Happy Whiteday!


 三月十四日。白と青の装飾が目立ち、一ヶ月ぶりに世間が浮き足立つホワイトデーである。
 ポアロではホワイトデー限定メニューの提供が最終日だった。バレンタインデー当日ほどではないものの、それなりに客足が見込めるだろうと予想できるのは簡単なことだ。そんな日に限って、ホワイトデー数日前に店主も梓も都合がつかず出勤できないことが発覚したのだ。バレンタインデーの店内の様子を思い出しながら、一人で回すのはさすがに難しいだろうと確信する。
 そこで透は二人に提案した。三月十四日のみ、一日アルバイトを採用するのはどうかと。店長は渋っていたが、梓は自分たちが出れないのだからそうするしかないとすぐに透の提案を飲んだ。しかし一日限定、さらに当日は忙しくなると予想されるため、指導している時間はほぼ皆無である。大々的にバイト募集を呼びかけるのではなく、知人に声を掛け協力を仰ぐほうがいいのではという意見がでた。また、ポアロの接客を熟知していそうな常連客である知人が好ましい。
 そこで白羽の矢がたったのが、なまえだった。彼女ならばポアロに足繁く通っていた時期もあるし、メニューも熟知している。それに頼まれたら断れない基質があることを零は知っていた。しかし、自分が頼めばなまえが首を縦に振らない可能性もある。そのため梓の口から頼むようお願いしたのだが、全てとんとん拍子に話が進んだ。
 そして三月十四日当日、無事になまえとともに業務を行い、先ほど閉店時間となったため店扉の外に掛けられた札を『closed』にひっくり返したのだった。
「バレンタインの日、どうして来てくれなかったんですか?」
 自分でも胡散臭いなと自覚するほどにこにことした笑顔を浮かべる。するとなまえは苦虫を潰したような顔になった。
「バレンタイン限定メニューも用意してたのになあ」
 わざとらしく残念そうに言うと、ますますなまえは顔をしかめた。
「……だって安室さん、他人が作ったものとか“なにが入っているかわからない”とか言って食べなさそうじゃないですか」
 ――へえ、よくわかってるじゃないか。
 予想外の言葉を投げかけられ透は眉をあげる。
 他人からの貰いもの、ましてや手作りのものなんてまっぴらごめんだ。職業柄、なにが入っているのかわからないものは口にすることができない。
 食材を買う時は必ず原材料に目を通すし、外食しなければならない時は、なるべくどこの農家から仕入れた野菜だとかという情報を載せている店を選んでいた。
 思い返せば一ヶ月前のバレンタインデーは、来店した客から貢ぎもののようにチョコレートと思わしきものを渡された。その度に申し訳なさげな笑みを浮かべ丁寧に断るという作業を一日中続けたため、ひどく疲れたことを覚えている。「安室さんがこの日入ってくれないと売上アップが見込めない」と梓から頼み込まれ、その日は組織に顔を出す予定がなかったから仕方なく引き受けたのだが、バイトが終わった後は欠勤すればよかったと後悔したものだ。
 客からチョコレートを受け取らないことに対して梓から何度も「もったいない」と言われたが、もし受け取ったらどうなるか。安室透という男ならば甘い笑顔を浮かべて受け取るのかもしれないが、そうすれば十中八九お返しと好意を期待するだろうというのは目に見えてわかっていた。見るからに高級だと思われるチョコレートを持ってくる客も多々いたが、正直そこに金を使うならばポアロに金を落としてくれた方が嬉しい。
 ポアロではチョコレートを貰わない姿勢を貫いたが、結局その日に一つだけチョコレートを貰った。突然深夜に呼び出しをくらい、送迎のお礼にとベルモットが渡してきたものだ。渡しながら「あなた意外とモテないのね」と屈辱的な挑発をされ、片眉と口の端を引っ吊り上げながら礼を述べた。そういうことはポアロでの惨状を見てから言ってほしいと文句を言いたくなったが、有名ブランドのチョコレートに免じて口をつぐんだ。
 ベルモットを送り終え帰宅したのは、朝刊を配達するバイクをちらちらと見かける時間帯だった。
 バレンタインデーを特別な日だとは思っていないが、こう周りが騒いでいると嫌でも自分もその雰囲気に飲まれそうになってしまう。なんだか踏んだり蹴ったりな日だったと一日を振り返りながら、貰ったチョコレートの包装をビリビリに破り口に放り込んだ。
 それもこれもすべて来店すると踏んでいた彼女が来なかったことが原因だ。口寂しくて仕方なく開けた冷蔵庫の中にあった安っぽいビールが少し早く回り始めた脳みそはそう結論を下す。
 沢田なまえ。心を掻き乱す存在。
 いつの間にかするりと心の隙間に入り込み、空っぽだった心の中を満たしてはぐるぐると感情を掻き乱しすぐに離れていってしまう人。
 なまえのことを一度考え始めると、彼女の巧みな話術や手腕、それに気づけぬ自分の落ち度と不甲斐なさがメリーゴーランドのように延々と頭の中を駆け巡る。
 ぐいっと半分ほど残っていたビールを一気飲みし、空になった缶をグシャッと握り潰した。
 ――仕返ししてやる。
 やられっぱなしは性にあわない。
 いつも手の上で転がされるように引っ掻き回され、ワルツを踊るようにひらりと交わしていなくなるなまえに対し、そう企むのは自然な流れだった。
 そんな決意をしたのが一ヶ月前である。
 自分が言葉を返さないため、先ほどの彼女との会話はすぐに終わってしまった。
 黙々とテーブルを拭くなまえに目をやる。
 さて、どうしてやろうか。
 接客はあまり経験が無いのではと思っていたが、いとも簡単に注文や会計を行われてしまい、挙げ句の果てには男性客のみならず女性客にも好感を与えていたなまえを思い出し複雑な気持ちが湧いてくる。
 これじゃあ仕返しではないじゃないか。もっとなまえを困らせたい。
 まるで好きな子に嫌がらせをする小学生のような思考だと自分を嘲笑いたくなるが、今日こそはいつものお返しにとなまえをぎゃふんと言わせてやろう。透は半ば躍起になっていた。
 洗った食器を片付け終えて手持ち無沙汰になっていると、視界の端でホワイトデー限定メニューとして提供したものの余りであるマシュマロが鎮座しているのを見つける。そうだ、後で片付けようとしていたんだっけ。
 零はあることを思いつき、マシュマロを一つつまんで、ちょうどテーブルを拭き終えたなまえの背後に近づいた。
「なまえさん」
「はい?」
 振り向いたなまえの唇にマシュマロをくっつけた。
「ハッピーホワイトデー」
「んっ……」
 おずおずと口を開けたなまえの中にマシュマロをゆっくりと押し込んだ。
 与えたのは一個だけなのに丁寧に食べるようにもぐもぐと小さく口を動かす姿が小動物のようで、飲み込むまでじっと見ていたけれど飽きることはなかった。
「なまえさんに日頃の感謝を込めて」
「……ありがとうございます」
「あれ? お嫌いでしたか?」
 思ったよりも大人しい反応に首を傾げて問いかけると、なまえは口元を片手で隠して視線を逸らした。
「マシュマロは、ちょっと……」
 ――意外だな。
 思わず眉を上げてしまう。
 ポアロで働く自分を含めた三人の中では『隠れ食いしん坊』と囁かれることがあるなまえが、まさかマシュマロを苦手としているなんて。
 なまえはまるで胸焼けを起こしているかのような表情を浮かべた。
「……十年後思い出すから」
「は? 十年……?」
「あっいや、昔マシュマロばっか食べてる男がいて、いい加減他のものも食べなよと思って、少し手を加えたようなマシュマロを使った料理を振舞ったら気に入られて軟禁状態が……悪化? しちゃったことがあって」
「軟禁!?」
「いや! あの、えっと……軟禁って言ってもそんな大したことないんですよ。三食マシュマロ食べようとしているのを死ぬ気で止めてご飯食べさせようとしたり、シャワー覗こうとしてくるのを死ぬ気で抵抗したり、ベッドの中でぎゅうぎゅうに抱き枕にされてじっと顔を見られているなか死ぬ気でそれを無視して眠ったりだとか」
「それもう犯罪じゃありませんか!? 死ぬ気だしすぎなんじゃ!?」
「留学中は毎食肉しか食べないような人の世話をしたことがあるのでそれよりかはマシ……だったようなそうじゃないような……? でも世の中、死ぬ気でやればある程度のことはクリアできるんです」
「そうは言っても……」
「……だから私も今こうしてお外に出られているんですから」
 くすぐったいような照れくさいような、春の木漏れ日を浴びているような表情をするなまえに口をつぐんだ。なんと返したらよいのかわからなくなってしまったからだ。
 遠い目をしながら当時の苦労ぶりを話していた時とは一変して昔を懐かしんでいるなまえに、まだまだ自分が知らない彼女がいることを思い知らされる。
「まあ、彼も今では落ち着いて? 自分の生活を送っているので。時々会いますけど元気ですよ」
「それって自分を軟禁した相手とですか!?」
 もうどこから突っ込んだらいいのかわからない。なんだこの人は。昔自分を軟禁した男と会っているだなんていつ犯罪に巻き込まれてもおかしくないんじゃないか?
 どうも彼女は聡明に見えるのに、どこか抜けているというか危機感が薄いというか、肝心なところでドジをしてしまいそうなタイプに思えてしまうことがある。
 なまえのこれからがとてつもなく不安だ。彼女の周りにいる人物はなんというか、個性的な人間しかいない気がする。随分前に梓から耳にタコができるほど聞かされた話では、ポアロにやってきた金髪の外国人に熱烈なキスや抱擁をさせられていたとか。先ほどの軟禁男といいその外国人といい、はたまた並盛の雲雀恭弥といい、どうなっているんだ彼女の周りは。
「……なまえさんの周りにいる男はみんなそんな感じなんですか?」
 つい気になって質問してしまった。ぽかんとしたなまえは首を傾げて考え始めた。
「んーそうですねえ……。安室さんの個性が霞むくらいには?」
「…………」
 これまで貴女はどんな道を歩んできたんですか。
 そう訊かずにはいられなかったが、にこにことしたなまえの笑顔がこれ以上はなにも聞くなと言っているように見えて透は閉口した。

   *

「あとは明日の仕込みだけですから、帰り支度をしていただいて構いませんよ」
「わかりました。お疲れさまです」
 片付けも終わりなまえの手伝いはもう必要ないと判断し、先に上がるよう伝えた。
 壁に掛けられた時計を見ると、もうすっかり女性が一人で出歩く時間ではなかった。やはり、家まで送っていくのが礼儀だろうか。一人で帰らせて危ない目にあったらと考えるだけで肝が冷える。
 なまえが一言も言わずに帰ることはないだろうけど、一応声を掛けておこう。
 零は一度手を洗いタオルで水分を拭き取ると、バックヤードに繋がる扉に向かった。
 バックヤードは倉庫兼事務所となっている。扉を開けると、まず左右には天井まで続く棚が設置されており、大小様々なダンボールが収納されていた。そこを真っ直ぐ奥まで歩いていくと裏口に差し掛かるのだが、右手には人ひとりが通れるほどの空間があり、のれんで隔てられていた。
 視線を下に落とすと、なまえが履いていたスニーカーが行儀よく置かれている。のれんから向こう側は事務所の役割の他、休憩スペースとしても使われていた。そこへは靴を脱いで座敷へ上がるような形となっており、畳が四畳分敷き詰められていた。
 そろそろ帰り支度も終わったところだろうと零は声を掛けようと、靴を脱いでなまえの横に揃える。
 のれんを潜り中に入った。
「なまえさ……」
「っ!? 安室さん!?」
「えっ」
 勢いよく振り返ったなまえは着替え中だった。上半身は下着のみで、下はボトムスを脱ぐ手前だったのかチャックを開けていた。
「あ、あむ……! 痛っ」
 なまえは驚きのあまり透の名前を呼びながら後退したが、背中を後ろの棚にぶつけてしまう。
 棚の上に絶妙なバランスで置かれていたダンボールが落ちてきそうだった。
「なまえさん!」
 零は咄嗟に動き、なまえをかばうように抱きしめて倒れ込んだ。
 なまえが頭を打たないよう自分の肩に顔を押し付ける。ほぼむき出しの背中を痛めないよう腕を回し、自身の腕がクッションの役割を担うようにした。
 倒れ込んで一秒後、背中に強い衝撃が走る。そして音を立ててダンボールが転がった。
「……なまえさん、大丈夫で」
 なまえの後頭部へ回した手を緩め、そっと床に頭を下ろすように手を離して彼女の顔の横へ置いた。顔上げてなまえを覗き込むよう距離を取った。しかし、
「す、か……」
 眼下に広がった光景に言葉をなくした。
 甘い菓子のようだった。生クリームのような肌。豊かに膨らんだ胸部は、金色の刺繍が施された真っ赤な果実のようにも思える下着に包まれていた。
 視線をそっと動かすと、細いウエストの先には開いたチャックの隙間から揃いの下着が垣間見えた。
「やっ……! 見ないで……」
 なまえは下着と同じくらいの色に顔を染める。透の視界を遮るように手を伸ばし、瑞々しい蒼い双眸を塞ごうとした。
「あ、安室さん上!」
「え? い"っ!」
 なまえの声に我に返った次の瞬間、頭に衝撃が走った。どうやら先程なまえがぶつかった衝動でバランスを崩したものが他にもあったようで、それが落ちてきたらしい。そして、ぶつかった頭は落ちてきたダンボールの勢いのまま下がる。
 すると、顔全体に広がる柔らかい感触がクッションのように零を受け止めた。不可抗力だったとはいえ、なまえの胸元に顔が埋まってしまったのだ。
 それだけではない。いつまでもこのままではさすがにつらいと、なまえの背中に回したままで下敷きとなっていた腕を引き抜こうとしていた矢先だった。予想していなかった頭への衝撃と顔全体に広がる甘い柔らかさに戸惑い、背中に回していた指先がなにかを捉える。途端に小さく弾けるような感触がした。
「だ、大丈夫……ですか?」
 次々と起こる現状に戸惑っていると、じんじんと鈍い痛みが走る箇所の周辺を数本の指先がそっと撫でるように触れられた。どうやらなまえは両手を使ってダンボールがぶつかった部分を確認しているようだったが、彼女が触れる度に透の顔は柔らかい胸にそっと押し付けられる。
「痛くないですか? 血はでてないみたいようなんですけど……」
 かすかに香る甘さに吸い寄せられるように少しだけ顔を動かすと、下着の刺繍部分が触れた。最初に顔を埋めてしまった時より顔に付着する面積が多いような気がして、目だけを動かして様子を確認すると、アンダーの部分が肌から浮き上がっている。
 男からしてみれば、胸を補正し美しく見せるためのものだとは理解していても、女性の下着は窮屈そうにしか思えないのが正直なところ。それがハプニングにより外されてしまったというのに、着用している本人は全く気づく気配はない。
 未だにぶつけた箇所をそっと撫でては「あっ、たんこぶになってきた」だなんて、もの珍しい現象を目の当たりしたかのように、少し嬉しそうにつぶやいているなまえに溜息をつきそうになる。
 ――この現状を理解していないのか?
 男として見られていないのか、それとも彼女に危機感がないだけなのか。
 どちらかはわからないけれど、なんだか面白くない。いや、随分素晴らしい状況下にいるのだけれど、見たいものはもっと違う表情を浮かべるなまえだ。
「すみませんなまえさん、あの……」
「っ! ん、そこで喋っちゃ……」
 谷間に唇をくっつけてもごもごと言葉だけの謝罪をすると、面白いくらいなまえの体は震えて触れている肌が熱を帯び始める。
 頭を撫でていたしなやかな指先が髪の毛をゆるく掴み、耐えるよう申し訳なさげに引っ張られた。倒れ込んでしまった時から既になまえが足の間に体を割り込ませたような状態にある自身の足を挟み込むようになまえのそれが擦り寄ってくる。
「っ……」
 この状況は非常にまずい。この場をどう切り抜けるかを冷静に頭の中で巡らせているのにも関わらず、その意思に反して下半身は徐々に熱を帯び血液を巡らせ始めている。
 落ち着け、静まれ。いつもの顔をして、謝罪をしてこの部屋から立ち去れば、穏便にこの現状を切り抜けられるのだ。
 とりあえず、このまま喋るとなまえの甘い声がダイレクトに身体に響いてしまうので、少し顔をずらして話せばいいだろうと首を捻るように横に向いた。それなのに。
「ひゃっ!」
「えっ」
「あ、だめっ、動いちゃだめ!」
 待て、俺はなにもしてない。
 顔を上げようとすると掴まれていた髪がぎゅっと引っぱられながら余計胸に押しつけられた。
 落ち着け、まずは状況を整理してみよう。顔を動かしたらなまえが反応したということは、動いたことによって何らかの刺激があったということ。今の彼女は押し倒されていて、さらには胸に顔を埋められていて、下着が外れて……。
 ――まさか。
 零は真相に気がつき、頬に熱がこもった。
 顔が押し付けられているから今はそうでもないといっても、ホックが外れてしまった下着は定位置にそのままぴったりとくっついているわけでもなく、少し浮いた状態だ。さらには、なまえが身じろいだり零を押しつけたり、はたまた零が顔を動かしたことで下着は心なしか徐々に定位置から上がってきてる気がする。
 つまり、顔を動かしたことにより、赤い果実のような下着のその下に隠れている、多分同じくらい美味しそうな胸の中心を下着の内側が掠めたんじゃないか。
 ――なんだ、なんだなんだこれは。
 ハプニング続きで冷静沈着で探り屋な自分はどこかに隠れてしまった。下着に隠れるそこを、自分の下にある柔らかくてきっと甘いであろう身体をさらけだしてみたくなる。
 薄く開いた唇から熱のこもった吐息が漏れる。顔を動かし、鼻先で下着を動かすと面白いくらい自分の下にある身体は跳ね上がった。
「んぅ、あっ……や、安室さん」
「……なまえさん、あの」
「っ、はい?」
「気づいてないでしょうけど、ブラのホック……外れちゃってますよ」
「ん、え……?」
 まるで幼児が母親の体に顔をぐりぐりと擦りつけるようになまえの胸元を堪能しながら囁く。この先に進みたい自分と、こんなところで彼女に迫ってはいけないという思考がぶつかり合い、結局おこぼれをもらうように少々なまえの甘さを楽しみながら忠告した。
「うそ、うそうそっ、なんで!?」
 視線のみでなまえの様子を伺っていると赤い顔のまま涙を浮かべて首を動かした彼女と目が合った。
「さっき僕の頭にダンボールが当たった際、背中に回していた腕を引き抜こうとした時だったんで、ちょうど指先が当たってしまったらしく……」
 事の成り行きを聞いたなまえはますます顔を赤く染め、今にも泣き出しそうになった。
 どう反応したらいいのかわからず困ったような笑みを浮かべたが、実際心の中では困り半分焦り半分というところだ。
 このままではまずい。これからどうしよう。
 とりあえず、上から退くのが一番良いかと身体を引こうとすると、頭の上に触れていたなまえの手がガッと潰す勢いで両頬を挟んだ。そしてそのままぐいっと引っぱられ、あまりの強引さに一瞬目を瞑る。瞼をあげると、なまえの潤んだ顔が目と鼻の先にあった。
「見ちゃだめ。動いちゃだめ。絶対だめ」
「は?」
「ーっ! 察して!」
「っま、まさか」
「見、る、な!」
 視線のみ動かして確認しようとすると両頬を強い力で挟まれる。
 なまえの言葉と泣き顔から察するに、下着がずれてしまったおかげで、ギリギリのところまで見てそうになっているか、既に見えてしまっているかの状態なんだろう。
 なんだ、なんなんだこの状況は。
「どっ、どうするんですか。いい加減この体勢だと僕もつらくなってくるんですけど」
「我慢してください! 見られたらお嫁に行けない!」
「責任とって僕が貰ってあげましょうか?」
「なに馬鹿な事言ってんですか! そんな冗談言うくらいならまだ耐えられます!」
「いや、本当にまずいんですって。見てください。腕、ぷるぷるしてるの見えませんか?」
「安室さんの顔しか見えない!」
 なまえの顔の両脇で身体を支えている腕は、いくら日々鍛えているとはいえ、いつまでもこの体勢というのも。
 まさに“据え膳”的な展開である。
 目を瞑れば、先ほど味わった豊かな胸の感触とあたたかさ、そして女性特有の甘い香りを鮮明に思い出して嫌というほど下半身に熱がこもってしまう。
 上半身でなければ動かしても大丈夫だろうか。わかりやすく主張してしまいそうな下腹部をなまえから遠ざけるために、互いの身体の間に空間をつくろうと試みる。膝をぐっと前に押し出して、背中を丸めようとしたその時だった。
「っぁ、ん……!」
「!?」
 これまでよりも高い声で啼いたなまえにびくんと肩が震えた。
「や、安室さん、動いちゃ……」
 ――やってしまった。
 零はとてつもなく後悔した。自分の身を守るために体勢を立て直そうと動いたのに、結局自分を追い詰めることとなってしまった。
 零の膝に当たってしまっていたのは、なまえの身体の中心だった。
 数センチほどしか離れていないなまえの顔は上気した頬にとろんとした瞳で、か細く息が上がっている。
「すみませんなまえさん!」
 必死に謝ろうと少しだけ顔を近づけると膝も一緒に動いてしまい、さらに刺激してしまった。
「ひぅ……! はっ、ぁ……動いかないで……」
「えっ……ちょ、はあ!?」
 なまえの足が腰に絡みついてきた。なまえからしてみれば、零が動かないようになれば良いのだろうと、とろける脳内で考えたのかもしれない。だがこんなの逆効果に決まってる。
「あの……なまえさん。非常にまずいんですけど」
「安室さん、こそ……ぃ、いじわるしないで」
 ――“いじわる”って……! 意地悪で片付けられる行為なのか!?
 零はぎゅっと目を瞑ってなまえに問いかける。
「知ってます? 僕男なんですけど」
「知ってる、から……。どうにかして……」
「どうにかって言われても……」
 さっきまではなまえから膝を離せばいいだけの話だった。しかし、今はなまえの足が腰に絡みついているため、下半身は自然と彼女の身体に引き寄せられている。さらにはなまえの細い腰は少し浮き上がっていて一層強く足を絡めてこようとするから動くに動けない。
「なまえさん、まずこの足を退けてくれませんか?」
「そしたら安室さん意地悪するからやだ!」
 この短時間でわかったこと。なまえは想定外のことが起きたりすると敬語が姿を消す。
 そんなことを心のノートにメモしながら、頭では打開策を必死に考えていた。
「このままだとなまえさんが自分で自分に意地悪してることになるんですけど……」
「あっ、ほら! 動こうとして……んっ、ぁ……!」
「っ……だから! 絡みつかないでくださいってば!」
「そ、したら……安室さん動くし、見えちゃうじゃないですか!」
 零は目を伏せて息を吐いた。
 ――埒が明かない。
 これはなまえとの攻防に見せかけて実のところ自身の理性と本能のぶつかりあいだ。
 深呼吸を一つして、なまえをまっすぐと見つめた。
「なまえさん、まずは起き上がりませんか?」
「……見えちゃう」
「ですから、この体勢を保ったまま二人同時に起き上がるんです」
「ん……? どういう……」
「なまえさんは僕に抱きついてください。足もこのままでいいです。僕が一応合図をします。そうしたら、僕が下でなまえさんが上になるように、一旦ごろんと寝転がります。そこからなまえさんの前が見えないように起き上がって座りますから」
 人ひとりをある意味抱えながら起き上がるのは想像しがたかったが、一度寝転んで起き上がれば上手くいくだろう。説明しながらも必死に頭の中でシュミレーションを続けた。
「ぎゅっと抱きついてくれれば見えませんよ。寝転がる時、足に気をつけて」
「……わかりました」
 なまえも決心を固めたらしい。
 できることならベッドの上でこの体勢になりたかった。ついそんなことを思ってしまいながらも零は思考を切り替える。
「いきますよ。せーのっ」
 ぎゅっと抱きついてきたのを確認してから、零はごろんと横に寝転がり自分が下になると、両腕と両脚にぐっと力を入れて身体を起こしてそのまま尻餅をつくように座り込んだ。
 すると、胡座を組んだ零の上に、なまえが座りながら抱きついている状態になった。
「……見てません?」
「見てません。起き上がることに必死でしたから」
 嘘。本当は少しチラ見した。でも自分の胸板にくっついて形を変えている胸しか見えなかった。なんてことは口が裂けても言えない。
 とりあえず第一段階は突破したと長く意思を吐く。なまえも現状に進展があったことに安堵したのか、少しだけ強ばっていた身体から力が抜けたのがわかった。
「さて、これからどうしますか」
「……安室さんがえっちなことしないようにしたいです」
「なっ……! しませんよ!」
「うそ! その気がないならなんであんなことしたんですか!」
「あれは不可抗力ですってば!」
 抱き合ったまま口喧嘩をする二人は傍から見たら痴話喧嘩をしているようにしか見えるのだろうか。それともこんな場所でやるなと言われるか。どちらにせよ、この場に第三者が現れることはまずないだろう。
「……とりあえず、ホックとめたい、です」
「じゃあ離れますか」
「そうしたら絶対安室さん見るもん」
「見ません。目を瞑ってます」
「目開けるかもしれないじゃないですか!」
「じゃあ手で見えないようにします」
「指の隙間から見るかもしれない!」
「僕そんなに信用ありませんか!?」
「ない!」
 即答で断言されてしまい、さらには返せる言葉もなくぐっと顎を引いた。
 せっかく体勢を変えるところまで行き着いたのだから、この調子でとんとん拍子に進んでほしい。
 これからどうしようかと考えを導き出していると、豆電球がパッとついたようになまえが声を漏らした。
「あ! じゃあ……安室さんに留めてもらえばいいのかな」
「はあ!? どう考えたらその結論に行き着くんですか!?」
 名案だと思っているのが声の明るさからにじみ出ているなまえに突っ込まずにはいられない。
「このままの体勢で、安室さんがホック留めるんです。安室さんが背中以外見えないように、私抱きついたままで」
 名案だろうと耳元で笑うのはやめてくれ。
「……本当にそれでいいんですか?」
「見られるよりましです」
「見たって減るもんじゃないでしょう」
「羞恥心と安室さんのえっちな思考力は確実に上がります」
「なっ! 羞恥心は置いておいて僕は上がりません!」
 ぼそっと「嘘つき」という声が聞こえ、まさか気づかれたのかと思い焦りそうになる。
「……じゃあ、留めますからね」
「はい」
 どうしてこう、自分が優位な立場に立っているはずなのにいつの間にかなまえのペースに巻き込まれているんだろう。彼女のなにが自分を狂わせるのかわからなくて、答えがでないそれに関して段々と苛立ちが生まれてくる。
 そうだ、思い出せ。もともと仕返ししてやると考えていたんだ。
「えっ、待ってなんでそんなとこまで触……んっ」
「ちゃんと胸の下にアンダーがきてないと苦しいでしょう?」
 背中にだらんと疲れた翼のようになっていた下着を少し引っ張ると、このままホックを留めれば明らかに定位置で留まっていない状態になってしまいそうだった。そのため零は、指を滑らせるようになまえの胸の下まで下着を持つ部分を移動させ、きちんと収まりが良いように調整した。
「そういうっ、微調整は、私がやりますから! 安室さんは留めるだけでいいの!」
「トップの上で留まっちゃってもいいんですか?」
「よくない……けど、でも!」
「この方法でいくって決めたんですから我慢してください」
「うう……安室さんからトップとかアンダーとか聞きたくなかった……」
 ちらりと視線をずらして見た印象、見栄え的に収まりが良くなった気がする。時々触れる、指先が吸い込まれるような柔らかさに目を細めつつ、もたもたやっているとまた彼女のペースに引きずり込まれると自分を律して下着を留めることに集中した。
「はい、できました」
 終了の合図に、抱きついていた腕がゆるゆると離れてそっと胸板を押される。互いの間に隙間が生まれた。
「うぅ……ありがとうございます」
「がんばりましたね」
 これまで起きたことへの羞恥心が一気に訪れたらしく、両手で顔を覆って俯いたなまえの頭を慰めるようにぽんぽんと撫でる。
 ――頑張ったなあ、俺。
 むしろ頑張ったのは自分の方だと思ったが、誰も褒めてくれないため心の中で自分を褒めた。
 バタンッ!
 突然店の方から空気を裂くように大きな音がした。
 俯いていたなまえがびくりと肩を震わせて顔を上げる。なにがあったのかと互いに視線で会話をするがここからでは店内の様子を確認することができない。
「僕が見てくるのでなまえさんはここにいて」
「で、でも安室さん」
「大丈夫」
 胸元を掴んで縋るように見上げてくるなまえの肩を安心させるように撫でる。剥き出しの白い肩にワインレッドのストラップが映えてひどく煽情的に見えた。
「こんなところで女性を襲うなんて最低ですね」
「なっ……!?」
「昴さん!?」
 いつの間にそこにいたのか。やって来たのは、沖矢昴だった。
 なまえは驚きながらも零の足の上から退いて隣へ座った。
「もう少し分別のある方だと思っていましたが、やはり君も低俗な男と同じということか」
 店からの音が聞こえてきた以降まったく気配を感じなかった。この男は気配を消してここまできたというのか。
「大丈夫ですかなまえさん。何もされてないかい?」
 ひたりひたりと近寄ってきた昴は、なまえに話しかけながら目線を合わせるように膝をつき、自分が着ていたジャケットを脱いで彼女の肩に掛けてあげた。
 なまえはジャケットを受け入れ、前部分引き寄せながら腕を通す。
「…………」
「……安室、さん?」
 黙り込んで視線を逸らすなまえに、昴は口元だけ笑みを浮かべ名前を呼んできた。なまえに話しかけたものとは正反対の声音だ。
「いやいやいや! なにも無かったです! 未遂ですから!」
「未遂? 未遂なのにどうして彼女が下着姿なんですか? というか、未遂とは?」
 じわりじわりと距離を詰めてくる昴に後退りしたくなるがプライドが許さないためその場で身の潔白を話しながら睨みつける。というか、膝をついたまま近づかれてもなにも怖くないしむしろその姿が可笑しくて笑いそうになってしまう。
「とっ、トラブルはありましたけど! なんにも、そんなことは、本当全然なかったです!」
 自分が黙ってたために透が責められてると考えたなまえは、落ちてくるダンボールから庇ってもらったこと、倒れ込んだ時にハプニングが起きたこと、いろいろあったけれど透に助けられて今があることを昴に聞かせた。
 心の中でいいぞいいぞもっとやれと思ってしまったのはここだけの秘密だ。
 昴はなまえの必死な説明に折れたらしく、長いため息をついてなまえに身体を向けた。
「事情はわかりました。……それにしてもなまえさん、それは僕のためにつけてくれたのかな?」
「え?」
「その下着、勝負下着なんだろう?」
「は!?」
「ち、ちがっ! ……これは! 今日っ、たまたまなだけでそういうわけじゃ……!」
 勝負下着という言葉に思わず声を上げてしまった。普段お淑やかな姿が見られる彼女の勝負下着がこんなにギャップにくるというか、いい意味でイメージを裏切るものだとは。
 なまえは貸してもらったジャケットを前に引き寄せて胸元を隠しながら昴の言葉を否定した。
 勝負下着というのが本当のようにも見えるし、昴がなまえにカマをかけたようにも見える。真相がわからず零は一人取り残されたように思えてきてヤキモキした。
 その間、昴は置きっぱなしだったなまえの荷物を探して彼女に渡していた。
「残念。てっきり期待していいのかと」
「なっ、はあ……!?」
 バッと音がするくらいの勢いでなまえは昴に顔を向けた。彼女の混乱した反応に昴はほくそ笑む。
 その笑顔が無性に腹立つのはなぜだろう。
「着替えておいで。予約した時間になってしまう」
「っ! は、はい!」
 なまえは荷物を持って逃げるようにトイレへと向かった。
 なまえが完全にこのバックヤードから出て行ったのを確認してから昴は口を開けた。
「……彼女がなにもないと言っていたので、それを信用しますよ」
「てっきり、殴るくらいはするかと思いましたよ」
「良いものが見れたからおあいこですよ」
「……それはそれは。こちらこそ」
 この男と二人きりになるだなんて。零は顔をしかめそうになるのを必死で耐えていた。
 というか、なぜこの男はここにいるんだ。帰りが遅いから迎えに来たのだろうか。いや待て、さっき予約がどうとか言っていなかったか。
 予約とはまさか……と考えを導き出していると、昴は心を読んだように話しかけてきた。
「今日はホワイトデーですからね。バレンタインのお返しに、ドライブがてら夕食を食べに行こうかと」
「へ、へえ……そうなんですか」
「ああ。安室さんは彼女から貰ってなかったんでしたね。なんかすみません、自慢みたいになっちゃって」
 ――腹立つ。
 これが俗に言うドヤ顔か。思わず舌打ちをしそうになってしまう。しかもなぜ俺が彼女からバレンタインのチョコを貰っていないことを知っているんだ。
 この男の一挙手一投足が癇に障る。
「お待たせしました!」
 化粧室から戻ってきたなまえはワンピースに身を包んでいた。髪も化粧も整われていて、バイト姿とはかけ離れた女性らしいやわらかさと可憐さが感じられた。
「よく似合ってる」
「あ、ありがとうございます……。ジャケットお返しします」
 甘ったるい声でなまえを褒める昴の声と、恥ずかしそうに俯きながら礼を言うなまえの姿に、自然と眉間に皺が寄った。
「さあ、行こうかなまえ」
 わざとらしく昴はなまえの名を呼び捨てにして肩を抱き、なぜか裏口ではなく店扉へ向かった。しかもさり気なく彼女の荷物を持つというオプションつきだ。
 零はなまえの見送りをするために二人の後ろを距離を置いて歩く。
 外に出る数歩手前でなまえは昴に肩を抱かれたまま振り返った。
「あ、安室さん! 今日はお疲れさまでした、おやすみなさい!」
 歩きながらも挨拶をするなまえに俺は上手く笑えていただろうか。
「それでは、お邪魔しました」
 扉が閉まる瞬間、振り向いてニヤリと笑う昴の顔が忘れられない。
 暫くするとエンジン音が聞こえてきた。どうやらポアロの前に車を停めていたらしい。
 車が走り去る音を聞いていると、一つの疑問が浮かんだ。
 ――そういえば、店扉は施錠したはずなのになぜ開いているんだ?
 昴が鍵を開けた動作は見られなかった。扉に近づき見てみると、無理矢理こじ開けたように鍵が壊れていた。
「あの男蹴り飛ばしたのか……」
 修理代はきっと自分が払うんだろうなと零は何回目かもわからぬ長い息を吐く。今日一番の大きい溜息だった。

17,03.14