恋とはどんなもの?


 十三時四十五分。空港内にローマ発着便が無事に到着したことを告げるアナウンスが流れてから三〇分が経過した。昴は、そろそろかと重い腰を上げて喫煙所を出た。
 到着ロビーを目の前に、柱に背中を預ける。暫くすると、少しずつ帰国や来日しにきた乗客が姿を現した。
 彼らを一人一人確認しながら、昴はコナンに教えてもらった特徴と一致する女性を探す。見せてもらった写真は遠くから撮ったものだったため、茶髪で可愛らしい女性というくらいしか具体的な特徴は得られなかった。
 せめて待ち合わせ場所を設けた方がいいのではと提案したが、コナンは、なまえにも昴の特徴を離しておくから大丈夫の一点張りだった。
 コナンがここまで彼女、沢田なまえを慕う理由はなんだろうと、昴は到着ロビーを歩く女性を確認しつつ考える。きっと、理由の一つに優作の作品を指摘し、彼から信用と信頼を得ていることが挙げられるだろう。しかし、それだけだろうか? 
「ボク、学校あって迎えに行けないから」
 そう言って昴に空港まで迎えに行くように促したコナンの心境とは一体。あの言い方だと、学校がなければ迎えに来る事は目に見えているし、きっと空港から工藤邸に戻ってきた時を狙って学校帰りに寄るつもりだろう。
 あの切れ者であるコナンが慕う相手である。彼女も彼と同じよう、洞察力や推理力に長けている人間かもしれない。
 昴は大きく息を吸い、ゆっくり吐き出して思考を切り替える。
 ここで考えても埒があかない。実際に彼女と出会って見定めなければなにもわからないだろう。
 ――しかし、まだ現れないのか……。
 既にロビーに降りたイタリアからの乗客はほぼいなくなっていた。腕時計を確認すると、昴が最初の乗客を確認してからだいぶ時間が経とうとしていた。入国審査や手荷物受け取りはこれほど時間がかかるものだったかと自身の経験を振り返る。
 ――なにか問題が起きてなければ良いが……。
 やはり、彼女の連絡先をボウヤに聞いておくべきだったと思い巡らせる。今からでも遅くはないかと携帯を取り出した昴は、自分に近づいてくる人物に気づけなかった。
「すみません」
 鈴の音のような声。音の出どころは少し距離があるけれど、その言葉が自分に向けられたことは瞬時に判断できた。
 突然聞こえた声に、昴は携帯から視線を移し、弾かれたように右を向いた。
「沖矢昴さん……ですか?」
 昴の耳には、周囲の喧騒をかき消すかのように、彼女の声が響いた。まるで煩わしい世界から二人だけ切り離されたようだった。
 一瞬、時が止まる。形の良い唇から発せられた名前が耳の中で木霊した。
 そこにいたのは、膝丈のワンピースにカーディガンを羽織り、ショルダーバッグを掛けた茶髪の女性だった。彼女はオレンジ色のスーツケースを傍らに、昴の数歩先に立ち止まっていた。頭の先から爪先まで確認し、昴はようやく自分が息を止めていることに気づいた。
「はい。もしかして……」
「はじめまして、沢田なまえです。お待たせしてしまって申し訳ありません。手荷物受け取りに手間取ってしまって」
 眉を下げて謝る彼女に、昴は彼女の気配に気づけなかったことに内心驚いていた。いくら考え耽っていたとしても、近づいてくる人間の気配くらい察知できるものである。気配を消して近づいたとでも言うのか。この、見るからに一般人のお嬢さんが。
 昴は衝撃のあまり続く言葉が見つからずにいた。沈黙を破ったのはなまえだった。
「これから一緒に住むんですよね。よろしくお願いします」
 左手で握手を求めるなまえに昴は目を丸くする。普通に考えれば、握手で出す手は利き手であり、右手が一般的である。それを彼女は、昴が利き手は左手だと伝えていないのに、左手を差し出してきた。彼女は一瞬で見抜いたというのだろうか。
「あっもしかして、利き手、左手じゃありませんでした?」
「いえ……合ってますよ。伝えてもいないのに左手だったので驚いてしまって……。こちらこそ、よろしくお願いします」
 昴は差し出してきた左手をゆっくりと握った。柔らかい手だった。こちらの領域の人間ではないような、何も知らない真っ白な手。けれど、なんだか引っかかる。昴はその正体がなんなのか紐解けないでいた。
 しかし、このままここで握手をしたままというわけにはいかない。昴はゆっくりと握った手を離した。
「それじゃ、行きましょうか」
 昴は駐車場に車を止めていることを伝え、なまえのキャリーケースを掴むと歩き出した。荷物を持ってもらうなんてとなまえは慌てても昴の隣に並び荷物を取り返そうとしたが、レディーファーストですよと微笑み昴はうまく言いくるめた。
 駐車場まで道すがら、なまえの仕事の話を聞いた。
 なまえは翻訳の仕事をしていて、今回イタリアに行ったのもその関係だとか。出版社の依頼を受けて日本の書籍をイタリア語に翻訳したり、イタリアで人気の書籍を自ら出版社に持ちかけ日本語に翻訳しているらしい。最初は小遣い稼ぎで始めたが、いつの間にか本業のようになっていた。なぜイタリアなのか訊いたところ、先祖がイタリア人だったこと、弟の家庭教師がイタリア人だったことがきっかけだと教えてくれた。
 それにしても、どこか西洋の血が入っている容姿だと思っていたら先祖がイタリア人だとは……。それに加えて、イタリア人の家庭教師とは、なんでもありだな。
 駐車場にたどり着き、荷物を入れ込み車に乗る。シートベルトを締めてエンジンをかけると、なまえが遠慮がちに視線をよこした。
「コナンくんから……昴さん、火事に遭ったと聞きました。その、火傷とか、大丈夫でしたか?」
「ええ、幸い外に出ていた時でしたから。ですが全て燃えてしまったので、一文無しになってしまって」
 昴の言葉を聞き入れると、なまえは静かに息を吐いた後、きゅっと唇を引き締めて視線を落とした。
 昴は運転しながらちらりとその表情を盗み見る。昴の身に安堵した気持ちと、持ち物がすべて焼かれてしまったことに対する気持ちが混雑しているように見えた。その思いに偽りは感じられなかった。根からの心優しい女性なのだろう。しかし、だからと言って、まだ安心するのは早い。気配を消して現れたことといい、利き手を当てたことといい、まだ彼女の不可解な点は多い。
 ――これは、調べてみる価値がありそうだ。
 それっきり、二人は言葉を発しなくなった。
 信号が赤に切り替わり、ゆっくりとブレーキを踏んで止まる。
「昴さん、一つだけ、わがままを言ってもいいですか?」
「我が儘?」
 シートベルトを握り締めて真剣な表情で顔を向けたなまえに、何のことかわからず昴はそのまま返答した。彼女が言う我が儘に予想が立たずただ首を傾げることしか出来ない。
 なまえの緊張が走った、光の具合によってはオレンジに見える琥珀色の瞳と、自分のそれが混じり合う。まるで吸い込まれそうな瞳だと、昴はほんの少しだけ顎を引いた。
「――今日、お湯を張ってお風呂に入ってもいいですか!?」
「……は?」
 ポカンと口を開けてしまった。何をどうしたらその発言が出てくるのだろう。
「一人暮らしだとやっぱりお風呂入る時はシャワーだけじゃないですか、水道代とか光熱費とか気にして! でも、今日とってもお湯に浸かりたい気分なんです! イタリアでもシャワーばっかで、お風呂に浸かることを目標にお仕事がんばってきました! だから、お願いします! 今日だけ大目に見てお湯張らせてください!」
 必死に見つめてくる視線に、昴はどうしたらいいのかわからなくなった。
 あっ、昴さん青ですよ! と隣で教えてくれるなまえに、昴は体の中に溜めていた空気を思いきり吐いて、アクセルを踏んだ。

16,08.19