どこにだってゆけるように


 僕が初めてきみを見たのは、入学式の日だった気がする。
 期待と不安を抱きながら少しだけ浮き足立っている生徒たちが群れている中に、きみはいた。
 柔らかそうな髪色はすぐに目を引いた。入学式早々髪を染めたのかと思い注意しようと近づくと、気持ちは一変した。
 一人だけ、明らかにまとう空気が違っていたのだ。
 その日から、姿を見ると目で追いかけるようになった。そして、クラスと出席番号を調べあげた。
 沢田なまえ。それが彼女の名前だった。

 この時はまだ、彼女が自分にとって特別な存在になるだなんて、思ってもみなかったのだ。

   * * *

 並盛町の地下には、一般人に秘密裏で造られた施設がある。
 一つは、並盛出身である沢田綱吉が十代目ボスを務めるボンゴレファミリーのアジト。ここは十代目ファミリーにとって重要な拠点となっており、並盛町全体を見渡せるよう設置された防犯カメラの映像が見れる管制室やトレーニングルーム、その他に医務室や衣食住ができるスペースも併設されていた。
 そしてもう一つ。風紀委員会を母体として組織された風紀財団のアジト。ボンゴレの施設とはガラリと雰囲気が変わり、こちらは日本家屋のような造りになっている。もちろん、この施設の責任者は、風紀委員長を経て風紀財団のトップであり現在でも並盛の秩序と裏社会を牛耳る、雲雀恭弥だ。普段仕事の時はスーツを着込む恭弥だが、プライベート時は和服を着てアジト内にある日本庭園を眺めながら過ごしていた。
 広大な敷地面積を誇るこの二つの地下施設は隣接して建造されており、一つの扉で繋がってる。しかし、恭弥の許可が得られた者のみ行き来が可能となっており、滅多なことがない限り扉は閉ざされたままである。
 しかし今日、開かずの扉とされているその扉が、恭弥自身の手によって開かれた。
 ボンゴレの施設では滅多に見ることのない恭弥の姿に、常駐している人間はなにごとだと口をあんぐりと開けた。しかし恭弥はそれらに目も向けず、真っ直ぐと資料室を目指す。
 目的地にたどり着き、資料室の扉を開けた。部屋に入ると図書館のように様々な資料がところ狭しと並んでいた。
 本棚でつくられた迷路を右へ左へと進むと、部屋の奥になまえの後ろ姿を見つける。少しだけ心拍が速くなったのを感じ、一瞬少しだけ恭弥は唇を噛んだ。
 気配を消したまま一回だけ息を吸って吐く。
 自分の存在を知らしめるように今度は息を吸った。
「返してもらうよ」
「なにを……って……っ!」
 振り返ったなまえはぽかんとした後、息を呑んだ。
「なあに?」
「しっ、私服! 恭弥くん、私服!」
 なまえは両手で頬を挟むようにしながら高揚する気分を隠せないでいた。兎にでもなったようにぴょんぴょん飛び跳ねるんじゃないかというくらいのテンションの高さだ。
 なまえが爆弾解体の練習だったり、銀行に侵入する手段を赤ん坊たちと話し合ったりと、缶詰状態になっていたのはもう数日前のこと。銀行強盗事件が終わり、落ち着きを取り戻した地下施設。しかし賑やかさはいつにも増していた。それは、久しぶりになまえが長い間並盛に滞在していたから。皆、離れていた時間を埋めるようになまえと過ごしていた。
「仕事でもないのにスーツ着せる気? それに私服なら今日が初めてじゃないでしょ」
「だって、最近見てなかったから……」
 頭の先から爪先まで何度も往復してなまえは視線を寄越してくる。
 恭弥は、チャコールグレーのピーコートの下にシャツとカーディガンを着込み、そしてボトムにはチノパンを合わせ、焦げ茶色の革靴を履いていた。
 ぐるりと恭弥の周りを一周したなまえは満足げに頷いた。
「――かっこいい。やっぱり恭弥くんはなに着てもかっこいいね」
「……行くよ」
 何度見てもなまえの笑顔は眩しくて、胸の奥から漏れたあたたかいなにかがじんわりと体中を巡っていく。
 手をとって握ると応えるように握り返された。
 くすくす笑う声が聞こえて、きっと照れてることがバレてるんだろうというのは、彼女ではないけれど直感でわかった。
 むしゃくしゃして指を絡めて握ると一瞬だけ彼女の足は止まりかけたが、すぐに何事もなかったように歩き続ける。隣に並ぶなまえの耳を見ると密かに赤く染まっていて、俯き気味に歩いているもんだから悪い気はしなかった。

   *

 行先は特に決めてなかった。けれど自然と足は並盛の中心部の向かい、のんびりと巡っている。
 本屋に行ったり、昔花見をした桜並木がある公園を歩いたり。土手の下にある草野球のグラウンドで行われている子どもたちの試合を眺めたりもした。
 なまえは一つひとつの光景を、まるで写真を撮るようにまばたきをして胸に刻んでいた。こんなにゆったりとなまえと二人きりで過ごすのは久しぶりで、まるで学生時代に戻ったかのようだった。
「デートみたいですねー」
 道すがら、駄菓子屋に寄って購入した苺の形をした飴を舐めながら、なまえは茶化すように話す。
「デートなんだけどね」
「えっ」
 驚いて立ち止まるなまえの手から飴をかっさらい、自分の口に入れた。
 冗談は嫌いだ。そのくらいのこと、君はよく知ってるだろう。
 視線でそう伝えると、なまえの顔はあっという間に真っ赤になった。
「ほら、行くよ」
 なまえの手を引いて歩き出した。
 どうやら僕も、自覚している以上に浮き足立っているようだ。

 昼食は「久しぶりに武のお父さんの顔が見たい」となまえが言ったため、竹寿司に向かった。
 しかし、準備中の札が掛けられていてなまえは見るからに落胆してしまう。そんな顔をさせるために今日引っ張りだしてきたんじゃないのに。
 恭弥は店扉に一歩近づいた。これからなにをするのか察したなまえに腕を引っ張られる。けれど恭弥は気にせず店扉を開けた。
「すいやせんまだ準備中で……って、なまえちゃんじゃねえか! 久しぶりだなあ!」
「こ、こんにちは」
 カウンターで仕込みをしていた剛は申し訳なさそうな顔をしたが、なまえを見た途端に破顔した。
「いやあ驚いた。風紀委員長さんも一緒か。いや、今は財団だったか」
「ごめんなさい準備中なのに。恭弥くんもほら、謝って」
 繋いでいた手を少し引っ張り謝罪を促すなまえに剛が楽しそうな声を漏らした。
「なんでい、デートか?」
「ち、ちがっ……!」
「さすが大将は話が早いね」
「おお!? そうかそうか。そんなら若ぇお二人さんに特別に握ってやらぁ!」
「え……えっ!?」
「ありがたく頂くよ」
 とんとん拍子に話は進み、腕を振るう剛を眺めつつなまえは昔話に花を咲かせた。

   *

 遠くで部活動に勤しむ生徒の声を聞きながら、昔から変わらないスリッパを引っ掛けて廊下を歩く。廊下や階段、天井の至るところを眺めながら、老朽化を心配する声が年を重ねる事に大きくなっていることを肌で感じていた。
 どんなに大事に扱っていても時間には抗えない。美術品だって手入れを施して時を止めているのだ。ただただ丁寧に取り扱っていてもずっとそのままの形を保ち続けるものはない。それは動物や植物、そして人間にも同じことが言えるだろう。命、そして人の想いが宿るものに、変わらないものなんて一つもないのだ。
 壁にできた小さなヒビを横目で一瞬捉え、ぼうっと頭の片隅で修繕費は予算からでるのか資料を捲りながら、隣で歩く彼女を見た。
 窓から差し込む日差しにキラキラと埃が輝いて、ふわふわとした髪がべっこう飴色染まっていた。他者と歩くときは必ず歩みを揃える癖があるなまえ。しかし今はなまえ本来の歩調に恭弥が合わせているから、秒針が進むよりもゆっくりと時間が流れているように体感する。それはまるで、昼と夕方の狭間に閉じ込められてしまったようだった。
 『応接室』と書かれたプレートを頭上に確認し、ポケットからスペアキーを取り出す。それを鍵穴に差し込むとなまえはぎょっとした。
「入って大丈夫なの?」
「僕だからね」
 ガチャリと解錠音が聞こえて扉を開ける。自分の家のように足を運ぶと、数歩遅れてなまえが室内に踏み入れた。
「懐かしい……」
 数年ぶりに訪れた応接室になまえは目を細めていた。
 それが伝統とでもいうように、恭弥が委員長をしていた頃に引き続き応接室は使用されていた。恭弥は委員会活動の前線からは退いたものの、風紀財団が風紀委員会の母体となっていることもあり、活動内容等はすぐに把握できるようになっている。また、恭弥の発言力は現委員長よりも影響力のあるものだった。
 まるで時が止まったかのような応接室に、なまえは溜息を漏らす。執務机やソファ、棚のファイルの位置に至るところまで、恭弥が委員長を務めていた頃となにも変わらなかったのだ。
 なまえはそれら一つひとつを子どもの成長を見守るような瞳で確認しながら部屋の奥へ進んだ。ソファを通り過ぎると、執務机に手を滑らせて振り返る。
「ねえねえ、ここ座ってもいい?」
 訊きながら指を差したのは、恭弥がいつも机に向かう時に座る椅子だった。
 扉の横で壁に背を預けたまま首を縦に振ると、顔をほころばせてなまえは椅子を引いて腰を下ろした。
「ふふっ……なんだか賢くなった気分」
 目を細めながらに呟くなまえに首を傾げる。
「座っただけで?」
「うん。なんでだろう……恭弥くんの椅子だからかな」
 なまえは足で床を蹴り、くるりと椅子を回して一周した。その後も左右にゆらゆらと椅子を揺らすなまえは、小さい頃遊んだ玩具を久々に手にする子どものようだった。
「……もう、僕の椅子ではないよ」
「でも、私の中では、この椅子はずっと恭弥くんのものだよ」
 愛おしそうに椅子を撫でる指先は、宝物に触れるかのように優しかった。
 ――やっぱりね。
 なまえの言葉と行動、そして眼差しで確信する。
 恭弥は窓の外に目を向けると、壁から背中を離してなまえの目の前まで移動した。
「そろそろ見頃だ。行こうか」
 きょとんと見上げてくるなまえに自然と頬が緩んだ。

 サビ臭さに眉をひそめつつ、重苦しい両扉の片方を押した。ギィッと扉が開く音がすると、外から風が入り込む勢いに一瞬だけ目を瞑る。
 扉が完全に開け放たれると目に飛び込んできたのは灰色のコンクリートと橙色の大きな空だった。
「すごい……!」
 感嘆を漏らしながらなまえは屋上に降り立った。風に舞い上がる前髪を片手で抑えながらフェンスに駆け寄り、より近くで眼下に広がる並盛に頬を緩める。
「落ちないでね」
 なまえの背中を追って歩み寄り隣に並ぶと、振り返ったなまえは可笑しそうに笑った。
「落ちないよ」
 なまえは背丈の倍以上ある緑色のフェンスに指を絡ませて隙間から夕焼け色に染まる並盛を眺めた。
「並盛は全然変わらないね」
 愛おしそうに呟いた声は、空に溶けてしまいそうなほど優しい色をしていた。
「君が言ったからね」
「え?」
 爪先を九十度動かしてなまえに向き合う。
「なまえがいつでも帰ってこれるように、ずっとあの頃のままにしてあるんだよ」
 いつもより時間をかけて言葉を言い切った。
「なんで……」
 なまえの顔はみるみるうちに白くなっていく。小刻みに揺れている瞳に映る自分が少しだけ渋い顔をしていた。
 本当はそんな顔させたくなかったけど、言わなきゃいけないと思った。
 十年後の世界とかいう場所で、ずっと触れられなかったきみの心の奥底を垣間見た。そこでやっと、きみへ抱いていた違和感の正体に気づけたんだ。
「ねえなまえ。無理して変わらなくてもいいよ」
 ――なんでこんなに君のことが好きなんだろう。
 きみと交わらない視線に、一度は諦めようとした。
 でも想いは積み重なっていくばかりで、いつしかこの想いが友愛なのか恋愛なのか、はたまた博愛なのか慈愛なのか。そんな分別もつかなくなってしまった。
 それでも別にいいと思っていた。この感情にいちいち名前をつける気はなかったから。
「周りが変わっても、並盛はいつまでも風紀が乱れない町であり続ける」
 とにかく僕はなまえが大事で、愛しくて、見守っていたくて、なにかあったら誰よりもはやく駆けつけて助けてあげたい。なまえが笑うなら一番近くで眺めていたいし、涙を流すなら頬を伝うそれを拭って再び笑顔になれるよう手助けをしてやりたい。
 もちろん、他の奴らのようになまえに触れたいと思うことだってある。でも、それできみが悲しんだり、つらい思いをしたりするのは絶対に嫌だから、過度な接触はしないようにしていた。
 ――ダメだな、僕はきみの前だと自分を忘れてしまうらしい。
 だけどぬくもりは傍で感じていたくて、手を繋ぐくらいはいいかなって、体は勝手に白くてしなやかな手をとっては指を絡めて繋いでしまう。
「どうして……?」
 わかるの、と続くはずだったんだろう。言葉は、吐息になって消え失せた。夕焼けを閉じ込めたような双眸から溢れた光が頬に流れたからだ。
 片手を伸ばしてだらんとしているなまえの手を取り、つぶさないよう意識して包み込んだ。
「だって、ずっと見てきたから」
 ずっと見てきたんだ。
 きみが弟やその周りの人間が成長するたびに自分のことのように喜び、同時に悟られないようひどく寂しそうにしていたこと。まるで未来に起きることがわかるように、不安がる人々へ大丈夫だと微笑みかけていたこと。自分が知らない未知のことへ、畏怖の念を抱いていること。
 それらをすべて上手く隠し、いつも他人の感情を敏感に察して他人を思いやり行動していたこと。
 だから、わかるんだ。
「なまえ。きみはそのままでいいよ」
 今、僕の気持ちを悟ったとしても。お願いだからどうか、これまでのように、きみは変わらないでいてほしい。
 臆病なのかな。きみが変に意識をしてしまって、申し訳なさを抱えながら僕と接するようになるかもしれないと考えただけで、胸が締めつけられる。違う、僕はきみを振り向かせたいがために気持ちを伝えるんじゃない。きみが負い目を感じる必要はないんだ。
「僕もきっと、このままだから」
 きっとこのまま、僕はなまえを想い続けるだろう。

 変化を怖れるきみへ。
 きみが怖いと言うのなら、僕は一生変わらずにきみの傍にいる。
 きみが変わってしまっても、せめて僕や、僕の両手が届く範囲にあるものは姿や形が変わらないよう、僕がしっかり見てるから。
 だから、もしきみが、変わり続ける現実の世界から目を背けたい時がきたら。逃げ出したい時がきたなら。
 そのときは僕が、きみを救いだすから。
 きみの傍にいる。ずっとずっと、傍にいるから。
 だからなまえ――。

「いつまでも、待ってるよ」
 なまえからぽろぽろとこぼれ落ちていく涙がとても綺麗で、もったいないと思ってしまった。
 ――ごめんね。今だけは、触れさせて。
 恐る恐る手を伸ばし、そっと親指の腹で撫でた。
 硬くなっている指の腹が、触れたら壊れてしまいそうなほど柔らかな頬を撫ぜる。胸の奥がギュッと握りつぶされて、身体全身にビリビリとなにかが走っていった。
 指先で流れ星を受け止めて、涙は冷たくないことを知った。きみの涙だからあたたかく感じるのかな、なんて思ってしまう。
 そんな馬鹿なことを考えてしまうくらい、どうしようもなく好きだった。
「なまえが手を伸ばしてくれる、その時まで」
 僕はなまえに関してだけは、気が長いんだ。
 そうやって少しだけ誇らしげに唇に乗せてみると、なまえは堰を切ったように泣き出してしまった。
 胸がぎゅっと締めつけられてしまうから、なまえの涙はできることならあまり見たくないのだけれど、この涙は、やっぱり別物だ。
「笑ってよ。僕はきみの笑った顔が好きなんだ」
 ――きみはいつまでも、笑っていて。

17,05.05 title:まばたき