きらきらと終わる


 夢を見た。
 真っ暗闇の中、前を走る者を追いかけても追いかけても、たどり着けない夢。腕を精一杯伸ばしても空ぶってしまい相手には届かず、その手は空気と悔しさを握るだけ。
 そっちへ行ってはいけないと、ただひたすら走り続けて伝えようとした。あちら側へ向かわせてはならないと、本能が告げていたのだ。
 髪をなびかせながら去っていく姿はどこか見覚えがあって、名前を呼んで足を止めさせようとした。しかし、名前がでてこない。知っているはずなのに、喉で名前が突っかかっているように口からはただ荒い吐息しかでてこなかった。
 それだけではない。声が出ないのだ。全ての音がかき消されてしまったような無音の世界では、なに一つ音が生まれてこなかった。
 音がない世界はこれほど心臓を脈打たせるのか。
 そう実感するほど、闇の中にぽつんと浮かび上がる相手と自分だけがいるその世界は異質だった。それは、小さな頃ひとりで留守番をした時のような不安に押しつぶされそうな気持ちと、初めて人に銃を向けて人差し指に力を込めた時の心も身体も押しつぶされそうになった切迫した状況に似ていた。
 これは夢だ。夢は覚めればここから抜けだせる。覚めたらきっと、もう二度とこの夢とは出会わないだろう。
 しかし、夢から覚める方法なんて、これまで生きてきた中で教えられたことも自身で獲得したこともない。
 秀一は試しに瞼を閉じた。目を瞑ればそのまま意識は浮上するのではないかという考えからの行動だったが、結果は変わらなかった。
 どうすれば覚めるんだろうか。
 ゲームのように、なにかを成し遂げれば報酬として目が覚めるだろうか。そうならば、この夢の中で俺はなにを成し遂げればいいのか。
 考え込んで俯き加減になっていた顔を上げると、先ほどまで走っていたアイツが、こちらをじっと見つめてくるように立ち止まっていた。
 俺の顔が向いたことに気づいたヤツは、口元で微笑んで、ついてこいと言わんばかりに走り出した。
 ――どうやらアイツを捕まえないかぎり、この夢から醒めないらしい。
 本能のまま闇雲に追いかけていた時よりも冷静になった脳は正常な働きを取り戻しつつあった。
 秀一はふっと息を吐くと集中するように一度瞳を閉じてから追いかけ始めた。
 音のない世界は時間の感覚さえ失っていった。
 どのくらいの間、自分の前を駆けていく相手と追いかけっこをしていたかわからない。アイツは時折こちらを振り向いては茶化すようにその場で立ち止まってみたり、ふわりとその場で回って俺が追いついてくるのを待ってみたりしていた。
 ――完全に弄ばれている。
 溜息が漏れるけれど、アイツを捕まえない限り夢から覚めないと気づいたからには、時間をかけてでも追いかけなければならない。夢の中でどんなに時間を過ごしても、現実の世界で夢を見ている時間はほんの少しの間なのだから、なにも心配することはない。けれど、この異様な世界に居続けるのは遠慮したい。
 そろそろ終わりにしよう。腹をくくって正面を向くと、突然ヤツはワルツを踊るようにくるりとその場で回ってこちらに振り返った。
 暗闇の中ぼんやりと浮かび上がる姿は顔の判別は難しく、かろうじて口元が理解できるくらいだ。
 唇が音もなく、一つずつ音がわかるようにゆっくりと動いた。
 ――さようなら。
「――ッ!」
 そしてまた、走り去っていく。今度はこちらの様子を伺うこともなく、真っ直ぐと暗闇に向かって。
 声を上げることができない。待ってくれ、そっちへ行くなと伝えることができない。
 もどかしさを抱えているとぐらりと視界が揺れた。ああ、目が覚めるのかと直感で理解する。
 かすむ視界の先で、走っていく後ろ姿が見えた。

 あの女はいったい、誰なんだろう。

   * * *

 なまえの様子がおかしい。
 それに気づいたのは、コナンが誘拐されて車で追いかけた翌日だった。
 なまえは他人と話す時はきちんと相手の目を見て話をしていたのに、それが一度も合わなかったのだ。
 なまえの調子が悪くなる前日、母と出かけると言っていたから、そこで何かあったのかと思いそれとなく聞いてみても「楽しかったですよ」と静かに笑うだけで終わってしまう。その笑みも見慣れないものだから、彼女らしくないなんて思ってしまった。
 ――俺がなにかしてしまっただろうか。
 誘拐事件の夜、帰ってきてからソファに寝転んだらそのまま寝落ちてしまい、目を覚ました時にはもう朝だった。ソファの上で伸びをするとブランケットが落ちて、肩の上まで掛けられていたことを知った。そんなことしてくれる人物は一人しかいない。
 その張本人であるなまえは食事時以外、極力部屋に篭っていた。新しい仕事が入ったと話していたから、仕事に集中しているのだろうと思ったけれど、あからさまに接触を拒まれているのは一目瞭然だった。
 原因はわからずしまい。タバコの量は増えた。
 二日間そんなことが続いた翌日、出かけてくると言って家を出たなまえは、夕方頃に紙袋をたくさん肩や肘にかけて帰ってきた。
「久しぶりに、ゆっくり友だちと買い物したり出来ました」
 そう話したなまえは、憑き物がとれたような表情を浮かべていた。
 ――ああ、良かった。
 なまえの様子に、心から安心したのを覚えている。
 その晩は、数日ぶりになまえの声が心地よく聞こえる夕食だった。ゆっくりと食事を口に運びつつ、同じテンポで友人の話を聞かせてくれた。
「ごめんなさい」
「ん?」
「ここ二日、三日……変な態度、とったりして」
 突然の謝罪に首を傾げると、少しだけ瞳を左右に揺らしながらゆっくりと言葉を区切りなまえは語った。
「いや、気にしてないよ。新しい仕事も入ったといっていたし、時々出掛けていたから忙しくて疲れてるのかと思っていたから」
 気にしていないと言えば嘘になるが、ここで拍車をかけるような言葉をかけてしまえば逆戻りになってしまうのではと不安がよぎった。秀一は瞬時に当たり障りない返事を練って唇に乗せたのだ。
「でも、少し元気になったようで安心した」
 けれど、最後におまけのようについてでた言葉は、するりと口から滑りでた言葉だった。
 案の定、なまえはピタリと動きを止めた。それを見て、ああやってしまったと心の中で舌打ちをする。気にしてないと言った直後に安心しただなんて。これじゃ矛盾しているじゃないか。
 秀一は落ちてきた眼鏡を指で定位置に戻し、小さく深呼吸をして思考回路を切り替えた。
「なにか、できることはあるかい?」
「え?」
 なにかしてあげたかった。
 なまえが友人に助けられて元気を取り戻したんだろうということはすぐに見通せた。彼女が再び以前に近い状態に戻れたことは喜ばしいことなのに、なんだか蚊帳の外にされたと感じる自分がいた。
「君のおかげで暮らし始めた頃と比べればだいぶ日常生活に板がついてきた。朝食を変わりに作ってもいい。それ以外にも君がやっている家事は変われる」
 真っ直ぐに見つめながら少し早口調で話すと、炎が揺らめくように瞳が動いた。
「そ、そんな……! 大丈夫です、このままでも! 全然、負担じゃないですから」
「俺ができることなら、君に協力したいんだ」
 なんでも言ってくれと付け加えてテーブルに身を乗り出すようになまえの顔を覗き込む。
 なまえは追い詰められたようにそっぽを向いた。
 ――ああ、また逸らされた。
 まなざしが交わることがないというのは、これほど胸が苦しくなることなんだと、彼女と出会ってから、最近になって初めて知ったのだ。
 なまえはたっぷりと時間をかけて、唇を開いた。
「……じゃあ、」
 俯いた前髪の奥で一瞬ぎゅっと瞼を閉じたなまえは、笑顔をつくる練習をするようにゆっくりと口角を引き上げる。
「動物園、行きたいです。……一緒に」
 顔を上げて哀しそうに笑うなまえに、呆気にとられた秀一はそのまま無言で首を縦に振ることしか出来なかった。

   * 

 どんよりとした曇り空に雨の心配をしたが、『午後になると風が強くなり青空が見える』という天気予報を信じて折り畳み傘は持たずに家を出た。
 車を走らせて一時間ほどで動物園に到着した。
 入場ゲートの近くでチケットを大人二人分をまとめて購入すると、なまえは自分のチケットは自分で払うと言ってきた。自分のわがままを聞いてくれたんだからそこまで甘えられないと。男に見栄をはらせてくれとそれとなくやんわりと伝えると、渋々だがなまえは納得した。
 口ではそう言ったが、なまえのために自分もなにかしてあげたいという気持ちがほとんどを占めていた。そして、ほんの少しだけ、彼女になにかしてあげたという目に見える証拠が欲しかった。
 入場ゲートを潜る。ただ屋根の下を通っただけなのに別世界に迷い込んだような空気に酔いしれそうになった。
 動物園なんていつぶりだと記憶を遡っていると、隣では感嘆の声が漏れていた。
「どこから行こうかな……!」
 なまえは動物とパンフレットに視線を行ったり来たりさせながら、プランを練ろうとしていた。
「動物、好きなのかい?」
 明るくなったなまえに内心驚きながらも声を掛ける。するとバッと効果音がつきそうなくらい勢いよく体を向けてきた。
「とっても! ……やっぱり最初見るならライオンかな? でもカンガルーも見たいし、フクロウも見たいし……! ハリネズミ触れたりするのかなあ。あれ、もしかしてここにはいない?」
 パンフレットを隅々までよく読み込みながらお目当ての動物がどこにいるのか確認をしている。饒舌になったことに目を丸くしていると、それに気づいたなまえが我に返ったように顔を上げた。
「あっ、ごめんなさい年甲斐もなくはしゃいじゃって……! うわ、恥ずかしい……」
「いや、そんなこと関係ないさ。少女のようで可愛かったよ」
「っ……」
 素直な感想を伝えると、なまえは今まで大事そうに見ていたパンフレットで顔を隠した。思い切り両手でパンフレットの端を握りしめているためシワができてしまっている。甘そうな髪色の隙間からほんのり赤くなっている耳が覗いて、少し気分が上がった。
「さあ、行こうか」
 背中をほんの少し押すようにして促すと、なまえはおずおずとパンフレットから顔を出してこくんと頷いた。

 結局、パンフレットに記載されているおすすめルート順に回ることにした。
 なまえはこれまで動物と触れ合う経験が多かったらしく、園内を巡りながら友人が飼っている動物について教えてくれた。秋田犬や燕にはじまり、ミンクや梟の他にカンガルーに馬、それにライオンまで飼っているらしい。まるで動物園じゃないかと思ったが、一人が複数の動物を飼育しているというわけではなく、一匹ずつの飼い主は別人らしい。いったい飼い主はどんな生活をしているのかという疑問は絶えなかったが、なまえが目尻を柔らかくしながら友人の動物の性格や愛らしいところを話すから、別にいいかと訊く気持ちは失せてしまった。
 最近あまり見なかったキラキラと輝く瞳を真近で見ることができて、自然と頬は緩んだ。
 昼食は、今朝なまえが「お弁当です」と作っていたバケットサンドをベンチに座って二人で食べた。
 食べ始めてから、随分前、ピアノの話をした時に食べた朝食と同じだということに気づき、そういえばと前置きをして話を振ってみる。すると、一瞬ぴたりと動きを止めた後に「さすがですね」と照れくさそうに返された。
 その時のことを思い出しながらあの頃からもうだいぶ経つのかと呟くと、「ピアノ、だいぶ上達したでしょう?」と褒められるのを待つ子どものような顔を向けてきたので、「あんなに贅沢な起床が毎日味わえるなんて幸せ者だ」と答えると「それはよかった」と微笑んだ。
 昼食後は午前中よりもゆったりとした足取りで園内を見て回った。
 自分も彼女も、時計を見ることは一切なかった。
 時刻を確認せずに進むのは、これまで捜査官として忙しない日々を送っていた昔を思い返せばありえないことだった。やるべき事があるとはいえ、突然時間に拘束されない日々を過ごすようになった初めの頃は、きっと沖矢昴という人間を持て余し、手持ちぶたさになっていただろう。しかし、なまえが現れて、沖矢昴に、そして自分自身に色がついていった。
 なまえの隣で見る景色はなぜか一等強く輝いていて初めて見た時は眩しいこともあったけれど、今ではとても心地好くてあたたかくくて、それらを肌や空気、心で感じることが日常になっていた。
 だからだろうか、今日ここに来てよかったと、素直にそう思えるのは。
 大きな橋を渡り終えると、なまえはとある場所を指差して振り返った。
「昴さん、ここ! ここ行きましょ!」
 なまえの跡に続きふれあい広場と看板が飾ってあった場に足を踏み入れると、兎が数十匹放し飼いされていた。小銭を払うと餌やりをすることもできるらしく、さっそくなまえは餌を買って兎と戯れ始める。
 秀一は広場の隅に設置されているベンチに移動して座り、なまえを眺めることにした。
 兎たちは人に慣れているらしく、なまえの手から餌をもらい、頬を膨らませながら忙しなく歯を動かしていた。
 なまえが膝をついて兎を優しく抱き上げると、まだ餌を持っていることに気づいた他の兎が彼女の周りに寄ってきた。まんべんなく行き渡るように餌を与え終えても兎は彼女から離れることなくそのまま居座っている。
 なまえは動物に好かれやすい体質なんだろう。友人が飼っている動物の話をしてくれた時にそうかもしれないと思っていたが、予想は的中したらしい。
 秀一はふと思いたったように、両手の親指と人差し指で横長の長方形をつくり、なまえを中に閉じ込めた。たったそれだけで、指の中の景色はより一層ときらきらとして見える気がした。試しに指をそのままの形を保ったまま腕を上げて空を見上げてみる。風が吹いてきたこともあり、雲の隙間から少しだけ青空がちらちらと見えていたが、それでも指の中の色は輝くこともなく、灰色に埋め尽くされていた。
 なるほど、と理由もなく心の中でつぶやき、もう一度彼女を絵画にしようと腕を動かそうとした時、轟音とともに歌を奏でるような甲高い音をたてて風が吹いた。
 舞い上がった砂が目に入らないように片腕で覆い、風向きとは逆方向を向いてぎゅっと目を瞑る。
「なまえさん?」
 強風がおさまり、周囲を見回した。けれど、さっきまで視界の端に捉えていたなまえが見当たらない。
 立ち上がって広場全体をぐるりと見たが、なまえの姿はどこにもいなかった。
「っ……」
 妙に胸の中がざわつき、秀一はその場を飛びだした。
 広場を出てなまえの姿を探すが、どこにも見当たらない。ならば、広場を離れて別の場所へ移動したのか。
「……クソッ」
 ――どこに行った。なぜなにも言わずに居なくなるんだ。
 風に攫われただなんてそんな馬鹿なことあるわけがない。
 秀一は走り回った。向かい風が行く手を拒むように体にぶつかってくる。
 走って、過ぎ去る人を目で確認して、立ち止まって、ぐるりと辺りを見回して、また走る。
 柄にもなく息が上がった。おかしいな、アメリカにいる時でさえこんなにすぐ呼吸が乱れることなんてなかったのに。
 膝に手を置いて体を屈め、足元を見ながら冷静さを取り戻そうとする。こめかみに汗が流れた。
 ――なにをやっているんだ俺は。
 自嘲気味な笑いがこぼれ、額に触れて前髪を掻き上げるのと一緒に姿勢を正し、前を向いた。
「……!」
 目の前に広がる光景に、目を奪われた。
 雲の隙間から太陽の光が筋になり地上に降り注ぐ。その光のもとに、なまえの後ろ姿があったのだ。
「っ……」
 喉の奥が焼けるように熱くなる。
 なまえは展示柵の前にぽつんと一人立ち、キリンを見上げていた。
「……見つけた」
 焦る気持ちを乗せた足がどんどん動き、大股で歩き始めたのが、気づくと小走りになっていた。
 近づくたびに、降りそそぐ光がいっそう白く、そして淡くなまえを照らしている。
「なまえ!」
 名前を呼び腕を引っ張った。
 振り返ったなまえの双眸に、自分の顔が映っていた。
 なんて情けない顔なんだろう。いつも居るはずの姿が見えなくなった切なさと寂しさと、探しても見つからない苦しさと焦燥感、どうして一瞬でも目を離してしまったんだという自分への腹立たしさ。それら全ての感情が混ざり合いぐちゃぐちゃになっていたのが、ようやっと見つけた喜びと嬉しさと安堵感に包まれ、気持ち悪さから解放されたような、そんな顔をしていた。
 そんな俺でも真っ直ぐに見つめてくれるなまえが、心から美しいと思った。
 突然腕を引っ張られたなまえはバランスを崩す。いつか見た夢では捕まえられなかったぬくもりを、秀一は逃がさないように力強く抱き締めた。
 胸元から息を呑んだ音が聞こえた。
「――よかった……探したぞ」
 触れあって伝わってくるぬくもりに安堵し、どっと緊張が抜けていく。ゆるゆるとなまえの肩に額を擦り付けて、彼女の香りを感じながら呼吸を整えた。
「……ごめん、なさい」
 吐息のように透き通った声が聞こえて肩から頭をあげると、そっと胸を押される。顔を覗き込もうとしたが、目を合わせることを避けるようになまえは俯いたまま二、三歩歩離れ、キリンを見上げた。
「昴さんは、動物園にいる動物と野生で生きる動物、どっちが幸せだと思いますか?」
 突然の問いになにも返せずにいると、なまえはこちらの様子を気にもとめずに話を続けた。
「小学生の時、国語の授業で動物に関する物語を教材として扱ったんです。授業のねらいが『討論会をする』というので、『野生の動物と動物園にいる動物、どっちが幸せなのか?』っていう議題を設定して、クラスで討論しました」
 なまえの弟絡みではない昔話を聞くのはこれが初めてだった。
 秀一は話の裏側に潜む真意を探ろうとしつつ話に耳を傾ける。
「そこでは、それぞれの環境下に置かれた動物が経験するであろうメリットとデメリットについてまず挙げられました。
 野生の動物は天敵から自分で身を守って食事も自分で狩りをして得なければならないけれど、家族や群れで行動することができるし、人工的でない自然の環境に身を置くことができる。
 一方、動物園にいる動物は安全も食事も保証されている。でも家族と離れ離れになって園にやってきて、場合によっては一匹で檻や展示柵の中にいなきゃいけない」
 仲睦まじく動物を見て回る家族連れや男女が多い中、自分たちの周りだけ世界が切り離されてしまったかのように空気が違っていた。
 特に、なまえだけはここに存在するようでひどくあやふやな存在に思えた。
「動物園にいる動物の中には、絶滅危惧種に指定されている希少価値の高いものもいる。中には数が圧倒的に減ったために自然界にいる動物を売買して動物園に入れることは禁止された種もあるとか」
 感情にまかせて、先程探して見つけ出した時は腕を引っ張って強く抱き締めてしまったのに。彼女のあたたかな体温を感じたというのに。
「いつの間にか名前を与えられて、突然全く違う環境にやってきてしまった動物は……幸せなのかな」
 風に吹かれたら消えてしまいそうなくらいの声は、今のなまえを表しているようだった。
 ――なにか、なにか掛けてやれる言葉はないんだろうか。
 彼女の真意は未だにわからない。けれど、わからないなりにフォローしてやれることがあるはずだ。
 秀一は口を薄く開けたり閉じたりを数回繰り返した後、声を舌の上に乗せた。
「たとえ突然連れてこられたとしても、そこに慕ってくれる人物いて愛着関係を築くことができれば、それは幸せにつながることなんじゃないか」
「えっ……」
「動物は過去を振り返らないと聞いたことがある。常に前を向いて生きていくんだともね」
 なまえは初めて食べるものを恐る恐る口に入れ、時間をかけて味うように言葉を飲み込んだ。
「……じゃあ、残された家族は? 群れで行動していた一匹が突然いなくなったとして、その群れの動物たちは悲しまずに生きていくんですか?」
 過去を振り返らないってそういうことでしょう?
 なまえはこちらを見上げながら悲痛な声で尋ねてきた。
 脅えたような不安に押しつぶされそうな瞳を真っ直ぐに見つめ返す。
 なまえの話を聞いているうちに、これは例え話なんだと気づいた。けれど、彼女が嘘を言っているということではない。授業の話は事実だろうし、野生動物や飼育動物が置かれる環境下の特徴についての話は、彼女自身がそれらを見つめて気づき感じとった事柄だろう。
 動物が好きといっても、話をしている時に見せた表情は目の前に展示されているキリンではなく、もっと遠く。目に見えないなにかを見つめていた。
「過去に囚われる生き物は、人間しかいない」
 なまえは目を見開き、唇を震わせた。
「な、んで……」
 ――わかるさ、今の話が誰かを思い浮かべながら話していることくらい。
 そんな思いを込めて口元を緩めた。言葉にしなくても、きっと彼女はこの少しの動作だけで気づくだろう。
「それでも、誰かが傍にいれば……」
 なまえの双眸から視線を外し、足元を見つめた。
 普段一人で行動することが多い自分が、誰かが傍にいることについて説くだなんてと自嘲気味になる。けれど、頭の中では自分が今まで交流があった者の中で、死んでいった人々について思いだされていた。
 天命をまっとうした者、殉職した者、不慮の事故や病に伏せて亡くなった者。そして……。
 瞼を下ろすと眉間に皺が寄った。
 最後に思い出したのは、馬鹿な女のことだった。けれど、本当は違う。彼女はそうではない。言葉では“馬鹿な女”と口に出しながらも、それは自分に対して馬鹿だと言い続けていたのと同じだった。
 もう姿形はなくなってしまったけれど、自分の心に住みついてしまった親しい彼らから学んだこと。そして、なまえと過ごして気づいたこと。
「一人じゃなければ、幸せに繋がる道は開けているんじゃないか……と、俺は思う」
 キリンを見上げて考えを表したあと、隣を向いてなまえを見つめる。瞳の奥で一瞬炎が揺らめいたようだった。
 視線が交じりあった後、なまえは視線を左右に泳がせながら俯いた。服の裾をぎゅっと握り、小さく息を吸った。
「……もし」
 ぽつりと零れた小さな言葉に、全神経を集中させた。続く言葉はわからないけれど、きっと耳を澄ましていなければ聞き取れないくらいの大きさだろう。
 我慢比べのように二人の間には沈黙が生まれた。
 互いの呼吸音が聞こえてきそうだなと思い始めた時、なまえはふっと息を吐き、首を横に振った。
「いいえ、なんでもないです」
 口元に笑みを浮かべ、背を向けて歩き始めた。
 しばらく呆気に取られていた秀一はなまえとの間に距離ができていることに気づき、我に返って跡を追い始める。
「昴さん」
 少しだけ歩いたところで名前を呼ばれ、足を止めた。
 なまえはふわりと舞うように振り返る。
「ありがとう」
「…………」
 言葉を失った。夢で見た光景と似ていたからだ。
 それは、なにに対しての礼なんだ?
 なぜだか別れの挨拶のようにも聞こえて胸が軋む。
 ――彼女の瞳を通して見た景色は、どのように映るのだろうか。
 そんなことを考えたことがあると、ふと思い出した。
 両手を目の高さまであげて、前を歩くなまえを再び指でつくった額縁に押し込めた。
 ――お前はいったいなにを……。
 いつかこのまま、なまえは光り輝きそのまま消えてしまうのではないか。そんなことがふと頭をよぎり、ぞっと背中をなにかが駆け上がる。
 空はいつの間にか、青い絵の具をぶちまけたような雲ひとつない大きな空が広がっていた。

   * * *

 出逢わなければ。意味の無いことを考えた。
 ビアンキに話を聞いてもらったあの日。自分の口からするすると出てくる言葉は、声に出すことで心の中にあったものがくっきりと輪郭を帯びるようになっていき、自分でも気づいていなかった気持ちを気づかせた。
 どうして好きになってしまったんだろう。その言葉ばかり頭の中に浮かんできて、胸がどうしようもなく苦しくなった。導き出せない答えを探すのはもうやめたけれど、そうしたら今度は、ふとした時に胸の中が詰まるほどいっぱいになって、幸せな切なさをこれでもかというほど味わった。
 昨日だってそうだ。
 どうしようもなく不安定だった二日間を経て、ビアンキ、そして彼女が呼んだ恭弥やディーノと過ごしたおかげで気持ちが楽になり、以前と比べたらまだ空気が堅苦しかっただろうけれど、夕食時はきちんとした会話をすることができた。
『なにか、できることはあるかい?』
 彼のその言葉に息が止まりそうになった。失礼な態度を取ってしまったのに謝罪を受け入れ、あまつさえできることはないか、だなんて。
 気を遣って家事を引き受けると言ってくれたけれど、お前はもう必要ないと言われているようで胸が苦しくなった。
 ――やだ、取らないで。
 それらは私が唯一、あなたにしてあげられること。駄駄を捏ねる子どもみたいだと、自室に戻ってから自嘲したものだ。
 そして今日。我が儘を二つの返事で飲み込んでくれた彼の車に乗ってやって来た動物園。
 きっと会話の流れで口にした言葉なのに、まるで自分にだけ掛けられた特別な意味が込められたもののように思えてしまった。ずっと違う違うと言い聞かせたのに、顔には熱が集まってしまい、すぐに顔色を戻すこともできなくてパンフレットで顔を隠した。身長差があるからきっと赤くなっていることくらい気づいたはずなのに、そこに突っ込むこともなく先へと促した行為に救われた反面、一人で舞い上がってしまったことがひどく恥ずかしく思えた。
 ゆったりとした足どりに合わせるように時が刻まれていた。おかげで意識してしまいそうな心は落ち着きを取り戻し、今までのようないつも通りの対応ができた気がする。
 でも、“いつも”は終わりを迎えた。
『なまえ!』
 勝手に傍を離れた私を、息を切らして探しに来てくれた。
 ――なんでそんな顔をするの。どうして走ってきてくれたの。
『よかった……探したぞ』
 ――なぜそんなに、優しい声で抱きしめてくれるの。
 あの時、涙が流れなくて本当によかった。
 抱き締められて息が止まってしまうんじゃないかというほど苦しくなった。でも、無意識に求めていたぬくもりを味わってしまい、思わずあの大きな背中に腕を回してしまいそうになった。伸びる指先をぎゅっとまるめて手の中に隠し、必死になって堪えた。
 気を抜いてしまったらすぐにでも堰を切ったように泣きじゃくってしまいそうで、必死に頭を回転させてわざと視線と話題を逸らした。
 ビアンキの言葉が思い出される。
『一度まっさらな状態で向き合って、それからどうするか決めなさい』
 ねえ、ビアンキ。やっぱり私は無理だよ。あなたは応援してくれたけど、臆病な私は今すぐにでも逃げたくなってしまうよ。
 そう思い込むたびに、力強い言葉が頭の中に響く。
『大丈夫。なまえなら、きっと』
 本当は出会ってはいけないのに、それでも貴女はこの好意が素晴らしいことだと、素敵なことだというの。こんな私でも想いを抱いてもいいというの。
 あの時、私を探しに走って来て名前を呼んでくれた彼の瞳は、間違いなく秀一のものだった。
 ぎゅっと目を瞑って車の窓硝子に額をすり寄せる。
 帰路についた車内はラジオが流れているだけで、彼との間には特に会話はなかった。
 ――動物園にいる動物と野生で生きる動物、どっちが幸せだと思いますか?
「……っ」
 馬鹿だ。馬鹿すぎる。なんであんなことを言ってしまったんだろう。
 原因はわかっていた。あの夜、寝言で彼女の名前を聞いたからだ。
 私のわがままで拾った命は、幸せなのか。遺された人々はどうなるのか。ずっと自分の中で抱えてきた思いを、直接ではないといえ、あんな昔話をしながら思い浮かべて話してしまうだなんて。
 やはり、彼は気づいた。その内容が、動物ではなく人間を指していたことに。
 きっと彼は、赤井秀一は、私がどこの誰なのかということも、貴方と出会ってはいけない理由もそのうち導きだしてしまうんだろう。
 下唇をぎゅっと噛むと頬に一筋涙が伝った。こうでもしてなければ、嗚咽がこみ上げてきそうだった。
 ――出逢わなければ、触れあわなければ、こんな気持ち、抱かずに済んだのに。
 それでも、もう、どうしようもないのだ。

 この気持ちをどうするかだなんて、答えはもう、最初から決まっていたのだ。

17,04.09 title:まばたき