ただいま工藤邸


 なまえが実家から帰ってきた。
 連絡を取り合っていたため、帰ってくる日も算段がつき、リクエストされたビーフシチューは前日に作り終えて寝かせておいた。我ながら完璧なできあがりである。
 なまえは目を輝かせながら「いただきます!」と元気よく挨拶をして、ぺろりとたえらげてしまった。
 淹れたての珈琲を差し出しながら、昴はこのタイミングがいいだろうと結論づけて口を開いた。
「なまえさんがいない間、ちょっと特訓してみたんですよ」
「特訓?」
 首をかしげて上目遣いで見てくるなまえに笑みを深める。
 不思議がっているまなざしを背中で受け止めながら冷蔵庫からあるものを取り出した。
「ぷ、プリン……!」
「料理の幅を広げてみようと思ってね。よかったら食べてくれるかい?」
「もちろん! 食べます!」
 プリンの上に生クリームをくるくると乗せてやると、なまえの目の輝きは最高到達点に達していた。
「さあ、どうぞ」
「いただきます……!」
 スプーンを震わせながらプリンを一口分取り、生クリームと絡めて口に運ぶ。
「美味しい、とっても」
 にこにこしながら頬張るなまえにじんわりと胸の奥があたたかくなった気がした。
「やっぱり、昴さんの作ったものご褒美だな……」
 ポツリと嬉しそうにはにかんだなまえを見て、昴は目を見開いた。
 なまえが食事中というのも気にせず、昴はすかさず携帯を取り出し、写真アプリを起動させてシャッターボタンをタップする。それは一回ではなく、立て続けにシャッター音は鳴り響いた。
「え、え……? な、なっ、なんで今撮ったんですか!?」
 突然の昴の奇行になまえは目を丸くして呆然とする。しかしすぐに問い詰めようと身を乗り出し、まだキッチンに立っている昴に詰め寄った。
 なまえがテーブルに乗り出したことに昴はハッと我に返ると、今さっき撮った写真をさっと見直して、なまえに携帯を見せた。
「ほら、どうしてもブレてしまうんだよ。あとピントが合わなかったり」
 連写した写真を一枚ずつ丁寧に見せながら昴は冷静にどこが良くなかったかを解説する。
 なまえは突然の講評にポカンと口を開けてしまう。いきなりなんなのこの人……と思ったところで、そういえばとなまえは記憶を遡った。
 それはなまえが並盛に戻る前、昴も写真を撮るようになり、日々の会話の中には写真の話題がちらほら出てくるようになった頃のことだ。最初こそ、ただ目の前にある風景を切り取るというような撮り方をしていた昴も、なまえのアドバイスを参考にしながら様々なものを被写体に撮り続けていたら、あっという間に撮影技術は向上したのだ。撮り終えると互いに写真を見せ合ったりもしていた。昴が会話で匂わせていることは、きっとこのことだろう。
 ――でも突然脈絡もなく話されても困る!
 せっかく美味しいプリンを食べてとろけた脳内には、突きつけられた謎解きのような言葉の真相を突き止めるために思考を切り替えるには時間がかかるのだ。けれど、これだけはわかる。
 ――プリンを食べているだらしない顔を昴さんのフォルダに残してはいけない!
「消して! 今すぐ消しましょ!」
 ガタンと椅子を鳴らして立ち上がったなまえはカウンター越しに立ったままの昴に手を伸ばした。あともう少しで手が携帯に届くと思った矢先に、昴が腕をさらに上にあげてしまい届かなくなってしまう。
「ああほら、珈琲が零れちゃうぞ」
 携帯を頭上に上げつつ、昴はもう片方の手でなまえが珈琲を零さないようにさり気なくマグカップを避けた。
 なまえは悔しそうに顎を引いて昴を睨みつける。少しの間そうしていたが、昴には叶わないと判断したのか、頬を少し膨らまして椅子に座ると黙って食事を再開した。
 昴から見れば、なまえが睨みつけてくる顔はただの上目遣いにしか見えなかった。彼女のその瞳に弱いことは自分でも知っていたため、早々に諦めてくれたことにほっと胸を撫で下ろす。
 仕方ないと昴は一つ溜息をつくと、カメラフォルダーを開く。左手の親指で画面をスワイプしていくと、目当ての写真を発見し、タップして全画面に表示させた。
「これでも以前は結構上手く撮れていたんだ。ほら、これとか」
「なっ……!? そ、それいつの写真ですか!?」
「確か……酔って寝落ちした夜だったか……?」
「うそ……!? だいぶ前……!」
 昴がなまえに見せた画像は、なまえが昴に誘われて酒を一緒に飲んだ時のものだった。あの夜は酒が回っていたこともあり、曖昧にしかなまえの記憶には残っていなかったが。
 ――待って、これよく見たらインカメで撮った……?
 自分の寝顔はあまりじっと見ていたくなかったが、なまえは画質の違いに気づいた。
 通常の撮り方をする場合とインカメラにした場合を比べると、自撮りを考慮しているためか少しだけインカメラの方が補整がかかるのだ。主に肌がより綺麗に写し出されるようになっているため、インカメラの画像は肌の部分のホワイトバランスが変更されている。
 ――待って、ちょっと待って。これ、私、もしかして……。
「あっあの、昴、さん……」
「ん?」
「えっ、私、これ……え? 昴さん? 私、えっ?」
 写真と昴の顔に視線を行ったり来たりさせて声を震わせるなまえはパニックのあまり目を潤ませていた。昴は困惑しているなまえを見つめながら、工藤邸に帰ってきてまだ数時間だというのに彼女は喜怒哀楽すべての表情を見せてくれているんじゃないかと感心していた。
「……だいぶ混乱しているところ悪いですが、この時、君に抱き枕にされてね」
「――っ!!」
 最悪だ。なにそれ最悪だ。
 なまえの顔が羞恥で真っ赤に染まった。

   *

 食事が終わり後片付けを名乗り出たなまえは食器を洗いながらポツリと呟いた。
「……昴さん、意地悪度が増してる気がする」
 不貞腐れたような表情を浮かべるなまえに、昴はマグカップで隠した口元を緩ませた。
 こんなに肩の力を抜いたのは久々なように思う。年甲斐もなくなまえをからかって遊んでしまったが、昴の胸の内は彼女の心境と正反対に晴れやかだった。
「昴さんは? 何かありましたか? 久しぶりに一人で、ゆったり過ごせましたか?」
 洗い物を終わらせてタオルで手を拭きながら目を細めるなまえに、昴は一瞬息を呑んだ。視線を飲みかけの珈琲に落とす。
「……部屋が広かったよ。一人分の食事を作るのは難しくて何回も隣にお裾分けに行ったかな。その度に小さなお嬢さんに鬱陶しい顔をされてね。あと、さっきも言った通り写真を撮るのがまた下手になったから、教えてくれないか」
 彼女が居ない日々は長かったけれど、こうしてまた一緒に生活している今を思うと、あっという間だった気もする。やらなければならないこと、やり遂げなければならないことは山積みだけれど、平穏という言葉が似合うこの非日常のような日常が自分にどれほどの安らぎをもたらしているのだろうか。
 彼女はこの生活をどう思っているのだろう。ふと浮かんだ疑問は、なまえの表情を目にして瞬く間に消えてなくなった。
「――そっか……そっかあ……」
 昴の言葉を聞いて呆然としたあと、なまえは嬉しさを噛み締めるように頷きながら微笑んだ。

17,01.03