青空に染められて


 Nothing in all the world is more dangerous than sincere ignorance and conscientious stupidity.
      Martin Luther King, Jr.

 ――この世で本当の無知と良心的な愚かさほど危険なものはない。  キング牧師

   * * *

 長い映画を見ているようだった。
 緻密な取材のもとに書かれたであろう事件場面は現実味を帯びていて、まるで証拠を見逃さないように食入るように文章にかじりつく。大胆なアクションシーンは物語に花を添えるように繰り広げられる。固唾を飲んで主人公を見守り、応援してしまいたくなるような苦悩する姿と事件に挑む真剣な姿勢を持つ魅力的な主人公。散りばめられたパズルのピースを一つひとつはめ込んでいくような、最後の最後まで読まなければ明かされない真相に高揚する。けれどもそれでいて繊細な心理描写に胸踊った。
 文章を読んでいるのに、まるで目の前で映像が流れているような感覚。間違いなく、この本に綴られた言葉は生きていて、読者がページを開く度にそれらは息を吹き返すのだと確信した。
 物語とあとがきを読み終え、後ろ髪を引かれるような気持ちで本を閉じ、再び表紙と対面する。
 『緋色の捜査官』。
 それが、たった今までなまえの心を揺さぶっていたもの。
 人さし指と中指の腹でそっと題字をなぞると、指先から心臓の鼓動が伝わってくる。それが自分のものだとわかっていながらも、この心拍は、物語の主人公の内側にいるそのモデルになった男のものであり、心の一部は姿や形を変えてこの本に眠っている。自然とそう思ってしまう自分がなんだか不思議で仕方がなかった。
 夢から目が覚めたようにゆるゆると辺りを見回す。この部屋に入ってきた時となにも変わらないそのままの光景が広がって、一瞬時が止まってしまったかのように感じた。現実に取り残されてしまったような焦りを覚え、すぐさま壁に掛けられた時計に振り返る。文字盤は本を読み始めた時間からだいぶ針が進んでいて、なまえは詰めていた息をそっと吐き出した。
「読み終わったかい?」
 優作は邪魔にならないようにとなまえの視界に入らない位置に腰掛けていた。読了したことを察すると、さっそくと言ったように自分の向かいの席を指して手招きをする。
 返事をしながら宛てがわれたソファに腰を落ち着けると、少年のような瞳を向けてきた。
「急かすようで悪いが、感想を聞かせてくれないか? 知っているだろうが君の考察を聞くことが私は大のお気に入りでね。この時間をずっと心待ちにしていたんだ」
「……えっと、まず――」
 嬉々とした表情で話す優作になまえは尻込みしそうになる。頭の中はまだ余韻に浸っているようで、ふわふわとした思考の波に漂っている途中だというのを自覚していた。
 少しだけ息を止めて視線を惑わせた後、吐き出した空気を元に戻すように吸い込んで、なまえは読んでいて感じたこと全てを包み隠さず優作に伝えた。
 ところどころ言葉がまとまっていなかったり、舌が回らずにたどたどしくなってしまったりしたことが数回あった。その度になまえは恥ずかしそうに俯き目をしばたたかせる。しかし優作は気にもとめず、じっくりとピアノの演奏に聞き惚れるようなまえの話に耳を傾けた。
 感じたこと、考えたことをすべて語り終え、なまえは振る舞われた紅茶に癒されつつ、喉の乾きを潤した。
「それにしても、いきなりロスに来いだなんてびっくりしました」
「電話で言っても動かなそうだったからね。少々強引な手を使わせてもらったよ」
「強引な手……。もしかしなくてもハリケーンのごとく現れた有希子さんですよね?」
 なまえは突然現れた有希子とロス行きのことを思い出す。
 それは、昴とともに夕食の準備をしている時だった。
 突然来客を告げる玄関チャイムが響き渡り、手を離せない昴の代わりになまえがパタパタとスリッパを鳴らし玄関扉を開ける。そこにいたのは家主である優作の妻、有希子だった。
 有希子は挨拶もそこそこになまえの手を引っ張り、自室として使っている部屋へとに入っていった。綺麗に片付けられた室内に関心しつつ、有希子は片隅に置かれたスーツケースを広げた。エプロンを身につけたまま有希子の奇行に目を丸くしていると、昴が様子を伺いにやってきた。
「なまえさん?」
「昴さん。あの、有希子さんが来たんですけど、いきなり……」
 なまえは話しながら扉の前から少し動いて昴に部屋の中を見るよう促す。二人で部屋の中を覗く後ろ姿はなんとも怪しげたったが、それよりも忙しなく動く有希子の方が怪しかった。
 有希子はクローゼットと洋服タンスを片っ端から開けていき、自分好みのなまえの私服を探し出してはデザインを確認するようにくるりと掲げてから、スーツケースに押し込んでいく。ワンピース、ニットやトップス、スカートにパンツを見繕った有希子はバラバラに指を動かしながらとある引き出しに手を掛けた。
「すっ、昴さん見ちゃだめ!」
「はい?」
 なまえは背伸びをして昴の目を塞ごうとしたが、勢い余って足を滑らせてしまう。喉に声が突っかかった時、伸ばした両手を昴の左手ひとつに捕えられ厚い胸板につけられ、そしてもう片方の手で腰を引き寄せられた。
 結局、なまえが動いても動かなくても昴の視界は良好なままだった。
「なまえちゃん、スタイルいいと思ってたけど、やっぱりそれなりのサイズ着けてるのね! これなんてかわいい!」
「ーーっ!」
 有希子が女子高生のようにはしゃぐ声に、なまえは昴に支えられながら首をぎゅんっと後ろに向けて愕然とした。
 彼女がタンスから取り出したのは、薄ピンク色の生地に白いレースが施された下着だった。
 ――見られた! ブラを。誰に? 昴さんに! こんな、明るい時に!
 恥ずかしさとショックで一瞬にして顔が熱くなるのがわかった。
「あらっ、こっちは大人っぽいわねえー!」
 次に有希子が手に取ったのは、ゴールドの糸で華やかな刺繍が施されたワインレッドの下着。タンスの奥底に眠らせておいたはずのそれにまで手をつけるだなんて。
「おや、それは初めて見たな」
「え!? なっ、え……!?」
 “あくまでも今見せられたワインレッドの下着は見たことがない”とでも言いたげな話し方になまえはぎょっとする。そんな言い方すれば、他の下着は見たことがあると思うし、有希子も変に捉えるに決まってる。
「あらあらー? もしかしてもしかしなくても、もうそういう関係なの!?」
「ち、違……! なんで? なんで昴さんが知ってるんですか!? それは見たことないって、じゃあさっきの……ぴ、ピンクのブラは……見たことあるってこと!?」
 男性相手にブラの話をするだなんて。しかも昴相手に!
 直接的な表現を避けてもきっと昴は察してくれる。冷静に考えればそんなことすぐにわかるはずなのに、パニック状態のなまえはそのことに気づかない。その際、声がしぼんでしまったことがさらに恥ずかしさを煽り、半ば投げやりに昴にもの言ってしまった。
「洗濯物だよ」
 くすりと笑った昴の声が恨めしい。しかし、告げられた事実になまえは頭を捻った。
 共に生活を始めるとき、『洗濯物は先に気づた方が干すこと。下着は各自で干す』というルールを設けた。執筆活動に追われている時期は、洗濯が終わると昴が先に気づきなまえの下着以外を干すことが多い。そして昴に先を越されたなまえはあとでこっそりと自分の下着を干しに行き、数時間後には乾いた洗濯物を取り込んで畳む。そんな役割分担が二人の間では自然と定着していた。
「見たんですか!? でも私ちゃんとネットに入れてましたよね! まっ、まさか……チャック開けたんですか!?」
 精一杯つま先立ちをして昴の胸元をつかみ食ってかかるなまえに昴はピシリと固まった。下着のことを顔を真っ赤にしながら話していたくせに、鼻先がくっつきそうになるほど近い今の距離は平気だというのか。
 昴がどうしてやろうかと考えている中、なまえは絶対に吐かせてやるとでもいったような気迫が体から溢れていた。
「もしかしてこれ勝負下着だった? ごめんなさーい! 先にお披露目しちゃったわあ」
「ちっ違います! 買ったけどサイズ合わなかったって友だちに押し付けられただけで……! あぁもう有希子さん早くしまって! 昴さんは今見たもの忘れて! ぜんぶ!」
 必死に真っ赤な顔をして涙を浮かべて懇願するように見上げてくるなまえ。
 後に昴はこの時の光景について心のシャッターを何回も切ったと話す。ちなみに、ネットに入っているとはいえ色はだいたいわかるし、掃除中に洗濯物が干してあるベランダへ行けばこそこそ干したといっても自然と目についてしまうものだとも。
 こうしてなまえは有希子に必需品や貴重品、パスポートを鞄に詰められ、スーツケースを携えた彼女に腕を引っ張られタクシーで羽田空港へ。
 羽田発のロサンゼルス直行便で、約十時間のフライト。
 疲労感に見舞われながらロサンゼルスの地面に降り立つと、時差により現地はちょうど正午をまわった時間だった。
 そして空元気な有希子に促され車に乗りこみ、到着したのがロサンゼルスでの工藤夫妻の住居だった。
「それで、どうして急に呼び出しては原稿を読めだなんて言ったんです? 直接でないといけない用事なんですか?」
 原稿のデータや原本そのものを工藤邸に送ってくれればいい話ではないか。
「ついに、君の出番だよなまえくん」
「……ん?」
「この『緋色の捜査官』のイタリア版を、ぜひ君に執筆してほしくてね」
「…………」
 ――嘘でしょ。
「あら? なまえちゃん? なまえちゃーん! ……大変、息してないわ」
「ふぅむ。屍のようだな」
「っ……勝手に殺さないでください。えっ、ちょっと待ってください。……は?」
「戸惑ってるなまえちゃんも珍しくて可愛いわね!」
「いやあ、君のそんな顔が見られるなんて。はるばる日本から来てもらった甲斐があるよ」
 優作の嬉しそうな笑みになまえは顔をしかめた。優作はきっと、翻訳の話を持ちかければどんな反応を返させるのかわかった上ですべて実行していたはずだ。手の上で踊らされていたような感覚になまえは唇をとがらせる。
「実は今、ハリウッドでの映画制作が進んでいてね」
「そういえばニュースになってましたね。おめでとうございます」
「うん、ありがとう。それで、ハリウッド映画となれば全世界に公開される可能性が高い」
「まあ、そうですね」
「そこで、なまえくんの出番だよ」
「ちょっとよくわからないです」
「この映画はいずれイタリアでも公開されるだろう。いや、公開させる! そうしたら、原作本が必要となると考えているんだが、どうだろう」
「そうですね。そのほうが原作も楽しめますし映画もよりおもしろく観れますもんね」
「というわけでなまえくん。よろしく頼むよ」
 ……あの芸術品のような作品を、私が翻訳。
 読了後の高揚感が一気に降下し、なまえは身震いした。
「……私じゃなくてもいいのでは」
 なまえの消極的な言葉に、優作は眉を上げて首を傾げながら言い放つ。
「君と出会ったとき、話したじゃないか。いつかなまえくんに僕の作品を翻訳してもらうって」
「いや、あの、忘れたわけじゃないんですけど。えっと、こういうのって会社通すとかそういう手続き必要なんじゃないんですか? 原作者が勝手……勝手に? 決めちゃってもいいんですか?」
「そこはほら、“工藤優作の名において”って感じで!」
「原稿を読んだだけでどこで私が苦戦したか見抜いてしまうなまえくんだからこそ、頼みたいんだよ。それに、さっきの感想を聞いて、やはり私の文章を翻訳できるのは君しかいないと思ったよ」
 有希子と優作は「明日はピクニックに行こう」とでもいうようなテンションでなまえが逃げられないよう言葉を重ねていった。
「あの工藤優作の本を翻訳? 私が? ……いやいや。やめよう、やめよう」
 背中がひやりとした。脳裏に悪夢がよみがえり、頭を抱える。
 ――絶対にもうボンゴレ本部に顔を出せなくなる……!
 これまで、副業というくくりで様々な本を翻訳してきたが、どこで噂を嗅ぎつけたのか、ボンゴレの面々は必ず翻訳し出版された本を読んでいるのだ。
 イタリア本部に行くたび、高級菓子にすすすっと釣られて九代目のおやつの集いに駆けつければ、なぜか傍らには出版された本が置かれ、恥ずかしいくらいに感想を伝えられる。それに解放されへとへとになったところで、どこから現れたのかもわからないヴァリアー幹部に見つかり、ヴァリアーの元に連れていかれひやかされる。
 原作を執筆しているわけではないが、翻訳とはいえ表現など工夫を凝らし執筆にあたった本である。原作者や担当と話し合いながら一冊を完成させても、身内に読まれていると思うと拙い作文を盗み見された気分になる。特にボンゴレ幹部は言語力に堪能な人たちばかりである。
 XANXUSなんて面白がって、原作本と翻訳本を両手に持ち、文章を付き合わせては鼻で笑ってきたりするのだ。それは良い表現だったのか、それとも詰めが甘いと言っているのかわからず毎度反応に困る。この時ばかりは血は争えないと、普段は顔に出さないが実は悪戯好きな親子に勘弁してくれと言いたくなってしまう。
 他にも、小説に書かれた内容を朗読したりと、ヴァリアーはドエスの巣窟である。しかも最初に始めたのはベルフェゴールだったが、今では暇を持て余したヴァリアー幹部のお遊びになっていた。
 特に酒を嗜んでいる最中に恋愛小説でそれをやられた日には、恥ずかしさで叫びそうになってしまう。だって、彼らは決まって恋愛小説を音読するとき、まるで登場人物になりきったように語るのだ。しかも、告白したり愛を誓ったりするセリフばかりをやりたがる。さすが暗殺部隊というだけであって、この演技を世に出せば死人が出てしまいそうなくらい俳優顔負けな立ち振る舞いである。もうたまったもんじゃない。
 そんな洗礼のような、遊びの延長線上にあるからかいをされ続けてきた中、あの工藤優作が原作の本を翻訳したらどうなるのか。
 ――全然想像できないけど、なんかもう、怖い。恐すぎる。
 そういえば、綱吉が十代目を襲名したことにより、現役の時よりもゆったりと過ごされる時間が増えた九代目は「最近ミステリー小説にハマっていていてねえ」と、この前お会いした際ぽろっと仰っていた。ミステリー小説家として名を馳せている優作の本は絶対読んでいると考えていい。
「むり……もう帰れない」
「それじゃ、よろしく頼むよなまえくん。諸連絡は後日メールして、必要になりそうなものはまとめて米花に送っておくから」
「がんばってね、なまえちゃん!」
 労いの意味も込めてロサンゼルスで有名なカップケーキを振る舞ってくれた有希子に頭を下げ、それに手を伸ばす。
 もぐもぐと口を動かしながら、大まかなスケジュールを立てようと頭の中であらすじを思い出す。いつ頃までに仕上げるのが目安なのかというゴールが見えなければダラダラと日々を過ごしてしまいそうになるからだ。
 いつまでに完成させればいいんだろう。
 なまえは二個目のカップケーキを食べるのを止めてゴールの日付を尋ねようと優作をチラリと盗み見る。しかし、すっかり上機嫌になった彼に今訊いてもとんでもないことを言われそうで、なまえは黙ってカップケーキを食べ続けた。
「それでそれで? なまえちゃん結局どうなの昴くんとは! 進展は? もうちゅーしちゃった? もしかして本当にそれ以上も!? キャー!」
「……優作さん、有希子さんは何語を喋っておられるのですか」
「私が思うに日本語だが」
「ねえねえ、どうなのなまえちゃん!」
「それよりも有希子、“本当にそれ以上”というのは?」
「ふふ、実はね……」
 有希子が内緒話をするように優作に顔を近づけて話す中、なまえはそれが視界に入らないように黙々とカップケーキを食べ続ける。きっと話している内容はロスに来る前に起きた下着事件のことだ。今思い出しただけでも顔が火照りそうになる。
 なまえは思い出しかけたことを忘れようと頭を軽く振って紅茶に口をつけた。
「ほう。それはおもしろい」
「でしょー?」
「……他人事だと思って。どう? って言われても、別になにもないですよ」
「そんなこと言わせないわよー! だってなまえちゃん、昴くんのこと影ながらとっても支えてたじゃない! ほら、随分前のことだけど、私が早朝あの家に帰ってきて、洗面室に彼といた日。貴女がサンドウィッチ持たせてくれた時とか!」
「あの人、一緒に暮らし始めて最初の頃は結構ダラダラな生活送ってましたよ。毎朝起こしに行ってました」
「まっ! ちょっと優作聞いた!? 今のなまえちゃんの言葉、完全に熟年夫婦よ!」
「意外と合ってる組み合わせなんじゃないかい?」
「やっぱりそう思うでしょ!? それに、一緒に暮らしてればそういう雰囲気になったりするでしょー? しないのー?」
 二人の頭の中でさらに発展した関係になってしまいそうになっていることを食い止めるべく、なまえは焦ったように口を開いた。
「ダラダラしてるとこが弟と似てたからつい手をかけたくなっただけです! ……本当、皆その手の話好きですよね。そういう雰囲気がどういうものかわかんないですけど、生活は楽しいですよ。それなりに」
「やだ、そんな感想、色気ないわよ! ほら、着替えてる途中で部屋に入っちゃったり入ってこられたり、お風呂上りに洗面室に入っちゃったり入ってこられたりとか! そういうの、ないの!?」
「同居中ハプニングはつきものだからねえ」
「そんなに身体接触してどうするんです……付き合ってるわけでもないのに」
「あら! お付き合いの始まりだなんて人の数ほどあるのよ? 私と優作のときだって……」
「あ、その話は耳にタコができるほど聞いたので大丈夫です」
「あら? そうだったかしら。まあそれは置いておいて……あるでしょ? 一度くらい!」
 ……もうやだ疲れた。テンション高すぎてついていけない。
 なまえは大きな溜め息をついた。
「……知ってますよ。彼の“首”、いや“声”とか……それに“顔”とか」
 ソファの背もたれに体を沈ませながら答えると、有希子はあからさまに目を丸くした。優作も意外だったのか珈琲カップに伸びた手が止まっている。
 夫婦は長年一緒にいることから仕草や表情が自然と似てくるとにいたことがあるけれど、目の前にある二人の驚いた顔もどことなく似ていた。
 母である奈々と、あの父もそうなんだろうか。思い浮かべようとしたけれどうまく想像できなくて自嘲的な笑みを浮かべた。
「そんなに躍起になって会話のほころびから見つけようとしなくても、素直に訊かれたら返しますって」
「あら、バレてたのね」
「ほら、やはりなまえくんは知っていたじゃないか」
「私だってそのくらいわかってたわよ! ただ、本当に影ながらというか、気づかないふりをしているようだったから、面と向かって訊いていいのかわからなくなっちゃって」
 二人の会話を聞きながら、昴の中身である秀一本人も気づいてるだろうから、勘が鋭いこの夫妻にもバレて当然だなとなまえは冷静に分析する。沖矢昴というカバーを被った人間だと一方的になまえに知られながらも、秀一は力任せに理由を聞き出そうとはしてこない。それはありがたいことだったけれど、本人はどういう心境でその結論に至ったのか。自分の手で暴いてみせるという気持ちからくるのかはわからないけれど、彼が強行的な手段にでないおかげで、日々それなりに楽しく生活が送れていた。
 そうそう、と前置きをして、なまえは相談を持ちかけるように言葉を続ける。
「彼、今では『沖矢昴』の口調から離れて自身の話し方をしている時もあるし、本当に時々ですけど本来の声で話すこともあるから、隠す気があるんだかないんだか……」
「えええ!? ちょっと! なにそれ詳しく!」
「え?」
「それ! 絶対になまえちゃんに気を許してるからよ!」
 思いがけない答えにドキリと胸が疼いた。
 まさか、そんな簡単な理由で彼が口調を崩しているというの。
「……『沖矢昴』が面倒くさくなったとかではなく?」
「絶対そう! ね、優作!」
 有希子が振り返って最愛の理解者に同意を求める。きっと優作も見抜いているはずだという瞳はギラギラとしていて、それは無理矢理うなずかせようとしているんじゃないかとなまえは頭の片隅で考えた。
 顎に指を当てて考えに耽っていた優作は、一度目を閉じて短く息を吐くと、指揮者がタクトを振り上げるように顔を上げた。
「この物語にはモデルがいるのだが、君に心当たりはあるかい?」
 真剣なまなざしの優作に、なまえは呆気にとられた後、くすりと笑いをこぼした。

   *

 数日後に知り合いと会う予定があるからこのまま暫くアメリカに滞在する。そう言ったなまえに、有希子は両手を合わせて喜んだ。
 早速、有希子はなまえを誘い、滞在中使う日用品を買いに出かけて行った。しかしそれは建前で、実際は自分のショッピングに行きたかっただけだと、執筆活動で有希子のわがままを聞いてあげられなかった優作は気づいていた。
 きっと夕食は外で食べることになるだろう。二人だけでは持ち帰れないほどの紙袋を携え、荷物持ちへと繰り出されるついで、再会を祝うだのなんだのとこじつけて外食になるに違いない。それでも永遠の少女のようにはしゃぐ妻をかわいらしいと思ってしまうのは惚れた弱みだった。
 二人を見送り、優作は煙草に火をつけた。
 肺に充満した息を一気に吐き出すと、途端に視界は白く濁る。窓の外は絵の具を撒き散らしたかのような雲一つない青空で、自分にまとわりつく白さを分けてやりたくなった。
 指に挟んだ煙草の灰を灰皿に落としながらなまえとの会話を振り返る。
 ――この物語にはモデルがいるのだが、君に心当たりはあるかい?
 優作には、なまえがモデルの正体を知っているという確信があった。できあがった文章から作者の苦悩やつまづきを指摘できる彼女だ。一緒に暮らしている男がどんなやつなのか、知らないはずがない。直感だった。
 くすりと笑みを一つこぼしたなまえは、母にも姉にも見えたし、一人の少女のようにも見えた。
 ――ええ。……とっても。
 首を縦に振ったあと、少し間を置いてから瞼を閉じて続いた言葉と表情に、彼女の周りだけ時間が止まったかのような感覚に陥った。
 陽だまりのようなやわらかい微笑みは、なまえの背後にあった窓から覗く青空にひどく映えていた。澄み渡る青空はまるで彼女の心を表しているようで、うっかり見惚れてしまったくらいだった。
「幸せものだね、君は」
 正体を知りながら気づかないふりを貫き通し、影ながら支えてくれる女性だなんて、男からすれば甘えたくなるもんだ。そんななまえと毎日過ごしている男を少し羨んでしまうほどには、優作は二人の私生活を夢物語のように想像していた。
 けれど、おもしろいな。
 優作はくつくつと喉を鳴らす。
 有希子への返事を思い返せば、なまえ本人はまだ自身や彼の心境の変化に確証を得ていないようだった。しかし、妻から聞いた若い二人のやりとりは、充分に期待が持てるものだ。
 この調子だとこれから、周囲の発言が頭に残っていながらの彼との生活が続き、ふとした瞬間に「もしかして……」と行動の裏に潜む感情に指先を触れようとするような、そんな展開があるかもしれない。
 あんなうつくしい女性(ひと)が自身の眠っていた感情に気づいたとき、果たしてどんな瞬間になるだろうか。朝焼けを拝んだ時のように晴れやかな気持ちだろうか。それとも、一筋の流れ星を目視できたときのような高揚感と驚きを抱くだろうか。
 どちらにせよ、傍らでそれを眺めることができないことがひどく口惜しい。
 煙草の煙を今度はゆっくりと吐き出した。
 さて、次の作品はどんな物語にしようか。『緋色の捜査官』が映画化すると言った手前、次回作を待ちわびる人々は多いだろう。いい刺激を受けた今日の良き日は、次回作について思考を巡らせるにはぴったりだった。
 しかしその前に。
 優作はやりたいことを思いつき、ゆるやかに口角をあげた。
「いやはや、青春だねえ」
 ――いつの日か彼と再び相まみえたとき、からかってみるとするか。
 瞼を閉じると、読み終わり再び表紙を拝んだ彼女が『緋色の捜査官』の題字を愛おしそうに撫でていた姿が鮮明に思い起こされる。
 そうだ。自分よりも大切なもののために自身の感情を後まわしにした女と、口下手で肝心なときに不器用になる男が織り成す恋愛模様が盛り込まれたミステリーなんてどうだろうか。うん、悪くないかもしれない。
 優作は煙草をくゆらせつつ、自身の最新作の表紙をそっと撫でた。

17,02.04