。今朝はピアノで起きれませんでしたから」
「あー……それは……すみません」
 お酒のおかげでぐっすり眠れました、だなんて、なんだか恥ずかしくて言えない。まさか寝落ちするだなんて思ってもみなかったのだから。
 片手で顔を覆っているとへこんでいると、昴の穏やかな声が耳に入ってきた。
「いえ、責めてるわけじゃないんです。今日はなまえさんのお休みですし。ただ、ピアノを聴くのが毎朝の習慣になってしまっているので、今日はなんだか物足りなくて」
 まるで自分の生活にピアノは欠かせなくなってるとでも言うかのような口振りに、なまえは目を丸くした後唇を噛んで俯いた。
「……こうして改まって聴かれるかと思うと、緊張します」
 なまえは楽譜を開き、両手を閉じたり開いたりしながら深呼吸をする。そして鍵盤の上に指を置いて弾き始めた。
 ピアノの曲に合わせるように、時間はゆったりと流れていく。
 一曲目が弾き終わり、楽譜のページを捲って次に弾く曲を選び、再び鍵盤に指を這わせた。
 美しい和音が響く中、昴はぽつりと声を漏らした。
「いつからピアノを?」
「んー……いつからだろう……」
「……習っていたんですか?」
「いえ……そうではなくて……」
 なまえは曲に合わせるようにゆったりと昴の質問に答える。
 ピアノを始めたきっかけや時期だなんてものは、とうの昔に忘れてしまった。正直にそう伝えればいいのだろうけど、答えてしまえばこのやり取りがそこでおしまいになってしまうような気がした。それは勿体ないように思う。
「これも、一曲目のようにアニメ映画の曲ですよね?」
「はい。ライオンとかが出てくるんです。聴いたことありますか?」
「メロディーだけ。歌詞は忘れてしまいましたが」
「歌詞もとっても素敵なんですよ!」
「ホォー……それは調べてみる価値がありそうだ」
 早速昴はポケットから携帯を取り出し、楽譜に書かれたタイトルを検索欄に打ち込んで歌詞を探り出す。
 お願いをされた時は、なんでも卒なくこなせると思っていたが、こう見ていると彼もまだまだ知らないことが多いとわかる。
 外見は大学院生だが、中身が赤井秀一だと考えると、アニメ映画の主題歌を検索している姿が可愛らしく思えた。
「ふふっ……今日の昴さん、お喋りさんですね」
 なんだか転入生になった気分。弾き続けながらもなまえは可笑しそうに笑う。
 昴は歌詞を読み終わり、視線をあげてつられるように口元に笑みを浮かべた。
「君のことを、もっと知りたいからね」
 昴の言葉にはじかれたように、右手の人差し指が本来弾く音と隣合わせの鍵盤も一緒に打鍵してしまう。不協和音が生まれたことで曲の雰囲気も一瞬で壊れてしまい、なまえは弾き続けることもできず、ぴたりと両手を止めた。
「――君は、どこまで知ってるんだい」
 なまえは目を見開いた。驚いた拍子に鍵盤の上に置いたままだった両手が打鍵して和音を奏でる。曲を引いている時なら美しいハーモニーであっても、今となっては耳障りのように思えて仕方がなかった。
 和音が伸びきり消えていくのを聞き届けてから、なまえは鍵盤から手を離して昴に向き合った。
 細く目を開けたことにより現れた翡翠色と視線が交わる。じっと見つめていると、これまでの温厚さを隠すように冷たい視線を作っているようにも思えた。
 迷っているのか、それとも複雑な心境からなのか。考えられるのは後者だったけれど、迷っているというのも捨てきれない双眸である。
 張りつめた空気を散らすように力を抜いてなまえは笑った。
「貴方の顔を見れば、嘘をつかれたり、なにか隠し事をされていることくらい、すぐにわかります」
 昴は目を丸くした。口をほんの数ミリ程度開けたり閉じたりを繰り返し、視線を宙に巡らせる。
「……そ、れは」
 戸惑いを隠しきれない昴になまえはゆっくりと右手を伸ばした。昴の頬に行き着くと、二、三回往復するように頬を撫で、指先は頬から離れ、首筋を通りシャツの襟元に辿り着く。
「大丈夫」
 小さい子どもに語り掛けるように優しい声音で発すると、なまえはもう片方の手を伸ばして留まっていた第一ボタンを開ける。そして、顔を出した変声機のスイッチをそっと人差し指で押した。
 秀一はまるで魔法にかけられたように動けず、ずっと微笑みを絶やさずにいるなまえを見つめていた。
「だから、つかなくていい嘘はつかないでください」
 スイッチに留まっていた指は再び頬へと戻り、昴の片頬は温もりに包まれる。
「ここは借り住まいとはいえ、貴方の帰る場所なんですから」
 なまえの琥珀色のような、橙色のような瞳に捕われ、秀一の喉仏がひくりと動いた。
 なまえは翡翠色の奥がゆらりと揺らめいたのを見過ごさなかった。けれど、漣は押し寄せることなく、翡翠をみずみずしくさせるだけだった。
 秀一は左手を動かし、ゆっくりと持ち上げる。なまえの手に指先が触れそうになるとぴくりと一度空中で止まったが、恐る恐る手を重ねた。頬に添えられた手に縋るよう、なまえの指先の間に自分の指を滑り込ませる。
「……君の事は、教えてくれないのか?」
 初めて鮮明に聞いた赤井秀一の声は、迷子になった子どものようだった。掠れた声は震える唇の上で留まり、睫毛を揺らしていた。
 なまえは捕まった手を引こうとするが、ほんの少し動いただけでも秀一はなまえとの指の間に滑り込ませた自分のそれにきゅっと力を込めた。
 その様子がどこにも行かないでと泣きじゃくる子どものようで、なまえは細く息を吐き出すと、観念したように眉を落として哀しそうに笑った。
「――本当は私、貴方と会ってはいけないんです」
 本当はこんなことも口にしてはならないんだけど。
 なまえは縋る秀一に逃げきれず、ついヒントを与えてしまった。仕方がないと言えばそれまでだが、いつまでも彼をのらりくらりと交わし続けるのはあまりにも可哀想だと思ってしまった。
「は……それは、どういう……」
 秀一は問いただすように首を傾げ身を乗り出したが、なまえの顔が目と鼻の先にあり、動揺から手に込めていた力を緩めてしまった。その瞬間を見計らい、なまえは昴の頬に触れていた手を引っ込ませる。
 小さく声を漏らした秀一は、なまえの手を追い掛けようとする。しかし、秀一の手が届く直前でなまえは椅子から立ち上がり距離を取った。
「私が言えるのはここまで。あとは、解き明かしてみてください、シャーロ……、いえ……。私の、ホームズさん」
 なまえの哀しそうな双眸は、秀一の翡翠をじっと見つめていた。

16,10.08