星のいぶきが囁く夜


 アメリカでリングを回収し終えて帰国したなまえは、さっそく『緋色の捜査官』の翻訳に取り掛かり始めた。そして合間を縫ってはリボーンと連絡を取り合ったり、並盛の地下施設に赴き宝石展覧会当日の動きについて話し合ったりと、忙しない日々を過ごしていた。
 しかし、数日前から今日一日だけは仕事も作戦会議も入れないようにしていた。
「久しぶりになまえちゃんとお出かけできて楽しかったわ」
「私も。前に帰った時はお母さん、インフルでずっと寝込んでたもんね」
 予約したレストランで夕食を楽しみながら、なまえは奈々に言葉を返した。
 地下施設に寄ったついでに実家に顔をだした際、奈々からミュージカルを観に行かないかと誘われたのだ。なんでも、一緒に観に行こうと予定していた友人が行けなくなってしまい、チケットを余らせていたらしい。母と二人で出かける機会はめっきり減っていたため、たまにはそれも悪くないなとなまえは首を縦に振ったのだ。
 昔から、母は他人が一所懸命になにかを成し遂げたり、挑戦している姿を見ることが好きだった。自分のことのように親身になり、一緒に悩み、一緒に喜んでくれる人だった。
「なまえちゃんは最近どう? 時々こっちには来てるみたいだけど、やっぱり忙しいの?」
「うん。……翻訳のお仕事、すごく有名な先生から直々に頂いてね」
「まあ! おめでとう! すごいわあ。それって、私も知っている先生?」
「うん。たぶん知ってると思う」
「誰かしら? あっ、待って。まだ内緒にしていて。あとの楽しみにとっておくわ」
 今もこうして自分のことのように喜んでくれている。発売されるのはいつになるのかしらと考えを膨らませ楽しそうにする奈々に、なまえは遠慮がちに本音を漏らした。
「でも……重くて」
 翻訳は、ただ原文を忠実に訳せばいいというものではない。それは逐語訳と呼ばれる手法で原文のまま一語一語を置き換えるものだが、原文に基づき忠実に直訳するため学校の授業等で英文を日本語に訳したような、少し不自然さが残ってしまう。原文を忠実に訳しても文章に違和感を覚えてしまうのでは、原文の魅力が伝わらない。違和感や不自然さをなくすためには、言葉を補ったり逆に省略したりする必要がある。一文だけ丁寧に訳すのではなく、前後の場面関係、登場人物の性格や物語の空気、文体の雰囲気等々をすべて考慮した上で翻訳をしていかなければならない。
 そしてなにより、作者の意図していることを理解し翻訳をすることが重要である。
 だからこそ翻訳は難しい。
 ましてや今回翻訳するのは、あの工藤優作の最新作である。パソコンに向かうたびに冒険をするような高揚感と、なにが起こるかわからない不安感を常に抱いていた。荷が重すぎると何度も弱音を吐いた。
 優作の名前を出さずにぽつりぽつりとそんなことを掻い摘んで話していると、奈々は「大丈夫」と言って笑った。
「なまえちゃんなら、きっと素敵な翻訳ができるわ。だって、その本を読んですごく感動したんでしょ?」
「うん」
「だったら大丈夫。なにも心配いらないわ。きっと、その本を書かれた先生もなまえちゃんだから任せられると思ったんだと母さんは思うのよ」
「……本当に?」
「もちろん。母さんが言うんだから間違いないわ」
 胸を張って話す奈々に心配はどこかへ吹き飛んでしまった。誇らしげしている姿がおもしろくてくすくす笑っていると、奈々も一緒になって笑い声を上げた。
「そういえば、一緒に暮らしてる沖矢くん……だったかしら。彼は元気?」
「元気だよ。最近は夕飯だけじゃなくてスイーツ系のものを作るのにも挑戦しててね、おかげで食後とかおやつの時間に美味しいデザートが食べられて嬉しいし楽しいの。待ってね……ほら、これ! この前のおやつにって昴さんが作ったやつ!」
 奈々に見せたのは、苺がたっぷりと使われている昴が手作りしたタルトの写真だった。
「まあ素敵! 美味しそう!」
「でしょでしょ? 他にもね……あっ見てこれ!」
「あら……? 居眠り中?」
 ディスプレイに映し出したのは、書斎の机に腕を枕にして突っ伏したまま眠る昴の姿だった。
 奈々の言葉に頷き、共同生活が始まった当初を思い出しながらなまえは話を続けた。
「今はそうではないんだけど、一緒に暮らし始めた頃はしょっちゅうこんな感じだったんだ。久しぶりに見たから思わず写真撮っちゃった。書斎があるんだけど、そこで夜遅くまで本を読みながらお酒も飲んで、そのまま寝落ちしちゃうの」
 他に面白い写真がないか指を動かしフォルダ内を漁っていると、奈々が口元を隠しながら静かに笑っていた。
「ふふ、なんだか不思議な気持ち」
「……? なんで?」
「なまえちゃんから、ツッくんやそのお友だち以外の男の子の名前が出てくるのがなんだか新鮮で」
「そうかな?」
「そうよ! なまえちゃんが話すのは大体ツッくんのことだし、それ以外だったら獄寺くんや山本くん、あと……雲雀くんに笹川くん。それに黒曜の子たちだとか、黒い服を着た個性的な人たちの話だったから」
 指折り数えながらなまえの友人の名前を挙げていく様子に苦笑いしてしまう。見事に守護者とヴァリアーといったボンゴレ関係者だ。
「みんな、ツッくんに関わりがある人たちでしょう? なまえちゃんは基本的にツッくんと同じ景色を見ようとしていたようだから、ツッくんから離れたところで一所懸命生活して、いろんな人と関わってることが母さんとっても嬉しいの」
「……そう、なんだ」
 綱吉と同じ景色を見ようとしていた。確かにそうなのかもしれない。
 綱吉を生きる意味だと勝手に決めつけては、せめてリボーンが来るまでに多くのことを綱吉に伝えることができたらと思って生活してきた。でも、リボーンがやって来ても踏ん切りがつかなかった。周りからはきっと弟はなれできない姉に見えていたと思う。
「実はね、ちょっと心配だったの」
「なにが?」
「なまえちゃんが高校を卒業してイタリアに行くって言った時、リボーンくんが、自分の知り合いの家にお世話になる形にするからって言ってたじゃない? 近くにはディーノくんもいるし、お父さんの親友もいるから心配するなって言ってくれて。だから安心して送り出せたの」
  奈々はいつもなまえや綱吉の決断を尊重してくれた。だから、放任主義ではないけれど子どものやりたいようにやらせ、そこで立ち止まったり逃げ出したくなったときは受け入れて背中を押してくれる人だと思っていた。子どものことを信頼しているからこそ、好きなようにさせようと。
「でも今回はそうじゃない。しかも、米花町は並盛と違って犯罪がすっごく多いって言うでしょ? いくらお仕事する都合上、米花の方が便利だからって言われても……。そんな場所に、ましてや女の子が一人で住むなんてって、とっても悩んだわ」
 けれど違った。彼女だって不安は抱くし心配する。ましてや自分の子どもだったらなおさらだ。
 この歳になって初めて気づいた事実に、なまえは困惑した。
 これまでどれほど自分や綱吉は母に心配をかけていたんだろう。口では『しっかりしているから大丈夫ね』『母さん鼻が高いわ』だなんて微笑みながら話しておいて、心の奥深くではいつも私たちを心配していて、不安で仕方がなかったんじゃないのだろうか。
「これは内緒にしてくれって言われてたんだけどね。渋っていた母さんが了承できたの、ツッくんの言葉が決め手だったのよ」
「つっくんが?」
「そう。“なまえなら絶対大丈夫だから。なにかあったら俺がすぐに駆けつけるから。だから安心して、なまえを送りだしてあげて”って」
「そんなこと、初めて聞いた……」
 知らなかった。口をぽかんと開けていると、「みんなに内緒にしてくれってお願いしてたからね」と奈々は微笑んだ。
「小さい頃はなまえちゃんの後ろに隠れて、中学生になってもなまえちゃんに甘えてたあのツッくんがよ? リボーンくんが来て、だんだんお父さんに顔つきが似てきたような気がしてたけど、中身は大人になりきれていない部分もまだあって。……きっと一番離れたくないと思っていたはずなのに、“なまえのしたいようにさせてあげよう”って言ったの」
「…………」
「それに、一緒に住むことになったって沖矢くんの話を教えてくれて、母さんほっとしたのよ。確かにお付き合いもしていない男女が同じ屋根の下で……っていうのは、なにが起こるかわからないから、なまえちゃんが悲しい思いをしなければいいなっていう心配はあったけれど」
 奈々はそこで一旦言葉を切るとテーブルに肘をついて組んだ手の上に顎を乗せた。
「でも、なまえちゃんが今みたいに沖矢くんの話を楽しそうに聞かせてくれるから、大丈夫なんだなって安心したわ」
「――っ」
 胸の奥がギュッと詰まった。次々と新しい情報が入ってきて頭の中がパンクしそうだった。
 だってきっと、私は綱吉よりも母に迷惑をかけている。
  “気づいた” 時は幼児の姿で、さらにはのちのち沢田家の人々だとわかったけれど、当時は知らない人が両親になっていてひどく混乱した。
 今でも当時を思い出そうとすると首を絞められたかのように息苦しくなる。
 “気づいて”から精神はひどく不安定な状況が続き、突然泣き叫んだり玩具を投げたりすることはしょっちゅうだったし、自分の頭を叩いたり柱にぶつけたりといった自傷行為をしてしまったこともあった。自我は存在しているのに身体も心も幼児のままだったから、ごく普通の子どもと同じような心身の発達過程をたどっていった。だから感情のコントロールなんてものは幼児にできるはずもなく、物に当たったり泣き叫んだりすることしかできなかったのだ。
 きっと母は、私が知らないところで苦労したはずだ。初子だからと最初は近所の方からも慰められただろうけど、不安定な状態が長く続いていた私に誰もが困惑しただろう。心配した母に連れられて保健センターに行ったことだってある。
 父が家を空けることが多い中、そんな子どもをほぼ一人で育て上げたのだ。
 私は沢田奈々という人のもとに生まれてからずっと、こんなにやさしくてあたたかい心の持ち主に迷惑をかけてしまっている。
「ねえ、聞いてもいいかしら?」
 突然の問いかけに、深みにはまっていた思考は一気に現実に引き戻された。
「っ、なにを?」
「なまえちゃんにとって、沖矢くんはどんな人?」
「どんな……」
 そしてまた、なまえの思考と意識は深海に沈んでいく。
 ――私にとっての、彼。
 彼は、沖矢昴。大学院で工学を学ぶ学生で、それで?
 私は一度たりとも彼のことを沖矢昴だと思ったことはない。いつだって瞳の奥に潜む、赤井秀一に語りかけていた。
 じゃあ、赤井さんは、私にとってどんな人?
 彼は、隣に住む少女を守るため、追い続ける組織を行く行くは根絶やしにするために身を隠し姿を変えて生活している。必要なこと以外話さないような人だけど、それでも一緒に暮らしていくうちに少しずつだけれど、他愛もない話を自分から話してくれるようになった。
 手先が器用で、やったことがないことでもすぐにコツをつかんでどんどん上達していく。けれどそれを鼻にかけることはない。少年のように知らないことに対する好奇心が強かったりするし、探偵のようにすぐ見透かしてしまったり頭がよくきれる。
 彼と一緒にいることが楽しくて、料理をしたり写真を見せあったり、いろんな話をしていると、もう少しこの時間が長く続けばいいのにと思ってしまうことだってある。そんな『もう少し』が雪みたいにどんどん心の中に降り積もっていく日々。
 赤井さんは私にとってなに? 同居人というだけではないし、友だちというには少し違う気がする。ましてや家族というわけでもない。
 周囲は面白そうにもてはやすけれど、恋人同士なんてこともない。
『絶対になまえちゃんに気を許してるからよ!』
『秀兄が生きてたら、なまえさんのこと絶対好きになりそうなのに』
 そんなの、嘘に決まってる。赤井さんが私にそんな感情を抱くわけがない。それにあくまで彼女たちの話は憶測だ。実際にその様子を見ていないのだから、信憑性は薄い。
 なまえの脳裏にあのピアノの前での彼の言葉がよぎる。
『君のことをもっと知りたいからね』
 なんで、どうして知りたいの。
 料理を教えてほしいと言ってきたり、ピアノを聞かせてくれと頼んできたりしたのは、どうして? どうして、写真を見せ合いっこしたり、励ましてくれたりしたの?
 答えはきっと、本人しかわからない。考えても考えても自分の都合の良いように解釈してしまいそうで、なまえは軽く頭を振った。
 違う。あの言葉は、私が何者か知りたいだけで、好意や下心なんであるはずがない。
 瞼を閉じて心の中で自分に強く言い聞かせた。そうでもしないと、自分が思い描く答えに流れてしまいそうだった。
 奈々の質問に答えるためには、秀一との間にある見えないものに名前をつけなければならない。
 この心地よい関係性に名前をつけてしまえば、二人の間でなにかが変わってしまうのではないかと怖かった。だから名前をつけて改めて関係性を見出すことを無意識に避けていたのだ。
 名前を、つけなければいけないのか。
 一緒にいて楽しくて、もっと同じ時間を共有したいと思う。それだけではいけないんだろうか。
 きっと奈々は、どんな答えでも受け入れてくれる。そんなことは彼女の娘として生きてきて充分理解している。
 でも、それではいけないんだと察した。
 そろそろ目を背けてきたことに向き合わなければいけない時なのかもしれない。いつまでもこの生活が続くとは限らないのだから。
 今の生活は都合のいい夢で、夢はいつか覚めるものだ。そして現実に戻らなければならないときが必ずやってくる。
 ――もし、この生活に終わりが来るとしたら、そのとき私はどうするんだろう。
 黙りこくったままでいると、奈々は微笑みかけた。
「じゃあ、なまえちゃんは沖矢くんのこと、とっても好きなのね」
「とっても、好き?」
「ええ。上手く言葉にできないということは、それだけなまえちゃんの中で沖矢くんの存在が大きくなっているってことよ。
 身近にいる大切な人は、いざ離れてみたりしない限りは好きなところや愛しいところなんて、存在が近すぎるから挙げられないもの。それだけ生活に溶け込んでしまっているから。……なまえちゃんにとって沖矢くんはもう大切な人の一人っていうことよ」
「大切な人……」
 赤井さんが、大切な人?
 奈々の言葉はすごくやわらかくてまあるい響きをしていたのに、ガツンと硬くていびつな物で殴られた気分だった。
 でも本当は、私は彼と会ってはいけなくて。けれど、それでももっと一緒にいたくて、毎日がとても楽しくて。

 ふと、数年ぶりに帰宅した父に手料理を振る舞う母の姿が思い浮かんだ。
 父が帰宅すると、家の中はいつにもまして賑やかになる。父も母も常に笑っていて、母の手料理を美味しいと頬張りながらあっという間にたいらげてしまって、母はそんな姿を見てはまた笑みを深くする。
 涙が出そうなほど、あたたかくて幸せな光景。

 ――ああ、そうだ。人はこの気持ちを……。

「……お母さんは」
「うん?」
 ――お父さんと恋に落ちて、結婚して幸せですか。
 きっとこの先、父も母も知ることはないだろう。
 ――私が産まれた時、幸せでしたか。
 本当は、私はこの世にいるはずのない人間で、あなたたちから生まれてくることもなかったんだよ。子どもは綱吉ただ一人だけだったというのに。
 ――私を育てて、幸せですか。
 たくさん心配をかけて。たくさん悩ませてしまった。きっと私の知らないところでたくさん泣いていたのかもしれない。それでもあなたは私に笑いかけ、頭を撫でて褒めてくれて、ここまで育ててくれた。
 ――私は、生まれてきてもよかったんですか。
「なあに、なまえちゃん」
 そんなこと、訊けるはず無かった。
「――ううん、なんでもない。……またこうして、いろんな話、聞いてくれる?」
「ええ、もちろん!」
 嫌だったなら、こんなに花が咲いたような顔して名前を呼んでくれはしないんだ。

   *

 母が御手洗いに行ったとき、綱吉から電話がかかってきた。運転中のようで口早に状況を説明すると、少し遅れると言って通話を切ってしまった。
 戻ってきた奈々に綱吉からの電話の内容を伝え、綱吉が来るまで時間があるだろうからと追加でデザートを注文し、美味しさに頬をゆるませながら迎えを待った。
 ゆっくりとデザートを食べ終えてから数分後、綱吉が姿を現した。そして、事の詳細を聞いた。
 こちらに来る途中、米花で交通事故が起きたらしい。
 白のマツダRX-7が方向転換して、高速で走る車を受け止めるようにして衝突した。マツダRX-7は片側が大破し、ぺしゃんこになっていたとか。そして、暴走者から逃げるように出てきた人をバイクが殴り無事人命救助がなされた。その近くにはスバル360が停められていたという。その後、警察がやってきて、バイクに吹っ飛ばされた女は殺人と誘拐の容疑で現行犯逮捕された。
 妙に耳に馴染む車種名にまさかと思っていると、奈々には聞こえないよう耳元で「その考え、当たってるよ」と綱吉が囁いた。この眼でしっかりとコナンや安室透、そして世良真純や車内にいた沖矢昴、さらにベルモットの姿を見たと綱吉は続けた。オールスター全員集合だと呆気に取られていると、「米花って本当に物騒なのねえ」と奈々が呟くものだから、綱吉と二人して顔を見あわせて苦笑いしてしまった。
 イタリア風情が身についてきたのか、綱吉は私と母のディナー代をカードで払うと、エスコートするように駐車場に停めた車まで案内した。
 ついでに送ると言われたが、綱吉の姿を見られて万が一こちらの正体を誰かに知られてしまう可能性は避けたいため断った。すると、綱吉はその考えを見抜いていたらしく「そう言うと思ってタクシー呼んでおいたよ」とタクシー代を有無を言わずに握らされた。

 工藤邸の前にタクシーが停車し、お礼を言ってから、綱吉から渡された紙幣をそのまま手渡すした。それはメーターに表示された金額よりも些か多く、運転手は目を丸してから「またのご利用お待ちしています」と帽子を少しだけ上げて一礼してから去っていった。
「ただいまー」
 自分の声が玄関に響き、跡形もなく消えていく。
 いつも帰宅すると、昴は「おかえり」と顔を見せてくれた。
 この広い家の中で、どうして声が届くのか毎度不思議で仕方がない。地獄耳なのかと疑ってしまうが、本人に向かってそんなこと言えないので未だに心の中に留めている。
「昴さん?」
 しかし今日は違った。
 キッチンにもリビングにも、そしていないとは思ったが風呂場を覗いても見当たらなかった。
「書斎かな」
 考えは当たっていて、書斎に行くとソファに仰向けになって寝ている昴がいた。
「こんなところで寝て……。風邪ひいちゃうよ」
 一人掛けのソファに置いてあったブランケットをそっと昴に掛けてやる。仕事柄、誰かさんのように枯れ葉が落ちた音だけで目を覚ましてしまいそうなのに、今でもぐっすりと眠っていた。
 こんな無防備な姿を見るのはいつ以来だろうと考えつつ、綱吉から聞いた交通事故の話を思い出す。
 つくづくコナンはトラブルメーカーというか、事件を引き寄せてしまう体質の持ち主のようだ。重要人物が一箇所に集まってしまうなんてまるで映画のようだ。
「お疲れさま」
 最近は突然外出することもなく家の中で自由に過ごしていたから、久しぶりに動いて疲れたのかもしれない。
 なまえは昴が起きてしまわないよう、そっと頭を撫でた。髪の毛は指の隙間から流れていって、本物のような手触りに感心してしまう。
 頭を撫で続けながら、赤井さんの髪の毛はどんな感触がするんだろうと疑問が浮かんだ。常にニット帽を被っている印象がある秀一は、確か前髪が波打っていた気がする。いつか本物の彼に相見えることができるんだろうか。そしたら、ニット帽の中がどうなっているのかも見てみたい。
『なまえちゃんにとって沖矢くんは、とっても好きな、大切な人なのね』
 奈々の言葉を思い出し、胸の奥からじんわりと湯が沸いてくるようにあたたかくなった。ちょっとだけ頬が熱くなって、昴の頭に置いていた手を引っ込めた。
「……は、っ」
「昴さん?」
「っ、……ぅ……」
 眠っているのに昴の呼吸は徐々に早くなっていく。胸元を掴んでもがいているうちに掛けていたブランケットが床にずり落ちた。
「昴さん、起きて。昴さ……っ!」
 肩を揺すって起こそうとしていると、突然手首を掴まれ強い力で引き寄せられる。バランスが保てなくなり、覆い被さるようになってしまったが、昴とぶつかることは避けることができた。
「昴さん……?」
 荒々しく肩で息を繰り返す昴に背筋がひやりとする。
「起きて、昴さん。ベッドに行って寝ましょう? 昴さん」
「……ぁ、……」
「ん?」
 うわ言のようになにかをぼそぼそと繰り返し話す昴の口元へ耳を近づけた。空気のような呟きがうまく聞き取れなくて、けれどなにを口走っているのか気になり辛抱強くそのままの体勢で待ってみることにする。
 その軽率な行動によって後々ひどく苦しむことになるなんて、この時は思ってもみなかった。

「――明美」

 秀一が紡いだ名前になまえは時が止まったように動けなくなった。
 暗闇から伸びてきた手に心臓が握り潰されて、濁流が体の中に流れ込んできたようにぐちゃぐちゃになった。
 なにも考えられなかった。
 けれど、頭の中で奈々の言葉と秀一が紡いだ名前が延々と鳴り響いていた。

17,03.07 title:まばたき