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『月明かりが闇夜を照らす頃、一等星の輝きを頂きに参上する  怪盗キッド』

   * * *

 天井を見上げると眩しいくらい大きなシャンデリアが輝いていた。
 会場内の食事は立食タイプで、小さな丸いテーブルが一定の感覚で置かれている。会場の中央に二箇所、それから壁に沿うように各料理を提供するブースが並んでおり、コックが姿勢よく佇んでいた。美味しそうな匂いにつられて右や左に顔を動かすと、着飾った出席者が続々と入場している。
 今夜、この会場に展示されるものをキッドが盗むという予告状が、展覧会の主催者に届けられた。
 コナンたちは次郎吉の誘いと園子の計らいにより、老舗百貨店が主催する宝石展覧会のオープニングセレモニーに出席していた。
「わー! すごーい!」
「あるもの全てが豪華です!」
「美味そうなもんばっかだぜ! うな重あるかな!?」
「アンタたち走らないの!」
 普段では決してお目にかかることのできない高級ホテルの宴会場に、子どもたちはこみ上げてくる興奮を隠せないでいた。
 今日はこの場にあった服装をしなければならないということで、皆ドレスコードに乗っ取った格好をしていた。そのためさらに気分が上がっているのだろう。
 米花からの出席者は、コナンに蘭と小五郎。園子と少年探偵団である元太と光彦、そして歩美だった。
「哀ちゃんも来ればよかったのにねー」
「仕方ないですよ、博士がぎっくり腰になっちゃったんですから」
「博士も馬鹿だよなー」
 いつも保護者として付き添ってくれる博士はぎっくり腰になってしまい自宅療養、哀は介抱するため、二人は今日来ていなかった。
 これまで、園子の計らいによって様々な場所に足を運び貴重な体験をしてきたことも多々あるが、誰に似たのか好奇心の塊である少年探偵団の三人を野放しにはできない。保護者の立場になりうる小五郎はキッドが現れればそちらに手を貸す可能性が高いので、常に子どもたちに目を向けることはできない。
 そこで白羽の矢が立ったのが、赤井秀一こと沖矢昴だった。
「昴さん、なまえお姉さんからなにか聞いてないの?」
 歩美の質問に、昴は腰を屈めて目線の高さを近づけて答えた。
「ただ『大事な用事があるから』とだけ言っていたよ。一昨日、朝早くから出かけていったからね」
「えー! 一昨日からですか!?」
「それって浮気ってやつじゃねーのか!?」
「おいおい、そういうのは付き合ってる人同士じゃなきゃ当てはまらないだろ。なまえさんと昴さんは付き合ってないんだから」
「残念……なまえさんのドレス着てるところ見たかったなあ」
「彼女も仕事が忙しいみたいだからね」
 仕方のないことだと昴がなだめるように言うと、歩美が首を傾げた。
「でも、昴さんもなまえさんと一緒に来たかったでしょ?」
「…………」
 昴はなにも言わずに微笑みだけを返して立ち上がる。
 意味深そうな昴の笑みが気になったが、いつにも増して昴の表情から何かを感じることはできなかったため、コナンは諦めた。
 会場内にいるセレモニー出席者を観察し始める。会場には報道関係者の他、園子のような財閥関係者や大企業の幹部と見られる者がいた。また、日本人だけでなく外国人も目立っており、国籍問わず英語で話していた。
 園子が次郎吉に到着したことを知らせるというので、ぞろぞろと彼女の後について行きながら会場内を見ていると、探していた少し嗄れている次郎吉の声が聞こえてきた。そちらに引き寄せられるように視線を向けると、次郎吉は他の出席者と話中だった。
「おお、これはこれは! クラーラ嬢ではござらんか!」
「ご機嫌よう、次郎吉様。本日は父の代わりに出席させていただきます」
 ブロンドの髪を巻いた青い瞳の少女が日本語を話していた。クラーラと呼ばれている彼女の後ろには執事が寄り添っており、金持ちのお嬢様ということが伺える。
 ――日本語が話せるなんて珍しいな。
 コナンが関わったことのある外国人――主に組織や彼らを追い詰めるFBI――が流暢な日本語を話せるためその光景はコナンにとって普通だと思っていた。けれど、こう外に出てみるとやはりそういう訳でもなく、様々な国籍の者が集まる場所の公用語は英語だ。英語圏の人々の中には、第二外国語としてフランス語やドイツ語、またはスペイン語を話せる者がいるが、日本語は人気があったとしても文法の難しさから習得に時間がかかる。
「おねーさん、日本語上手だね!」
「あら、本当? 変じゃなかった?」
「すっごく上手!」
「日本人っつっても間違われねーぞ!」
「発音もバッチリでしたよ!」
 ――あいつら……。
 子どもたちの突発的な行動に驚き呆れてしまったが、彼女が気になったのはコナンも同じだった。コナンは博士から子守りを任されている昴とともにの三人の後を追う。
 クラーラは子どもたちの講評に小さくガッツポーズをした。
「よかった! 私、日本文化が大好きですの! 京都、着物、和菓子、それに銭湯……」
 指折りながら楽しそうに話すクラ―ラに、遅れてやってきた蘭や園子もにこにことしながら耳を傾けていた。小五郎に関しては瞳の中からハートマークが飛び出そうなほどクラーラに見とれている。
「あっ最近は折り紙も始めてみたのよ! やってみるとどんどん面白いわ……」
 自分は何が折れるだとか自慢話をする元太たちの話を楽しそうに聞く様子から、本当に日本文化が好きということが伝わってきた。夢中で話すあまり文章がやや崩れてしまっていたが、それでもなにを言いたいのかはわかるため会話に支障はなかった。
「お姉さん、もともと日本に興味があったの?」
「えっ!?」
 コナンの質問にクラーラは声を挙げた。一度唇を引き締めた後、クラーラは視線を惑わせながらおずおずと口を開いた。
「……い、いいえ。その……ちょっと、うん……」
 歯切れ悪い返事にコナンは眉をひそめる。
 推測するに、元々日本には興味があったわけではなさそうだった。だとしたら、なにかきっかけがあって日本文化に関心を寄せるようになったということ。しかし彼女は言いにくそうに言葉を濁すどころか、視線を逸らして少しだけ恥ずかしそうにもしている。
 なにか特別な理由でもあるのだろうか。
「お嬢様、そろそろ他の方々へ挨拶に伺わなければ」
「そうでした。……それでは。そうだ、よかったらあとで、折り紙教えてくださいな」
「もちろん!」
 クラーラは執事に促され歩美たちと約束をした後、去っていった。
 この展覧会では、展示期間が終了するとオークションが行われ、金額の一部は様々な募金に使われることになっていた。そのため、ここで慈善家として名を売っておこうと考えている人々が今日この会場を訪れ、興味関心があることを主催者に示していた。クラーラもその一人なのだろう。
 ざっと周りを見ると、よく名前を聞く会社の社長や取締役、株主もいることが会話から伺えた。
「……ん?」
「どうしたのコナンくん?」
 コナンは人混みの中に見知った姿を見かける。
 ――なぜあの人がここに?
 彼も誘われていたが、仕事があるからと断ったはずだ。
 コナンは気になって、周りに聞こえるように声を上げた。
「あー! 安室さんだ!」
 透に指を差すと小五郎や蘭たちも気づき、透に近寄りながら話しかけた。
 透は振り返り一瞬目を丸くした後、人の好い笑みを浮かべた。
「んだオメエ。誘っても断ってたのに」
「ははは……すみません毛利先生。若輩ながら依頼を受けまして。今回はその調査なんですよ」
「依頼って? 浮気調査とか?」
「企業秘密だよ」
 子どもの仮面を被って訊いてみると、透は片目を瞑り『内緒』とでも言うように人差し指を立て唇に押し付けた。
 背中で園子の黄色い声を受け止めながらコナンは乾いた笑いを返す。
「じゃあ、僕はこれで失礼します。楽しんで」
 透は小五郎に一礼してから手をひらひらと振り、踵を返し去っていった。
「安室さんてなにしても決まっちゃうわね」
「本当。どうしてお父さんの弟子になんてなったんだろ」
「まあまあ。そのおかげで安室さんと仲良くなれたんだからいいじゃない。それより蘭! お腹空かない? なにがあるか見に行きましょうよ!」
「そうだね。せっかく来たんだし……あれ?」
 さっそく出発だと園子が蘭の手を引いてブースに向かおうとすると、蘭は脚を止めてとある方向を凝視した。
「どうしたの蘭?」
「あそこにいる人、なまえさんじゃない?」
「えっどこどこ!?」
 蘭と園子の言葉に、二人に続き料理を見に行こうとしていたコナンの足は止まる。蘭が園子に教えるために指差した方向を見ると、言った通りそこにはなまえがいた。
「ほんとだ! どうしてなまえさんがこんなところに!?」
 蘭と園子の声に会場内の装飾や食べ物に目移りしていた歩美たちも駆けつけてきた。
 少し離れたところにいるなまえはネイビーブルーのドレスを着ていた。誰かと話しているようだったが、他の出席者に重なっていて相手が見えなかった。けれど暫くそのまま見ていると、視界でなまえたちと重なっていた人々が移動し、話し相手が発覚した。
「ねえ、なまえさんの隣にいる人って……!」
「もしかしてポアロに来た人じゃない!?」
「ほんとだー!」
「なまえさんやっぱりあの人とお付き合いしてたんですかね?」
 ディーノはなまえの腰に腕を回しエスコートしながらも楽しそうに彼女と談笑していた。
「なまえさんのとこ行ってみましょうよ!」
 園子の一声により子どもたちは早歩きでなまえの元へ向かっていった。蘭と園子も少し大股でそのあとに続く。その場に残っているわけにもいかないので、昴とともに皆の背中を追いかけた。
「なまえさん!」
「え?」
「おっ。お前らは確か……」
 名前を呼ばれ振り返ったなまえとディーノは足を止めた。
 ディーノは一目で高級ブランドだとわかるスーツを着こなしていた。ドレスのことはわからないが、きっとなまえが着ているものも高級品なのだろう。化粧も髪型も普段より豪華な印象で、別人のように思えた。
「なまえさん用事があるから断ったって聞いたんですけど、用事ってこのことだったんですか?」
「そうよ! 今日なまえさんも出席するなら言ってくればよかったのに!」
 蘭と園子が少し頬を染めながら追いつめるように話しかけるとなまえは困ったように笑いながら謝罪した。
「あー……ごめんごめん」
「どうしてなまえさんがここに?」
「それは、」
「へぇ……」
 なまえが話そうとすると、ディーノが一歩前に出て皆の視線を引きつけた。蘭と園子の全身を確認するとゆっくりと目を細める。
「よく似合ってる。花畑に迷い込んだかと思ったぜ、Signorina」
「そ、そんな……!」
「ありがとうございます……!」
 コナンはディーノに褒められて照れている蘭を見て眉間に皺を寄せてしまう。
 つづいてディーノは歩美の目の前まで歩いてきて膝をついた。目線の高さを揃えて、突然のできごとにあわあわとしている歩美の手を取った。
「城を抜け出してお忍か? bella bambina」
「っ……!」
 最後に歩美の手の甲にキスを落としたようにリップ音を聞かせる。歩美はぼんっと噴火したかのように一瞬で顔を真っ赤になった。
 一方、完全に蚊帳の外である男たちは目の前で繰り広げられた光景に空いた口が塞がらないでいた。
「ディーノ」
「おっと、これは失礼しました」
 なまえに名前を呼ばれおどけたように返しながら元の位置に戻っていくディーノは、言葉を失っている男性陣を見やるとにっと笑った。
「“イタリア紳士は女性に優しくするもんだ”ってな」
 なまえを引き寄せながらディーノは男性陣に得意げにアドバイスした。
 興奮が冷めやまぬまま蘭はそうだと思い出したように口を開く。
「なまえさんもとっても綺麗ですね……!」
「だろ!? そのドレス、俺が選んだんだ!」
 蘭たちを褒めていた時とは違った幼い印象を覚える姿と言葉に女子からは黄色い声が上がる。完全に男たちは仲間外れにされていた。
 なまえは溜息をついてディーノの袖を引っ張った。
「ディーノだけじゃないでしょ」
「まあまあ。細かいことは気にすんな」
「あとで怒られても知らないから」
「怖いこと言うなって……」
 なまえとディーノのまるで身内内での会話に仲の良さが伺える。そうだよな、ディーノからの一方的なものとはいえ、ポアロに来た時にあんなにスキンシップとっていたもんな、と一人納得する。
 ――ん?
 ちらりと見えた左手に違和感を覚えた。今まで過ごしてきて、そんなもの一度も見たことなかったから。
「なまえさん、その指……」
「そろそろ行くか?」
「そうだね……」
 コナンが訊こうとすると、ディーノが被せるようになまえに声を掛ける。
 ディーノとなまえが踵を返そうとすると、誰かの声が耳に入った。
「ディーノ様!」
「お嬢様! お待ちください!」
 突然飛び込んできた声に首を傾げると、少し前に次郎吉と話していたクラーラとその執事がこちらに小走りで向かってくる。
「あれ?」
「さっきのねーちゃんだ」
 到着したクラーラはコナンたちに気づきニコッと微笑むと、ディーノに向き直った。
「ごきげんよう、ディーノ様。まさかこんなところでお会い出来るなんて!」
「クラーラ嬢。貴女も来られていたのですか」
「ええ。父の代わりに。……それにしても偶然ですね」
「本当に。クラーラ嬢は今日もお美しい。貴女がいるだけでこの会場内が華やぐようですよ」
「っ……ありがとうございますっ」
 ディーノの褒め言葉にクラーラは真っ赤になる。とろけるよな顔でディーノを見つめるクラーラは恋する少女そのものだった。
 ――ありゃ完全にディーノに惚れてるな、あのお嬢様。
 そうすると、クラーラが日本語が話せるようになりたいと思ったきっかけは、もしかしたらディーノが日本語を話せるからかもしれない。そしたら先ほどもともと日本文化が好きだったのかという質問に彼女が口ごもっていた理由も頷ける。日本人である俺たちに好感を持たれてしまった以上、『好きな人が日本語堪能だから』だなんて私情を持ち出すのは良くないと考えたのだろう。
「ディーノ」
 ディーノの背中に隠れていたなまえが顔を出すと、クラーラは目を丸くした。ディーノが一人で来たと思っていたのだろう。
「あら……そちらの方は?」
「ああ、ご紹介が遅れてすみません。……こちら、俺のフィアンセのなまえです」
「初めまして。沢田なまえと申します」
「え……」
 クラーラは衝撃のあまり固まってしまった。
 この場にいる皆の視線はディーノとなまえ、そして二人の左手薬指に嵌めてある指輪に注がれる。
「フィッ」
「フィッ!?」
「フィアンセェ!?」
 ディーノとクラーラのやりとりを見守っていた園子たちは声を上げた。
「フィ、フィアンセってなんだ? 美味いもんか?」
「違いますよ元太くん! 婚約者って意味ですよ!」
「すごーい! おとぎ話みたーい!」
 子どもたちが騒ぎ立てる中、クラーラは呆然としながらふらふらと後退りをする。
「……フィアンセ」
 蚊の鳴くような声でぽつりと事実をつぶやいた。もともと白い顔がさらに青白くなっていく。
「お嬢様! ……すみません、失礼致します」
 執事がショックを受けたクラーラを連れて去って行った。
 ディーノが眉寄せてなんとも言えない表情をしていると、なまえがそっと声をかける。
「ディーノ」
「……ああ、わかってる」
 なまえは真っ直ぐにクラーラを見つめるディーノの背中をぽんぽんと軽く叩く。小さく深呼吸をしたディーノはなまえを振り返った。
「俺たちも行くか」
「うん。じゃあね、みんな」
「あっ、待ってなまえさん! まだ聞きたいことが! ……って、行っちゃった」
 ディーノとなまえは園子の声も気にせず人ごみの中に消えていった。
「仕方ないよ園子。なまえさんお仕事で来てるっぽいし」
「翻訳作家がこんなところに? まあ、ディーノ様の付き添いなら仕事っていうのも頷けるか……」
 園子と蘭の会話を聞きつつ、コナンは既に見えなくなったなまえたちの背中を見つめていた。

   *

 主催者の挨拶が済み、暫しの間は交流の場ということで飲食自由の時間となった。
 この時間帯は各出席者が経営関連の話や情報交換、または腹の探り合いのためグラスを片手に談笑していた。
 一方、コナンたちはテーブルの一つを陣取り、その上に溢れんばかりの勢いで所狭しと皿を並べていた。置いてあるものは、ローストビーフにグラタンやポトフ、さらには寿司や天ぷら蕎麦といった和食に、ケーキやタルトといったデザートまで、料理名を上げればきりがない。これらは元太たちがせっせとあちこちのブースに行って料理を集めてきたものだった。出席者の中に未成年はあまりいないため、料理人たちも顔を綻ばせてたくさん料理を提供してくれた。
 さすが高級ホテルの一流料理人が作る料理だと舌を巻いていると、悲鳴に似た声が聞こえてきた。コナンは反射的に皿を置き、声のする方へ駆け出した。
 人だかりを潜り抜けと、そこには壁際にいるなまえを追い詰めるようにクラーラが立っていた。
「Perch*!?」
 クラーラは我を忘れたように同じ言葉を繰り返す。日本語でもなく英語でもないそれはどこの国の言葉なのかはわからなかったけれど、クラーラをじっと見つめるなまえには彼女が話している内容が伝わっているようにも見えた。
 なにも言わないなまえにクラーラはキッと睨みをきかせた。
「Perch* * la sua fidanzat!?」
「!?」
 クラーラは近くのテーブルに置いてあったワイングラスを掴んだ。怒りに任せてその腕を振り上げる。
 悲痛な叫び声に野次馬たちは口元を覆ったり目を背けた。
 パシャッと液体がぶちまけられた音が響く。駆け寄ろうとした足が、ある男の登場により止まった。
「えっ……そ、んな……!」
 お嬢の手から空のワイングラスが滑り落ち、耳をつんざくような音をして割れた。
「大丈夫か、なまえ」
 誰もがなまえにワインが掛けられたと思っていた。しかし、騒ぎを聞きつけたディーノが咄嗟になまえとクラーラの間に入り、なまえを背中に庇ったのだった。
 頭から赤ワインを被り上半身を赤く濡らしたディーノは、後ろをちらりと見てなまえの安否を確認する。
「うん……ディーノは?」
 ディーノはなまえの返答を聞くとほっと胸をなでおろし、赤ワインが染みてしまったジャケットを脱いだ。
「あいつの授業に比べたらヘッチャラだよ」
 ジャケットを脱ぎ足元に落としたディーノはネクタイを緩める。シャツの袖口も濡れていることに気づき、腕まくりをした。
「……!?」
 ――刺青……?
 ディーノの左腕には、全体的に刺青が掘ってあった。ネクタイを緩めたことで露わになった首元から腕にかけて広範囲に刺青が施されている。
「お嬢様! どうされました……っ!?」
 事態を聞きつけて駆けてきたクラーラの執事は言葉を失った。
 ――なぜ執事のこの人が一瞬でも彼女から目を離したんだ……?
 執事の様子を伺うと、彼は目を見開いてクラーラたちを見つめていた。その中でもディーノの刺青に注目しているように思える。なんだ、あの刺青はなにか意味があるのか?
 周囲を見渡すと、昴は飛び散ったグラスの破片で怪我をしないよう好奇心旺盛な子どもたちを遠ざけていた。しかし刺青が気になるらしく、翡翠色の鋭い視線を送っている。
「大丈夫ですか!」
 ホテルの係員がグラスを片付けにやってきた。全員怪我がないことを確認し終えると、破片を踏まないようその場から離れるよう促す。
 野次馬も含め、当事者であるクラーラや被害に遭ったディーノたちも片付けの邪魔になないよう離れ始めた。
「クラーラ嬢、我が婚約者の非礼をお許しください」
「……わ、私は、そんな……あのっ……」
 クラーラは震えを抑えきれずに自分を抱きしめた。混乱しているクラーラにディーノは眉を下げる。
 事態を聞きつけた別のホテルマンが駆けつけ、ディーノに話しかけた。
「お客様、よろしければお召し物はこちらでクリーニング致しましょうか?」
「ああ、頼む。でも一旦着替えたいから部屋に戻るわ。えーっと、ジャケットは……」
 ディーノはキョロキョロと自分の周りを見てジャケットを探していた。コナンは今だと思い、いち早く床に無造作に置かれたジャケットを掴み、ディーノに駆け寄った。
「ディーノさん! これ……うわぁあ!」
 コナンは持っていたディーノのジャケットに躓いてしまう。目の前に迫っていたディーノのスラックスを慌てて掴んでしまったが、体勢を立て直すには少し遅かった。努力虚しくコナンはディーノの足元で転んでしまった。
「おっ!? 大丈夫かボウズ!」
 驚きつつもディーノは優しく抱き起こしてくれた。
「ありがとうディーノさん! でもごめんなさい……上着に躓いちゃった」
「気にすんな! どうせクリーニングしてもらう予定だし、このスーツそんなに高くないしな。持ってきてくれてサンキューな! 助かったぜボウズ!」
「うわ!」
 わしゃわしゃと髪をかき混ぜるように撫でられる。ディーノの手つきは強引で、手の動きに合わせてぐるりと頭が動いてしまった。
 最後にぽんぽんと頭を軽く叩かれた。
「ヤンチャも程々にしろよ?」
 ディーノはジャケットを右腕に抱え、左手はなまえの腰を引き寄せて会場を後にする。
 いつの間にかクラーラとその執事はいなくなっていた。

   *

 遠くで響く中森警部と捜査二課の場違いな声を感じながら、コナンはトイレに行くと言って会場から離れ、ロビーにあるソファに腰掛けていた。
 ポケットからイヤホンをだして耳に取りつける。耳障りな音がした数秒後、電波が通ったラジオのようにぴたりと雑音が止んで聞き取りやすくなる。
 コナンが聞こうとしているのは、ディーノとなまえの会話だった。
 ディーノが会場を離れようとする時、気づかれないように盗聴器を取りつけたのだ。
 しかし、聴こえてくるのは日本語ではなかった。
 ――イタリア語か?
 残念ながら、イタリア語で使われないアルファベットがあることは知っているけれど、スピーキングやヒアリングは今後の課題となっていた。
 なにを話しているかわからない状況はひとり蚊帳の外にされている気分だった。舌打ちをしそうになる。
『あの場から離れて正解だな』
『警察がうるさかったもんね……キッドが来るかららしいけど』
『キッドって日本のルパン三世みたいなやつだろ? 俺も見てみたいなあ』
 ――なんでここで日本語になったんだ?
 なぜか突然、なまえとディーノの会話は日本語に切り替わった。
 ホテルマンに「部屋に戻る」と言っていたから、今ディーノとなまえはこのホテルにある部屋のどこかにいるのだろう。昴は一昨日の朝に出掛けて行ったとなまえについて話していたが、まさか一昨日からここに泊まっていたというのだろうか。
『着替えて戻らないと。ディーノ、スーツどこ?』
『あー……確かアイツがクローゼットに入れといてくれたかも』
『いいよ私が取りに行くから。ディーノはそこ座ってて。いま一人だからへなちょこでしょ? ……わっ』
『いつも悪いなーなまえ』
『……ちょっと。スーツ持って来れないんだけど』
『いいじゃねえか。せっかく二人きりになれたんだから。少しくらい……』
『っ!』
 なまえが小さな悲鳴をあげたと同時にベッドのスプリングが軋む音がする。ベットに押し倒されたのだと理解するのに時間はかからなかった。
『待ってディーノ……!』
 ――はあ!?
 コナンは思わず漏れてしまいそうになった言葉を飲み込むように口元を抑えた。
『っ、だめ……』
『本当はイイくせに』
『んぅ……は、……ぁっ』
 ――待て待て待て! なんでこんなことしてんだ!? 着替えるために部屋に戻ったんじゃねーのかよ!
 耳を澄まさなくても布が擦れる音やリップ音が聴こえてきてコナンは思わず体を縮こませた。
『やだ……痕つけないで』
『見えないとこならいいだろ?』
『よくなっ……ぁ、ディーノ……!』
『本当かわいいな、なまえ……』
 なまえの甘い声とディーノの低く響く声にカッと顔が熱くなるのがわかった。
 正直イヤホンを外したなる。たが外してしまえば情報を逃してしまうかもしれない。
 コナンが深呼吸をしてバクバクと鳴る心臓を落ち着けようとした時だった。
『――こんな可愛い声、俺以外に聴かれるなんて許せねえわ』
「っ!」
 背筋をゾクリとなにかが駆け上がった。
 どっと気持ちの悪い汗が吹き出てくる。体の中心から震えがこみ上げてきた。
 こめかみに汗が伝う。
『じゃあな、探偵ボウズ』
 ブツリ。
 遮断される音が聴こえた途端、耳元が砂嵐に見舞われた。
「!? 気づいてただと!?」
 コナンは煩わしいほど雑音を流すイヤホンを引っ張り耳から抜いた。
 盗聴器が壊された。それは、あの男、ディーノの言葉をとってみても、盗聴器に気づいたからとしか考えられない。
 ――いつ気づいた?
 コナンが一番不信感を抱いたのは、ディーノの刺青を見た時だ。
 海外では、刺青はファッションの一つだと位置づけられており、近年日本人でも小さいものから大きな刺青まで様々なものを身体に掘っている者はいる。しかし、銭湯では未だに刺青を掘っている者は入浴を断られるという状況が続いていた。
 確かに袖口にワインが付着したからと腕まくりをしたのは頷けた。しかし、ディーノの行為はわざと刺青を見せるように肘部分まで袖を捲ったのだ。袖口に付いていたワインはほんの少しだけだったのに。
 ――なにかある。
 そう直感的に思ったのは、ディーノをよく観察したら不自然に思えた行動からなのか、それともただの勘なのかはわからない。
 でも、確かめたい。真実を知りたい。自分の手で暴いてみたい。
 そんな欲望に忠実に動いた結果が、盗聴器を仕掛けて相手を探ることだった。
 盗聴器を仕掛けたタイミングは完璧だった。ジャケットを床に放ったままホテルの係員が清掃にやってきたことでディーノはジャケットと距離ができていた。その時ピンと思いついたのだ。彼にジャケットを渡す際にこっそりとさりげなく盗聴器を仕込めばいいと。
 しかし、クリーニングをするかの提案をホテルスタッフがしてしまったばかりに、ジャケットのポケットに盗聴器は入れられないと思った。クリーニングの際にポケットの中を確認するだろう。その時に盗聴器が見つかれば色々と面倒だ。だからコナンはジャケットに忍び込ませるのではなく、わざとジャケットに躓きスラックスを掴んだ時、裏側に盗聴器を仕込んだのだ。
「おいおい、まさかな……」
 脳裏にディーノと別れる時の光景が思い出された。
 コナンはゾクリと身震いする。喉がカラカラに渇いていた。
『ヤンチャも程々にしろよ?』
 今でも耳奥でディーノの声がこだましている。

 まさか、最初から気づいていたとでも言うのだろうか。

   *

 一方、ホテル内にあるスウィートルーム。
 重なり合っていた二人の身体はゆっくりと離れた。
「……これでよし」
「なにが“よし”なの!?」
「痛っ!」
 満足気な顔をするディーノに近くにあった枕を投げつけた。部下が控えていないディーノは案の定顔面に枕を喰らい、そのまま後にすっ転んだ。
「盗聴器気づいてるならすぐ壊してよ! 本当に脱がそうとして! ディーノの変態!」
「だってそうしなきゃ演技だってバレんだろー!? 察しがいいんだろ、あの探偵ボウズは!?」
 座り込んで胸を隠すように自分を抱きしめてディーノを睨みつける。察しがいいのは確かだけれど、だからと言ってあそこまでする必要はなかったはずだ。
 ディーノは鼻を抑えながら起き上がり向き合うように胡座をかいた。
「あ、あんなに! あんなに触って……!」
「相変わらず首と脇腹弱いよなー。くすぐりがいがあるってもんだ」
「しかも! どさくさに紛れて痕つけたでしょ!」
 両拳を握って訴える。顔が真っ赤になっているのが自分でもわかるけど、そんなことを気にしている場合ではない。
 ディーノは楽しそうに笑った。
「証拠が必要だろ?」
「なんの証拠!?」
「そりゃー俺とお前が」
「言わなくていい!」
 あまりの恥ずかしさに顔を覆いながらディーノの声に被せるように反論する。
 もう嫌だ、今日が終わってまた米花に帰ったら何が起こるかわからない。好奇心の塊である女子高生や小学生が怖い。
「グラツィアーノの娘、まさか本当に逆上してワインぶっかけてくれるだなんてな。計画通りで助かったぜ。なまえ、なにか挑発するような事言ったのか?」
「それは秘密。……それより、スーツに思いっきり掛かっちゃったけど」
「クリーニングしてくれるっていうし、安物だからいいだろ」
「安物……」
 ディーノが来ていたスーツは庶民感覚でいえば充分高級品である。二人に一人が選ぶと言われている人気モデルのミラノラインを安物というのはどの口だ。
「でも、あんな大胆に刺青見せちゃってよかったの?」
「ああ、完璧だぜ。あの執事は……」
 ディーノが言葉を続けようとしたとき、バタンと扉が閉まる音が鳴った。
「“クロ”だよ」
 扉の方を向くと、部屋に入ってきたのは恭弥だった。
「だろうな」
「恭弥くん、お疲れさま」
「なまえもね。……あの執事、落ち着かせるために主人を部屋に戻した後、血相変えて電話してたよ。回線も傍受済み」
 恭弥がタブレット端末を操作してデータを見せてくる。画面を覗き込むと執事が連絡した相手の居場所や情報が映し出されていた。
「馬鹿だなー。いくらなんでもわかりやすぎだろ」
 ボンゴレから独立している秘密諜報機関、通称CEDEFの働きもあり、ボンゴレはクィリーノファミリーを襲撃したファミリーの正体を突き止めていた。
「連絡相手は間違いなくルドヴィコファミリー。刺青となまえがつけているピンクダイヤのリングで、こっちがクィリーノの指輪を狙っていることを確信したらしい」
「やっぱりルドヴィコも回収しに来てたか……」
 ルドヴィコファミリー。アメリカを拠点にしてるファミリーである。薬漬けにした男女を国境を越えてメキシコへ輸送し、人身売買をして金を稼ぐマフィアだった。
 ルドヴィコはクィリーノを襲撃後、一人屋敷から逃げだした青年を金で雇ったギャングに襲わせリングを強奪することに成功。しかし、警察の手が忍び寄っていることに気づき、リングを宝石見本市に紛れ込ませて行方を眩ませた。ルドヴィコと繋がりのあった鑑定士は、振り分けられている番号をリングに施して偽装に成功。見本市に出品されるはずだった本物の指輪は裏で高額取引された。
 そしてボンゴレが見本市に顔を出したことに気づいた鑑定士はルドヴィコに連絡を入れるも、証拠を隠滅されるようにルドヴィコの手によって殺害された。後の報道で、鑑定士の自宅が荒らされていることが州警察の調べで判明した。ルドヴィコが自分たちと繋がりのある物的証拠や本物の指輪を裏で売りさばいた売上金を粗探しして持っていたと考えられる。
「あとは執事を捕らえて情報を聞きだすことと……」
「グラツィアーノ、だな」
 なまえの言葉に続くようにディーノがこれからやること呟く。
 今回ディーノがこの展覧会に参加した目的は二つある。
 一つ目は、クラーラの父が経営するグラツィアーノ社が裏でなにやらきな臭いことをしているという情報を入手したからだ。
 グラツィアーノ社はキャバッローネファミリーが治めている領域内に本社を置く貿易仲介業である。外国の輸出者と輸入者との貿易をグラツィアーノ社が仲介して取引を行っている。そこで麻薬が扱われた疑いが持たれたのだ。
 キャバッローネは、ボンゴレと同じように薬や人身売買等には一切手を染めていないファミリーである。そこでディーノは噂の真偽を確かめるため、怪しまれないよう宝石展覧会を利用してクラーラに近づき、情報を得ようと計画したのだった。
 二つ目は、クラーラの執事がルドヴィコと繋がっていることを確認するためである。ディーノがボスを務めているキャバッローネは、言わずもがな名の知れたファミリーである。そのため、キャバッローネのボスに受け継がれる刺青についても有名だった。
 ディーノはそのボスの証でもある身体的特徴を利用した。裏に通ずる者なら、刺青を見れば自分がどこの誰かわかるだろうと踏んだのだ。
 結果は推測通り。恭弥の報告から、執事とルドヴィコが繋がっていることが判明した。
「この後も手筈通りかい?」
「うん。ごめんね、恭弥くんこういうところ嫌でしょ?」
「……大丈夫、とは言わないけど、こっちもネズミのようにちょろちょろ周りを動かれるのは煩わしいからね。釘を刺しておくよ」
「……咬み殺したりしない?」
「それはあっちの出方によるかな」
 ――大丈夫かな、あの人。
 思わず心配してしまうけれど、ちょこまかと探られて本来やるべきことに首を突っ込まれては困る。
 まあなんとかんるだろうとなまえは気持ちを切り替えてディーノの方を向いた。
「ディーノはお嬢様のこと、よろしくね」
「えー……」
 渋い顔をするディーノになまえは溜息を漏らした。
「なんでそんな嫌そうな顔するの。近づかなきゃグラツィアーノのことわからないよ? 『さっきは公の場だからああ言ったけど、本当は政略結婚だから婚約なんて嫌で、君の方が好みなんだ』とでも言えば簡単に近づけるでしょ?」
 なまえの言葉を聞いたディーノは、驚愕の色に顔を染めて唇を震わせながら大きく息を吸った。
「なまえよりいい女なんているか!? いないだろ!」
「いるよ!? もっと周りよく見てみなよ! なにその古文みたいな言い回し!」
 リボーンがこの場にいたら絶対に「へなちょこ」と言ってディーノを蹴り飛ばしてる気がする。
 自分に好意を寄せているからこそディーノはその気持ちを利用するようなやり方にあまり乗り気ではなかった。
 仕方ないとなまえはディーノが好きな言葉を投げかけた。
「頼みます、ボス!」
「……! しょ、しょーがねーなー! そう言われたからにはやってやるぜ!」
 ディーノはぱあっと花が咲くように明るくなり、やる気に満ち溢れ頼りがいのある顔つきになった。
「わーい、さすがディーノ」
 棒読みで褒めながら拍手をするとディーノはますます得意げな顔をした。
 ディーノとなまえの会話を耳に入れながら、恭弥はベッド脇に落ちていた壊れた盗聴器に気づき拾い上げた。
「キッドキラー……工藤新一は本当に余念がないね」
 恭弥の親指と人差し指に挟まれている盗聴器は一円玉よりも一回り小さい大きさだった。
「予想はしてたけど、まさか本当につけるとは私も思わなかったよ」
「なまえ、あのボウズが俺のスラックス引っ張った時ちょっと反応しただろ。バレバレだったぞ」
「うそ! 気づかれたかな?」
「大丈夫だろ。アイツ……っ!」
 プツッと電子音が聞こえ、室内にいた三人は息を呑んで耳元を押さえた。
 今回の作戦に参加する全員には、ボンゴレ技術部特製の超小型通信機が配られていた。一見補聴器のように見えるそれは耳の奥まで入り、耳になにかを入れていると他者から気づかれない大きさになっている。通信をする時は、胸元に忍ばせたオンオフ切り替え可能なワイヤレス型マイクを操作することで連絡が取れるようになっていた。
 聴こえてきた音声は電子音を最後に通信が切れた。
 報告を聞き終え三人は顔を見合わせる。
「“了平”も上手くいったみたいだね」
 なまえの言葉にディーノと恭弥は唇で弧を描いて頷く。
 計画は順調に進んでいた。

17,04.27