忍び寄る足音


 ピアノの前で秀一の本当の声を初めて聴いてから早一ヶ月。彼との関係に急激な変化が見られるというわけでもなく、平和な日常を送っていた。そう思いたいなまえだったが、小さな変化をかき集めればやがて大きな変化になる。そう頭では理解していたけれど、なまえはあまり認めたくなかった。
 あれから秀一は何か吹っ切れたようになまえに振る舞い、距離を縮めてきた。最初は挨拶や普段の口調から所々敬語が姿を消し始め、次第に口数は増えていき、他愛ない話から夕食の提案、書籍にまつわる話題を自分から振ってくるようになった。
 これまでは割となまえから昴に問いかけて答えるというやりとりだったのに、いつの間にかその役割は交代していたのだ。
「教えてくれないなら、意地でも自分で君のすべてを解き明かさなければと考えを改めてね」
 ある日、食事時に「最近昴さんお喋りさんになりましたね」と話題を振ると、昴はまるで待ってましたと言わんばかりに口を開いた。
「かのホームズも話していたよ。『私はいつも、友人のワトソンに対しても、また知的な興味を抱く人には誰に対しても、私のやり方を残らず説明することにしているんです』と」
「はぁ……?」
 ホームズの一節を取り上げ語る昴は、首元に手を添えるとピッと小さく音を鳴らして変声機のスイッチを押した。
 ――えっ嘘でしょ……!?
 なまえが目を丸くしているのを楽しむ様に片目を見開き笑みを浮かべる。
「俺は、君のホームズなんだろう?」
 所謂ウインク状態で、顔と声、さらにはセリフがアンバランスにミスマッチしている昴にくらりとした。
 ――キザ矢昴ならぬ、キザ井秀一……?
 なまえは放心しつつも、狼に狙われた羊の気分をようやく理解し、ぶるっと身を震わせた。
 そんなこんなで昴と過ごす時間が増えたことに、なまえは少しだけ気恥しいような、照れくささのようなものを感じていた。
 昴はなまえのタイミングを見計らっては接触を試みた。いつどんな時に不意打ちをされるのか気になりそわそわして仕方がないなまえは、週に二、三日を昴から逃げる様にポアロで仕事をするようになっていた。
 今日も特等席になりつつある店の奥のソファ席に腰を落ち着け、透が淹れた珈琲の香りを楽しみつつ、キーボードに指を走らせていた。
 集中するためにポアロに足繁く通っていることを理解してくれている透は、滅多なことがない限り話しかけては来ない。正直なところ、その謙虚さを昴にも見習ってほしいと偶に思うことはある。変化しつつある関係性に未だ慣れなくてくすぐったさを感じることもあるが、なんだか今の昴は尻尾を振りながら近づいてくる犬のように見えて、 以前より断然親しみやすさを覚えていた。
「終わったー……」
 本日の目標をクリアし、指を組んで腕を頭上にぐっと伸ばす。骨が小さく悲鳴をあげているのを聞きながら腕をだらんと下げ、ゆっくりと首を回した。
 ディスプレイの右下にある時刻を確認すると16時を過ぎたくらいだった。
「もう夕方……お腹すいた……」
「お疲れさまです。休憩されませんか?」
「安室さん」
 ブルーライトカット使用の眼鏡を外して目を擦っていると、タイミング良く透が声を掛けてきた。メニューを開き、デザートの写真を見せながら。
「……そうやって安室さんは一番高いのを食べさせようとするんだー」
「そんなことありませんよ」
「さらっと言うところがさらに怪しい。……じゃあ、今日のおすすめはどれですか?」
「そうですね……これでしょうか」
 透の人差し指の先には、やはりデザートの中でも一番値が張るパンケーキだった。
「ほらやっぱり!」
「何のことでしょう? 今ならお疲れのなまえさんに、生クリームとフルーツが盛沢山なふわふわパンケーキをご提供できますよ?」
 悪びれもなく爽やか100%とも表現できる微笑みで透は注文を勧めてくる。梓さんは毎回そんなこと一切せずに、むしろ「店長には内緒ですよ?」と無償でおやつを提供してくれる時があるのに、この人といったら……。
 他の客にはわざとらしさ等見当たらないのに、私に対しては自分の容姿が武器になることを熟知して、それを惜しげもなく駆使するのだ。
 なまえは苦虫を潰したような声でボソッと呟いた。
「……パンケーキ、ください」
「っ……かしこまりました。暫くお待ちください」
 笑い声を押し殺そうとしているのか、わざと漏らしているのかわからないような笑みを零し、透は機嫌よく去っていった。さらりと珈琲のお代わりを置いていくあたり、本当によく見ているというかなんというか……。
 このやりとりは二人の間で自然と生まれた、ある意味お遊びの一環のようなものだった。ポアロで執筆するようになり話す機会が増え、透とは軽口を叩けるほどの仲になっていたのだ。
 夕方にもなると、学校に通っている児童生徒はちょうど下校の時間だった。遠目に窓を眺めていると、ランドセルを背負った子たちや制服を着込み楽しそうに談笑しながら歩く姿に頬が緩む。
 京子やハル、クロームもあんな風にお喋りしながら帰り道を楽しんでいたんだろうなあとぼーっと眺めていると、窓の外にいた高校生たちにじっと見つめられていた。
 ――あ、やばい。
 なまえはそっと目を逸らし、散らかったテーブルに視線を落とす。
 しかし、何事にも敏感な女子高生たちの目は欺けなかった。
「あー! やっぱりなまえさんだ!」
「お久しぶりですなまえさん!」
「なまえさんなんで最近遊んでくれないんだよー!」
 ――なんで見間違いだと思わないの……!
 園子と蘭、真純の三人はポアロに入店し、ズカズカとこちらへ近寄ってくる。私たちが顔馴染みだと知っている透は、「いらっしゃいませ。お好きな席へどうぞ」と言うだけで、席に案内する等は彼女たちに任せていた。それでいいのか接客業。
「今日という今日はぜったい! あれやこれ全て吐いてもらいますよ!」
「お待たせしましたなまえさん。パンケーキになります」
 園子に続き、透が特製パンケーキと三人分の水とお手拭きを運んできたことで、なまえの逃げ場は完全になくなってしまった。

   *

 なまえは、目の前に園子と蘭、左隣に真純といった完全な布陣に囲まれてしまった。
 主に園子からの質問責めで、なまえは悲しいことにパンケーキを心の底から楽しめなくなっていた。せっかく一番高いやつを頼んだのに……と、元凶であるカウンター席で接客中の店員を恨めしく思い、一思いに一瞬睨みをきかせる。
「ええ! なまえさん、まだ昴さんと付き合ってないんですか!?」
「一緒に住んでて何にもないって言うの!? あんなイケメンと同棲しておいて!?」
「……そんなに皆は私と昴さんをくっつけたいの?」
 この子たちはあれかな? 一緒に歩いている男女がいたらみんなカップルに見えちゃう魔法にかけられているのかな?
 会話に入らず隣で楽しそうな視線を送ってくる真純に助けを求めたところで、お得意の推理力でさらに鋭い質問を投げかけられるのは目に見えていた。
 視線を上げ、ダメもとでカウンター席の透に視線で助けを求めたが、ニコリと笑いかけられただけだった。
 ――さっき睨んだこと根に持ってる顔だあれ!
 温厚な性格の持ち主を演じていたところで、生まれてから培った思考や性格は完全に蓋をすることは出来ない。ちょっとした視線や表情、動作から、安室透の内側にいる本性が負けず嫌いなところがあるというのはお見通しだった。
 なまえは、もう助けはやって来ないと判断し、観念してナイフで切り分けたパンケーキを生クリームにつけてぱくりと頬張った。安室さんは味方だと思ってたのに。
「だってー! 一緒に住んでたらそういう展開にもなるでしょ! ならない方がおかしい!」
「ならないならない」
「でもちょっといい雰囲気になったりしそうですけど……」
「ならないならない」
「それじゃ、恋愛感情がないような関係……とか?」
「まさかそれって……体だけの関係ってこと!?」
「キャー! 大人の関係だわー!」
「真純ちゃん何余計な事言ってるの。二人も人の話をちゃんと聞こうねえ」
 ――というか、真純ちゃんは昴さんを警戒してなかったか?
 真純は好奇心旺盛だが警戒心はちゃんと兼ね備えている。二人が一緒にいるところを見たことはないが、昴の存在を訝しげに思うだろうということは普通に考えてみて彼女が取りやすい行動だと推測していた。実際のところはまだ確認していないため、どうなのかはわからないが。
 たぶん今は私のことが気になるあまり、昴に対する感情をあまり面に出してないだけかもしれない。
「あっもしかして、本命は安室さんだったりして!」
 珈琲を飲んでいると、蘭が突拍子もないことを言い始め、飲み込んだものが気管に入りそうになった。咳き込みながらちらりと透を見ると、目を丸くした透と視線が絡み合う。
 呼吸を整えると、今まで溜め混んできた呆れが一気に解放された。
「……なんでそうなるのかなあ」
「この前梓さんに聞きましたよ! 具合悪いなまえさんを安室さんが助けたのが二人が知り合ったきっかけだって! 王子様みたいだったって!」
「えっなにそれ私聞いてないわよ、蘭! なまえさんもどうして教えてくれないのよ!?」
「えー……」
「だって今初めて言ったんだもん!」 蘭と園子が情報交換の条約でも結べばいいのでは? と他人事のように眺めていると、隣に座っていた真純がにこにこしながら話しかけてきた。
「なまえさんはモテモテなんだなあ」
「モテモテっていうのは私じゃなくてコナンくんみたいなことを言うんだよ。私の場合はこの二人みたいに、周りがはやし立ててるだけ」
「確かにコナンくんはモテモテだよな!」
 コナンの名前を出した途端、真純は自分の周りに花を咲かせる。それが可愛らしくて頭を撫でそうになるけれど、いやいやと軽く頭を振って中途半端に伸ばしかけた腕はナイフに不時着し、パンケーキを切り分けた。
 急に静かになった真純を不思議に思い口を動かしながら様子を伺うと、真純はカウンター席の先にいる透を盗み見た後、八重歯をチラつかせた。
「じゃあさ、なまえさん恋人はいるのか?」
「えー……女子高生探偵さんはどう推理してるの?」
「んー……いなさそうだけど、でもなまえさん男性との接点は多そうなんだよなー」
「わかる! なまえさん、男の人の視線受け止めるのとか、受け流し方上手いし!」
「えっ……何それ……そんなことした記憶ないんだけど……」
 園子と談笑していた蘭が話題に気づき会話に入ってきて、引き寄せられたように園子も口を開いた。
「綺麗で可愛くて何でもできてって、もう完璧じゃない!」
「ヨイショするのやめません? 何も出ないよ?」
 バレたか! とペロリと舌を見せるお茶目な女子高生に何度目かわからない溜息をついた。
「じゃあ、どんな人がタイプなんですか?」
「タイプ、ねえ……」
 顎に手を当てて頭を巡らせた。
 思えば、好きな人のタイプなんて考えたこともなかった。けれどそう言ったところで、恋愛への好奇心が留まることを知らないこの子たちは信じてくれない。
 どうしようかと考えていると、ふとあることを思い出し、なまえは息を吸った。
「マシュマロ大好き星人はちょっと、いや絶対無理かな……。体からマシュマロ錬成できそうになる。あれはマシュマロ中毒に近いよ……。あと、肉が大好きすぎる男もなあ……困るよね、献立考える時に。栄養偏るし肉以外は食べようとしないし……たまには魚も食べてほしい……」
「えっと……?」
「好きな食べ物で決めるの……?」
「なまえさん逃げないでくれよー!」
「あっバレた?」
「当たり前だろ! まあ、言ってることが嘘じゃないことはわかってるけど」
 二人からは逃げられても、女子高生探偵は見逃してくれないらしい。けれど嘘ではないと真純が肯定してくれたため、これ以上二人が騒ぎ立てることはなかった。
「マシュマロ大好き星人に肉大好き男ってどういうこと?」
「さあ……なまえさん、調理師みたいなことしてたとか?」
「だったら今翻訳で食べてるわけないじゃない!」
 顔を寄せてひそひそ話を空想話を盛り上げる二人を眺めながら珈琲を飲もうと手を伸ばすと、テーブルの隅に置いていた携帯がチカチカと光っていることに気づく。
 珈琲を飲みつつ誰からだろうと操作していると、昴からの連絡だった。
「あっごめん。私そろそろ行かないと」
「えー! もう行っちゃうんですか!」
「今日は夕市があるから昴さんと協力して、たくさん野菜買うんだ! 昴さんもうすぐ出るって言うから私も行かないと。現地集合だし!」
 ぐっと拳を握って力説する。待ちに待った夕市である。数日前からこの日を狙って高騰価格傾向にある野菜を我慢してきたんだ。昴と協力すれば一人で参戦するより野菜が多く手に入るし、お安い肉に群がる主婦の中に突入して肉を手に入れてくれるかもしれない。
 なまえは伝票を持ってレジに向かう。全員分の支払いを済ませつつ、透と一言二言交わすと、透と女子高生たちに手を振って店を出た。
「あれで付き合ってないっていうんだから笑えないわよね……」
 昴との待ち合わせに遅れないよう急いで出て行くなまえを見送りながら、園子が呆れたように呟いた。

   *

「うわ……急がなきゃ夕市始まる!」
 早歩きでスーパーに向かっていたが、腕時計を見るとこのままでは夕市に乗り遅れてしまいそうだった。
 家を出る際、ヒールを選ばずにフラットシューズを履くことを選んだ自分を褒めつつなまえは徐々に足を早めて走り始める。
 ――あの角を曲がればもうすぐ!
 次の角を曲がり、真っ直ぐ進んで二つ目の角を曲がれば、そこはもう戦場だ。
 なまえは道順を頭の中で確認しながら、目前に迫った角を左に曲がった。
「わっ!」
 角を曲がった矢先、ドンッ! と勢いよくこちらに向かってきた人にぶつかり、なまえは尻餅をついた。その拍子に肩に掛けていた鞄が道路に投げ出され、中身が散らばってしまった。
「痛っ……」
「すみません! 大丈夫ですか!?」
 聞こえてきた声になまえは目を見開き、ぶつかってしまった人物を見上げる。
 ミルクティー色の柔らかそうな髪に、緑色のシャツと白いベストを着込み、群青色のネクタイを締めた高校生くらいの男の子だった。彼はこちらに近寄り、足元にアタッシュケースを置いて膝をつき、なまえの顔を覗き込んだ。
「ごめんなさい。僕、前をちゃんと見ていなくて。お姉さん大丈夫?」
「っ! ……大丈夫、どこも怪我してないみたいだし。私の方こそごめんなさい」
「荷物拾うの手伝いますね」
「ありがとう」
 男の子はなまえと共に鞄から飛び出してしまった辞書やペンポーチ等を拾い、鞄に入れた。
「これで全部ですか?」
「うん。本当にありがとう」
「それじゃ、気をつけて!」
 男の子はそう言ってその場を足早に去っていく。その背中が小さくなって曲がり角で消えるまでなまえは見つめると、鞄の中を確認した。
「……あっ、急がないと!」
 なまえは昴の存在を思い出し、急ぎ足でスーパーへ向かった。

   *

 なまえは夕市にはなんとか間に合い、無事に買い物を終えて勝利した肉や野菜で少し豪華な夕飯を昴と楽しんだ。
 夜も更けて昴におやすみの挨拶をして自室に入ったなまえは、鞄の中からとある物を探り当て、室内の明かりを消した。探し物とは、ポアロを出た時にはなかった手紙だ。道端で“男の子”とぶつかった時、彼が忍ばせたものである。
 ベッドに腰掛け、ベッドサイドにあるランプのスイッチを押す。灯った淡いオレンジ色の光を頼りに、手に持った封筒に貼ってある見慣れたシーリングスタンプをゆっくりと剥がし、中身を取り出した。
 手紙を開くと、便箋の一番上にぼうっと橙色の炎が燃え始める。
 ――大空の炎……。
 胸の奥がじんわりと温かくなるのを感じながら、イタリア語で綴られた文章にさっと目を通し内容を頭に入れる。
「――なるほどね」
 読み終えて便箋を元の通りに畳むと、大空の炎は便箋と、便箋に重ねていた封筒を包み込み、跡形もなく存在を消し去った。

16,10.16