瞬きを彩る


 普段何気なくこの瞳に映る風景は、角度を変えてみると全く違った魅力を見せてくれる。角度や焦点を変えれば、その分だけ新たな発見がある。
 そんなこと、理解していたし、わかっていたはずだった。
 推理や推察において、様々な角度や焦点から物事を見る能力は必須だ。意識して行うこともあれば、自然と様々な立場から目の前の事象を読み取ることがある。しかし、数え切れないほど経験を積んでも、結局は全て主観からの推察、憶測からの推理となるのだ。自分は決して他人にはなれず、対象者の思考の特徴や傾向を読み取った上で予想し、判断しなければならない。
 若い頃は、まるでゲームを攻略するかのように相手の懐に潜り込み手綱を握り、その場の主導権を握るようなこともしていた。成功した時はさらに自信がついたし、なかなか本心をさらけ出さない相手が現れた時は、闘争心に燃えて時間を掛けて様々な方法を用いながら相手を懐柔した。そんなことを繰り返している内に、自分にとって、その他の人間とほど良い距離感を築く方法を探り当て、身につけていった。
 そうして気づいたのだ。自分は関係を繋ぐことには長けているが、どうやら関係を保ち続けることはすこぶる苦手だったことに。
 僅かな接触で相手の全てを見抜いてしまう長所が邪魔をしていたのかもしれない。その中でも、ごく一部の人間は、全てを解き明かしてみろとでも言うかのように、その人間をつくりあげている核のような面を見せない者もいた。立場上お互いそうならざるを得ない関係の者も多かったが、まるで追いかけっこをしているようだった。
 互いに全てを見せず明かさず探りを入れては、あちらの手に捕まらぬように逃げ切る。自然と緊張状態を保ち続け、神経をすり減らす日々だった。
 そんなことをしている内に、自分のあずかり知らぬところで少しずつ疲弊していったように思う。
 真っ黒に染め上げられた存在も、真っ白いまま生きるべきだったはずの存在も、何もかもが複雑に絡み合って俺を縛り付けていった。
 そうして確信に至った。互いの目的、目標が一致するような、まるで仕事上の付き合いのようでなければ、俺は関係を保てない。そう考えると、プライベートなど、有るようで無い状態だった。
 そんな時、なまえと出会った。
 彼女は今まで出会ってきた人間とは全く違うようにこの眼に映った。
 彼女はまるでシャボン玉のようだった。光の当たり具合によって様々な色を見せてくれ、風に吹かれるとふわりと形を変化させながら飛び続ける。
 なまえが見せる姿はどれも新鮮で、無意識のうちに視線で追い始めていた。そして、眼が合うと必ず、彼女は穏やかなまなざしを自分に向けてくれる。その度に胸の奥がじんわりと熱を帯びた。少し速くなった鼓動が焦る気持ちを後押しするように、中途半端に開いた口からは彼女に多くの疑問を投げかけた。
 温かさやぬくもりが色付いて目に見えるならば、なまえの反応はその時々によって全く違った色をまとっていた気がする。今彼女は何色に染まっているのだろうと頭の片隅で考えることは、両の指を超えたあたりから数えることをやめた。
 振り返ってみると、なまえの心地好いぬくもりに酔い痴れていたのだ。無条件に自分を受け入れてくれる存在がこれほど安心できるだなんて、そんな感覚は久しぶりだった。
 ――こんなこと、どうにかしてる。
 何度も今置かれている状況を振り返り、自分をコントロールしようとした。だが、結局それは無意味に終わる。
『沖矢昴と沢田なまえは共同生活をしている仲である。それ以上でも、以下でもない』
 そんな世間体を思い出しては、それならば仕方がないと自分を騙して嘘をついたり、見ない振りをしたりして、気づけば自分で引いた線を超えるような振る舞いを繰り返していた。
 ほんの少しだけなら、彼女を求めてもいいのかもしれない。
 彼女のぬくもりを求め、頭で考えるよりも先に心と体が欲求通りに動いてしまうことがある現状は、お世辞にも理性的とは言い難いものだった。

 瞬きをするように、この一瞬一瞬を、心地の良い温もりを、永遠に残したいと心の奥底で願ってしまうことは、果たして――。

   * * *

 きっかけは、なまえが見せてくれた写真だった。
 一ヶ月と少し前、なまえと初めて一緒に酒を飲んだあの夜のことだ。頬を赤らめながらもやわらかな笑顔で翻訳について話してくれた時に、ポロッと口にしたことだった。
「実は、翻訳するとき写真が役立ってるんです」
 話しを聞いていると、なまえは絵本を読み聞かせするように優しい声で語り出した。
 翻訳をしていると、見たことがなかったり行ったことがなかったりする場所が出てくることがよくある。その場合、本場に行くのが一番だが、予定の調整が難しく実現することは滅多に無い。そんな時、似たような物を撮ったり、画像を検索したり、地図アプリのストリートビューを駆使してみたりと、できる限り本物に近いものを探すのだと言う。
 それから一ヶ月経ち、なまえとの関係が微妙なものになってしまった頃。そろそろ仲直りではないけれど、このままではお互い居心地が悪いと考え、彼女に歩み寄ろうと何か話題はないかと考えていた時だった。
 カチッと頭上にライトがついたように写真の話を思い出し、食後に話題を降ってみた。すると、なまえは「見ますか?」と携帯を取り出し、フォルダの中身を見せてくれた。
 古いものから最近のものへ時間が流れていくようになまえは携帯を操作しながら写真を見せた。古い写真は水族館や森林公園、道端にいる猫や鳥等、自然の風景が多かった。徐々に最近になっていくと、ポアロで注文したものを食べる前に撮ったらしい写真が多かった。
 ポアロの美味しそうな写真をしげしげと眺めていると、なまえが焦ったように口を開いた。
「ぽ、ポアロに行ってるのだって、今やってる本にカフェが出てくるから、だからですから!」
 ――絶対嘘だろう。
 心中でバッサリとなまえの言葉を否定しつつも、視線は生温くならないように気を遣ってその先の話に耳を傾けた。
 なまえは写真を見ながら続きを語り聞かせる。
「今翻訳している本の内容が、男女がカフェで出会って、そこで逢瀬を重ねて想いを育んでいく恋愛小説なんですけど、雰囲気が掴めるかなあと思ってポアロで書いてるんです」
「ほぉー……」
 てっきり、ポアロに足繁く通うのは俺から逃げてるからだと思っていた。彼女の声だけ聞いていればそれは思い違いだと納得がいく。だが、実際は真剣に話そうとしているけれど、なまえは視線を携帯の画面とこちらの顔の間をうろちょろとさせている。これでは真実味が薄れていくばかりだ。
 ――いや、理由の一つに俺から逃げていることもあっただろ、絶対。
 今思えば、自分のあの振る舞いはかなり仕事の邪魔をしてしまったと反省している。まるで好きな子にちょっかいを出す小僧のようであまり思い出したくはないけれど、いい加減この工藤邸で執筆を続けてもいいんじゃないかと考えてしまう。
 上手く誤魔化せたとでも言いたげな安堵のため息をするなまえに、少しだけ意地悪をしてみたくなった。
「たまには僕も恋愛小説でも読んでみようかな。……そうだ、なまえさんがその本を翻訳し終えたら、ぜひ読ませてくれませんか?」
「……えっ、あ、途中の原稿は見せられないですけど、原本なら今ありますよ! イタリア語ですけど! 読みますか!? 今気になってるんですよね! 今すぐ読めますよ!」
「いや、なまえさんが翻訳した文章が読みたいんだ」
「えっ、うっ、えー……」
 彼女の名前を少し強調して言えば、困った様に言葉を濁す。追い詰めれば視線を惑わせながら苦しい言い訳をする様子に、くつくつと笑いがこみ上げそうになる。
 「恥ずかしい」だの、「最近意地悪になった」だのと、ボソボソと一人語るなまえに、これ以上機嫌を損ねられては困るなと秀一は話題を変えた。
「……それにしても、なまえさんは写真を撮るのが上手ですね」
「そうですか? 光の当たり具合とか、角度とか意識して撮ると、結構それっぽい……というか、雑誌とかに載ってそうなのが撮れるんです。……昴さんに褒められると、なんだか嬉しい」
 フォルダの写真を振り返りながら緩く弧を描く唇は柔らかい笑みをつくりあげていた。
「写真、か……」
 新しいことに挑戦してみるのも悪くないのかもしれない。そう考えていたところにやってきた、ちょうど良いコンテンツ。
 悪くないかもな、とチラリと自分の携帯に視線を移した。

   *

 それからというもの、手持ち無沙汰になった時やちょっとした時間が出来たとき、写真を撮るようになった。
 撮り始めた頃は、ただカメラ機能にした携帯を構えてそのままシャッターを切る操作をするだけだった。しかし、撮り続けているとなかなか奥が深く、被写体との距離やカメラとしての携帯の角度、明るさが違うだけで、目の前にあるはずのものが全く別のものに写し出された。
 そしてある日、工藤邸の中で写真を撮ってると偶然なまえが居合わせてしまった。
 なまえは、昴が撮ったと知ると興味津々といった様子で詰め寄ってきた。経緯を話し、自分もやってみようと思って最近写真を撮っていたことを話すと、さらに関心を引いたらしく「見せてほしい」とお願いされた。
 それから後、二人の間では撮った写真を互いに見せ合うことが習慣のようになっていた。
「昴さん、昨日はドライブして来たんですよね? なにか写真撮りましたか?」
「ああ、ちょっと待ってください……ほら」
 昼食を終えてゆったりとした時間を過ごしている時、なまえが思い出したように口を開いた。
 昴は食事の邪魔にならないよう隅に置いていた携帯を手繰り寄せると、起動してフォルダを出した。
 表示されたデータは、昨夜車を走らせた時に、まるで撮ることが当たり前だというように自然と体が動き、いつの間にか撮っていたものだった。
 首都高を走り抜ける車のテールランプの数々や、様々な模様を描いていく観覧車のイルミネーション、そして、それらを映し出す揺らめく水面。撮った後はじっくりと確認していなかったが、改めて時間を空けて見てみると、これはなかなか良く撮れているのではないかと一人思い耽った。
「すごい……綺麗……」
 ちらっとなまえの横顔を盗み見ると、夢中になって夜景を切り取った画面を見つめていた。彼女の反応を見て秀一は再度やはり上手く撮れていると一人頷く。
「他の写真も見ていいですか?」
「ああ、構いませんよ」
 昴の了承を得たなまえは、携帯を操作してこれまで撮った写真を振り返った。
 日向に照らされた木々や雨粒に濡れた庭の草花、穏やかな午後の風に揺れるカーテン。彩度も角度も絶妙なバランスで撮られているそれらは、最近写真を撮り始めた者が撮ったとは思えない出来栄えだった。また、遡っていくと上手く作れたらしい夕食がフォルダ内にあり、なまえは夕食の味を思い出すように一枚ずつ丁寧に追っていった。
 一通り見終わり、なまえは昴の携帯を持ったまま首を傾げた。
「あれ? 前より写真少なくありません?」
「ああ、撮って時間が経ったものは消してしまうんだよ」
「ええ!? 勿体ない!」
 なまえは目が飛び出るほど驚き声を荒らげた。まさかそんな反応がくるとは思ってもみなかったため、返す言葉が思いつかなかった。
「あ……ほんとだ……この前見せてくれた花の写真なくなってる……野良猫のも……」
 昴の携帯を鷲掴み残っているフォルダの写真を確認したなまえは、見るからに落胆したように肩を落とした。
「もう一回見たかった……」
 秀一が撮った写真を一定期間が過ぎると削除しているのには理由があった。
 いつまでもフォルダに置いていても重くなる一方だ。撮った写真を見返すことはほとんど無いし、あったとしてもそれはなまえとこうして偶に眺めるくらいだから、保存しておくままというのはあまり生産性がない行為に思えた。
 それに、今は平穏だけれど、いつどのような時に何が起こるかんからない。この携帯一つで事態が急変するということは考えにくいし、携帯が奪われる前に敵になりうる存在は起き上がれなくしておけば問題ない。しかし、尻尾を掴まれる可能性が少しでもある情報はなるべく消しておいた方がいいだろう。最も、どの情報が手掛かりとして働きかけるかの判断は人によって違うため、情報を取り扱いには細心の注意を払っているつもりだ。
 相当気に入ってたのだろう。残念そうに俺の携帯を握り締めているなまえの眉は八の字を描いていた。
 ――あとで送ってやるか。
 確か、撮った写真はPC上に自動保存される設定になっていたはず。データを探せば、ついこの間撮った写真はまだ残っているかもしれない。今夜にでも確認してみるか。
 今夜の予定を立てていた秀一は、なまえがパンッと両手を合わせた音で我に返った。
「そうだ! 今度、私も夜ドライブに連れて行ってくれませんか?」
 なまえの言葉に目を丸くした。
「私、夜景って撮ったことがなくて……。それに、昴さんと一緒ならいろんな写真が撮れそうだなって、思ったんですけど……だめですか?」
 段々と話し方がたどたどしくなり、小さくなっていく声に耳を傾ける。言い終わるとなまえは自信なさげに一瞬視線を落とした後、恐る恐ると見上げてきた。
 そういえば、初対面の時も確か彼女の“わがまま”を聞いた。秀一は視線を受け止めながら、考える素振りをしつつその時のことを思い出す。当初、まさかあんなお願いをされるとは想像もしてなかったため、初対面にしてはあまり宜しくない聞き返し方をしてしまった。これまでを振り返れば、あの頃からなまえの言動や行動にはいつも驚かせる。
 なまえは粘るような視線を昴に送っていたが、とうとう諦めたように俯き肩の力を抜いた。
 なまえの瞳が自分を映さなくなった途端、秀一は物足りなさを覚えた。
 ――どうやら俺は、この双眸にひどく弱いらしい。
 秀一はふっと笑みを零すと、息を吸った。口から出た声音は、思っていたよりも明るいものだった。
「……わかりました。一緒に行こうか」
「っ! ありがとうございます!」
 やった! と小さくガッツポーズをするなまえに、秀一は自然と頬が緩んだ。
「いつにしましょうか? 昴さんはいつがいいですか?」
「僕はいつでも。なまえさんに合わせますよ」
「えっどうしよう、いつにしようかな……」
 目を輝かせて携帯で予定を確認するなまえは遠足の準備をする子どものようで微笑ましかった。
 カメラを構えてディスプレイのフィルターを通して見た世界は、本当に同じ場所に自分がいるのかと思えるほど輝いて見えることがある。まるでとてもお伽話の世界に迷い込んでしまったかのように、携帯越しの世界は平和そのものだった。
 ――彼女の瞳を通して見た景色は、どのように映るのだろうか。
 ふっと浮かんできた疑問。
 自分は彼女ではないし、やはり推測や想像でしかこの答えを補えない。けれど、きっとなまえを通して見える光景は、ひどくやわらかくて温かくて、優しいものなのだろう。
 ――じゃあ、俺はどのように君に映っている?
 確信に触れる質問を投げかけると、なまえはいつもさらりと躱してしまう。問い詰めることは成果が得られないと、とっくの昔に諦めて自己開示していく姿勢を保つよう心掛けてはいたが、何分こちらも明かすことができる情報は少ない。
 何を訊こうか言葉も定まらないまま口を開こうとした秀一は、突然鳴り出した軽やかなリング音によりびくりと肩を震わせた。
「あっ電話……すみません、出てきます」
 なまえは携帯を握って立ち上がり、断りを入れて廊下に行き通話を始めた。
 数分後、なまえは少し青白い顔をして戻ってきた。
「……昴さん、ごめんなさい。あの――」
 なまえは電話の内容を掻い摘んで教えてくれた。電話の相手は弟で、母がインフルエンザに罹ってしまったこと。自分はちょうど今日休みだったため母の傍にいられるが、明日からは都合がつかないということ。そこまで話を聞き、なまえは明日から母の面倒を見ると弟に提案したという。
 そして翌日、なまえは母を看病をするために実家へ帰っていった。
 秀一は、久しぶりに工藤邸で一人の時間を過ごすこととなった。
「結局、ドライブの件は流れてしまったな……」
 まあ、状況が状況なだけに仕方がない。それに、ドライブなんていつでもできる。しかし、胸には埋めようもない穴が空いてしまったような気分だった。
 がらんとした室内は、これまでもずっと家具として機能していたものばかりだったのに、同じ形をした全く別のものに思えた。
 秀一は試しに携帯を取り出し、カメラ機能を立ち上げて構えてみる。けれど、画面に映し出されたものは、これまでのようにきらきらとしたものではなかった。
 なまえが居ないというだけで、家の中がひどく冷たく感じた。

16,11.02