隠し味の在り処


 金子重之が逮捕され、彼に関する報道も落ち着き、世間が銀行強盗のことなど頭の片隅に追いやった頃。すっかり陽が暮れるのも早くなり冬の空気が澄みわたる寒空の下、なまえはポアロに向かって歩いていた。
 事の発端は先日、久々にポアロに足を運んだ際に「クリスマスメニューの試食をお願いできますか?」と透にお願いされたことから始まる。自分で決めた原稿ノルマを達成してゆったりと珈琲を飲んでいたなまえは、今日の夕飯はなんだろうとぼんやりしていたため、深く考えずに透の言葉に二つ返事で了承してしまった。しかし話をよく聞いてみると、後日ポアロ閉店後に来てくれと透はにこやかに話したのだ。試食というからには、スーパーなどで小さく切った商品を食べるようなイメージをなまえは抱いていたので、変化球を目の当たりにしたかのように思わず声を上げてしまった。透はその声に少しだけ目を見開いたけれど、「人の話はちゃんと聞いてくださいね」と悪戯が成功したように目を細めた。しかし、そのまなざしが以前とは違う色を孕んでいることになまえは感づいていた。
 ――もう彼のふわふわした笑顔にはお目にかかれないのかな。
 ていと銀行でお互い容姿は違うけれど目が合った以降、なにかしら彼がこちらに接触を試みるというのは予想していた。そのため、二人きりになれるよう場をセッティングして約束を取り付けるような行為に、さほど驚きはしなかった。けれど、どこかで寂しく思っていた。
 ポアロに通いつめていた頃、少しずつ透との仲が深まっていることになまえは少しだけ喜びを感じていたのだ。彼との他愛もない会話は、彼の本来の目的とは全くかけ離れているから気兼ねなく自然体で居られることがあるのではないかと、そんな厚かましい思いを胸に抱いていた。
 会話中に見せてくれる透の笑った顔を例えるのなら、生クリームを作っている時に泡立て器をホイップに絡めてボウルから離した際にできる、あのちょこんとした小さな角のような、そんな笑顔。自分との会話の中で、そんなちょっと甘くてかわいらしい笑みを見るたびになまえは満足感に浸っていた。小さく些細なことにでも彼が浮かべるふわふわとした微笑みには、少なからずわざとらしさは見受けられなかったからだ。
 最後にそれを見たのはいつだろう。それはきっと、並盛に帰る前だ。
 もう透は、今までのようには接してくれないだろう。そう頭では理解していても、以前のようなやりとりをしてくれるのではないかと期待してしまう自分がいた。
 しかし、透がそんな態度を取る要因の一つになってしまったのは自分である。しかも、一生抱えていかなければならないような孤独から透を解放できる術を持っているにも関わらず、行動に移さないのも自分だった。結局のところ、全て自業自得なのである。
 ――貴方の大切な彼は、今も生きているよ。
 そうやって一言、彼に言ってしまえばどんなに楽になることだろう。
 なまえはマフラーに隠れた口元で、ほんの少し唇を震わせて、声には出さずに空気を形づくるよう唱えてみる。視界が一瞬、少しだけ白い吐息に染まった。まるで懺悔しているような気分だ。
 しかし現実は、決して真相を口にすることはできない。これは彼らの命を拾うにあたって、ボンゴレ内で固く誓い合った決めごとだった。
 元々は私のエゴで始まったような救済措置計画である。言い換えるならば、救い出した彼らに関わっていた全ての人が、自分の愛する者の死という孤独を抱えて生きていかなければならないのは、なまえのせいでもあった。
 ――いつか私、背後から刺されそうだな。
 刺されなくても、なにか厄介ごとに巻き込まれそうな気がしてならない。リボーンがやってきた頃から様々なことに巻き込まれているから慣れっこになっているけれど、さすがに流血沙汰は御免被りたい。でも、そうなってしまっても当たり前だと表現できるくらい酷なことを実際に行っているのだ。
 そんなことを考えているうちに、なまえはポアロの裏口に到着した。一応礼儀として扉を数回ノックをすると、透はすぐに顔を出した。
「すみませんなまえさん。わざわざ時間をいただいてしまって」
「いいんです、最近ポアロに来る回数がめっきり減っちゃってましたし。それに、安室さんの力になれるなら」
 透に促されるままなまえは裏口から店内に入り、カウンター席に案内された。
 コートとマフラーを脱いで簡単に畳み、鞄とともに椅子に置いてその隣に腰を落ち着かせた。
「寒かったでしょう。どうぞ」
 店内は暖房が効いているとはいえ、すぐに体が温まるとは限らない。慣れないカウンター席にそわそわしていると、目の前に湯気がたったカップが置かれた。
「わっ……ありがとうございます! いいんですか?」
「ええ。ただ、今夜起きたことは全て、僕と貴女だけの秘密にしてくださるなら」
「ふふっ、そう言われるとなんだかドキドキしちゃいますね」
 いただきますとカップを口に運ぶ。口の中に広がった甘さは、初めて透と出会った時に容れてもらったホットココアと全く同じ味がした。
「やっぱり安室さんが容れるココアは美味しい」
「なまえさんにそう言ってもらえると、自信が持てますよ」
「本当ですか? もっと言ってあげましょうか?」
「いえ、天狗になるので遠慮しておきます」
 リズムよく行われるやりとりは以前となんら変わりないものだった。けれど、店扉や窓はカーテンが引かれており、カウンター席周辺のみ点けられた必要最低限の照明は、油断すれば暗闇に引きずり込まれてしまいそうな危うさを助長していた。
「そういえば、どうしてイタリア料理で候補を固めたんですか?」
 会話の主導権はできるだけこちらが握っていたほうがいいかもしれないという考えのもと、なまえはさっそく話を切り出した。
 本当のところ、用事を済ませて早く帰りたい気分なのだ。時間が過ぎれば過ぎるほど、外は暗くなるし寒くなる。そうなればきっと透は家まで車で送ると言い出すだろう。この後の流れによってはどこに連れて行かれるかもわからない。
「なんでも、これまでは梓さんと店長が限定メニューを毎年作ってきたそうなんですが、定番と言われるようなクリスマスメニューは出尽くしてしまったらしくて……。数年前のメニューをもう一度出すのは気が引けると考えていたところ、僕に白羽の矢が立ったそうなんです。それで調べていたら、イタリアのクリスマスメニューに行き着きまして。確認をとったらまだポアロでも提供してないそうでいい機会だから作ってみようと思ったんです。イタリアは美食の国と呼ばれていますし、僕自身イタリアの食文化に興味がありましたから」
「なるほど。それにしても……」
 話を進めながら透が並べた皿に乗っかっている料理に、なまえは開いた口が塞がらなかった。
「……クオリティ高い」
「久々に特訓しました!」
 額にかいた汗を拭うような動き透になまえは失笑しそうになった。透が今浮かべている表情には嘘くささがなく、達成感に満ち溢れていた。
 ――楽しかったんだろうなあ。
 なまえは特訓の成果とも呼べる、出された料理に再び視線を移す。透がなまえに試食してほしいと振舞ったものは、全部で三品あった。
 一品目は、家庭料理としてもよく食卓で見かけるパスタ・アル・フォルノ。これは、ミートソースのパスタをオーブンで焼いた、日本で言うところのグラタンのようなものである。パスタ料理の場合、出来立てではないと美味しくないことが多いが、このパスタ・アル・フォルノは、冷めた後しばらく時間を置いて食べる間に再び温めることでぐっと味が馴染んで美味しく食べられるものだった。
 つづいて二品目は、イタリアの伝統的なパンケーキ、そしてクリスマスの定番となっている、パネットーネだ。パネットーネ種と呼ばれる酵母を用いてゆっくり発酵させる必要があるため、日本では輸入食品として人目につくことが多い。レーズンやプラム、オレンジピールその他のドライフルーツを刻んだものをブリオッシュ生地の中に混ぜ込んで焼き上げた、ドーム型をしたお菓子である。透が作ったパネットーネは、中にアーモンドが混ぜこまれており、まるで雪が降ってきたようにシュガーがコーティングされていた。
 最後に、パネットーネと同じくクリスマス特有のお菓子の一つになっている、パンドーロ。パンドーロはパネットーネと同じブリオッシュ生地が主体となっている。しかし、パネットーネとは異なり、生地の中にドライフルーツなどを混ぜ込むことはなく、シンプルでしっとりとした味わいが特徴である。近年は、横にスライスして少しずらすように重ねていき、トッピングをしてクリスマスツリーに見立てるデコレーションが流行っている。透が作ったパンドーロも、この流行りに乗ってクリスマスツリーのようにデコレーションがされていた。
 ――これが、安室さんの本気。
「い、いただきます」
「はい、召し上がれ」
 なまえはまずパスタ・アル・フォルノに手を伸ばした。

   *

 時間を掛けて三品食べ終えたなまえは、透に感想を伝えつつ満腹感に身を委ねていた。
「非常に参考になりました。ありがとうございます、なまえさん」
「私の方こそ、美味しいものが食べられて得しちゃいました。ありがとうございます」
 協議の結果、クリスマスメニューに起用することにしたのは、パスタ・アン・フォルノとパンドーロだった。たくさん作っておけばいざという時にすぐに提供できるというのが起用の大半の理由を占めていた。また、パネットーネではなくパンドーロを選んだのは、パネットーネは輸入食品としてスーパーやデパートでよく見かけるが、パンドーロはあまり見かけないため、これを機に広まってほしいという考えからだった。
 なまえにとって幸いだったのが、透が作ったパネットーネやパンドーロの甘さがイタリアで作られているものよりも非常に控えめだったことだ。現地で食べられているドルチェは、日本人が食べると『甘味の侵略戦争』と表現できるほどの甘さなのだ。なまえがそれを伝えたところ、透も最初に作ったものを味見してみた時はかなりの甘さで震え上がったという。同時にこんな甘味の暴力を店で提供できないと試行錯誤を繰り返して、今の甘さに落ち着いたらしい。
 食後に出された珈琲を味わっていると、洗い物を終えた透がホールにでてきてなまえの鞄が置かれた椅子の隣に座った。
 ――これからが本番か。
 彼が座った前のテーブルには、自分で飲むであろう珈琲が置いてあり、なまえは帰りが遅くなることを悟った。カウンター越しに正面から問いただされるのは非常にやりにくいが、一席空けて座られてもそれはそれで身構えてしまう。
「お母様の容態はもう大丈夫なんですか?」
「えっ……? ああ、はい。コナンくんとかから聞いたんですか?」
「ええ。詳しいことは聞いていませんが、看病のために実家に戻っていると話していたので」
「母がインフルエンザになってしまって、帰ったんです。それで、看病していたら私までインフルになっちゃって、私が完治したら次は弟……というように一家全員インフルにやられちゃいました。まあ、弟は毎年感染しちゃってるんですけどね」
「そうだったんですか……。大変でしたね」
 透の労るような言葉になまえは笑顔を返した後、少しおどけたように話を続けた。
「おかげでこっちに帰ってくる日がどんどん後ろにずれ込んじゃいました。ご近所さんからは『もう帰ってこないんじゃないかと思ってた』だなんて言われちゃって」
「……ずっと気になっていたんですが、なまえさんが暮らしているのは、あの工藤優作氏のご自宅ですよね? もしかして、彼のご親戚だったりするんですか?」
「まさか! 私が親戚だなんておこがましい! ただの知り合いですよ! 優作さんから、“自分の作品を君に翻訳してもらいたい”とお声をかけていただいたんです。それを実現させると踏まえた上で、工藤邸に住んでいたほうがなにかと連絡が取りやすいし、並盛よりも編集社に行きやすいだろうから、ちょうどいいんじゃないかって提案してくださったんです」
 優作さん結構強引なんですよと付け足して苦笑いしていると、そんな理由があったのかと透は目を丸くした。
「こっちに住み始めて最初の頃はびっくりしましたよ」
「それは、どうして?」
「だって、米花って事件多いじゃないですか」
 ちょっとだけ大げさに肩をすくめる。思い当たる節があるらしい透は苦笑いをこぼしたが、一口珈琲を飲んで人のよさそうな笑みを浮かべた。けれどなまえはそれにどこか不自然さを感じだ。
「――そういえば並盛は、犯罪がほぼゼロに近いそうですね」
「ええ。だからなおさら驚きました。警察の方々は大変ですね」
「たしか並盛は、警察ではなく風紀財団という組織が治安維持に貢献しているとか……」
「あっ、やっぱり安室さんの耳にも入ってきちゃますか?」
「……ええ、職業柄いろんな調査をしていく内に自然と耳に入りますからね、風紀財団の名前は」
「よくよく考えてみたら警察よりも権力握ってる風紀財団って異質ですもんねえ」
 『探偵業』ではなく『職業柄』と濁した透の真意はいったいどんなものだろう。悟ろうと試みても、澄んだ瞳の奥深くまで予想することは難しい。けれど、提供した話題が彼の探求心に火をつけているとこは見て取れた。
「風紀財団とは、一体どんな組織なんです?」
 ギラリとした瞳を向けられてなまえは苦笑した。
 ここまでの会話で、なまえはただ透の質問に答えていたわけではない。今後、透が隙を見て何かを探ろうとする日々が続くのなら今日で全て片付けてもらった方が後々楽かと考え、知りたそうな内容をさり気なく会話の中に盛り込んで話を進めていたのだ。
 現在住んでいる家の話から始まり、米花と並盛の治安の違いについてぽろっとこぼしてみれば、風紀財団の話題がすぐに飛んできた。財団の話が始まれば、次に恭弥について訊いてくるのは自然な流れだろう。
「並盛中の風紀委員会が母体となっている組織です。当時から風紀委員長は並盛の秩序でしたから、財団と名前が変わった今でも彼は秩序であり続けているし、並盛の人たちはそれが当たり前になっているんです」
「なまえさんは、その“委員長”と話したことがあるんですか?」
「恭弥くんのことですか? お友だちですよ。弟は遅刻魔だったから、よくお世話になりました」
 遠い目をするなまえに透はいったい何があったんだと神妙な顔つきになった。
「気になりますか? 恭弥くんのこと」
「……そうですね、探偵としての血が騒ぎます」
 彼がここまで風紀財団を気にするのはなぜだろう。
 そういえば、杯戸町ショッピングモールの渡り廊下にしかけた金子印を回収したのは風紀財団の仕事だった。いくら変装していようともポリシーでもある彼らの頭髪は目立ってしまう。きっと透は風紀財団に関する情報を集めていた時に、ショッピングモールで彼らに似た人々を多く見かけたとの証言を手に入れ、それを確かめるために渡り廊下に設置された防犯カメラの映像を何らかの手段で確認したに違いない。回収しているものが何かまではカメラに捉えられてはいないだろうが、透ならそこに爆弾が仕掛けられていたのではないかと考える可能性も高い。
 風紀財団が爆弾を回収していた事実に気づいたら、恭弥の指示だと考えるだろうか。それとも、金子の代わりに現れた、なまえが変装していた強盗犯の女と風紀財団に繋がりがあると確信するのだろうか。どちらにせよ、金子重之の精神回復は見込めないのだから、真実を明らかにすることは難しいだろう。だからといって透自身が風紀財団に潜入するといった無謀な手段をとるとは思えなかった。
 なまえは風紀財団に潜入している透を想像してみたが、どう頑張ってもリーゼントは似合わなかった。その前に「その髪色はなんだ」と、さながら頭髪・服装点検のように言われてしまいそうだ。
「っ……」
「? どうかしましたか?」
 訝しげな視線を寄越す透の髪型にリーゼントを思い描いてみたが、やはり待ちに待った成人式でヤンチャをする新成人男子にしか見えなかった。こみ上げる笑いを必死に抑えながらなまえは口を開いた。
「いやっ、あの、ごめんなさい。何でもないんです。……そうだ、安室さんはボクシングができるんでしたっけ? なら、結構鍛えられるかもしれないですね」
「鍛える?」
「恭弥くんは喧嘩大好きだから、腕がたつ人には容赦しないんです。そういう人を見かけると突然襲いかかって喧嘩をふっかけるんです。安室さんもたぶんそうなりますよ」
 牽制の意味も少しだけて込めて話すと、透はなんとも言えないような顔をした。
 ちらりと腕時計を確認すると、ポアロにやって来てからだいぶ時間が経過していた。これ以上の会話はもう必要ないだろう。早いところ話を切り上げて店を出ようとなまえは話題を変更した。
「ところで、このクリスマスメニューって二週間限定なんでしたっけ?」
「ええ、クリスマス当日までの二週間になってます」
「忘れないうちに書いておこう……!」
 なまえは隣の席に置いてあった鞄から手帳を取り出した。すると、手帳に挟まっていた紙がひらひらと床に落ちていく。
「? なまえさん、落ちましたよ」
「あっ、本当だ。ありがとうございます」
 落ちた紙を拾おうとしたなまえを片手で制し、透は自分の足元近くにある紙を拾って渡した。
「よかった、気づいて。無くすところだった」
「それは?」
「これ、私がインフルになったときの診断書です。編集社に提出を求められていて、明日出しに行かなきゃいけなくて」
 なまえは透に内容が見えるように紙を掲げる。
 透はそうなんですかと納得したように返事をしつつも、視線は鋭さをまとっていた。
 透がそんなまなざしをするのも無理はない。診断書に表記された日時は、ていと銀行で強盗事件が起きていた時間帯と重なっていたのだから。
 実のところ、インフルエンザに罹ったのは母と綱吉だけである。並盛にいる期間を伸ばすため、疑い深い米花の人々から怪しまれないようにと自分もインフルエンザに感染したと嘘の情報を流していたのだ。けれど、言葉だけでは信用しない可能性があるため、偽装した診断書を持ち歩いていた。もちろん、編集社に提出を求められているというのも嘘である。
 なまえは黙り込む透に目も向けず、手帳に差し込んであったペンを取り出す。カレンダーページに『ポアロ クリスマス限定メニュー』と書き込み、矢印で開催期間を示した。
「これでよし。限定メニュー期間になったらまた来ますね」
 違うページを開いてさらさらとペンを走らせながら伝えると、一拍遅れて透が返事をした。
「――っ、いいんですか?」
「もちろん! 美味しかったのでまた食べたに来ます。今度はちゃんと、お金も払いますね。……それじゃ、時間もいい頃合なので、そろそろ帰ります」
 なまえは手帳を鞄にしまって立ち上がり、コートとマフラーを着込む。帰り支度を進めながら、そういえばと声を漏らして透に声を掛けた。
「この前、ていと銀行で強盗事件があったそうですね。病院から帰ってきてテレビをつけたら、ニュースで慣れ親しんだ景色が映ってるからびっくりしました」
 視界の端っこで透がぴくりと反応を示した。
 なまえは見て見ぬふりをして厨房に入り、裏口に向かう。スタッフルームに続く扉の前で一度立ち止まると、くるりと後ろを振り返った。
「今日はごちそうさまでした。おやすみなさい」
 なまえは透の言葉も聞かずに裏口から出てポアロを後にした。

   *

 しんと静まり返る店内で、透はしばらくその場から動くことが出来なかった。なまえが落とした診断書を拾ってから彼女がポアロを去るまで、まるで映画でも見ているような気分だった。
 ――“アレ”は、なんだ。
 沢田なまえは強盗犯の女だと確信していた。しかし、あの診断書を見せつけられた今、自分の考えや直感といった心の内にある様々なものの輪郭があやふやとなり、強盗犯の女の姿を思い出そうとしてもなぜかぼんやりとしか思い出せなかった。
 なにが起こっていたのか。先ほどなまえと交わした会話も、自分は何を話していたのか、きちんと言葉を返せていたのかさえわからない。
 例えるならば、時間を掛けて丹精込めて作り上げ、完成間近だった砂の城が跡形もなく崩された。どんなに工夫を凝らしてみても、細かい装飾を形作ろうとも、踏み潰されれば一瞬でただの砂に逆戻りしてしまう。
 途中までは、上手くいっていたと思う。こちらが投げ掛けた小さな疑問を彼女は拾い上げ、丁寧に返してくれた。彼女の返事には新たな要素が組み込まれていたから、次の話題につなげることもそれほど困難ではなかった。しかし結局のところ、あれらの会話からわかったことは、彼女が事件当時に並盛にいたということだけであった。ましてや、風紀財団や雲雀恭弥について新たに手に入れた情報は皆無に等しい。唯一データ上でわからなかった雲雀恭弥の人柄に関しては、眉をひそめることしかできなかった。
 並盛の秩序と化した風紀財団について、彼女は本当に何も知らないだけなのか。彼らの存在は当たり前だと語ったその唇は、本当に嘘偽りなく言葉を紡いだのだろうか。それとも。
 頭の中で先ほど自分と語っていた彼女の様子が繰り返し再生され、その度に疑問は生まれてくるばかりだった。
 透は目を閉じてゆっくりと吸った息を遠くへ届かせるイメージを描きながら、可能なかぎり長く吐き出した。ぐちゃぐちゃになりそうな思考回路を一旦落ち着かせるには、これが最も良い方法だった。
 瞼を開けて、目の前のことから片付けようとカウンターテーブルに目を向ける。すると、珈琲カップのソーサーの下に紙が置いてあるのに気づく。忘れ物かと思い、カップを乗っけたままソーサーをどかして紙を手に取ってみる。
 ふたつ折りにされたそれを広げると、書かれていた言葉に透は絶句した。

『Truth is beautiful, without doubt; but so are lies.』

 時が止まったかのように思えた。心臓がだんだん速く脈打っていく音が耳元で響いているようだった。
 これは、誰に向けての言葉なのか。なにを思い、どのように考えてこの言葉を綴ったのか。
 そんなこと、この言葉を生み出した本人ではないのだから真相は迷宮入りしてしまったけれど、一つだけはっきりしていることがある。それは、これは彼女が書いたものであるという事実。透は、手帳のカレンダーページに書き込みを終えたあと、なまえが違うページを開いてペンを走らせていたことを思い出した。
 透は微かに震える唇を動かして、走り書きされたそれを呟いた。
「――“真実は疑いなく美しい。しかし、嘘もまた同様である”」
 声に出すことで平面だった言葉は立体となり、新たに命が吹き込まれる。
 全ての事柄に当てはまり、全てのものへの真理を紡ぐような言葉は、読み手によって意味も解釈も異なるものである。
 ――踊らされていたのは、俺の方だと言うのか?
 証拠もなければ確信もない。しかし、もしかしたらといった可能性はどんどん溢れてくる。
 もし、あの会話が“すべて計算されたもの”だったとしたら。
「……っ」
 透はぎりっと奥歯を鳴らし、手元の紙を握りつぶす。
 そうしなければ、暗闇に呑み込まれてしまいそうだった。

17,01.12