たぐりよせる灯火


 全てが炎に包まれていた。
 襲撃されたのが午前二時過ぎくらいだったか。押し寄せてきた大勢力により、一時間半たった今、真っ暗な闇が支配するこの時間帯で、朝陽が昇ってきたかのようにその場所の周りだけは明るく輝いていた。
 腕や太腿から流れる血も、変な方向に曲がってしまった指も気にすることなく走り続けた。肌が焼けているような臭いが鼻をつく中、慣れ親しんだ場所をただひたすら通り抜ける。
 ファミリーと語り合った場所も、苦渋の決断をした会議室も、笑いも涙もすべて共有しあったこの場所は、もうすぐ跡形も無くなくなる。炎に包まれ、思い出は真っ黒な灰や塵となってしまう。
 そんなことさせない。明け方になってこの屋敷が燃え尽きたらなにも残っていなかっただなんて、まるでこれまで積み上げてきたこのファミリーの存在自体が無かったことにされてしまうようなこと、絶対にさせない。
 必死に足を動かしていると、目的地に到着する。ボスの執務室だ。
「ボス! どこですか!? ボス! 返事をしてください!」
「……っ」
「ボス!」
 まだ火の粉が完全に回っていない執務室だったけれど、部屋の中はめちゃくちゃで、こんなところに人っ子ひとりいないんじゃないかと言ったくらい荒れ果てていた。
 部屋の真ん中でうつ伏せに倒れているボスに駆け寄る。
「早く逃げましょう! 今ならっ、今ならアイツらの目も届きません! だからっ……!」
「……俺は、もう無理だ。せめて、これを……!」
 ボスが懐から震えた手で取りしたのはシガレットケースほどの大きさをした、けれど重厚感のあるケースだった。
「これを絶対、アイツらに渡すな。いいな……お前は、これを持って、逃げてくれ。頼む……!」
 両手で受け取った黒いケースには所々赤黒くなっていて、指先にぬるりとした液体が付着する。それは、ファミリーで一番の実力を誇る男の血だった。
 ――あのボスが、血を流した。
 目の前で呼吸するのにも精一杯というような、体を赤く染めるボスがいるというのに、いまだに馬鹿な脳みそは現実を否定し続けていた。指先に血が付いたことで嫌でも現実を突き付けられる。ボスは、もう――。
 それでも、諦められなかった。
 受け取ったケースを胸の内ポケットに押し込み、顔についた涙か血液だかわからないものをぐっと拭ってボスの腹に手を伸ばした。腹からはどくどくと血が溢れていて、いつも真っ白でパリッとしたシャツを着ている綺麗好きなところがあるというのに、今はどうだ。そんなこと、死んでしまったら誰もわからなくなってしまうような恰好をしている。
 両手で患部を押すように圧迫する。血が止まってくれさえすれば、ここから逃げ出せるはずだ。
「ボスしっかり! ボスも一緒に……!」
「いい加減にしろ! もうすぐ屋敷全部丸焦げになるんだぞ! こんなとこで犬死してえのか!」
 犬死……? ボスがここにいるというのに、ここで命を終わらせるのは無駄なことなのか?
 ボスが拾ってくれた命なんだから、ボスのために使って何が悪いんだ。
「これは、俺の命よりも大事なもんだ……これがあるかぎり、このファミリーはずっと生き続けんだ。いいか、なにかあったらボンゴレを頼れ……きっと、助けてくれる」
「ボス……!」
 圧迫しているというのに全く効果がないというように両手は敬愛する男の血液で真っ赤に染まっていく。
 バキバキと焼ける音が頭上から聞こえてくきた。炎が大きくなる。
 ダメだ、このままじゃ……。
「っ……早く、行けッ!」
 一瞬だった。
「っ!? ボス……? ボスーッ!」
 火事場の馬鹿力とはこういうことを言うんだろう。足蹴りされて軽く部屋の隅に吹っ飛ばされる。上半身を起こすのと、ボスの上に炎にまみれた天井が落ちてきたのは同時だった。
 悔しさと惨めさと、よくわからないものが体の中を駆け巡って心臓を締めつける。
 視界が炎にのみ込まれていく。
「――にげなきゃ」
 ぽつりと零れた声はひどく掠れていて、自分の声じゃないみたいだった。言葉にしたことで脳みそから一気に伝令が渡ったように、この場から逃げるために体が動き始める。
 なにをやってもゴミクズみたいな俺を、ボスは拾って育ててくれた。厳つい見た目とは反して、ファミリーの皆は家族のように自分を受け入れてくれた。家族と呼べる人間がいない俺にとって、ファミリーはかけがえのない家族となった。
 ボスは俺に託した。ボスの最後の願いを、俺は叶えなくちゃならない。
 もつれる脚をなんとか動かし屋敷を抜け出した。
「……ボンゴレ、ファミリー」
 一度だけ、ボスの付き添いでボンゴレの本部に赴き、そのお顔を拝んだことがある。
 ボスは先代であるボンゴレ九代目と親交があったそうだ。十代目が襲名されたと知らせが来て、ボスは自分のことのように喜びながら幹部となぜか俺も連れて行き、十代目に挨拶をした。
『――は、はじめまして。沢田綱吉です』
 緊張した面持ちで自己紹介した十代目は俺と同じくらいの歳ですごく驚いた。こんなに優しいまなざしをする人が、これからあのボンゴレを率いていく男なのか。聞くところによると十代目は見た目に反してとてつもなく強く、情に熱い人らしい。
 また、ボスがここだけの話だとこっそりと教えてくれた。ボンゴレ十代目は、この腐った裏社会の掟までもを変えていこうという志を抱いているという。そんなところに俺は惚れたのだとボスは息子を可愛がる父親のような顔で語っていた。
「あの人に、渡せば……!」
 きっと、ボンゴレ十代目に渡せばなんとかしてくれる。なんの根拠もないけど、素直にそう思えた。
 ボスも言っていた。このケースの中身がなんなのかはわからないけれど、これがある限り、ファミリーは終わらないと。
 腕も脚も、わけも分からないくらい真っ赤に染まっている。肋骨は何本か折れてるだろう。もう脚はうまく動かない。
 それでも――。
「ボス……」
 胸ポケットに入ったケースがだんだん冷たくなっていく気がした。それがとてつもなく悲しくって、両眼からぼろぼろ涙がこぼれ落ちていく。
 ボスの命か俺の命か、どちらかが終わりを迎えるのかな。そんなくだらないことを考えてしまって。

 俺は、背後から近づく男に気づけなかった。

   * * *

 窓ガラスから差し込んだ光に照らされて視界の端でキラキラとそれらは輝いていた。
 小さな無数の眩しさに目を瞬かせていると、すくいあげられるように左手がとられた。親指でやわらかく指のつけ根をひと撫でされる。まるで緊張しなくてもいいよ、と言ったようなその仕草に体の力が抜けていくのがわかった。
 薬指に、それはゆっくりと嵌められた。彼の手からそっと離れ、左手を顔の前に掲げて薬指につけられたものを見つめる。
 それは、ピンクダイヤの指輪。
 ショーケースに並んでいるどの指輪よりも群を抜いて大粒のそれは、自らを嵌める相手を選ぶ意思を持っていそうなほど存在感があった。来店して一通り指輪を眺めていた時、一目見た瞬間に超直感が“これだ”と告げたのだ。
 これから始まる新しい生活を祝福してくれているような輝きに、思わず溜め息がこぼれた。
「素敵……」
「よく似合ってるよ」
 微笑ましそうに眺めていた男は心底嬉しそうにはにかんだ。
「これにする……これがいい!」
「それじゃ、これにしよう。君が気に入ってくれたものが一番似合うはずだ」
 目尻をやわらかくして男は左手をやさしく包み込み甘く囁いた。
「愛してる、なまえ」
「私も……」
 吸い寄せられるように二人は抱きしめ合い、頬にキスを贈った。
 その場にいた店員が幸せを噛み締めるように頷き夫婦を讃えた。
「おめでとうございます。バジル様、奥様」
 誰もが見ても二人は“結婚を目前に控える完璧な夫婦”だった。

 会計を済ませた二人は店を出た。
 曲がり角に入り道路を渡ると、それまで仲睦まじく腕を組みゆったりと歩いていた夫婦はいなくなり、早足で停めてある車に向かう。
 バジルは運転席に、なまえは助手席に体を滑らせるように乗り込んだ。
「お願い正一くん」
「わかりました」
 なまえは薬指から指輪を外し、後部座席に座る正一に手渡した。
 指輪を受け取った正一は、透明のカプセル形をした機器に指輪を入れてパソコンのキーボードに指を走らせる。
 一分ほどして、精査結果が発表された。
「色もカラットも同じ。……リングの反応あり、ダイヤと指輪の接着部分にクィリーノファミリーの紋章確認。間違いないです」
 正一が顔を上げて伝えたのと恭弥が腰を上げたのは、同じタイミングだった。
「行くよ」
 恭弥の言葉に、なまえは念のためにと正一からリングを受け取り指に嵌め、バジルとともに再び車を出た。
 肩で風を切って歩く恭弥の後ろを、今度は夫婦を演じずに進んでいく。
 店に入ると従業員は丁寧な挨拶を寄越そうとして首を捻った。
「いらっしゃいませ。……バジル様、奥様? いかがなさいました? そちらの方は……」
「ちょっと聞きたいことがあるんだけど」
「わっ」
 なまえは恭弥に左手首を捕まれ、店員に指輪を見せるように手の甲を向けた。
「この指輪、どこで手に入れたの? 偽物だよね」
「は……? なにを仰ってるんです?」
「ピンクダイヤを仕入れた時の領収書を見せてくれませんか? この店が盗品を扱っているという噂が流れています」
「そんなはずありません! これは一週間前正規に取引したものです!」
「この指輪は君が仕入れたものなの?」
「……いえ、私はそのとき海外に行っていましたから」
「では誰が? ……いや、結構です。盗品だとわかっていて仕入れたのではないのですか?」
 普段の温厚な態度からは想像もつかぬほどバジルは冷たい物言いをする。
 恭弥とバジルから鋭い視線を向けられた従業員は弁解を試みようとするが、何を言っても穏便にことが進みそうにないため悔しそうに唇を噛んでいる。
 このままだと業務執行妨害だと言って警察を呼ばれかねない。そうすればこちらが欲しい情報を引き出すことは不可能となる。
 どうしたものかとなまえが悩んでいると、恭弥が女性従業員に視線を移したのを捉えた。
 ――なるほど。
 なまえは恭弥がなにをしようとするのか予想がつき、自分が口を出さずともこの二人が話を進めるだろうと様子を見守ることにした。
「君、この男と一緒になるのは考え直した方がいいよ」
「なに……? どういうこと?」
 恭弥の目論見に気づいたバジルが拍車をかけるように言葉を投げかける。
「彼はまだ離婚もしていなければ家庭も出ていません」
「はあ? あなた、離婚したって言ったじゃない!?」
「待ってくれ、誤解だ! 離婚届だって……!」
「莫大な借金と養育費を迫られてるようだね。結婚詐欺をするならもっと上手くやった方がいいんじゃない?」
 ――さすがだな恭弥くん。
 正しくは結婚詐欺ではなく不倫関係なのだろうとなまえは従業員の様子から察した。
 相手が質問に答えないのならば、この場をかき乱して半強制的に情報を吐かせてしまえばいい。きっとカマをかけているだけなのだろうけれど、従業員を混乱させるには充分すぎる情報量だった。
 バジルもそうだが、恭弥も冷静に話を進めているためか妙に信憑性がある。
 今日の恭弥はよく喋る。現在この場にいるのは私たち三人と店員が二名の計五名。恭弥の言葉を借りると十二分に群れている状態といえるのだろうけど、今日は達成しなければならないことがあるためか、お決まりの決め台詞は出てこなそうだった。
「結婚、詐欺……? 貴方ずっと私のこと騙してたっていうの!? 信じられない……!」
「待て、どこへ行くんだ! 違うんだ、話を聞いてくれ!」
 女性店員は泣き叫びながら奥に引っ込んでしまった。男性店員は跡を追いかけようとするが踏みとどまり、これでもかというほど眉を吊り上げて睨みつけてきた。
「おい、なんなんだアンタら! いきなり来ては偽物だの結婚詐欺だのホラ吹きやがって……! 人のプライバシーを土足で踏みにじるようなこと!」
「このピンクダイヤをこの店に売ったのは誰。そうしたら偽物を売りつけたことも結婚詐欺のことも警察に言わないでおいてあげる。まあ、僕らが言わなくても、さっき出ていった彼女が何かしらするかもしれないけど」
 男性店員はずっと黙っていたなまえを縋るような目で見つめた。
「はやく追いかけないと、取り返しのつかないことになるんじゃないですか?」
 正直、この男の人と彼女の仲よりも、これ以上話が延びるようだったら恭弥が強硬手段に移るかもしれないという方が取り返しのつかないことになる。
 痺れを切らした恭弥がトンファーを取り出すのは時間の問題である。最終宣告だとでもいうように恭弥は低い声でとうとう獲物を追い詰めた。
「ダイヤを売ったのは、誰」
「……エドワード・スミス。ヒューストンで行われてる宝石見本市の行商人だ」
 それが聞ければ充分だ。
 三人は踵を返して店をあとにした。

    * * *

 二日ほど工藤夫妻の家に世話になったなまえはロサンゼルスを離れ、リボーンに指定されたニューヨークのホテルに来ていた。
 エントランスで出迎えてくれたバジルに案内されて部屋に通されると、さっそくというようにバジルがパソコンを広げビデオ通話が開始される。ディスプレイに映った相手はリボーンだった。
 リボーンが語り始めた話は、なんともいえないものだった。
「リングが流出……?」
「ああ。クィリーノファミリーは規模は小さいが歴史はそれなりにあるファミリーだ。ボンゴレの傘下じゃないが九代目と親交があったとこでな。有事の際は友好の証として手助けをする約束を交わしている。襲撃の際、クィリーノのボスは代々伝わるリングを部下に託したらしい。だが……」
 アジトから脱出した部下は追手に襲われ重症。なんとか一命を取り留めたものの、リングが奪われてしまった。
 全身に酷い怪我を負った部下は、クィリーノファミリーが襲撃されたと連絡が入り急遽その場へ派遣されたCEDEF諜報員に発見されボンゴレの息が掛かった救急外来に搬送後、医療機関に移された。そのとき、事の成り行きとリング奪還の依頼を受けたのである。
 クィリーノファミリーで代々受け継がれ、部下である少年に託されたリングは全部で五つ。そのうち、既に三つはCEDEFが回収済みである。
「約束を交わしている以上、ボンゴレは壊滅状態のクィリーノファミリーの代わりにリングを回収する。これに関する必要な情報はCEDEFから預かっている。事前調査の担当はバジルとヘンゼルだったな」
「はい。ヘンゼル殿は元CIAということもあり、アメリカのことを熟知していたゆえ頼りになったでござる。……ただ」
「ただ?」
 諜報活動で得られた情報を頼りに了平とヘンゼルがリングを回収に行った結果、回収後感極まった了平がヘンゼルに勝負を仕掛け、ヘンゼルはボロボロになってアジトに戻ってきたという。ハメを外しすぎたと了平はあっけからんと笑ったが、全身を痛めたヘンゼル――元の名をイーサン本堂――は、回収班から外れて今回は裏からサポートする役に回された。
 了平もあいかわらずだなと笑いがこみ上げてきたが、なまえは経緯を聞いている時からずっと抱いていた疑問をこぼした。
「そのリングは、炎を灯すの?」
「それはまだ未確認だ。クィリーノファミリーはリングを宝として代々受け継いできただけらしい。もしかしたら、クィリーノのやつにしか炎が灯せない代物かもしれない。結局のところ、マフィアのリングとなれば……」
「可能性はなきにしもあらず、ってことか」
 万が一、一般人の手に渡りリングに炎を灯しただなんてことがあれば大問題である。
「場所は既に突き止めてある。ここニューヨークにあるジュエリー店だ。なまえはバジルと一緒に回収してこい」
「えっなんで私……? ジュエリー店に行くってことは夫婦を装ってそのリング買って回収するってことでしょ? 奥さん役なら私じゃなくてもCEDEFにはオレガノとかラルだっているのに」
「目指せマカデミー主演女優賞って言っただろう」
「あれ本気だったの……」
「あたりまえだぞ。それにラル、アイツは演技からっきしだからな」
 ラルがバジルと偽装夫婦をしたとコロネロが知った時、彼はどんな反応をするのか見てみたい気もする。けれど、そんなことしたら素直になれない面がある不器用な二人の仲が大変なことになるというのは簡単に想像できる。
「ちなみに、雲雀も別ルートから追ってるから現地で合流だ」
「恭弥くんも?」
「なまえ、雲雀に借りがあるんだろ。これは雲雀からのご指名でもある。ちょいとバジルと夫婦になって来い」
「そんなコンビニでアイス買ってこいみたいな軽さ……。恭弥くんへの借りはこの前並盛で返したつもりなんだけど足りなかったのかな」
 銀行強盗の件が終わり米花へ帰る前日、恭弥に「返してもらうよ」と腕を引っ張られて丸一日すべてを彼に捧げたのだ。正直これ以上なにを返したらいいのかわからない。
「なまえ殿、拙者が夫役ですみませぬ。ふつつか者では御座いますが、よろしくお願い致します」
「嫁入り……?」
 まるで時代劇に出てくる女将のように三つ指揃えてソファの上で正座したままお辞儀をするバジルに思わず突っ込みを入れてしまう。
「それで、いつ行くの?」
「一時間後だ」
「えっ」
「助っ人もちゃんと準備したから協力しろよ」
「助っ人?」
 これが、バジルと夫婦を装ってジュエリー店を訪れる約一時間前に交わされた会話である。

   * * *

 ピンクダイヤを売った行商人エドワード・スミスを追って、 なまえとバジル、そして恭弥はヒューストンで行われている宝石見本市にやってきた。
 駐車場に車を停めて早々、恭弥は「そっちは任せるよ」と言い残し、車を出て別行動に移ってしまった。
「雲雀殿はどこに?」
「一人でふらっと見てくるって。恭弥くん、今回のリングに関して以外にも、指輪とか宝石についていろいろ探ってたらしいから。たぶんなにか気になることがあるのかも」
「雲雀殿は宝石に興味があったのですか? 正直あまり似合わないような……」
 神妙な顔つきで恭弥が去っていった方向を見ながら呟くバジルに思わず吹き出しそうになってしまう。
 金子重之の事件から恭弥は風紀財団の指揮を草壁に任せ、単独で動いていた。爆弾解体の練習の合間、立ち寄った地下施設の資料室で出くわした。珍しいなと思いながら机の上を見ると、そこには宝石の図鑑を数冊と新聞の切り抜きを貼りつけたスクラップブックが広げられていた。
「なんでも“おもしろいものを見つけた”とか言ってたかな」
 あの時の、姿も見えない相手を咬み殺すような笑みをぜひ綱吉にも見せてあげたい。絶対悲鳴をあげるはずだ。
「それにしても、盗品が扱われたって話して会場の人はすぐに信じてくれるかな?」
「ご心配には及びません。親方様の発案で、これを出せばすぐに協力してくれるだろうと預かってきました」
「これって……」
 バジルが得意げな顔で胸の内ポケットから取り出したのは、FBIの偽装パスとバッジだった。
「なまえ殿のもありますよ! これです!」
「……ありがとう」
「一回やってみたかったんですよ! “この紋所が目に入らぬか!”って」
「それ水戸黄門だからね……」
 バジルと話しながら胸元にバッジをつけ、パスも忘れずにポケットにつっこむ。
 準備が完了し、なまえはバジルと共に車を出て見本市の会場へ足を運んだ。
 会場内に入ると各ブースごとに分かれていて、まるで就職説明会のようだと なまえは思った。この広い会場の中から行商人のブースを見つけるのは至難の技だ。
 バジルとどうやってブースを巡ろうかと話し合っていると、一人の男が声を掛けてきた。
「どうかされましたか?」
 男はなまえとバジルの顔を交互に見ながら歩み寄ってくる。
「FBIの方ですよね? ……バッジが見えたので気になって」
 自分たちの近くには気配を感じなかったが、このバッジは遠くからでも見えるのかと首を傾げそうになる。
「助かりました。我々はエドワード・スミスを探しています」
「そうでしたか。スミスのブースはあそこですよ」
 男に礼を言って別れ、教えられたブースへ向かう。なまえは歩き出してから後ろを振り返ったが、もう男はいなくなっていた。
「なまえ殿、尋問はしたことがおありですか?」
「いや、まったく」
「ではここは拙者が行いますね!  なまえ殿は見ているだけで構いませんよ」
 気を遣ってくれたのか、キラキラした顔で語るバジルは犬がしっぽを振っている姿に見えて可愛いなあと思いつつ頼もしいく感じる。
 リング争奪戦で初めて会った時と比べ身長も伸びてたくましくなったバジルは、いつの間にか男の子から男性へと変わっていた。男の子は急激に成長するということを実感する。
 二人はスミスのブースに到着した。なまえはバジルにすべて任せようと半歩うしろに下がって見守り体勢に入る。
「あなたがスミスさんですか?」
「ええ」
「貴方が売った指輪の中から盗品が見つかったとの情報が入りました。お話を聞かせていただけますか」
 バジルはFBIの偽装パスとバッジを見せながら事の成り行きを語った。
「そんな……! 扱っているのは全て正規のものです! それに、たとえ盗品を売りたくても不可能ですよ。石は登録されています。番号を振られていて、それで採掘場所などの情報がわかるようになっているんです。私の石も番号付きだ。その店に盗品は売っていません」
 バジルの言葉に対して答えるスミスの様子を注視していたが、彼が嘘を言っているようには見えなかった。
 ――この人はシロ。でも、じゃあ誰が……?
 なまえが思考を巡らせていると、バジルは新たにスミスへ質問した。
「その番号を振るのは誰ですか?」
「見本市の鑑定士です。販売前に、行商人の宝石に値をつける」
「スミスさんのブースの品を担当した鑑定士は?」
「グレイブ・アンダーソンというこの見本市お抱えの鑑定士です。呼んできましょうか?」
「っ……!」
 鑑定士の名前を聞いた瞬間、なまえの心臓はドクンと大きく脈打った。
 背筋に這いずり回る悪寒。空調が効き室内の温度は一定に保たれているはずなのに、足元から冷たい空気が体にまとわりついてくるような気がした。
 バジルが返事をしようとしたので、 なまえは咄嗟にバジルのスーツの裾を引っ張る。息をのんだバジルは視線のみで斜め後ろにいるなまえを一瞥した後、何事もないようにスミスに笑顔を浮かべた。
「いえ、大丈夫です。ありがとうございます」
 バジルは話を切り上げてなまえとともに礼をしてその場を去った。
 足早に会場から出て駐車場まで向かう道すがら、二人はずっと黙っていた。
 駐車場に到着し、乗ってきた車の傍までくると、バジルが声を潜めてなまえに尋ねる。
「鑑定士を呼んでもらわなくてよかったのですか?」
「うん。……嫌な予感がする」
「それは……超直観、ですか?」
 おずおずと確かめるように訊かれ、なまえはゆっくりと首を縦に振る。
 会場を離れたというのに悪寒は治まることはなく、胸の中はざわざわとしている。腹の前で組んだ両手は知らぬうちに力を入れていて白くなっていた。
 どうして名前を聞いた瞬間だったのだろう。鑑定士が今回の件に関わっているというのだろうか。
 超直感の正体がわからないため、これ以上なにもバジルに伝えられることがない。なまえは歯がゆくて下唇を噛みしめる。
 しばらくそうしていると、駐車場内にカツカツと靴音が鳴り響いた。近づいてくる気配と足音にバジルとその方向を見やると、会場に着いてすぐに別行動に移った恭弥が戻ってきた。
「話は聞けた?」
「……うん」
 不安感は募るばかりで声が震えてしまう。
 バジルが心配そうに覗き込んでくれたが、唇の両端を少しだけ上げることしかできなかった。
「雲雀殿はなにか収穫がありましたか?」
「……引き上げるよ。もうここに用はない」
 恭弥はバジルに言葉を返さずになまえに歩み寄る。
 恭弥は口を動かしながら強く握りしめていたなまえの両手指を一本一本はがし、手を緩めさせた。中途半端に左右の指を絡ませている状態にさせると、なまえの手の甲に残る爪痕をなぞるように撫でる。
 触れている恭弥の指先があたたかくて、なまえは魔法がとけていくように緊張や不安から解放されてそっと息を吐いた。そして、もう大丈夫とでも言うようにやさしく手を包み込まれた後、エスコートするように片手を引かれる。
 車の後部座席の扉を開け、乗るように視線を寄越した恭弥をなまえは見上げる。
「恭弥くん?」
 恭弥はなまえを三秒ほど見つめたあと、バジルに顔を向けた。
「裏口で鑑定士が殺された」
「――っ」
 超直観の正体が判明した。

   *

 宝石見本市の会場から去り、ヘンゼルが手配してくれていたホテルに戻ってきた。移動中、先にホテルで待機していた正一に連絡してあったため、なまえたちがホテルに戻るとすぐに話し合いが始まった。
 正一はプロジェクターを起動させ、パソコンを操作し壁にディスプレイ画面を映し出した。そこには鑑定士の情報が示されていた。
「鑑定士グレイブ・アンダーソンを殺したやつですが、目撃者はゼロ。防犯カメラにも映っていなかったので、カメラの死角に入って殺害したと思われます」
 なまえは表示された顔写真に目を丸くした。
「この人……行商人のブースを教えてくれた人」
 通りで見覚えがあると思った。
 恭弥と正一がどういうことだと視線を寄越したため、偽装パスであるFBIの「バッチが見えたから」と声を掛けてきて、スミスのブースの場所を教えてくれた人物だということを話した。
「そうすると、拙者たちに話しかけてきた後から雲雀殿が知らせてくれるまでの三十分程の間に殺されたということになりますね」
 バジルの指摘に皆が首をそろえて頷いた。
 次に正一は、これまでに回収されたリングが辿ったであろうルートをアメリカの地図上に示したものを映し出した。
「これまで回収したリングですが、回収先は今日行ったニューヨークのジュエリー店の他、蚤の市や骨董品店なども含まれます。でもリングが流れたルートを辿っていくと、全てヒューストンでの宝石見本市に辿りつく」
「じゃあ、クィリーノファミリーから盗んだリングは五つとも一度見本市に出されてから散り散りになったってことになるよね」
「ちなみに、クィリーノファミリーの本部と部下の青年がCEDEFに発見された場所はここです」
 正一はキーボードに指を走らせマウスを動かすと、新たに丸い記号が二つ地図上に現れた。リングのルートも含めて地図を眺めると、本部と発見現場から見本市はそう遠く離れてはいなかった。
 つまり、リングは盗まれてからそう時間が掛からず一括して見本市の指輪の中に紛れ入れ込んだということだ。
「あと、さっきヘンゼルさんから連絡が入りました。裏で高額取引された指輪が数個あるらしいです。売り捌いた人物や指輪の詳細等現在調べ中だとか」
 正一の話になまえはスミスの言葉を思い出し、バジルを見て確認した。
「スミスが言ってたよね。宝石には番号が振ってあるから質屋に売ったり取引するには不可能だって」
 バジルは頷いたが、恭弥はすぐに他の可能性を示唆する。
「でも、番号が振られる前に本物と偽物をすり替えてしまえば問題ないんじゃない?」
「それができるのって……」
「鑑定士しかいないよ」
「このタイミングで殺されたアンダーソンが怪しいですね」
 けれど、アンダーソンが殺されてしまった以上、彼本人がリングと指輪のすり替えに関与しているのかどうかを確認するのは難しい。
 でも、ここで諦めるわけにはいかない。どんなに小さなヒントでも、絶対どこかに転がっているはずだ。
 なまえは壁に映し出されたディスプレイ画面に近寄り、表示されているリングが辿ってきたルートを一つひとつ指でなぞる。それと同時に、頭の中でこれまでに起こったことを整理しようとした。
 まず、クィリーノファミリーへの襲撃。その後に本部へ火を放ったのは、マフィア間の抗争ではなく、夜中に家事が発生したとメディアが報道するようカモフラージュするためだろう。
 その後、本部を抜け出した部下に背後から襲いかかり、リングを奪った者。
 リングは見本市に紛れ込み、散り散りになってしまう。
 リングを回収した先での手がかりを基に訪れた見本市。男に教えてもらったスミスのブースで聞いた、盗品を扱うことは不可能という話。
 そして、裏口で殺害された鑑定士。
 ――あれ?
 なまえはふと思いついた考えを漏らした。
「もし、アンダーソンが私たちのことを知っていたとしたら?」
 その一言に、それまで各自バラバラだった視線が一気になまえへと集中する。
「アンダーソンは“バッジが見えたから”って話しかけてきたけど、バッジなんて小銭くらいかそれ以下の大きさで、遠くから見てそれがFBIのものだと判断するのは難しい。なのに彼は近づいてきた。会場に入って私とバジルが話してた時は、もう周りの人は各ブースを巡って宝石を見ていたから、ほとんど……いや、一人も近くにはいなかったんだよ。なのに話しかけてきたのはおかしい。でも……」
「そういえば彼は拙者たちの顔をやけにじろじろ見て……っ!」
 バジルは言葉を切り、まさかそんなはずはとなまえを見つめた。なまえはバジルに頷いてみせる。
「――もし……口封じに殺された、とかだったら……?」
 その場にいた全員がハッとした表情をした。
「鑑定士になまえさんたちボンゴレの顔が割れている……?」
「つまり、鑑定士に拙者たちの情報を流した者がいる、ということですね? こちらの情報を知っているということは、情報を流した者は裏社会に精通しているということになります。もし、クィリーノを襲撃した集団とアンダーソンが裏で繋がっていたとしたら……」
 正一とバジルの言葉になまえはその通りだと頷き、「鑑定士とクィリーノを襲ったグループが繋がっていたと仮定した上で話すけど」と前置きをしてから話を続けた。
「私たちが見本市にやってきたと知ったアンダーソンは、クィリーノのリングを紛れ込ませたことがバレたと慌てたはず。でも、リングは既に見本市で取引されて散り散りになっているから、リングが辿ったルートを見つけるのは難しい。誰がどうやってリングを紛れ込ませたのかっていう情報が漏れるとするなら、鑑定士しかいない」
「それで”口封じ”ってことか」
 なまえの仮説に恭弥が納得したように呟くと、正一が「それなら」と仮定を裏付けるように考えを口にする。
「鑑定士なら見本市にリングを紛れ込ませ、振らなければいけない番号をつけることも充分可能ですね」
「鑑定士の交流関係をすべて洗い出す必要がある」
「ヘンゼル殿に調べるよう連絡を入れてきます」
「僕も調べてみます」
 恭弥はこれからやらなければならないことを指摘し、バジルは電話をするために携帯を持って部屋を出て、正一は再びパソコンにかじりついた。
「え……」
 迅速に動き出した男たちになまえは目を丸くする。
 ただの思いつきなのにとバジルを見送った後にパソコンに向かう正一を呆然と眺めていると、指先になにかが当たった。隣を見ると、肩がくっつきそうなくらいの距離に恭弥が立っていた。視線を動かしてなにが当たったのか確認すると、恭弥が少しだけ手首を動かして指先を触れさせていた。
 再び恭弥に視線を戻すと、少しだけ首を傾げるように顔を覗き込んできた。
「そう驚くことでもないよ」
 どうやら今の恭弥の行動は、“こっちを向いて”といったような意味が込められた行動だったらしい。
「どうして? だってまだ仮説の段階なのに」
「辻褄も道筋も間違っていないし、充分考えられることだ。それに、なまえの考えは当たるからね」
 自分のことのように得意げに話す恭弥の目尻と唇は穏やかな線を描いていて、少しだけ恥ずかしくなり目を逸らす。それを見ていた恭弥が楽しそうに笑う声に、なまえますます顔を合わせづらくなり俯いた。
 見ていないようで細かい部分にまで気づくことができる恭弥の洞察力には思わず溜息がこぼれてしまう。駐車場での時も恭弥はこちらの心理状態をすぐに把握した。その上で彼はまるで指先を絡めとるように心を掴もうとする。
 じっと見られている視線を感じながら、恭弥のペースには飲み込まれないようなまえは頭の中から恭弥を追い出し、再びリングのことを考えた。
 クィリーノリングは全部で五つ。そのうち、現在回収できたのは四つ。
「残りはあと一つ……」
「取り戻したい?」
「そりゃあ、クィリーノにとっても彼にとっても大事なものだし。……もし、自分があの子の立場だったらって考えたら……」
 クィリーノの部下の青年が命をかけて守ろうとしたリングは、ファミリーで受け継がれている歴史あるものとはいえど、結局のところ形見と同じようなものだ。クィリーノの生き残りは、本部を抜け出した青年しかいないとリボーンが教えてくれた。それならば、なおさら取り戻してあげたい。
 恭弥が会場内を見て回った際、それらしきリングは見当たらなかったという。そうなれば、既にリングは会場から外に持ち出されたと考えておかしくない。
「……見本市で扱われた全ての指輪と、それらがどこの店に取引されたのかっていう情報はデータベースにあがってないの?」
「やってみます」
 恭弥からの問いかけに、正一は閉じていたもう一つのパソコンも起動させ、二台使って調べ始めた。
 十年後の世界でお世話になったとはいえ、正一は今やアメリカの大学に留学中の大学生である。
 正一が今行っているのは、宝石見本市のデータベースにアクセスし、各ブースの行商人の名前や経歴、出品している宝石類や対応した顧客リスト等、見本市で動いている情報すべてを盗み見ているのだ。しかも、無断アクセスした記録を残さないように。
 はたして、そんなハッキング紛いのこと頼んでいいのか。正一だから大丈夫だという安心感はあるものの、学校側にバレれば停学処分やそれ以上の処遇も考えられる。
 本当に使えるものは使うんだなあと、ある意味手段を選ばない恭弥に感心してしまう。
 電話を掛け終えたバジルが部屋に戻ってきた。
「ヘンゼル殿に調べるよう伝えてきました。そうしたら、先ほど入江殿に連絡した裏で高額取引された指輪が、見本市から盗まれたものである可能性が高いかもしれないと」
「つまり、見本市で出品されるはずだった本物の指輪とリングが入れ替わった」
「やっぱり鑑定士は怪しい」
 正一が忙しなくタイピングをし続ける音を聞きながらバジルの報告を踏まえて推察する。
 なまえはパズルのピースが少しずつはまっていくような感覚に少しだけ胸踊った。
「あった!」
 嬉しそうに声を上げた正一に三人はスクリーンに目をやった。
「リングを仕入れたのは、日本の老舗百貨店です。近日開催の宝石展覧会に展示される予定で、開催場所はその老舗百貨店が所有する美術館。それに伴って開催前、ホテルにて関係者や報道陣向けにセレモニーを……うわっ」
「どうしたの?」
「……この老舗百貨店、歴史を辿ると、経営者の家系がいわゆる分家みたいな形で枝分かれしているんです。本家から独立した家系が創業者兼経営者らしいんですけど……」
「だけど?」
「本家にあたるところが、鈴木財閥です」
「うわあ」
 分家や本家と正一は話したが、とどのつまり、その老舗百貨店の創業・経営主が鈴木財閥の親戚ということだ。
「鈴木財閥といえば日本でも有数の財閥の一つですよね。……なまえ殿?」
 鈴木財閥は日本が誇る財閥の一つである。その中でも、鈴木次郎吉相談役の豪快な企業戦略や目立ちたがりな報道は常に注目を浴びている。鈴木財閥が着手している経営は多岐にわたり、米花町にはベルツリータワーなど鈴木名義の建築物も多い。鈴木財閥のネームバリューは言わずもがな、世界的に広まっている。
 そして、鈴木財閥が関わっているということの他に、正一が教えてくれた宝石展覧会になまえは見に覚えがあった。
「そういえばなまえ、アイツに頼まれてるんでしょ、同伴。確かそのセレモニーじゃなかった?」
「……うそだ。というか恭弥くんなんで知ってるの?」
「耳障りなほど嬉しそうに報告してきたからね。まあ、煩わしかったから咬み殺してあげたけど」
 ディーノがわざわざ米花までなまえに会いに来た理由。それは、宝石展覧会へ出席するために同伴してほしいという頼みだったのだ。
 ディーノに同伴を頼まれたことはこれが初めてではない。きな臭い経営者や標的が出席する社交的な場に、彼は裏社会の人間ということを隠してボス自ら潜り込むことが多い。同伴者が必須ということではないが、居た方がディーノは動きやすくなるのである。
 また、ディーノはその容姿から令嬢に好意を寄せられることが多い。そんな時、なまえの存在が発揮されるのだ。ディーノは、なまえと仲睦まじく体をくっつけては「自分には婚約者がいるから」と話し、その場で即興の婚約者を演じる。つまり、なまえは所謂“虫除け”としてディーノに協力していた。
 なぜディーノが宝石展覧会に出席するのかはまだわからないが、きっと今回も似たような理由なんだろうとなまえは思っていた。しかし、予定がダブルブッキングするかのように、まさかこうも重なり合うとは。
「ん? 鈴木財閥ということは……」
 ――まずい。まずいまずいやばい。
「あれ、なまえさん……? 顔が真っ青ですよ?」
 正一に話しかけられるがそれどころではない。なまえは混乱のあまりキャパオーバーしそうだった。
 鈴木財閥ということは、百パーセントの確率であのお嬢様、鈴木園子が参加する。そして園子が出席するということは、これまたほぼ百パーセントの確率でコナンと蘭に加えて毛利小五郎や少年探偵団といったお騒がせメンバーが集合する。
 そうとなればダブルブッキングどころではない。
「待って、泣きそう……」
「だっ、大丈夫ですか? 胃薬のみます?」
「なまえ殿!? お気を確かに!」
 思わず両手で顔を覆いうなだれてしまう。
 なまえはまさかの展開に思わず涙が零れそうになりながらも、当日のことを想像してみることにした。
 まず、ディーノの同伴者として現れた時点で、園子をはじめとした米花メンバーに騒がれしつこく質問攻めにされそうになる。それをかわしたとしても、もしディーノに好意を寄せる令嬢がいたとしたら、背中の毛を逆立てる猫のような対応を個人的に受けることになるだろう。ディーノが単独で動くことになれば、一人取り残された途端に米花の人々や令嬢に再び絡まれてしまう可能性が高い。
 次に、展示してある宝石の中からリングを回収しなければならないことについてだが、これはどのような方法で回収するかによってお騒がせメンバーの動きは変わってくるだろう。
 セレモニーが始まる日までにリングを回収してしまえば当日やることは少なくなるかもしれない。けれど、既に老舗百貨店は見本市からリングを買い取り、リングがどのような形状なのかきっとデータや資料としてしっかりと保管してある。それが当日になって無くなってしまえば展覧会で展示する指輪が盗まれてしまったと大々的に報道され、指輪が見つかるまで騒がれるだろう。さすがにそれは避けたい。
 リングとすり替えられ裏で高額取引された指輪と交換できればよいのだが、既にリングは買い取った老舗百貨店の人間の目に触れてしまっているため、交換することは不可能だ。
 それならば、やはり当日になにかしらのハプニングを装ってリングを回収するしかないのではないか。けれど怪しい動きをすれば、米花メンバーの中でも特に探求心と好奇心をもつコナンが欲望のまま行動し、回収の邪魔をしてくる。
 どんな方法を取るにせよ、米花の人々が無鉄砲な行動に移らないようにしなければきっと、いや絶対に、穏便に進めることはできない。
 とにかく考えなければいけないのは、コナンを含めた重要人物が接触したり過度に干渉したりしてくることをどう未然に防ぐのかと、起こってしまった際にどう行動すればよいのかだ。
 そうしたら、少なからず計画通りに回収できるだろうか。
 ――いや、だめだ。これだけじゃ足りない。
 また超直感だろうか。懸念事項を挙げた上で緻密に計画を立案したとしても、まだなにかが邪魔をするような気がした。
 なにか、重要なことを忘れてる気がする。
 しかしその正体がなんなのかなまえは導き出すことができなかった。
「鈴木財閥に宝石、ね」
「……きょ、恭弥くん?」
 腕を組んで窓の外を眺めていた恭弥がぽつりと呟いた。なんだか不穏な音をはらんでいた言葉に名前を呼んでみたが、彼の視線はこちらには向かなかった。
 恭弥のまなざしは外の景色ではなく、もっと遠くにあるなにかを見つめているようだった。
「奴が来るかもしれない」
「やつ?」
 恭弥は遠足を心待ちにする幼児のような表情を浮かべた。
 ――嫌な予感がする。
 脳みそが次に続く言葉を聞いてしまったらきっと後悔すると警報を鳴らしている。なまえは後退りしようとしたが、つま先を少しだけ動かしたところで振り向いた恭弥と目が合ってしまった。
「なまえなら知ってるんじゃないかい? パンドラを」
「――っ」
 言葉を無くした。
 そうだ。鈴木財閥に宝石となれば、あの怪盗も来るに決まってる。
 愉しそうに笑みを浮かべる姿に、ああきっと恭弥くんも宝石展覧会に来るんだろうなと、なまえは超直感が働かずとも確信した。

17,02.28