霧の向こう側
今でも鮮明に、あの時のことを覚えている。
とある建物の屋上で起きた最期の出来事は、きっといくつになっても忘れないだろう。
引き金を引く直前。ライの顔が焦りで歪むのを、まるでテレビの向こう側の出来事のように捉えていた。
――ああ、お前もそんな顔できるんだな。
普段から表情の変化が乏しいライの、こんなハッキリと彼の心境が伺える表情が見れるなんて。
瞳を閉じると、今ここにはいないバーボンの姿が鮮明に瞼の裏に映し出される。
――上手くやれよ零。お前ならきっとできる。
近づいてくる足音に、そいつが瞳に俺を宿す前に引き金を引いた。
鼓膜をつんざくような銃声と、一秒にも満たない程の激しい痛み。
想像していたそれらは、いつまで経ってもやってこなかった。
「……?」
どういうことだ。弾はきちんと入っていたのに。それに、ライやあの足音の正体の声が聞こえない。
不思議に思いぎゅっと瞑ってた目を恐る恐る開くと、そこは今までいた場所ではなかった。
これは夢なのかと当たりを見回していると、コツコツと足音を鳴らして誰かが近寄ってくる。
警戒を解かずに必死にこの後想定される出来事に頭を巡らせ対処法を考えていると、足音の正体はいつの間にか目の前にやってきていた。
足元からゆっくりと視線を上げていく。そこにいたのは月光に照らされ、杖のような物を手にした髪の長い男だった。
男は、俺の目の前にしゃがみ込み、まるで内緒話をするように人差し指を口元に近づける。
「ネバーランドに招待しますよ、ピーターパン」
そう告げた歪な形の唇は、彼の後ろに大きく登っている三日月に似ていたが、月なんかよりもよっぽどこの男の方が美しいと思った。
左右の瞳に生命の色を灯した男は、その時天使にも死神にも見えた。
この日、俺は命日と誕生日を同時に迎えたのだ。
* * *
「痛っ!」
ソファに横になっていると突然額に衝撃が走り、夢の世界から無理矢理現実に引き戻された。
起き上がり何が当たったのか辺りを見回すと、ソファの横にお菓子の袋が落ちているのに気づく。手を伸ばし商品名を確認すると、それは彼女の大好物だった。
「麦チョコ……? 突然何すんだよ……犬、千種」
近づいてくる足音に麦チョコから顔をあげると、眼鏡にニット帽の線が細い青年と、金髪に八重歯が特徴的な青年がやって来た。
「俺は何もしてない……やったのは犬だよ」
「はあ!? 共犯らぞ千種!」
「どっちにしたって食べ物で遊ぶなよ……」
頭を掻きながら口喧嘩にも満たない通常運転のような言い争いを眺めていると、後からやって来たであろう彼女が、彼らの背から顔を出した。
「私の麦チョコ、返して……」
「ほら、クローム。ちゃんと名前書いておけよ? じゃないと犬が食っちゃうぞ」
「あっ、ありがとう」
「はぁ!? 食べねーし! 変なこと言うなパン!」
「勝手にクロームの麦チョコ食べたら偉い目に遭うからね……」
麦チョコに黒のマジックペンで名前を書くと、クロームは大事そうに鞄にしまった。そして三叉槍を取り出し組み立て目の前にやってきた。
「まーた幻覚か? 今度は何が起きるのやら」
「ボスの命令。変装する時間はないから」
クロームはくるくると魔法少女のように三叉槍を回し、トンッと床を響かせるように先を突く。すると瞬く間に体は霧に包まれ、霧が晴れた次の瞬間には別人へと様変わりしていた。
「ほー……本当、幻覚ってのはなんでもアリだな……」
近くに置いてあった鏡を覗くと、写し出されたのは目立たなそうで体力にもあまり自信なさそうな人物だった。
クロームの幻覚はまだ片手で数えるほどしか味わったことがないが、超次元の代物かと思っていた能力が実際に自分に使われているのは未だに慣れなかった。
「ほら、ピーターこれ」
「さっさと行っちまえ!」
いつの間にか姿を消し、そして今戻ってきた犬と千種。彼らに放り投げられたスーツケースとデイパックが大きな音をたてて足元に不時着した。
「あーあー……物を粗末に扱って……」
なんでこう、このパリピ大学生代表みたいな二人は俺に対して当たりが強いんだか。
まあ、今に始まったことではないかとまるで思春期の息子を持つような心境になる。溜息を一つ零して、クローム達に向き直った。
「んで? 一体今度はどこに連れていく気だ?」
「日本」
「えっ……」
「大丈夫。パンは何も心配しなくて。そのために私がいる」
日本は流石に……と眉を寄せると、クロームが安心させるように呟いた。彼女の真っ直ぐな言葉に涙腺が緩んでいく。まるで娘の成長を心から誇るような父親の気持ちなった。
さっきから、俺はこいつらの保護者にでもなったのかというような心境に陥る。だが、別に保護者になったわけではないし、真相として、逆に保護されているのは自分の方だという滑稽なオチが待っているのだ。
「……何だかんだでクロームが一番頼もしいよなあ」
「はあ!? ピーターそれどういう意味ら!」
逆ギレしたように急に怒り出す犬に、思わず両手をホールドアップしてしまう。クローム以外頼りにならないという意味ではないが、見た目はただのお嬢さんと言ったようなクロームが、実は腕っ節もかなりある守護者だということを思い出す度に思わず溜息をついてしまう。
「そのまんまの意味だよ。……というか、俺の呼び方ピーターだったりパンだったり、どっちかに統一しないか?」
ピーターパンと名付けた本人は誰なのか未だに分からないが、もうちょっと短い名前があったのではないかとたまに思ったりする。だって、組織に潜入していた時のコードネームより長い。
「別に良くない? めんどい……」
「呼び方なんて、大して重要なことじゃないと思う」
「……そっか」
いい歳した大人が一回りも歳下の彼らに諭される光景は、傍から見たら可笑しく映るだろう。けれど、表の世界で生きているよりもある意味規則や約束事に厳しいこの裏社会で生き抜いている彼らは、時々現代の若者よりも生き生きしているように見えて、元警察出身としてはとても不思議な気持ちだった。
成り行きでこれまでの自分を捨て去り、この世界に足を踏み入れてしまったが、たぶん今まで生きてきた中で一番刺激を受けているかもしれない。
「パン、そろそろ行かないと飛行機に遅れる」
三叉槍を鞄にしまって肩にかけたクロームが声を掛けてくる。空港まで送ってくれるらしい千種と犬は既に車を回しに外へ出ていた。
遅れるとまた犬にガミガミ言われてしまう。荷物を持ってスタスタと部屋を出ていくクロームの後を追った。
「結局、日本に何しに行くんだ?」
未だに聞かされていない仕事内容に首を傾げると、表に停めた車から早くしろと犬の急かす声が聞こえ、クロームと足速に車へ向かった。
16,10.08