辿り着いた場所


 沖矢昴、二十七歳。東都大学大学院で工学を専攻し、日々論文執筆に明け暮れる、温厚で紳士的な大学院生。
 これが新たな自分である。
 沖矢昴という人物に沿い、生活環境も生活習慣も、ガラリと変えることとなった。
 翌日が仕事だと思えば、眠りは浅くなり目覚めてからすぐに起床できたこの体。沖矢昴である今となっては、緊急を要する出来事は早朝にほとんど起こらないため、緊張状態から解放されつつあった。さらに、木馬荘で燃えてしまったシャーロックホームズをはじめとするお気に入りの書籍が数多く眠るこの書斎のおかげもあり、かなり有意義な時間を過ごすことが出来ている。
 組織の目を掻い潜り、木馬荘から移り住んだこの工藤邸では、宮野志保の監視・護衛を除けば、ジェイムズからの要請がない限り赤井は忙しなく仕事をすることはなかった。そのため、これまでとは違い、生活に余裕がでてくる。今までの多忙な日常を払拭して溜め込んだ有給を発散するかのように、書斎に入り浸ろうが、酒を浴びるように飲もうが自由に過ごせるのだ。実際にそれを実行してみるのも悪くはないと考えていた。
 その予定が狂ったのは、工藤邸の中を案内してもらっている時に聞いた、ボウヤのとある一言である。
「あ、そうそう。新一兄ちゃんの家ね、今はちょっと留守にしてるんだけど、もう一人住んでるんだ」
 通りで工藤家の人々がいないにも関わらず、整理整頓や掃除が行き届いていると思った。
 居候の身のため、あまり強く態度に表せられないが、なぜ勧めるときに言ってくれなかったんだ。そういうことはもっと早く教えてくれと昴は心の中で愚痴をこぼした。
「なまえさんっていうんだけど、先週から仕事で海外に行ってて、まだ帰ってきてないんだ」
 しかも女性ときている。男女が同じ屋根の下に住むのは大丈夫なのだろうか。歳を訊けば二十四歳だとコナンが答えた。
「ホォー……僕は構いませんが、彼女は大丈夫なのですか? 仮にも男女が同じ屋根の下で生活を共にするだなんて」
「さっきメールで訊いてみたら、大丈夫だって言ってたよ。新一兄ちゃんが許可したなら心配いらないって」 
 ちなみにここがなまえさんの部屋だからと2階を案内しながらさらっと言うコナンに、昴はため息をつきそうになった。
 これから自室にもなる寝室を教えてもらった後、昴はコナンに紅茶を振る舞いながら、なまえについて尋ねた。
「そのなまえさんというのは、どうしてここに住むことになったんだい? 親戚というわけではなさそうだ」
「あー……実はね……」
 コナンが頬を掻きながら語った話に、昴は思わず目を丸くした。
 新一兄ちゃんから聞いた話だけど、と前置きをして語った彼女の居住理由。それは、この工藤邸の持ち主である工藤優作氏に、彼が書いた作品を指摘したことから始まったらしい。
 あの超有名ミステリー作家で、彼が手がけた『闇の男爵』シリーズは発売以来人気が衰えないほどである。そんな作品を書く人に、ダメ出しをする人間がいるだなんて。
 昴は驚きながらもコナンの話に耳を傾けた。
 ある日なまえは、目の前にいる人物が変装した優作だと気づかずに、優作に訊かれるまま丁度そのとき読んでいた『闇の男爵』の感想を、包み隠さず全て語ったらしい。しかも、指摘をした箇所は、優作が執筆していた時にしっくりくる展開や表現ができずに時間を掛けて書き上げた部分だったのだ。 
 なまえはその優作の苦悩も推測した上で指摘し、同時に改善点も話したという。
「それ以降、優作おじさんがなまえさんのこと気に入っちゃって、助手というか、執筆活動の手伝いみたいなことさせてるらしいよ。それで、ちょうどなまえさんが前に住んでたアパートの契約が切れた時に“ここに住めばいいじゃないか”って優作おじさんが声掛けたんだって。“ここに住んでいた方が、何かと自分も都合がいいから”って」
 開いた口が塞がらなくなりそうだった。昔から優作のファンである昴は、まるで玉の輿……というか、シンデレラストーリーを聞かされているかのような気分だった。
 あの優作の作品に指摘を出来るほど、ある意味“才”とも呼べるものを彼女は持っているというのだろうか。
 なまえについて知るどころか更なる疑問が湧いてきてしまい、これは実際に会ってみて見定めなければならないなと昴は顎に指を当てた。
「そうそう、なまえさん、来週には帰ってくるって!」
「わかりました。ボウヤは随分なまえさんを気に入ってるんですねえ」
 コナンは目を丸くした後、彼が推理を披露する際に浮かべる得意げな笑みを昴に向けた。
「……昴さんもきっと気に入るよ」
「ホォー……それは楽しみだ」
 コナンの挑発的な物言いに、秀一は口角を上げた。

16,08.19