Buon San Valentino!


 二月十四日。言わずもがな、世間が待ちわびたバレンタインデーである。
 二月に突入すると店先はチョコレートで溢れかえり、報道番組の生中継では百貨店で繰り広げられるバレンタイン商戦の様子や有名店で販売されるチョコレートの特集、さらには健康や体型に悩む人のため健康にいいと評判のチョコレートを紹介していた。薄暗いニュースがはびこる中、明るい話題を提供しようと躍起になっていたのだ。
 バレンタインデーに女性から男性へとチョコレートを贈るという文化は、日本独特のものである。欧米では、主に男性から女性へ愛の言葉とともにプレゼントを贈ったり、プロポーズをしたりするものだ。草食系男子と揶揄されている日本男児から見たら、想像を絶するようなチャレンジをしている男子が世界にはたくさんいる。
 ちなみにアメリカでも、バレンタインデーは女性に気持ちを伝える絶好の日とされている。プレゼントはカードからはじまり、アクセサリーやジュエリー、花束にハート形のバルーン、豪華ディナーを用意したりと各のセンスが求められる。
 ここまで現状を振り返って、さてここでどうしようかと、秀一は頭を悩ませる。
 秀一はどちらかといえば、日本よりもアメリカ文化に親しんでいる。組織に潜入していた過去があるといっても、学生時代からアメリカで勉学に励み、グリーンカードやアメリカ国籍を取得してFBIに入局。仕事に見舞われ走り回ってきた。そんな忙しない日々の中、付き合っている女がいた時には周りの雰囲気に乗っかり、それなりのプレゼントを用意して相手を喜ばせたりもしたことがある。
 また、一時期FBI内でも日本文化を真似することが流行り、女性捜査官からチョコレートを渡されたことがあった。けれど、同僚に珈琲を奢るような感覚のそれは、巷で香り立つロマンと愛の空気が一切感じられないものであった。男性から女性へプレゼントを贈る文化に長く居た秀一自身、自分が贈られる側になったという、いつもとは違うという違和感は拭えなかった。
 そんな経験を持つ秀一も、今はアメリカではなく日本にいた。そして、普段は赤井秀一ではなく、東都大学の大学院生『沖矢昴』として生活している。
 『沖矢昴』は、研究の一貫で欧米の論文を読むことがあっても、根っからの日本人であり、日本文化を親しむ男である。日本で育ったこの男にとって、バレンタインデーは女性からチョコが貰えるかどうか、そわそわしていた日でもあったはずだ。
 これが、今の秀一を悩ませている問題なのである。いくら『沖矢昴』というカバーの人間を演じようにも、カレンダーの日付を見たり買い物先でチョコレートの陳列棚を眺めたりしながら、自分は今年チョコレートを貰えるのかとやきもきする気持ちにならなければならないのだ、本当は。しかし、秀一はその気持ちが湧かないため、チョコレートが貰える心配すらできないでいた。
 これはカバーの人間を演じきれていないということである。つまり、潜入捜査では絶対にあってはならないことだ。
 『沖矢昴』を再現できないのなら、どう振る舞えば違和感のない日本人男性を演じることができるのか。いざという時のことを想定して『沖矢昴』の交流関係は狭くしているので、せめて阿笠や少年探偵団、なまえの目を欺ければ済む話だったのだが……。
 ――なまえがあんなに張り切ってバレンタインの準備をしていなければ、こんなに振る舞い方一つに悩まなかったのかもしれない。
 なまえは二月十四日の一週間前から準備に取りかかっていた。
 車を出してほしいと彼女に頼まれ向かった大型スーパーでは、大量のチョコレートやバター、生クリーム等々、必要な材料をこれでもかというほど購入した。その日は一日荷物持ちに徹した。
 工藤邸に戻り、買い込んだものをキッチンに運び込んだ時、さり気なく誰に対して作るのか訊いてみた。
「弟の会社の人たちに贈るんです!」
 にこにこしながら返事をしたなまえに、会社の人はどれだけいるんだと本気で問いただしたくなってしまった。それほど買い込んだ量は多いのだ。
 なまえはその日以降、たびたび外出しては大量の包装紙やレターセットを買い込んで帰宅した。
 バレンタインに向けてせっせと準備を進めるなまえに、彼女自身が馴染み深いイタリアのバレンタインはどのように過ごすのか教えてもらった。
 なまえ曰く、イタリアでは日頃から女性に優しく接する紳士のような男たちが、この日ばかりはさらに気合を入れるらしい。
 妻や付き合っている女性など、愛する者のためにロマンチックなデートプランを練るのは大前提だとか。半年前からお洒落な店の予約と有給を勝ち取り、薔薇の花束やプレゼント用意して当日を迎える。もちろん、とびっきり甘い台詞も忘れない。
 プレゼントでもっともポピュラーなものは、薔薇の花だそうだ。薔薇は本数によって意味が異なるため、イタリアの花屋では赤い薔薇が飛ぶように売れるのだ。
 次に多いのが、下着である。なんでも赤色が人気だとか。それを聞いた瞬間、以前ハリケーンのごとくやってきた有希子が彼女の洋服を漁っていた時に見せてきた、あの赤い下着を思い出してしまった。友だちにもらったと話していたが、まさかバレンタインに贈られたものなのではと疑っていると、顔に出ていたらしくなまえが必死になって否定してきた。柄にもなく少しほっとしたのはここだけの話だ。
 続いて、アクセサリーやジュエリーなどの身につけることができるものが人気らしい。
 そしてこの次にようやく、日本の定番であるチョコレートがでてくる。イタリアにおいてチョコレートはあくまでもオマケ的な位置づけだそうだ。
「昴さん、バレンタインに興味津々ですね」
 ――いや、むしろ大量生産している君のチョコを貰う相手がどんな男なのかのほうが興味がある。
 そう口に出せないのは少し残念だが、仕方ない。
 チョコブラウニーを大量生産するなまえは、やはり日本独特のバレンタインに染まっているのだろうか。それなら自分も日本式のバレンタインにあやかり貰える可能性の低いチョコでも待とうと秀一は身の振りかたを決めた。
 そして、あっという間に時間は流れ、来たる二月十四日。
 事件は昼に起きた。
 昼食の片付けも終わり、それぞれやることに取り掛かろうとしていた矢先のこと。
 鳴り止まぬ玄関チャイムにパタパタと駆けていくなまえの背中を見送る。と見せかけて、相手が気になるので、気づかれないよう跡をつけて玄関からは見えないよう壁に隠れ、誰が来たのか盗み見る。
 現れたのは、大量のプレゼントと花束を抱えたスーツ姿の男たちだった。
「なまえ、ハッピーバレンタイン!」
「なまえさん、これ受け取ってください!」
「寿司も握ってきたっすよ!」
「つっくん! 隼人に武も! こんな朝早くからありがとう!」
 玄関先にいたのは三人の男だった。
 なまえよりも少し若い彼らは、はにかみながら敷居をまたいだ。
 銀髪と黒髪の男に挟まれている、なまえによく似た顔をした彼が弟なのだろう。まとう雰囲気がなまえにそっくりだった。
「あとこっちは、リボーンとかランボとか……ファミリーのみんなから。それに、雲雀さんからのも預かってきたよ」
「わあ……いつにも増していっぱいだあ」
「みんななまえさんと離れて寂しいんすよ」
「そういう獄寺もなまえさんいなくて寂しがってたよな」
「ああ!? 俺はメソメソなんかしてねえぞ。それはてめぇだろ野球馬鹿!」
 銀髪と黒髪が言い争いのようなじゃれあいのようなことをしているうちに、弟くんはプレゼントが邪魔にならないようになまえから少し離れた場所に運び込んでいた。最後にそっとプレゼントの上に花束を置く。
 なまえは賑やかな声を楽しみながら弟に礼を言うと、彼らに渡すプレゼントを手に取った。
「それじゃあこれは、三人に。あとのみんなのは……。ごめん、このダンボールに入ってるから各自渡しておいてもらえるかな? 手紙ついてるから誰宛のものなのかはわかると思う」
「わかった。必ず渡しておくね」
 プレゼントを受け取り礼を言った三人の両手は見事に塞がっていた。
「骸はどうするのって訊いてみたら、自分で渡しに行くって言うからさ。たぶんクロームと一緒に来るんじゃないかな。きっと犬とか千種の分も持ってくるよ」
「わかった。ありがとう」
 なまえのハグもらった三人はそれぞれ別れを言い、後ろ髪を引かれるように去っていった。
 暫くその場で貰ったプレゼントを整理していると、再び玄関チャイムが鳴った。 なまえは返事をしながら玄関を開ける。
「よっ、なまえ! 彼氏できたかー!?」
「ディーノ!」
 やって来たのはストリート風の格好をした金髪の男だった。どうやら生粋のイタリア人のようで、なまえに抱きつき頬や額にキスを落としていく。
 ――随分前にラーメン屋で話題になっていた男はまさかコイツじゃないのか?
 女子高生たちの話を思い出す。喫茶ポアロでなまえにキスをしまくっていたらしい外国人の男と、今彼女にそれをしている男は特徴がぴったりと当てはまる。
「Buon San Valentino! これは俺からと、あとファミリーから。そんでもってこっちはヴァリアーのヤツらから。預かってきたから渡しとくぜ」
「ありがとう! いっぱいだ……開けるの怖い……」
 なまえがプレゼントと花束を受け取っていると、突然にゅっと金髪の男の背中から気配もなく真っ白いものが現れた。
「やあなまえちゃん。相変わらず人気者だね」
「うわあお引き取り願えますかあ!」
「おっ白蘭。奇遇だな」
「やあ。まさかこんなところで会うなんてね。そんなことよりなまえちゃん。お引き取り願われないからね。はいコレ。Buon San Valentino! 僕と正ちゃんとその他大勢の愉快な仲間たちから」
「ありがとう! ……変なもの入ってないよね?」
「……さあ? 開けてからのお楽しみだよ」
「こわっ……」
 金髪の男よりも白い男の方がなまえの対応は大人しかった。過去なにかあったのかと首を傾げずにはいられないが、勘ぐり過ぎだろう。
 なまえは貰ったプレゼントを一旦床に置くと、これまた大量のプレゼントと花をそれぞれに渡した。
「はい、私から。ハッピーバレンタイン!」
「Grazie、なまえ!」
「ありがとー。今年はなあに? マシマロ?」
「開けてからのお楽しみ」
「残念。ネタバレ禁止かあ」
 その後、少しの間三人は立ち話をして別れの挨拶をした。
「じゃあななまえ」
「なまえちゃんまたね」
「みんなにもよろしくね」
 これまた両手が塞がった二人にハグをした後、手をひらひらと振って彼らを見送った。
 玄関がプレゼントであふれかえる中、玄関チャイムが鳴り響く。
 正直、まだやって来るのかと思わずにはいられなかった。
「おはようございます、なまえ」
「なまえ、おはよう」
「むっくん! クローム!」
 ――パイナップル……?
 次にやってきたのは、パイナップルを思い浮かべたくなるような髪型をした男女二人だった。なまえは飛びつくように二人に抱きつき、彼らもぎゅっと再会した喜びを噛みしめるように抱き締め返す。
「なまえ、Buon San Valentino!」
「いつもありがとう、なまえ」
「ありがとう! とっても嬉しい!」
 解放されたなまえはさっそく一輪の薔薇とプレゼントを二人から渡された。さらに彼らは持っていた紙袋を彼女の前に差し出す。
「こっちは犬と千種からです」
「……それからパンから」
「ありがとう!」
「……毎年のことだけど、すごい量だね」
 二人は玄関に置かれたプレゼントの量に目を丸くする。照れくさそうに笑うなまえに男の方が目尻を柔らかくした。
「本当は一番に渡しに来たかったのですが、準備に手間取ってしまってね」
「パンが用意してなくて急いで花屋に買いに行ってたの」
「そんな、順番なんて関係ないよ! でも早く渡そうと思ってくれて嬉しい。私も早く二人に渡したかったから……。はい、ハッピーバレンタイン!」
「ありがとうございます」
「ありがとう」
  なまえは二人へプレゼント、そして他の友人へのプレゼントを順に渡した。
「犬と千種、パンの分もあるから後で渡してね」
「……三人のチョコは僕が食べます」
「骸様ずるい。山分け」
「だめ。そう言うと思ってむっくんとクロームには皆よりも一個多く入ってるから、それで我慢して?」
 感極まった二人はなまえに抱きついた。
「なまえ……!」
「だいすき……!」
「私も大好きー!」
「クフフ……Ti auguro bouona fortuna(君の幸運を祈ってます)」
「私も」
「ふふっ嬉しい。Magari questo momento felice durasse per sempre!(この幸せが永遠に続きますように)」
 二人は名残惜しそうに体を離したが、晴れやかな顔でプレゼントを抱え去っていった。

   *

 秀一はその後、プレゼントをなまえの部屋に運び入れるのを手伝い、薔薇の花たちを持って場所をキッチンに移した。チョコレートの香りが漂っていた室内は一気に薔薇の香りで満たされる。
 丁寧に包装を外したなまえは頬に手を当て困ったように息を吐いた。
「どうしよう……花瓶あるかな」
「毎年、こんな感じなのかい?」
「はい。毎年こんな感じなんです、すみません。私はもう慣れっこですけど、昴さんびっくりしちゃいましたよね?」
「いや、まあ……それなりに」
 正直、とてつもなく驚いた。秀一がこれまで経験してきた、そして予想していたバレンタインと規模が全く違う。これほどプレゼントや薔薇の花を貰うなまえは本当に好かれているのだろう。
 返事に困り素直な感想をなんとか濁して伝えると、なまえは「その反応が普通ですよ」とおかしそうに笑った。
「もともと、お祭り騒ぎが大好きな人たちの集まりみたいなところなんです、弟の会社は。薔薇がすごい量になっちゃうから、一人一本にしてとか、花束にするなら本数あんまり多めにしないでってお願いしてあるんですけど……やっぱり、いっぱいになっちゃった」
 大量の赤い薔薇を大切そうに抱え照れくさそうにはにかむなまえは、額縁にはめ込まれた美術品のように神聖なものに見えた。脳内で天使のファンファーレが鳴り響く。
 ――いつか俺もなまえに薔薇を贈ろう。
 秀一はこっそり決意した。
 なまえはそんな秀一に気づくことなく、薔薇を一旦別の場所へ移し、さっそく花瓶を探し始めようとする。
「手伝おう」
「いいんですか? ありがとうございます! じゃあ、そっちの棚お願いできますか? 上の棚は高いから背伸びしないと難しくて」
 偶にしか使わない調理器具などは頭上にある棚にしまわれている。 なまえが時々背伸びをして必死に取ろうとしている後ろ姿を見るのを楽しみの一つにしているが、今日は多くの人々を相手にして気疲れしているだろうからと手伝いを申しでた。
 少しの間探していると、なまえが食器棚の一番下の奥底に花瓶を数個見つける。彼女は棚の前に膝をつき、棚の中に腕を突っ込んだ。いわゆる四つん這いになり、肘をついて猫が伸びをするように上半身を反らせている体勢で、棚に頭をぶつけないようにしなが花瓶を取ろうとしている。
 普段から些細な時になんとも言えない身構えをするなまえに何度理性を揺さぶられたことか。
 今だってそうだ。秀一はなまえに気づかれないよう溜め息を漏らす。彼女から目を離せばいいだけだろうという考えも浮かぶけれど、次いつチャンスが巡ってくるのかわからないのだから、一瞬一瞬の機会を逃さぬよう目に焼き付けておかなければと思ってしまうのは男の性だろう。
 必死に花瓶を取り出す様子を腕組みしたまま見守っていると、棚からすべて花瓶を出し終えたなまえがその体勢のまま振り返り、嬉しそうに見つけたことを報告してきた。
 なまえを相手にして不埒な思考に浸っていたことを正直に謝りたくなるほど晴れやかな笑顔だったが……。
 ――その姿勢はダメだろう……。
 秀一は思わず片手で両眼を覆い天井を見上げた。邪念を払うため、ものすごく煙草を吸いたかった。

   *

 大輪の薔薇を無事数個の花瓶に挿し終えたなまえは休憩と言わんばかりに椅子に腰掛ける。
 秀一も無事に煙草を吸っていつもの『沖矢昴』を取り戻した。
「プレゼントは開けないのかい?」
「あとでゆっくり開けようと思って。その前に、あの……やりたいこともあるので」
 なまえは立ち上がり、がさごそと物音を立てると両腕を見えないように背中に隠して近寄ってきた。
「はい、昴さん。ハッピーバレンタイン! まずはお花からプレゼントです!」
「……ありがとう」
 昴は目を丸くして差し出された花を受け取る。あんなに大量にプレゼントを用意していたのだ。まさか自分にまで用意しているとは想像もしていなかったため、思考が追いつかず素っ気ない返事になってしまった。
 嬉しくなかったのかとしゅんとするなまえに慌てて弁解する。
「いや、違う。人は驚くと言葉を失うというけれど、今、身をもって実感したよ。……まさか貰えると思っていなかったんだ。毎日準備に追われていて、あんなに多くのチョコを準備していたし。それに君はイタリア式のバレンタインに馴染んでいたようだったから」
「そんな、イタリア式も日本式も関係ないですよ! 昴さんには毎日お世話になってるから絶対用意しなきゃって思ってたんです」
  なまえは話しながら冷蔵庫に向かい、中から白い箱を取り出す。実は今朝からずっと気になっていたものだった。
 いたずらっ子のような顔でなまえは箱を開ける。顔を出したのは、チョコレートケーキだった。
「ブラウニーの大量生産に飽きちゃって。ちょうどチョコも余ってたから作ってみたんです。“余りもののチョコで”っていうのは格好つかないけど……。よかったら、昴さんに食べてほしいなあって」
 ――女神か?
 天使のファンファーレが再び脳内で流れだす。祝福の鐘の音まで聞こえてきた。
「ありがとう。すごく嬉しいよ」
「……! よかったあ」
 花が咲くように笑うなまえに心臓を鷲掴みにされた気分になる。
 感動に浸りつつも、そういえば……と秀一ははたと我に返った。
 なまえはチョコレートと一輪の花、そして手紙の三点をセットにしてプレゼントしいた。しかし貰ったものの中に手紙が見当たらない。
 ……手紙は貰えないのだろうか。少し残念に思う自分が可笑しかった。
「おや、僕に手紙はくれないのかい?」
 口から出た言葉は少し嫌味ったらしくて、言い終えた途端にやってしまったと下唇を噛む。貰えただけでもこの上ないほど嬉しいというのに、一度飴を与えられるともっともっとと望んでしまう。いけないことだ。
 心の中で反省していると、なまえは恥ずかしそうに両の指を弄りつつ、視線を泳がせて言葉を続けた。
「そのことなんですけど……あの、このあと昴さんの時間、少しだけ私にくれませんか?」
「は、」
「その、昴さんにはお手紙じゃなくて……。いろいろ、直接お話したいから……」
 ほんのりと赤く染まった頬と様子を伺うように上目遣いでこちらを気にするなまえを見た瞬間、
 パリンッ。
 なにかが割れる音がした。感傷に浸ったままゆるゆると足元を見ると、透明な破片が落ちている。
「す、昴さん!? メガネ割れてます!」
「……おや、気づかなかった」
「気づかないって……ええ? 嘘でしょ? なんで急に割れるの……? あっ、怪我とかしてませんか? 破片が眼に入ったりとかは!?」
 なまえの両手に頬を包まれ、顔をのぞき込まれる。心配そうに見つめられる中、秀一は思わずごくんと喉を鳴らした。
 ――次からはプラスチック製の眼鏡にしよう。
 いい雰囲気だったのに、突然なぜか眼鏡が割れてしまったことで甘い空気は霧散してしまう。しかし、これはこれで悪くないと秀一は悟られないようにしながら心の奥底で思った。
「よかった、大丈夫そうですね。昴さんの瞳、とっても綺麗だから傷ついちゃったらどうしようかと思いました……。気をつけてくださいね。見えなくなったらいやですよ」
 しばらくの間、顔をのぞき込んで外傷がないことを確認したなまえが心底安心そうに微笑むので、秀一の心のシャッターは連写を続けていた。
 その後、秀一はなまえが作った少年探偵団にあげるブラウニーを持って阿笠の家を訪ねた。彼らは放課後に工藤邸に寄り、なまえからチョコレートを貰うことを前もって元気に宣言していたのだ。
 なまえは今日一日手が離せないだろうから、代わりに阿笠から渡してくれと彼に頼み込む。するとなにかを察した阿笠はにやにやと唇を歪め「昴くんも悪よのう」と怪しくつぶやいたが、あいにく今は悪代官ごっこに付き合っている一瞬でさえ時間が惜しい。しかも、自分が言葉足らずなのがまずかったのか阿笠は大いに勘違いをしている。まあ悪い気分にはならないので否定はしない。
 ブラウニーを渡して根掘り葉掘り聞きたげな阿笠との会話を早々に切り上げて工藤邸に戻った。
 ――少しだけと言わず今日一日すべてなまえに捧げよう。
 玄関を開けると美味しそうな珈琲の香りが鼻腔をくすぐり自然と頬がゆるむ。キッチンに戻ると、ちょうどチョコレートケーキを切り分けて終わったなまえが笑顔で迎えてくれた。
 秀一は日本のバレンタインもやみつきになりそうだなと思いつつ、一ヶ月後はどんなお返しをしようかと早速考えを膨らませる。
 こうして誰にも邪魔されずに、秀一はなまえと楽しい一日を過ごすことに成功した。その裏では、工藤邸に押しかけようとする少年探偵団を引き止めた阿笠の全力のフォローがあったとかなかったとか。

17,02.14