回り出す歯車


 秋色になった木々や冬支度をする建物は夕日に照らされ街中が橙色に染まった。かと思えば、暫くするとあっという間に夜の帳が下りる。
 すっかり空気は冷え込み、冬の到来を人々に告げる。衣替えをしたと思えばまたすぐに防寒着を引っ張りだし、日中の暖かな気温の中歩く人々とは住む世界が違うとでもいうように、コートやマフラーを着こんだ人々は足早に家路を急いでいた。
 ――ああ、もう冬なのか。
 透は車内で信号待ちをする間、街行く人々を見て納得した。
 そういえば随分前からポアロの店内も暖房を付けていたっけ。温かい飲み物の注文も増えた気がする。
 接客や業務は完璧にこなすけれど、最近はそれにも慣れてしまい、外面だけ装って作業を行うように働いていた。
 信号が青に変わり、前の車に続いてゆっくりとアクセルを踏み込み再び走らせる。透は運転に注意しながら、つうっと視線を上に滑らせて窓ガラス越しの夜空を垣間見た。高層建築の隙間から輝く光は、周囲が明るく灯っていることもあって、目を細めなければ目視することが難しかった。
 ――街灯が全て消え去れば、きっとここも満点の星空が見えるだろうに。
 近頃、安室透やバーボンの仮面を被り活動することが多く、慌ただしい日々を送っていた。なるべくポアロは欠勤しないよう時間を切り詰めては、調整に調整を重ねた。しかし黒の組織での活動は融通が効くわけもなく、指示を拒否すればすぐにNOCを疑う目が鋭くなる。あんなに世界中のエージェントを忍び込ませておいてよく言うものだと、透はジンの疑い深い視線を受ける度に思ってしまう。
 バーボンとして生活する時間が増えたためか、十か一、または、一か零かのような、極端な考え方が定着しつつある。二人以上で行動するよう義務づけられている組織の制度は、確実に正常な思考回路を屈折させるような影響を及ぼしていた。
 先程だって星空を見たいのならば山奥へ行けばいいのに、街灯が全て消えてしまえば、なんて。そんなこと、無理に等しいのに。
 加えて、冬になったことさえ気づかなかったように思う。天気予報を確認していても、情報を右から左に聞き流していたし、気温を表す数字はただの記号にしか見えていなかった。もはやここまで来ると見ている意味など無いのではないかと考えてしまうが、テレビがついているからこそ、放映している番組内容により体内時計が現在の時刻を無意識に認知する。
 幼い頃、時間というものは無限に広がる宇宙のようなものだと思っていた。しかし、基本的生活習慣が身につき集団生活の中でその考えは薄くなっていく。さらには警察組織に所属したことで、その概念は完全に溶けて消えていった。
 時間は有限である。たった一分一秒でさえ命取りになることがある。だから絶対に無駄にはできない。
 唯一無二の存在をあの屋上で失ってからというもの、安室透もバーボンも、彼らの根底に潜む降谷零でさえ、その意識は常に持ち続けた。
 車に取り付けられたデジタル式の時計を見れば、予定通りに時間は過ぎていた。このままの速さで運転しても余裕で目的地に到着するだろう。けれど、久しぶりに顔を出すということを考えると、体は勝手にスピードを少しだけ上げた。
 車は千代田区に入る。少しの間走らせて、人目につかない場所に駐車した。
 車内で後部座席に置いてある配達員の制服を手早く着込み、必要なものを積めたダンボールを抱えて車を出た。組織からの盗聴器や発信機は既に確認して偽造済みである。
 帽子を目深く被って足早に警察庁を目指すこと数分。無事に庁内に辿り着き、難なく周囲の目を誤魔化しエレベーターに乗った。
 目当ての階ボタンを押し、壁に背中を預ける。帽子を取って軽く頭を振ると、ぺしゃんこになっていた髪の毛が生き返ったような気がした。
 深呼吸を一つして、車椅子用に取り付けられた鏡を覗く。
 そこに映った俺は、もう降谷零だった。

   *

 零は挨拶をして会議室に入ると、既に着席していた部下達は次々とその場に立ち挨拶をしてきた。早く着いたつもりだったが、入室したのは自分が最後だったようで、資料が置いてある空席は一つだけだった。
 零は一人ひとりに再び挨拶を返して席に座る。配達業者を装った制服の上着を脱ぎ、足元に置いたダンボールの上に帽子と一緒に置いた。配達員の格好のまま会議に出るのはさすがに嫌だなと、上着の下にはYシャツを着込みネクタイを締めている。
 資料にざっと目を通し会議内容を確認していると、今回の議題である重要人物を追っている捜査官が司会となり会議が始まった。
「先日、今まで鳴りを潜めていた、爆弾を製造して国内の暴力団や国際テロ組織に加担している人物――金子重之の動向を確認しました。こちらをご覧下さい」
 室内が暗くなり壁に映し出されたプロジェクターには、とあるネット掲示板の画面が映し出された。
「これは会員制のネット掲示板です。銀行強盗を企てるグループの書き込みに、金子重之が参加しています。逆探知したところ、書き込みは都内のネットカフェからされたものでした」
 各々は腕を組んだり、資料と映し出された画面に交互に視線をやりながら耳を傾けた。
「金子の書き込み内容は簡潔に述べると次の通りです。『新作の爆弾を製造した。これは自信作であり、今までにはなかったような膨大な被害が及ぶものだ。試しに君たちに使わせてやる。爆発した様子を確認したいため、自分も銀行強盗に参加する。報酬は強奪した銀行の金から受け取る』」
 犯行声明に似た有無も言わせぬ文面に、会議室にいた誰もが眉間に皺を寄せた。
「今までずっと爆弾を造っていたから消息が掴めなかったということか……」
「完成させた高揚感から掲示板のやつらに目をつけて話を持ち掛けた……って感じですね。試作品を試すような感覚に思えます」
「明らかにこの銀行強盗を企てる奴らは素人だろう。そいつらに加担するなんて、先輩気取りか?」
「いや、単純に資金の山分けじゃないですかね。次の爆弾を造るために回すとか。最近金子の爆弾は裏であまり出回ってないようですし」
 司会役はもういいだろうと判断してプロジェクターを閉じ、電気をつけた。室内がパッと明るくなったことで室内にいた者たちの思考も切り替わり、混沌としていた話し合いは蛍光灯の明かりに導かれるように会議は進んでいった。
「その強奪する予定の銀行はどこだ?」
「ていと銀行です。日時は今のところ数週間後、ということだけ決まっています。……最初の書き込み以降、金子は数々のサーバーを経由しており書き込みをしていたため、逆探知には失敗してしまいました」
 部下たちの話に耳を澄まし沈黙を決め込んでいた零は、資料に載っている金子の犯罪歴やこれまでの活動歴に再び目を走らせた。情報を頭の中に飲み込むと、味から調味料を探り当てるように一つずつ確かめていく。すると、段々と金子重之という人物の行動特徴が手に取るように把握できた。
「……ていと銀行で爆発事件ともなれば相当大々的に報道され、メディアや刺激が欲しい若者は一昔前に金子が起こした事件を調べるだろう。そうすれば、金子が国際テロ組織や裏社会の奴らに爆弾を売り捌いていることくらい簡単に情報が出てくる。金子は裏の人間でも大物しか相手にしていない。売り捌く相手を見極める目もある。それを知れば、反社会的傾向のある若者は金子を崇拝するだろう。……計画は緻密なものを仕上げるが、自分の名を広めようとすることは毎度欠かさない。金子は典型的なナルシストだな」
 若干の嫌悪が入り混じった視線で資料を睨みつけながら、零は自己分析したものをつらつらと話す。すると、会議室はしんと静まり返った。一通り話終えて顔を上げると一同の目が注がれて、零は少しだけ目を見開いた。
「……なんだその目は」
「降谷さん……さすがです……!」
 ざわざわと騒ぎ始めた部下たちから羨望のまなざしが注がれる。久しぶりに彼らの変わらない温かさに触れた気がして、零は心の凝りが解れる気分になった。
 緩みそうになる頬筋を抑え、今は会議中だとため息をついて話を戻した。
「経験を積めばできるようになる。……それより、金子はどうする。今日議題として挙げたということは、接触するという方向でいいのか?」
「は、はい! この機会を逃すわけにはいきません」
 爆弾の爆発規模がわからない以上、救助を優先するに越したことはない。しかし、変に銀行強盗らを刺激して爆弾を起動させられたら元も子もないというのがこの場にいる全員の意見だった。
「逆探知が難しい以上、直接的に接触を試みた方が確実に相手の尻尾を掴める」
「金子を懐柔すれば国内外の組織の情報が手に入るかもしれない」
 零は話を聞きながら音を立てないよう注意をして、ダンボールの中から手帳を引っ張り出した。それは表向きに活用している安室透のものだったが、日付の下に書き込まれたポアロのシフトを除けば今からやることは充分事足りる。
 金子と銀行強盗のグループたちは数週間後と話しているが、少し考えれば決行日の目星がつくだろう。零は手帳を開いて今月のカレンダーページを出した。
 一番可能性が高いのは給料が多く振込まれ金銭の動きが激しい月末である。そして、金子は目立ちたがり屋だから、なるべく多くの人に見られる日を選ぶだろう。
 銀行強盗が起こりうる日付に仮説を立てていると、候補日はほとんどポアロのシフトが入っていた。組織へ潜入している身で銀行強盗の方にまで手を出すことは出来ない。けれど、この機を逃したら金子はまた雲隠れしてしまうだろう。最悪、金子の新作である爆弾が裏で横行し始め多大な影響を受ける。
 何か策はないかと練っていると、シフトの予定の中でもとりわけ目立つ書き込みに目がいった。
 ――ああそうだ。ポアロのクリスマスメニューを考えておかないと。
 ポアロは毎年違ったクリスマスメニューを考案して提供しているらしい。今月中にメニュー案を店長に出さねばならないのだ。
 先週、久々に出勤してきた店長は、今日の天気を話題にあげるようにさらっと重要なことを話し出した。
「今年は料理上手の安室くんもいることだし、すごいものが出来上がるかもね。楽しみだねえ」
 にこにこと楽しそうに話す店長と、それを隣で聞きつつ頷く梓に対し、透は間抜けな返事しかできなかった。
 しかもこの話の後、梓からは「安室さんのクリスマスメニュー、楽しみにしてますね!」と、自身は傍観兼味見役に徹すると宣言されてしまった。梓は透が働くまでの間、ずっと店長とともにクリスマスメニューを考案していたが、さすがにもうネタが無いらしい。新たな変化を求めている期待の目から逃れられるわけもなく、透は完全に一人でクリスマスメニュー考案と闘わなければならなくなったのである。
 ついこの間、組織での仕事終わりに良い意見が得られないと予想を立てつつ、車を走らせながら助手席に腰を落ち着かせるベルモットにダメもとで「クリスマスメニューと耳にして何を思い浮かべます?」だなんて訊いてしまった。結局、返されたのはポアロでは出せないような高級料理の名前だったが。
 返答を聞き、これだから元世界的女優は……と心の中で愚痴っていると訝しげな視線と「あなた今失礼なこと考えたでしょ」とのお言葉を頂いてしまったので、地獄耳の概念が壊された瞬間だった。
 こんな時、気軽に客観的な意見を述べてくれる相手がいれば楽なのだけれど。ちらりと会議室を一瞥するが、ここにいるのは、仕事柄クリスマス等の季節の行事は遠くから眺めることしかできない者ばかりである。だからこそ客観的な意見が聞けるかもしれないが、それでは現実味が少々欠けてしまう。実体験を元にしつつ、的確なアドバイスをくれる相手……。
 近頃よく来店する客の中で相談できそうな相手を思い浮かべるが、あまり適任と思える人は見当たらなかった。けれど、暫く頭を悩ませていると、一人だけふわりと思いついた人物がいた。
 ――そういえば、最近あの子を見てないな。
 暫く来店していないが、一ヶ月程の間、沢田なまえとはほぼ出勤する度に顔を合わせていた。翻訳の仕事をする彼女は、昼間ポアロで仕事をすることが多くなり、注文を承るついでに親睦を深めていった。
 出会いは本当に偶然で、なまえが体調を崩しているのをたまたま見かけ、手助けをしたことが始まりだった。彼女との縁はそこで切れるとばかり思っていたから、アルバイト店員と常連客の間柄から、顔見知り、そして友だちに近いようなやり取りをする関係に発展していったことに驚きを感じている。
 話してみると、なまえはとても聡明で気遣いもでき、周囲の人々に愛情を持って接する人間ということがわかった。年下への振る舞いや面倒見も良く、親交がある少年探偵団や女子高生たちから慕われているのも一目瞭然だった。
 なまえならば、きっと良いアドバイスをしてくれるはずだ。様々な視点から物事を見ることが出来る彼女の意見は頼りになる。
 最近来ないのはなぜだろう。零はなまえと知り合いの人々がなにか彼女の近況を語っていなかったか思い出す。
 ――ああ、そうだ。確か毛利家の人々が母の看病をするために実家に帰ったと言っていた。
 その時は会話に入らずに父娘と居候であるコナンの話を小耳に挟んだ程度ではあったが、詳しく聞きたい気持ちはないということではなかった。しかし彼らに質問したところできっと詳細は聞かされていないような口振りだったため、得るものは無いと判断して接客を決め込んだ。
 そういえば、彼女の実家はどこにあっただろうか。確か――。
「……さん、降谷さん」
「……! ああ、すまない」
 隣に座る風見の声にぴくりと肩が震え我に返る。
「大丈夫ですか、降谷さん」
 きちんと体を休めているのかという心配が込められた言葉に零はゆるく頭を振って否定し、安心させるように微笑んだ。
「少し考え事をしていただけだ。大丈夫、そんなヤワじゃないさ。……悪いがもう一度話してくれないか」
「この男には潜入ということで接触を試みる流れになっています」
 考えに耽っているうちに随分会議が進んでいたらしい。いつもなら聞き逃さないのに、どうしてなのか今日は考え事に集中してしまった。
「たぶん、俺は協力できない。悪いな」
「いえ、そんな……。これ以上降谷さんの仕事は増やせません」
「……決行日はきっと、“黒”のようで“白”……いや、“グレー”といったとこかな」
「……? というと……?」
 意味深な言い方をする零に風見は首を傾げる。零が口を開こうとすると、進行役が今後の対策を確認するように話した。
「他に何かなければ会議はこれで終了しますが……」
 各々はその言葉により会議終了を悟ったが、一人だけそろりと手を挙げる者がいた。
「あの……」
 全員が声の出どころに注目する。突然一斉に視線が注がれた男は、少しだけ身を引いてからおずおずと話し始めた。
「これは会議内容に関係ないことなんですが……」
「いい、言ってみろ」
 不安要素はなるべく共有しておきたい。なにより、次はいつこの場に戻ってこれるかわからないのだ。零は背中を押すように挙手をしたままの部下に声をかけた。
 部下の男は零の言葉に気恥しそうに頭を下げると、顔つきを変えて話し始めた。
「風紀財団の活動が勢力的になっているようです。並盛ほど徹底的な活動を他の地域でしているわけではなさそうですが、近頃、裏でこそこそと嗅ぎ回っているようで……」
「風紀財団……“ヒバリ”か」
 零は記憶を頼りに、久しぶりに聞いたその組織と男について思い出した。
 風紀財団は、通称ヒバリと呼ばれる男、雲雀恭弥が中学生の頃に所属していた風紀委員会を母体とした組織である。『最強にして最恐の並盛の秩序』とも呼ばれ、並盛はもはや警察組織ではなく風紀財団が治安保持に貢献していた。そのやり方は少々、いや、かなり荒っぽい部分や厳しい面があるが、風紀財団の力により並盛は他の地域、特に米花町とは比べ物にならないほど平穏だった。
「嗅ぎ回っている? 何を?」
「まだ調査中ですが、なにか探しているようで……対象はまだわかりませんが」
 風紀財団は、公安が動向を認知している他の組織とは明らかに色が異なる。また、その活動内容も並盛の治安維持の他になにかしているようだが、そこまでこちらは詳細な情報を掴めていなかった。
「金子に風紀財団……やっかいなやつらばっかですね」
「金子はともかく、風紀財団はまだ様子見ということで大丈夫だろう。あそこは暴力団関係とは違って、下手な行動には出ない。ヒバリは相当頭が切れるらしいからな」
 零の言葉に部下たちは安心したように胸をなで下ろす。
「それでは、降谷さんの仰る通り風紀財団の件は引き続き様子見ということで……」
 司会がその場をまとめあげると、会議は終了となった。
 出席者は散り散りに会議室から姿を消していく。司会をした男も二人の様子を察して軽く頭を下げてから退室し、瞬く間にガランとした室内に零と風見だけとなった。
「降谷さん、今日はありがとうございました。……その、先ほど言いかけていた『グレー』というのは?」
 風見の質問を受けて、零は室内に自分たちしかいないのを瞬時に確認した後、少しだけ眉を寄せて風見に囁いた。
「――その日は特別に一人で行動する許可を得ている。確かめたいことがあってな」
 憎悪と殺意の矛先にいる男の真相と真実を手繰り寄せる一歩となる。
 零の気迫に風見は生唾をごくりと飲み込む。すると会議に出席していた部下が扉をノックし、控えめに名前を呼ばれた風見は名残惜しそうに零に一礼して去っていった。
 会議室に一人取り残された零は、しんと静まり返った室内を一瞥してから、胸につっかえた違和感に首を傾げた。
 ――何かがまだ足りない気がする。なんだ、何が導き出せていないんだ。
 零は忘れ物を探すように記憶を遡る。先程の“グレー”に関する風見との会話、風紀財団の話、会議中での会話に……。
「っ! 沢田なまえ……!」
 俯き顎に指を当てていた零は、違和感の正体を解き明かし、思い切り顔を上げた。
 ――ああ、そうだ。彼女の実家は……。
『――実家は並盛なんです。安室さん、並盛町ってご存知ですか?』
 鮮明に脳内で再生できた、なまえがポアロに通うようになってからポロっと零した言葉。それを聞いた時はあまり深くは考えなかった。しかし今となっては、透明な水の中に絵の具が一滴零れ落ちたように、なまえのその一言がじわりと零の心を染め上げている。
 やわらかな声音と笑顔にそぐわぬ、何か恐ろしいものがなまえの裏に潜んでいる気がした。零はまるで寒さがこたえたように片腕を体に引き寄せ肘を摩る。
 窓の外を眺めると、夜間にも関わらず木枯らし一号が吹き荒れていた。

16,11.10