運河は巡る
自分がなぜ生きているのかわからなかった。自分がなぜ死んだのかもわからなかった。
しかし、ある日突然全てを思い出したのだ。長い間潜っていた水の中から、息が苦しくなり急いで水から顔を出した時、必死になって体内に息を取り込んだような感覚だった。酸素不足の脳内はジリジリと締め付けられ、突然大量に空気を摂取したために咳き込んでしまう苦しさに似ていた。
自分が知っている“未来”は、私がこの世に生を受ける前に“過去”であり“架空の世界”だったものだった。
しかし、“私”という異端者が現れたことにより、私の知っていた“未来”は訪れる確率が低くなってしまった。大きな流れは変わらなくとも、細部まで一つずつ見ていくと、きっと知らない未来が待ち受けている。
道筋を知っている分、自分の身の振り方に悩まされるのは自然な流れだった。
だから、生きる意味が欲しくなった。大きな流れに逆らうように生まれた自分自身を、肯定的に認めてくれる、たった一つの揺るぎないものが欲しかった。それだけあれば、私はそのために自分らしく生きていけると思った。
一つのものだけに縋ることは、それがなくなってしまった時に、精神的な安定が保たれなくなる。その結果、自分の首を絞めることになることは容易に想像できた。けれど、目に映る全てのものから多くを選べるほど、当時は自分の置かれた環境に身を委ねているわけではなかった。
そんな時だった。綱吉が誕生したのは。
病院の廊下で産声を聴いた時、母に抱かれた綱吉を初めて見た時、綱吉が初めて私の指を握った時。その思いはコップから水が溢れ出るみたいに、心の奥から溢れてきた。
――綱吉のために生きよう。
綱吉が元気に優しい子になってくれるように。いつかやって来る困難に立ち向かえるように。そして、その時綱吉のために何か役に立てるように。
そう決心してからは、まるで母になったかのように綱吉の面倒を見た。母である奈々を含め、周りの人間は『弟思いのお姉さん』『弟の面倒も見れる手のかからない娘さん』という認識だった。
綱吉の成長を隣で見守っていると、あっという間に月日は流れ、ついにその日は訪れた。
最強のヒットマン、リボーンが、家庭教師として沢田家にやって来たのだ。
やっと、ついに、原作に入ったんだと心の中でつぶやいた。
リボーンは、なまえの知っていた道筋通りに綱吉を育てていった。次第に綱吉はかけがえのない友に囲まれていく。生傷が絶えることはなかったが、自分の気持ちを素直に表現できるようになっていった綱吉に、気を緩めば涙が零れそうなほど喜びを感じた。
そんなある夜のことだ。誰もが寝静まった頃。
なまえの部屋にリボーンがやってきた。
「なまえ、お前は“何者”だ?」
目の前に立って鋭い視線を投げかけるリボーンに、とうとうなまえはこれまで誰にも言えなかった真実を話した。
自分が転生したこと、前世ではこの世界が物語となっており、綱吉に訪れる未来がわかるということ。
怖くはなかった。けれど、不安を抱えながら、ゆっくりと言葉を間違えないように話した。
その間、知らず知らずのうちになまえは傍らにあったリボーンの小さな手を縋るように握っていた。
全て聞き終わると、彼は「わかった」とだけつぶやき、なまえの頭を数回撫でる。そして「もう寝よう」と横になるよう促し、そのまま二人は一緒に眠った。
リボーンはきっと、話を聞いて気がついたのだ。なぜなまえという人間が綱吉にこれほどまでに愛情を持って接するのかを。そして同時に、綱吉にも姉に関することで問題を抱えていることを察した。
翌日からは、またいつものように平穏な、少し危なっかしい日々が続いた。
六道骸やヴァリアー、10年後の世界でのミルフィオーレとの闘い等、なまえは綱吉の姉ということもあり巻き込まれていく。しかしそのお陰もあってか、綱吉共々彼らに存在を認められ、当初は牙を向けていた彼らも、今では好意的に接してくれるようになっていた。
原作終了と言うべきか、最終回として描かれていた日の出来事を終えてしばらく経ったある日。なまえは知ってしまった。それは、これまで綱吉とその周囲にしか関心がなかった彼女が、初めて綱吉に関わること以外に目を向けた瞬間だった。
――米花町。
その名を認知した瞬間、転生したことを思い出した時の、あの水から出てきたような感覚が再びなまえを襲う。米花にまつわる名探偵の話を思い出してしまった。
――無慈悲に命を落とした彼らを助けることが出来れば、遺された人々の優しい心を守れるかもしれない。
そう思うことに、何も迷いはなかった。
すぐになまえはリボーンに相談を持ちかけた。転生したことや前世の話も掘り起こしつつ、黒の組織という非人道的な組織が存在していること。その組織がこれから様々な事件を裏で引き起こしていくこと。それに巻き込まれてしまう人々を助けたい。放っておけば、ボンゴレにも損害が生まれてくるかもしれないこと。
リボーンに語った次の日、綱吉とその守護者、9代目を介しヴァリアーにまでそのことは知れ渡っていた。
なまえは綱吉たちに頭を下げた。助けたい人たちがいるから協力してほしい。
綱吉はなまえの頭を上げさせ、肩に手を置き微笑んだ。
「やっと、姉さんの我が儘が聞けた」
その嬉しそうな表情に、なまえの頬に涙が伝った。
本人がいないところでは、『綱吉至上主義』と言われていたなまえ。数々の死闘を綱吉と掻い潜り、今では『ボンゴレ至上主義』とも呼ばれるほど、なまえもボンゴレという組織に影響を及ぼす無くてはならない存在となっていた。
そんななまえは、幼い頃から綱吉が幸せになることが自分の幸せだと考え生きてきた。彼女には、欲が皆無に等しかったのだ。
「姉さんの……なまえの我が儘、俺がしかと聴き入れたよ。ずっとなまえには数え切れないくらいたくさん助けられてきたんだ。今度は俺が、なまえにそれを返す番だよ」
その日から、ボンゴレ十代目を筆頭に、彼らは彼らの立場から、裏社会の秩序が乱れぬよう、新たな出来事に関わるようになる。
しかしそれは最終的に、沢田なまえという一人の人間の、運命をも変えていくことに繋がるのだった。
16,08.19