Pesce d'aprile


 エイプリルフール。それは、四月一日の午前中は軽いいたずらで嘘をついたり、人をからかったりしても許されるという風潮のこと。
 エイプリルフールの起源は全く不明である。起源説はいくつか存在するが、いずれも確証がないことから仮説の域に過ぎないとされている。その一つに、フランスのグレゴリオ暦採用にまつわるエピソードがある。
 フランスでは新年を四月一日として祭りを開催していたが、一五六四年に国王シャルル九世によって、一月一日を新年とするグレゴリオ歴が採用された。これに反発した人々が四月一日を「嘘の新年」として馬鹿騒ぎをはじめたという。
 日本では、大正時代に西洋から伝わり風習が広まったとされている。

   * * *

「ったく……」
 コナンは一人悪態をつき、重い溜息を吐いた。
 今日は土曜日のため小学校の授業は休み。一日何をして過ごそうかと考えていたのに、珍しく少年探偵団の皆とは予定が合わず、さらには阿笠も学会、蘭も部活に行ってしまっていた。家にいるとしても録画したミステリードラマは見飽きてしまったし、本を読む気分ではない。事務所にいる小五郎と一緒にいるのも疲れるだけだと思い、コナンは外に出たのだった。
 そういえば、こうやって一人で米花をうろつくのも久しぶりな気がするとコナンは振り返る。外に出る時はほとんど少年探偵団や蘭たちと一緒だったし、そうでなくても事件に巻き込まれれば警察関係者をはじめ、時には昴や透といった切れ者と行動していた。
 ――そうだ。 なまえさんのところにでも行こうかな。
 実家である工藤の家に昴と共同生活をしているなまえには本を貸してもらったり、彼女が海外に行ったときはミステリー本を買ってきてもらったりしている。小学一年生が海外のミステリー本を読むことについて、普通だったら疑問を抱くはずなのになにも追及したりせずに快く話に付き合ってくれる。ただの天然なのかと思えばそうではなく、恐ろしいほどに勘が鋭くて、彼女に見つめられるとすべてを見透かされてしまいそうになる。
 不思議な人だよなあとなまえのことを考えながら実家に向けて歩き始めようと方向転換した時だ。
 視界の端を、なにかが横切った。
「っ!?」
 コナンは勢い良く振り返る。頭の中には警報が鳴り響いていた。
 ぞくりと背中に這い上がる違和感。なんだ、なんだこの感覚は。久しく感じてなかった悪寒は、コナンの心拍を速めるには充分すぎる素材だった。
 周囲を見渡し、時には右に左にと走り進んで息が上がってきた頃、ついにコナンは見つけた。
「なっ……!?」
 ――ジン!?
 コナンの視線の先には、お馴染みの黒いコートに黒いハットを被ったジンが立っていた。
 ――どうしてジンがこんなところに!? ウォッカは……いないのか。
 ジンの周囲を注意深く観察してみたけれど、いつも連れ添っているウォッカがいない。どうやら一人で行動しているようだった。
「とりあえず、あの人に連絡しねえと……!」
 咄嗟に思い浮かんだ顔は二つ。どちらも組織に潜入捜査として潜り込んだ経験がある、いざという時に頼りになる男だ。
 ジンに気づかれないように後を追いつつ、手早く連絡を入れる。
 コナンが連絡してから暫くして、昴と透は飛ぶように現れた。
「昴さん、安室さん! こっち!」
 ジンと充分距離を保ちつつ物陰に隠れて尾行していたコナンに倣うように昴と透はコナンの傍に駆け寄った。
「状況は?」
「目的地は特にないみたいなんだ。時々考え込むように立ち止まったり、周りをきょろきょろ見回したりして……」
「ふむ……」
 コナンは昴の質問に答えるが、ジンの様子を盗み見ていてわかったことは少ない。
 透ならなにか知っているだろうとコナンは話しかけた。
「安室さん、どうしてジンが米花に?」
「今日彼はここに来る予定はなかったはずですが……」
「相変わらず趣味の悪いハットだな」
「年中無休でニット帽被ってるお前に言われたくないだろ」
「おや、誰のことですかねえ」
 ――おいおい、こんな時に口喧嘩してる場合じゃねえぞ。
 顔を合わせれば痴話喧嘩にも似た言い争いが始まるお決まりの展開になり、コナンは溜め息を吐く。喧嘩するほど仲がいいと言うけれど、この二人のためにある言葉なんじゃないのか?
 いつまでたっても売り言葉に買い言葉を繰り返す昴と透にコナンはここに呼んだことを少しだけ後悔した。
「あっ動いた! 行くよ!」
 コナンは二人に一応声を掛けてから地面を蹴る。
 後ろから慌てて追いかけてくる気配を感じて溜め息を漏らした。

 ジンは当ても無くふらふらと米花中を歩き回った。どこかの店に入るというわけではなく、手にしている端末を見ながらうろうろと徘徊している。
「危害を加えようという気ではないということか?」
「わかりません。下見という可能性も……」
 透は途中で話を続けるのを止めた。ポケットから携帯を取り出すと眉間に皺を寄せる。
「っ、すみません」
「呼び出しか」
「ええ。……あとは頼みます」
 なにかあったら後々連絡を入れることを約束し合い、透は足早に去っていった。
「昴さん、ジンはいったい」
「ターゲットを探しているとも考えられるが……そうだとしてもあの格好はないだろう」
 ジンのあの格好は通常運転なんだろうか。コナンが見かけるジンはいつも黒ずくめだ。
 そういえばとコナンは思い出す。トロピカルランドで怪しい取引をしているところを見かける前にジェットコースターで起きた殺人事件。あの時ジンとウォッカは乗客に紛れ込んでいたが、我が道を貫くように全身黒く染まっていた。
 ――やっぱり赤井さんもあの格好は“ない”と思ってたんだな。いやでも、赤井さんも他人のことが言えないような……。
 記憶の中にいる赤井秀一も黒い服を着ている姿しか見覚えがない。沖矢昴の時は首元を隠さなければいけないとはいえ、赤井秀一の時とは全く違ってバリエーション豊かな姿を見せてくれている。
 ――ああそうだ、 なまえさんが服選んでんだっけか。
 随分前に、買い物に行くからと荷物持ちだと思って着いていったら、自分の服を選ばれたと話していたっけ。
 いけないいけない。こんなこと考えていたらジンの姿を見失ってしまう。集中しろ。
 コナンはふるふると首を振って考えを吹き飛ばす。気を取り直してジンの観察に努めようとした。
「あれ……?」
「どうしたボウヤ」
 コナンは良く知る姿を見かけて声を漏らした。
「昴さんあれ見て!」
「ん? ……!」
 現れたのはなまえだった。
 コナンが差した指の先にいたなまえは真っ直ぐにジンの元へ向かっていく。
「なまえさんジンと知り合いだったの!?」
「いや、そんなまさか。有り得ない。……と思いたいところだが……」
 なまえの交流関係は幅広く、友人や知人は日本人にとどまらず海を超える。留学経験があるためか、なまえの知り合いは特にイタリア人が多く、その中には日本ではあまり見かけない髪色をした者もいる。
 コナンや昴、そして現在ここにいない透はなまえの全てを知っているわけではない。むしろ、未だに知らないことの方が多すぎる。
 ――もし、なまえがジンと知り合っていたとしたら……。
 そんなこと、あるはずがない。しかし、真実を裏付ける根拠はない。けれど。
 ――彼女をジンに近づけたらいけない!
「なまえさん!」
 コナンは物陰から身を乗り出してなまえの名を叫ぶ。
 その時だった。
「う゛お゛ぉ゛お゛お゛お゛い!」
「っ!?」
 突然大声を挙げたジンにコナンは飛び上がるほどの衝撃を受ける。念のためにと昴が自分の後ろにコナンを隠した。
 ジンは被っていた帽子を思い切り地面に叩きつけた。
「お゛い゛なまえ! ピカチュウいねえじゃねえか! 米花にいるっつったから任務速攻終わらせて来たんだぞお゛!?」
 男はスマホを持ちながらなまえを指さした。
「スクアーロちゃんと探したのー? 私すぐピカチュウゲットしちゃったんだぜー?」
 長い髪を乱しながら訴える男に、なまえは楽しそうに笑いながら主人公の決め台詞を模して返事をした。
 ――なんだあれ。
「じ、ジンじゃ……」
「ないな……」
 確かに黒い服に身を包み長い銀髪をなびかせていたけれど、帽子をとったら別人だった。そもそも、ジンはあんなに怒鳴り散らさない、大声もださない。
「ボウヤの早とちりだったというわけだ」
「昴さんもジンだと思ってたでしょ……それに安室さんだって勘違いしてた」
 潜入捜査のために組織に入りジンとも交流した経験がある二人が気づけなかったのなら自分が気づけなくて当然だと負け惜しみをするような気持ちを込めてコナンは話したが、一方で見分けがつかなかった自分に腹をたてているのも事実だった。
 しかもなんだよ。ピカチュウって。じゃあ手元の端末を見てたのはゲームをしてたってことかよ。
「ゴウやり始めたらあのクソボスもモンスター捕まえる次いでに任務行くかと思ったのによお"! 結局俺がアイツの分までゲットしてんだぞお"!」
「あららー、作戦隊長失敗しちゃったのかー。クオリティー維持するの頑張ってねー」
 見るからに日本人ではないのに違和感のない日本語を喋る男の正体が気になるところだが、考えようとするとその場によく響く男の声が思考の働きを妨げてしまう。
「つーかなんだこの帽子は!? 邪魔くせえんだよ!」
「スクアーロの髪目立つからさ、日光できらきら光ってピカチュウ眩しいかなーと思って」
「んだその理由!? 被せたかっただけだろう゛!?」
「あはははははは。綺麗な空だなー」
「あ゙っ!? コラ待てなまえ!」
 道のど真ん中でそんな会話をした二人は、追いかけっこをするようにいなくなった。
「……昴さん」
「……帰ろうか」
 胸に残るのは喪失感。
「ほんと、なまえさんの知り合いって……」
「変なやつしかいないな」
 ――変な人しかいねえな。
 昴の声とコナンの心の声が被さり、二人して大きな溜息をついた。

   *

 その日の夜。時刻は日付を跨ごうとしていた。
 昼間コナンたちと別れベルモットの呼び出しに駆けつけ、恒例になった運転手役を終えた透は、そのまま組織が所有するアジトの一つであるホテルにいた。
 透は昼間の光景が忘れられずにいた。
 あのジンが、ウォッカも連れないで一人米花を宛もなくうろつくだなんて。ジンが生産性のない行動をするとは思えない。
 透は俯いていた顔を上げた。現在室内にいるのはウォッカのみ。先程までジンとベルモットがいたのだが、込み合った話でもあるらしく退出していった。
 ――チャンスは今しかない。
 さり気なく探りを入れてみようと、透は息を吸った。
「ねえウォッカ。今日、ジンは米花に来ました?」
「ああ? なんだバーボン急にそんなこと聞いて」
「いえね、昼頃、米花で姿を見かけたものですから。何か用事でもあったのかと思って」
「アニキが米花に……? 何言ってんだ。アニキは今日ずっと杯戸でメタモン探ししてたぜえ」
「は?」
「なんだバーボン、ポケモンゴウ知らねえのか? アニキなんてもう伝説のポケモン以外ほとんど集め終わってんだぜ!」
「……は?」
 ウォッカの言葉に耳を疑っていると、噂をすればなんとやら、ガチャリと扉が開きジンが携帯片手に戻ってきた。
「ウォッカ、卵が孵ったぞ」
「うおおおマジですかいアニキ!? 見せてくだせえ!」
 ――いったいなにが起こってるんだ。
 「ピチューじゃねえですかい! さすがですぜアニキ!」「フンッまあな」と忠犬と飼い主のような会話をするウォッカとジンに途方に暮れてしまった。
「あら? ……なに、またやってるのあの二人」
 ベルモットがウイスキーを持ってやって来る。「飽きないわねえ」とこぼしながらグラスを傾けた。
 ――嘘だろ。
 あのジンが? 疑わしきは罰せよと言いつつNOCという名のネズミがこの組織に野放しにされていることにすら気づけてないあのジンが、バーチャルゲームのネズミの卵を孵化させてる?
 理解に苦しむ透を見てベルモットはにんまりと笑みを浮かべ、「ジンは配信された時からやってるわよ」と別に必要もない情報を教えてきた。
「……僕、帰ってもいいですか」
 透は呆れてそれ以上の言葉が出なかった。

17,04.01