泣くことにもう怯えないで


 空気が澄みわたり、どこまでも煌めく星が望めそうな夜だった。日付が変わる頃、珍しくなまえから電話が掛かってきた。
「もしもし?」
『…………』
「なまえ? どうしたの?」
『……っ』
「……なまえ?」
 電話口で黙ったままのなまえに胸の中がざわついた。耳を澄ますと嗚咽や鼻をすする音が聞こえてくる。名前を呼んでも返事をしない彼女に、ただごとではないと焦りはじめる。
 何度か名前を呼んだ後、耳をそばだてていると小さな音を拾った。
『……どうしよう。どうしよう、どうしよう』
 ひどく困惑した声だった。
『私、どうしたらいいのかわからないよ。どうして、どうしてなの』
 支離死滅ななまえの言葉に、落ち着いてと何度も語りかけた。
 混乱したなまえは段々と息が上がっていって、このままでは過呼吸になってしまうのではないかと強い口調で深呼吸を促した。吸って、吐いてと繰り返していくうちに徐々に落ち着きを取り戻したなまえの呼吸が聞こえてきて、体の力がどっと抜けた。
「なまえ、どうしたの。私にはなにができる?」
 こんな薄っぺらい言葉、今の彼女に投げかけるべきではないのだろうけど、並盛から離れた場所にいる自分にできることは限られている。なまえが話し出してくれるのを待とうとしたが、普段頼りにされている彼女はいざと言う時に自分から他者を頼ろうとしないのではないかと不安になった。
「なまえ、なんでも言って」
 自分がだせる最上級の優しい声を心がけて言葉を届けた。
 たっぷりと時間をかけて、なまえは沈黙を破り息を吸う。
『――たすけて、ビアンキ』
 こんなに悲痛な音を孕んだなまえの声を、ビアンキは初めて聴いた。

   * * *

 なまえに会ったのは電話をもらってから二日後のことだった。本当はすぐにでも駆け出して会いに行きたかったけれど予定が入っていてそれもできず、歯がゆい思いをした。
 この二日の間、なまえは大丈夫だろうか、ちゃんと生活が送れているのかと常に頭の片隅で考えていた。その度に電話の向こうで鳴った彼女の悲痛な声が脳内に響き、また彼女の安否に思いを馳せる。そんなことを繰り返しているうちに、長くも短くもない二日は過ぎていった。
 二日前、奈々が帰宅した時にはとても上機嫌でなまえのことをたくさん教えてくれていたというのに。なまえから電話がかかってきたのは奈々と出かけた日で間違いない。奈々の様子から、母娘喧嘩をしたとも考えられない。そうなれば、考えられるのは一つ。米花の住まいに帰宅してからなにかが起きたのだ。
 ビアンキはなまえと会う当日、米花とも並盛とも離れた、知人に出くわさないであろう場所を指定した。
 待ち合わせ場所で合流し、お互いそう多く会話はせずにビアンキはなまえの腕を引いて歩き始める。街の喧騒から離れるように右へ左へと歩き続け、狭い道に入った。
 立て看板に古びた字で紫陽花小道と書かれたのを横目で確認し、なまえが躓かないよう歩く速さを緩めながら進んでいく。緩やかな坂を上がっていくと、石造りのような洋館が姿を現した。扉前にぽつんと置かれた数ページの冊子に目を落とす。そこには、この建物に関する情報とメニューが書かれていた。
 この純喫茶店は戦前から存在する老舗店らしく、当時のまま時間が止まってしまったかのような、どこか懐かしい雰囲気を醸し出していた。
 メニューを確認し、ビアンキはなまえの手を引いて入店する。
 店内はクラシック音楽が蓄音機から流れ、忙しない日々を忘れさせるように時間がゆったりと流れていくようだ。一階席には三人ほどしか客がいなかった。
 来客ベルの音に店の奥に引っ込んでいた店主が出てきて「お好きな席に」と声を掛けられる。その言葉に甘え、足を乗せるたびにギシリと軋む音を聞きながら木製の螺旋階段を登った。
 二階に着くと、客は一人もいなかった。オレンジ色の灯りに照らされてワイン色に染まるフローリングと、所々ニスが禿げた木製テーブルを見届けながら、窓際のソファ席に向かう。席につくと、コートやマフラーを脱いで腰を落ち着けた。
「なまえはなににする? 私はもちろんエスプレッソ」
「……なんでも」
「…………」
 白いレースのカーテンの隙間から窓の外を眺めるなまえの両眼はくすんだガラス玉のようで眉間に皺が寄ってしまう。重ならない眼差しの向こうにある眼は注意して見てみると幾分か充血していることに気づき、ビアンキは無意識に下唇に歯を立てた。
「注文してくるわね」
 ビアンキは席を立ちなまえに一声かけると階段へ向かった。店主は高齢で、注文を受けるためだけにあの階段を登らせるのは忍びない。それにあの場に残っても、聞く耳を持たない状態に片足を突っ込んでいる今のなまえからはなにも聞き出せないだろう。
 ――残念。なまえ、こういうところ好きなのに。
 都会の喧騒から離れ時間が止まったような空間は、ゆったりと過ごすには最適の場所だ。古めかしいものや歴史情緒あふれるものに対しても教養と関心がある人になら、あまり日本の昭和文化に詳しくない自分よりも、この店はまるでタイムスリップしたように感じるだろう。
 きっと普段のなまえなら、あの小道に入る時点で目を輝かせていたはず。そうして外観や内装の写真を撮ったり、彼女が物珍しいと指差した方へ視線を向けて一緒に楽しんだり、時間を忘れて語らうことだってできたはずだ。
 そんなことを考えながら階段を降りて注文を済ます。蓄音機から流れるクラシックに耳を傾けながら階段を上り席に戻った。
「ごめんなさい」
 唐突に謝られビアンキは微かに目を見開いた。
「なにが?」
「私が呼びつけたも同然なのに、いつまでも話しださないから」
 忙しかったんでしょう、と申し訳なさそうに眉を下げるなまえに胸が軋むようだった。こちらの方がすぐに駆けつけてあげればそんな顔させずに済んだのに。まるで自分が迷惑をかけてしまったとでもいうような態度をするなまえに、ビアンキの綺麗な眉は一瞬少しだけ歪な形を描いた。
「いいのよ。なまえも忙しかったでしょう。こうしてゆっくりしても罰は当たらないわ」
 なまえから連絡が入ってからの二日間、ビアンキは時間の合間を縫ってはなまえに関わりのあるマフィアたちの動向を密かに確認していた。日頃からなまえを慕っている彼らならば、彼女の変化を知っていれば焦りや戸惑いの色が隠せずにいるだろうと踏んでいたから。しかし、ビアンキが想像していた姿は一人も見受けられなかった。過保護なほどになまえを慕う男たちにもだ。
 そこでビアンキは、もしかしたらなまえが助けを求めたのはあの男たちではなく自分だけなのではという考えにたどり着く。ビアンキはなまえが自分を相談相手に選んでくれたことがとてつもなく嬉しかった。それと同時に、なまえがいつも誰かにしてあげているように、自分もなまえを導いてあげることができるのか少しだけ不安と緊張を抱いていた。
「お待たせしました。エスプレッソとメロンソーダになります」
「ありがとう。メロンソーダは彼女に」
 なまえは目の前に置かれたメロンソーダに一瞬だけ目を見開くと、店主に頭を下げた。
「ごゆっくり」
 ゆったりとした足取りで去っていく店主を眺めていると、正面からじっと視線が突き刺さってきた。
「メロンソーダで驚いた?」
「えっ、……うん」
 気まずそうに視線を泳がせた後に素直に肯定するなまえに自然と笑みが浮かぶ。
 メロンソーダといえば、昔まだなまえが並盛に住んでいた頃にランボやフゥ太がファミレスでよく頼んでいた。それを思い出したであろうなまえが「懐かしい」とぼそっと声に出したので、ビアンキは心の中で作戦は成功だとほくそ笑んだ。
 ぐるぐると深海に潜っていくように自らの思考に飲み込まれている今のなまえには、彼女がそこから一瞬でも息継ぎをする時が必要である。記憶力のいい彼女ならばもしかしたら一時でも意識をこちら側に向けてくれると信じての行為だった。
「たまには変わったものを飲むのもいいでしょ?」
「うん……そうだね」
「飲み始めないと、アイスが溶けちゃうわよ」
「……いただきます」
 息継ぎができたのなら、彼女の腕を掴んで引っ張ってしまえばいい。そうして強引にでも泳いでいけば、いつか浜辺にたどり着く。砂浜に足をつけたら自分自身で歩くしかないのだ。揺らめく水面に身を任せている時とは違う。
 今日私ができるのは、なまえが自分で歩いていけるように、浜辺まで一緒に泳いであげること。
「ママン、なまえと出掛けたこと、とっても喜んでたわ。時間がたった今でも思い出したようになまえのこと話すのよ。もう何回も聞いてるんだけど、あんまり楽しそうだからついつい初めて聞くかのように耳を傾けちゃうの」
「そっか……。私も久しぶりにお母さんと出掛けられて楽しかったよ」
「ママンが何度もなまえの話をするから少し妬けちゃったわ。私だってなまえと出掛けたかったんだから」
 メロンソーダをちょっとずつ飲んでいたなまえはビアンキの言葉を聞き、ストローから唇を離して緩く口角を引き上げた。
 なまえにしては珍しく下手な笑顔に、心の傷は相当なのだろうと悟る。
 同い歳のなまえとは、手のかかる弟を持つ姉ということもあり、自然と意気投合していった。
 しかし出会った当初、自分は綱吉に関わる全ての人間がリボーンとの未来を阻む邪魔者に見えていたため、もちろんなまえもその対象となり、綱吉同様のことを仕掛けたことがある。いや、もしかしたら綱吉以上だったのかもしれない。なまえのことを新しいリボーンの愛人だと勘違いしていたかも。
 目先の愛に囚われて、周りに目を向けられなかった当時の記憶は、実のところ曖昧になってしまっている。それでも、ビアンキは一つだけ鮮明に覚えていることがあった。
『一所懸命つくった料理、大好きな人に食べてほしいよね』
 どんな折にその言葉を掛けられたのかは忘れてしまった。あまりにも彼女の言葉が衝撃的すぎたから。当たり前のことを話しているのに、宝物を眺めるような瞳で優しく微笑むものだから、彼女に向いていた勘違いの憎悪や嫉妬は消え失せてしまった。
 同い歳だというのに自分より歳上のように思えてしまうことがある。まるで見えない糸で引っ張るように導いてくれたかと思えば、どこか楽観主義のような“なんとかなる”と思っている部分があって、いつも面倒ごとに自ら巻き込まれては「信じてるから」とただ一言を綱吉たちに捧げていた。
 時には姉、時には妹、そして、時には母親のようなまなざしで皆を見守るなまえ。
「……どうしたらいいのか、わからなくなっちゃったの」
 それが、どうしたことだろう。
 なまえが浮かべる今まで見たこととない表情は、これまでが仮面を被っていたのではと思うほど別人に思えた。
「ごめんね。あんな支離死滅な電話、受け取って困ったでしょ? ……あの時、本当にどうしたらいいのかわからなくて、頭の中がグチャグチャになってた。でもビアンキの顔が真っ先に浮かんできて……。気づいたらビアンキに電話掛けてた」
 最後ちょっとだけ笑うなまえに笑みを返す。けれど彼女のそれは自身を嘲笑っているようで、あまり見ていて心地よいものではなかった。
「お母さんに訊かれたの。昴さんは私にとってどんな人なのか」
 昴。頭の片隅で随分前に読んだ資料を再び捲り、沖矢昴を思い出す。
 彼は大学院生を装っているが、本名は赤井秀一。彼らが『黒の組織』と呼ぶ者たちを追い続けるFBI捜査官。そして、いま米花でなまえとともに暮らしている男。
 ――まさか。
 一筋の光が指すようにビアンキは悟る。これらの情報と、なまえが聞かせてくれた少ない言葉だけで女の勘は働いた。
「私、答えられなくて。色々考えてたら、わからなくなっちゃったの。……そしたら、お母さんが、『沖矢くんは大切な人なのね』って」
 なまえはだんだんと俯きながらその後の話をビアンキに聞かせた。
 綱吉が教えてくれた米花で起きた交通事故現場の近くに昴がいたこと、帰宅したら彼が居眠りをしていたこと、奈々の言葉を思い出し意識してしまった途端に触れていたことが恥ずかしく感じられたこと。
 そして――。
「うなされてて……寝言で、『明美』って言ってた」
 誤って高価なガラス製品を割ってしまったような衝撃がビアンキを襲った。
「明美って確か……」
「そう、今はセーラって名前だけど。……彼女は彼の元交際相手だから」
 宮野明美。『黒の組織』と呼ばれる者たちの手により十億円強盗事件の犯人に仕立てあげられ、生きる道を閉ざされそうになっていた女。
 彼女の生きざまは女のビアンキから見ても一言では表せるものではない。愛に生き、愛を信じ、再び愛を手に入れるために奔走した人生。それが明美の情報を知らされた時の第一印象だった。お淑やかな容姿からは想像もできないほどの大胆さと情熱を隠し持っている彼女のことを、ビアンキは一方的に気に入っていた。
 彼女は救出されてから、名を『セーラ』と改められ、イタリアのボンゴレ本部内にある経理部に配属されていた。彼女がボンゴレにくるまでの経緯を知った九代目は心を痛み、お茶に誘ったりとなにかと気にかけてあげているらしい。
 赤井秀一は知らないけれど、明美は今でも生きているのだ。
 明美は彼が組織に潜入しているFBI捜査官といとを知りつつも誰にも言わずに交際を続けていたし、十億円強奪事件が成功した暁には秀一との関係を戻すことを望んでいた。
 一方、なまえの話によると赤井秀一も彼女を想い続けているらしい。そして秀一は明美が亡くなった今でも彼女の妹を見守るために姿を変えているのだ。
 きっと、二人が紡いだ愛もそのままの形で大切に残っているのだろう。
 なまえは、奈々の言葉によって自分の気持ちに気づいた途端、秀一が寝言で名前を呼んだことでその現実を突きつけられたのだ。
「気づかされて、舞い上がって、現実を思い出して……ばかみたい」
「っ、そんなこと……!」
「だめだよ」
 そんなことない。そんなに自分を追い込む必要はないのに。
 そうじゃないと言おうと口を開けばなまえはぴしゃりと跳ね返した。
「……だめだよ。もともと駄目なことだったんだから。なにも変わらない。一番最初に戻っただけ」
 自分に言い聞かせるように話すなまえにビアンキは無意識で拳を握った。
 どうして。どうして諦めてしまうの。一番最初に戻っただけって、それはつまり、彼へと抱いた想いを捨ててしまうということでしょう?
 大切な、とても素敵なことに気づけたのに。なぜすべて無かったことにしようとしてしまうの。
 ふつふつと腹の底から煮えたぎるように怒りがこみ上げてくる。ビアンキはいてもたってもいられず口を開いた。
「どうして? セーラに遠慮しているの? それともあの男がまだ彼女を想ってるから?」
「…………」
「……もしかして、“関わってはいけない”から?」
「っ……」
 目を逸らしていただけのなまえの肩がびくりと震え上がった。やはり本筋はこちらなのだとビアンキは心の中で頷く。
「ツナがgoを出したなら大丈夫。何も心配することは、」
「わかってる!」
 遮るように強く放たれた言葉にかすかに目を見開いた。
 自分の声の大きさに驚いたなまえは目を泳がせながら小さく謝り、唇を震わせる。
「わかってるの。でも、やっぱりなにかあった時にいろいろ言われちゃうのは、あの子だから……」
「それはこじつけよ」
 ビアンキはテーブルに片肘をつき身を乗り出した。
「ツナに迷惑がかかるから、だなんてただ逃げてるだけ。なまえも気づいてるんでしょう」
 察しがいい彼女のことだ。気づいてるに決まっている。案の定なまえは目を見開いてぎゅっと唇を引き締めた。
 ――なまえ、貴女はあなたなのよ。
 綱吉たちからも離れた環境で生活して自分の気持ちに気づき、私たちが見たこともないような表情を浮かべたのは、ボンゴレ十代目の姉でも沢田家長女でもない。ただの女の子、なまえなのに。
 せっかくなに一つ肩書きを持たないなまえが生まれようとしていたのに、彼女はそのことに気づかぬうちに自分を消し去ろうとしている。
「確かになまえが赤井秀一と関わってることが知られてしまえば大変なことになるかもしれない。でも、その時はその時よ。ツナやリボーンは、それを理解した上であなたを米花に送りだした」
 ビアンキは綱吉の苦悩を知っている。
 “なまえの我が儘だから”と一番に彼女の望みを叶えてあげたい気持ちと、自分たちのもとから離れて手が届かぬ場所でなにか起きてしまったらという不安がぶつかり合っていたこと、そんな綱吉にリボーンが喝を入れていたことを目撃していた。
 それ以外にも、なまえが一人米花に行くことを渋る幹部もいたけれど、すべて綱吉自ら説得していたことだってある。
 ――みんな今までなまえがしてくれたように、貴女にしてあげたいと思っているんだから。
 もちろん自分もその一人だ。
「ねえなまえ。難しいことは考えないで。なまえが考えてること、思っていること、素直に聞かせて」
 ゆっくりと、丁寧に、心を込めてなまえに向けて語った。
 話し終えてから数秒経って、俯いていた顔が少しだけ動き、こちらに視線を寄越した。
 その瞬間、なにかがきらりと光る。その正体が、カーテンの隙間から降り注いだ日光がメロンソーダのグラスに反射したものなのか、それとも彼女の体の奥から滲みでて輝いた双眸なのか、一瞬のことで判断はつかなかった。
 なまえは深く息を吸って吐いてを二回ほど繰り返した後、ぽつりぽつりと語り始めた。
「いつの間にか、依存してた」
 一言、そう呟くように話した後、なまえは珍しいものを見たかのように目を丸くした。口からでてきた言葉に驚き、声に出したことで自分の中にあったもやもやしたものが輪郭を帯び始めたのだ。
 すると静かに波が押し寄せてきたように、なまえの双眸は夕焼け空に照らされた海になった。
「最初は、ただ手助けができればっていう思いだった。変声機も変装の練習をしているのにも知らない振りをして、影からさり気なく支えられればいいと思ってた。でも……」
 なまえは思ったことに唇がついていかないように話を続けた。思い浮かぶ言葉を思いつく限り並べていく。
「でも、美味しいって、ご飯食べてくれるのが嬉しくて。買い物したり、話したり、一緒に過ごすのも楽しくて。過ごしていくうちに、あの人の本当の姿……というか、演じてない、あの人自身の考えだったり思いだったりが垣間見えるときがあって……。それが、すごく……見れたとき、すごく嬉しくて、もっと見たいなって思って……」
 メロンソーダが注がれたグラスの底から登っていく泡と反比例するように、なまえの双眸からぽたぽたと涙がこぼれていく。
 ぐしゃりと紙を握り潰したような顔をしてなまえは続けた。
「なんで? なんで彼なの? だって、皆とだって同じようなこと沢山、たくさんしてきたのにっ……どうして?」
 胸がつまるほどの震えた声が響き渡る。
 なまえはテーブルに肘をついて頭を抱えるように両手で耳を覆った。そうでもしていなければぐらりとバランスを崩してテーブルに突っ伏してしまいそうなほど、脆くて儚い印象を覚えた。
「……いろんな表情を見たいと思った。今の姿でも、本当の姿でも……。まだ見たことのない景色とか、見たことがあるところでも、あの人の隣で見てみたらまた違ったように見えるんじゃないかとか……。声も、変声機を通さない本当のものが聴きたくなったり、本当の姿だとどんなふうに笑うのかなとか。……でも、でもきっと、瞳は変わらず優しいままで……っ!」
 なまえはそこで言葉を切ると息を呑んだ。見る見るうちに顔から血の気が抜けていき、大理石でできた美術品のように時を止める。
 息をしているのか不安になるほどなまえの呼吸はか細く、それでも微かに上下する胸が生きていることを主張していた。
 唇が、ゆっくりと動いた。
「――ああ、そうだ。私はきっと……」
 声に色がついているなら今の彼女は何色なのだろう。悲痛に満ちた、冷たいガラスのような色だろうか。それともこの喫茶店に馴染んでしまいそうなほど懐かしい色をしているのだろうか。
 カランッ。
 グラスに入った氷が音をたて、炭酸がぶくぶくと泡となって弾けた。
「きっと……初めて、目と目が合った時から――」
 続く言葉は流星群のように落ちていく涙に埋もれてしまった。
 ビアンキは言葉を失った。
 美しいと思った。
 澄み渡るほど瑞々しく美しい、純粋な愛。
 なまえが自分で導きだし辿りついた答え。その姿は、雨が上がる瞬間に似ていた。
 自分のことではないのに、胸が締めつけられるように苦しくて、涙がこみ上げてしまいそうになった。
 そうだ。人に想いを寄せるという好意の始まりは、何気ない日常にこっそりと隠れていて、一つひとつ拾い上げてみるとビー玉のようにそれは輝いている。
 愛しい人の姿を眼で見て、声を耳で聴いて、同じ空間で香りを楽しみ、同じものを味わって、あたたかなぬくもりを感じる。たったそれだけの行為が、かけがえのないものに思えてくる。心地よい幸せな時間が永遠に続けばいいといるはずもない神さまに願ってしまう。
 なんて素晴らしいことなんだろう。
「なまえは、彼が大切なのね」
 するりと息を吐くように自然とでてきたのは、奈々が彼女にかけた言葉と同じものだった。
 顔を覆ってしまったなまえの隣に移動して肩を抱いた。体の向きを変えて額を胸にすり寄せてくる後頭部をそっと撫でる。
「いいのよ。人を愛することは悪いことじゃない。むしろ、とっても素敵なこと」
 囁くように語りかけると、胸に顔を埋めてきた。くぐもった声が漏れ始める。身体の中に溜まっていた言葉にならないものを涙と一緒に外に出すなまえの頭を撫で続けた。
 ――ああ、そういうことか。
 奈々がどうして『大切な人』などと回りくどい表現したのか、ビアンキはやっと気づいた。
 明らかになまえは赤井秀一に恋心を抱いている。けれど同時に、それはすでに恋というものではなく、ましてや恋に恋しているわけでもない。彼女のそれは、愛情に変わりつつあったのだ。綱吉たちに注ぐ愛情と似たようだけれど少しだけ違うそれに、なまえの様子から奈々はすぐに気がついた。
 しかし、なまえは無意識に変化を怖がる傾向があるから、綱吉たちに向ける愛情とはまた異なった特別な意味が込められた感情に名前をつけるのも避けたのだ。
 今はただ、『大切な人』の括りでいい。無理して名前をつけなくてもいいのだ。そうすれば、時がいずれ『特別な人』にしてくれる。
 背中にぎゅっと腕を回し縋りついてくるなまえは、少し力を入れればポキリと折れてしまいそうなほど儚さと脆さをはらんでいた。
 頭を撫でながら、背中を一定のリズムでぽんぽんと慰めてやる。
「大丈夫、大丈夫よ。あなたはとても素敵なことを経験してるの」
 優しく話しかけると、くぐもった嗚咽が聞こえてきた。
 けれどもう、それを聞いて胸が締めつけられるような苦しさはない。幸福感にも似たあたたかくてやわらかいものと、少しの嬉しさにビアンキの胸は満たされていく。
 人は恋を、美しき誤解だなんて言うけれど。
「なまえ、貴女のはまるで――」
 ほとんど手つかずのメロンソーダは、溶けたバニラアイスがソーダと混ざりあってしまっていた。
 ――あなたはもう、自分で歩いていけるわ。
 彼女の腕を引いて砂浜に着いた時、振り返った海はきらきらと輝いていて、涙がでそうなほど美しかった。
 誤解なんてものではなく、彼女が抱いているものは、正真正銘の愛だったのだ。

17,03.18 title:まばたき