Fruit Basket Turnover


 ホテルは本館とタワー館の二つに分かれている。どちらにも客室や宴会場が設けられていたが、宝石展覧会のセレモニーが行われているのは、本館内にある一番来賓者の収容が見込める会場だった。
 会場内には立食スペースと料理人が常駐しているスペースの他、奥にステージが設けられている。宴会場の広さに比べれば一見小振りに見えるが、百人ほど登壇できる広さを有していた。
 本日そのステージ上は、展覧会で展示される予定の宝石やジュエリーが透明なケースに閉じ込められ陳列していた。今回このホテルに持ってきたものは展覧会で展示する物のごく一部だという説明が主催者側からされている。しかし、宝石の一つひとつが、常に身なりに気を遣っている貴族のような気品を醸しだし、多くの報道陣や出席者を魅了していた。
 展示品の中でも一際目を引くのが、キッドが予告状で宣告してきた指輪である。オレンジ色の大粒の宝石がはめ込まれたそれは、他のものとは明らかに別格だった。その指輪の展示ケースには、絶えず人だかりができていた。
 ディーノは出席者に成りすましている部下たちの居場所をちらりと確認してから、気配を消してゆっくりとそこへ足を運ぶ。するとその人だかりの正体は、先程少しだけ話した子どもたちだった。
「きれー!」
「でも他のと比べてぼろっちいぞ」
「なんだか骨董品みたいですね……プレミアがついたものなんでしょうか?」
 歩美や元太、光彦の声に気づいた次郎吉は豪快な笑い声を上げながら彼らに近づいた。
「これはアメリカの見本市で取り寄せたものらしくてな」
「アメリカ? すごーい! 海を渡ってきたんだ!」
「私もオレンジスピネルは初めて見たわ」
「綺麗……。そういえば、キッドの予告状に『一等星の輝き』ってあったよね? それってどういうことだろう?」
 園子も興味津々に眺めていると、蘭が疑問を抱く。それを耳にした次郎吉はすかさず解説を始めた。
「このオレンジスピネルはなかなか出回らん代物でな。出回ったとしてもすぐに売買されてしまうし、小粒のものが多いんじゃ。だがこの指輪のオレンジスピネルは今まで確認されていないほどの大粒なんじゃよ」
「へえ、貴重なものなんですね」
「だから一等星の輝きって言われてるんですね!」
「星って言うから金平糖のことかと思ったぜ」
「元太くん食べ物のことばっかり!」
 話を聞いて感心した素振りをする蘭たちに、次郎吉はさらに気分を良くして警備システムについて語り出した。
 キッド確保のため、鈴木財閥はホテル経営者に協力を仰ぎ、警備システムを一新。高級ホテルの一つとしてセキュリティに力を入れていたホテル側は、今まで以上に強化に努めることとなった。また、中森警部の指揮により、ホテルの出入口からこの宴会場の至る所に警察官を配置。その他にも主催者側が募集した腕利きのシークレットサービスが各所に配置されていた。
 今度こそとキッド捕獲に力を入れる中森警部は、キッドを逃がす可能性が考えられる場合は、華麗な怪盗ショウを披露する現場を撮影しようと意気込む報道陣にも規制をかける姿勢を貫いている。
 存分に胸を張って話し終えた次郎吉はコナンに目を合わせニヤリとした。
「それに、期待しておるぞ。キッドキラーよ」
「あはははは……」
 コナンは愛想笑いを漏らす。完全に小五郎の存在を頭の隅に置いてしまっている次郎吉に、少し離れたところにいる小五郎は自分の名をアピールしていた。しかしその声は次郎吉の耳に入っていないらしく、コナンは呆れ顔を浮かべた。
 その様子を眺めながらディーノは腕を組んだ。
 ――相当頼りにされてるんだな。
 事前に渡された資料には、工藤新一は江戸川コナンの姿になってからというものの、まるで毛利小五郎が推理したように事件解決に貢献していることが記載されていた。また、小五郎に成り代わり推理を語ることが不可能な時は、偶然を装い証拠になるものを発見したり、わざとらしくヒントにつながることを口にしたりして大人たちを上手く導いていた。そのため、警察からも頼りにされており、事件現場へ足を踏み入れることは特別に容認されているらしい。
 類いまれぬ推理力は、親の名前を見て納得がいった。父は有名な推理小説家の工藤優作、そして母の有希子は元人気女優。高校生探偵として多々メディアに取り上げられ、宣伝のように両親の紹介も書かれている記事を読み、なるほどこれは父母のいいとこどりをしたもんだと舌を巻いたことを覚えている。
 人は遺伝と環境が相互的に影響しながら成長していく。生まれ持った父母の才とこれまで生活してきた環境が、新一を高校生探偵と名を馳せるまでにさせたのだ。
 しかし、新一を絶賛する一方で、『親の七光り』だとか『子どもが殺人事件の捜査に関わるなんて情操教育上よろしくない』『親はどんな育て方をしているんだ』等の意見も週刊誌に掲載されることもあったらしい。それが良いことなのか悪いことなのかなんてことは、とどのつまり自分の生育歴と比較することでしか判断できないのだ。ゆえに、他者がとやかく家庭の事情に口を出すものではない。それでも、否定的な意見を跳ね除けてしまうほどの活躍をする新一の推理力とスター性は、元々持っていた才能を父母を始めとした環境が育て上げたことに変わりはなかった。
 それにしても、工藤新一の幼い頃と江戸川コナンを比べれば本人だということは一目瞭然なのに、なぜ気づかないのだろう。まあ普通に考えて、人間が幼児化したなんて言われても空想の話だと思うから、疑いすらしないかもしれないけれど。
 こちらは最強のヒットマンである赤ん坊が家庭教師になっていた時期があるため、そのような経緯のある人々がいるということは、ある意味当たり前の環境下に置かれていた。
 ――本当、環境って怖いな。
 昔から怪我の絶えない日々を送り、今でも酷いときは血を見る生活をしている。自分にとってはそれが日常となってしまっているけれど、今日この場にいる出席者のほとんどは絵に描いたような平和な日々を送っていた。俺たちの普通は、一般人には無縁の世界なのだ。
 だからかもしれない。興味本位の抑えきれない好奇心に従って見なくても生きていけるものを見ようとして、自分も含め周りの人間も危険にさらすかもしれない行動をする姿勢に対して、好い気がしないのは。
 ――まあ、そのあたりは心やさしい弟弟子や妹分が俺よりも嫌悪を抱いているだろうけど。
 大人になったようで未だに出会った頃のままである部分も兼ね備えている綱吉を思い浮かべ、やれやれと肩をすくめる。
 そろそろ出て行ってもよい頃合いだろう。ディーノは抜き足差し足忍び足と心の中で唱えながら、コナンの後ろまで足を進めた。
 到着すると、腰をかがめて唇をコナンの耳元に詰め寄る。
「へえー。これが噂のオレンジスピネルか」
「っ!?」
 言葉を発するのと同時に、そこで初めて消していた気配を現すと、コナンは勢いよく振り返った。
「よっ! さっきぶりだな、ボウズ!」
「ディーノ様!」
 園子の黄色い声を視線で受け止めながら姿勢を正すと、コナンに顔を強ばらせながら後退りされてしまう。
 どうやらドッキリ作戦は成功したようだ。これ以上怯えさせないように人の好い笑みを浮かべると、コナンから白い歯が覗き、歯軋りを返されたことがわかった。どうやら逆効果になってしまったみたいだ。
「ねえねえディーノさん、この宝石知ってる?」
「めちゃくちゃ珍しいもんらしいぜ!」
「今まで確認されたもののなかで一番大粒らしいですよ!」
 子どもたちが知らない道を案内してくれるように指輪の説明を始める。それは次郎吉の受け売りであり、さらにディーノは既に知っていたことだった。しかし、知らないディーノに教えてあげようと一所懸命に話す三人の姿は微笑ましく、目線を合わせるようにしゃがみ込んで耳を傾ける。
 話が終わると口笛を吹いて説明が上手いと三人の頭を撫でた。
「キッドって日本のルパン三世みたいなやつだろ? 俺も見てみたいなあ」
 脚に肘をついて手のひらに顎を乗せ、空想にふけるようにつぶやいた。
「っ……」
 キッと鋭い視線を向けてくるコナンにさらに口角が上がりそうになる。
 盗聴器でコナンが聴いていただろう言葉を、一字一句間違わずに口にしてみた。コナンの反応を確認して「なるほど」と心の中で納得する。大方、こちらが最初から盗聴器の存在に気づいていたと推理したのだろう。それが今の何気ない一言を受け取ったコナンの顔でバレバレである。
 なんともまあ顔に出やすい。中身は高校生と言うが、まだまだお子様のようだ。
「見れると思いますよ、キッド」
「そうですよ! キッド様は毎回ド派手な演出で盗んでいくからチャンスはいくらでもありますって!」
 蘭と園子が応援するように話しかけてくると、ディーノは立ち上がり笑いかけた。
「おっ、本当か? そりゃ土産話にしなきゃなあ」
「ディーノさんはイタリアの方なんですよね? イタリアでもキッドって有名なんですか?」
「んー……どっちかと言えば、やっぱルパン三世の方がよく話題に上るかな。なんてったって『世界をまたにかける大泥棒』って言われてるから」
 少しだけ話をすると顔をぱっと明るくさせ、子どもたちはまだ見ぬルパン三世を思い描いていた。彼女たちにとっては、ルパンはおとぎ話の登場人物のような存在なのだろう。まだルパンが日本で表立って盗みを働いていないだけで、機会があれば来るだろうし、このメンバーならば充分彼らと関わる可能性はありそうだ。
 だが、キッドとルパン一味を同じ土俵にいると仮定して考えることがそもそもの間違いである。キッドとルパン一味は目的も領域も明らかに違うものだ。
 ――キッドなぁ……可哀想としか言えねえな。
 これから彼に起こることを思い浮かべ、ディーノは両手を合わせたくなった。なぜなら、彼は今夜オレンジスピネルを盗むのだ。そして俺たちは、それを取り返す必要がある。
 また、可哀想と思ってしまう理由は他にもあった。『この世の七不思議』に関心を持ち匣の研究や調査で世界中を飛び回っている自慢の弟子は、どこで聞きつけたのかキッドが宝石を盗む目的に興味を持ち始めたのだ。
 ディーノは頭の片隅で恭弥の動きを思い出す。今夜、恭弥はキッドに接触する予定があったが、その前にネズミにお灸を据えると言っていなかっただろうか。どんな展開になるかは想像もつかないが、キッドとそのネズミが恭弥と会って渋い顔をすることは確かだった。
「お主は……?」
 ディーノと蘭たちの様子を見守っていた次郎吉が声を漏らす。ディーノは次郎吉に向き合って挨拶をした。
「ご挨拶が遅れ申し訳ございません、Mr.鈴木。私ディーノと申します。イタリアで貿易商をしている者です」
「ほぅ……お主もイタリアか」
 確か彼女もイタリアだったなと口の中で唱えた次郎吉にディーノは頷く。
「クラーラ嬢のことですか? さすがMr.鈴木、出席者を把握してらっしゃるとは。縁あって私もクラーラ嬢とは彼女のお父上を介して何度かお会いしたことがあるんですよ」
「そうじゃったか。……さっきは大丈夫だったのか?」
「ええ。お騒がせして申し訳ありませんでした。そもそもは、私の婚約者が彼女に失礼な態度を取ってしまったのが原因ですから。自業自得みたいなものですよ」
「……ふむ、そうか。その婚約者とやらは今はいないのか?」
 次郎吉の疑問に話を聞いていた蘭たちは「そういえばなまえさんいないね」と声を漏らす。
「彼女のドレスにもワインがかかってしまったので、今はお色直しと言ったところです」
「お主、ここに泊まっておるのか?」
「ええ、彼女とともに」
 スイートルームにと言えば小さな名探偵が探りに来るだろうから、泊まっている事実のみを次郎吉に伝えると、園子たちが小さく黄色い声を上げた。年頃ということもあり、そういう話には敏感になるのだろう。
 ディーノは「それなら」とあることを思いつき、申し訳なさそうな表情を浮かべた。
「……それに、少々無理をさせてしまいましたから」
「無理? 体調が悪かったのか?」
 次郎吉をはじめほとんどの者が首を傾げる中、コナンは若干顔を赤く染めた。盗聴した時のことを思い出しているのだろう。
 視線が自分に集中しているのを感じながら、するりと風が撫でていくようにざっと全員の顔を拝んだ。そして、コナンたちよりも後方でじっとこちらを見つめてくる男を視線の最終着地点とする。
 警戒しているためか、その男が話しかけてくることは一度も無かった。これまでずっと一行の後ろに控えており、言葉に表さない心情や抱えているこちらの企みを推し量ろうとするかのように、しばしば翡翠色の瞳を覗かせながらこちらに視線を向けてくる。
 ――せいぜい自分で考えるんだな。俺はお前を許した覚えはないんだ。
 相当な切れ者らしいが、婚約者を演じていることに気づいたとしても、こちらの本当の目的まで辿り着けるとは思えなかった。
 鼻で笑いたくなったが、今はその時ではない。ディーノは右足の土踏まずを左足の踵にくっつけるように足を引き、つま先を九十度動かして方向を変える。そして左足も右足のつま先を追うように動かした。体の向きを変えたことで、コナンたちに左半身を向けることとなった。
 最後の仕上げだと心を込めて鼻先をほんの少しだけ左に向けてから流し目をした。
「――いいえ?」
 できうる限りの甘さを加えて否定をした瞬間、空気が変わったのを肌で感じた。
 ある者は口元を押さえたり頬を染め、瞳を輝かせながらうっとりとした表情を浮かべる。そして、ある者は眉間の皺を濃くして視線を鋭くさせた。
 ディーノが確認できたあたり、後者は“三人”いた。

   *

 宴会場を離れたディーノは、連絡通路を渡り本館からタワー館に移動した。
 タワー館は宴会場やレストランの他、フィットネスやプールサウナが設けられている。どうせなら他の階も見ておこうと、目的地に向かう前に様々な施設を練り歩いた後、エレベーターに乗り込み最上階まで向かった。最上階にはスイートルームが敷設されている。国外からの出席者は主にスイートや、スイートに次ぐ広さを持つ部屋に宿泊していた。
 エレベーターが到着して降り立つと、エレベーターの前はちょっとしたロビーになっていた。そして一番端のソファーに、標的の姿を発見する。ディーノは唇を引き締めた後、観念するようにふっと息を吐いて緩く笑みをつくった。
「クラーラ嬢」
「っ! ディーノ様!」
 クラーラは突然聴こえてきた声に肩をびくつかせ、きょろきょろと辺りを見回した後にディーノを認めると、ソファーから立ち上がり向き合った。
「あ、あの! 先程は本当に申し訳ございませんでした! なんとお詫びをしたらいいのか……ディーノ様に、こっ、婚約者様にあんなこと……」
「そうお気にならさないで。アイツがいけないんです」
「そんなこと!」
 顔を悲痛色に染めるクラーラにディーノは小さく溜息をつく。
「少し、お話ししましょうか。私と彼女の関係を」
「関係……?」
「実はこの婚約、政略的なものなんです」
「え?」
「……聞いてくださいますか?」
 ディーノは驚いているクラーラを座るよう促し、自身も彼女に斜めに向かい合うよう腰を下ろした。
「もともと、この婚約は彼女の祖父と俺の父が勝手に決めたものなんです」
 言葉を失うクラーラにディーノは話を続ける。
「俺と彼女の弟の家庭教師が同じだったことがきっかけで、いつの間にか進んだ縁談でした。亡き父の遺言みたいになってしまって、やめたくてもやめられずにずるずるとこの歳まできてしまったんです」
「そんな……」
「彼女も本当は婚約に積極的ではありません。しかし、各家からの圧力もあって、このような場に来る時はいつも同席してもらっているんです。心なんてひとかけらもない婚約なんですよ」
 眉間にぎゅっと皺を寄せて嘲笑うと、クラーラは悲痛な表情を浮かべた。
「ディーノ様……」
「本当は自由に、愛だの恋だの謳歌してみたいのです」
 ディーノは立ち上がるとクラーラの隣へ腰を下ろす。擦り寄るように片手を動かして、クラーラの手を上からそっと握った。
「っ!?」
「もしかしたら……貴女となら、それができるかもしれません」
「でぃ、ディーノ様……」
 頬を染めて夢でも見ているかのような表情で自分を見上げてくるクラーラに罪悪感を覚え、顔を曇らせそうになった。
 しかし、張り詰めた空気がとろけだし始めると、一つの違和感が顔を覗かせる。
 ――本当、どいつもこいつも盗み聞きが好きだな。
 違和感の正体である、息を殺してこの場を去っていくであろう気配に、ディーノは内心ほくそ笑んだ。
 どうして米花の人間はこうもいけ好かない輩ばかりなのだろうか。自分たちは裏の世界に身を置く存在だから、盗み聞きを始めとした薄暗い行為には慣れっこだし、そうされていることを前提として行動することもある。しかし、米花に住む者の中で要注意かつ重要人物と伝えられた者たちは、一般人を装っているのだ。それは酷く曖昧な身分だとディーノは考える。そして、だからこそタチが悪いと顔を顰めたくなるのだ。
 とやかくこちらの領域に踏み込もうとしてくれば、自分たちの物差しで一つひとつの行動を測りたくなってしまう。けれど、裏の世界にも足を突っ込んでいる可能性も考えられる彼らは、一応一般人だった。一般人には、こちらの物差しは通用しないし、表と裏の世界が交わらぬよう線引きする必要がある。それが裏社会に身を置くもののけじめであったし、ぶれてはならない決まりだった。
 完全に気配がロビーからいなくなったのを把握してから、ディーノはさてと気持ちを入れ替える。
 クラーラに気づかれないよう、忍ばせてあるマイクのスイッチを入れた。
「ここではなんです。場所を変えてゆっくり語らいませんか? 貴女のその翡翠色のピアスも、もっと近くで眺めたい……」
 顔を近づけて囁くと、クラーラは沸騰したかのように顔を真っ赤にさせた。
「そんな……! い、いけませんっ」
「会場に戻らなければ、と考えておられるのですか? むしろ今は戻らない方が良いかもしれませんよ」
「え?」
「もうすぐ、怪盗キッドが予告してきた時間です。キッドが現れれば会場内はきっと騒然となるでしょう。もしかしたら怪我をしてしまうかもしれません。……俺は貴女に傷ついてほしくない」
 とびきり甘い声と笑顔を心がけると、クラーラは言葉にならない声を震える唇から漏らした。丸い瞳がつるんと光る。
「あ、う……そん、な……。えっと、あの、でっでも! ディーノ様がいなかったらあの婚約者様は……」
「クラーラ嬢はお優しいのですね」
 もう一押しだと微笑むと、クラーラの目尻がじわりと紅く染まった。
「会場内には俺の部下もいますし、アイツには強力なボディガートがいるから大丈夫ですよ。貴女の執事には、俺の方から伝えておきます。ね?」
 ディーノ立ち上がり恭しくお辞儀をして右手を差し出した。
「お手をどうぞ、クラーラ様」
 恐る恐る差し出された手に自分のものを重ねるクラーラにディーノはほくそ笑む。
 その言葉は、クラーラが執事の不在に疑問を持たないよう関心をディーノ自らに向かせることに成功したと、通信機の向こう側にいる仲間に伝えるものだった。

   * * *

 宴会場を飛び出したコナンは息を乱しながらぐるりと周囲を見渡した。
「クソッ……どこに行ったんだ」
 展示されているオレンジスピネルを前に話した後、ディーノは行くところがあると言い残し去っていった。コナンはディーノが気になり、トイレに行くといって会場を抜け出してきたのだ。
 連絡通路を渡り隣のタワー館に移ったディーノは、内装や併設された施設を物珍しそうに見て回っていた。目を離さないようにとちょこまかと移動するディーノに必死について行ったが、一瞬の隙をつかれ、彼はまるで消えてしまったかのように姿を消した。
 この階にいないはらば、別の階を探すだけだ。コナンはエレベーターに足を向けようとしたが、視界の端を誰かが通り過ぎた。
「ん?」
 見覚えのある姿にコナンは回れ右をして来た道を戻っていくと、黒い燕尾服を着た欧米人が歩いているのを発見する。
 ――あれはクラーラの執事か? どうして一人で……。
 確かクラーラはディーノにワインを掛けてしまった後、執事に連れられて会場を去ったはずだ。きっと部屋に戻ったのだろうと考えていたが、なぜ執事だけここにいるのだろう。
 考えていると、ベルボーイが執事に声を掛け、少し駆け足で近寄っていった。
「クラーラ様のお付きの方でお間違いないでしょうか?」
「ええ、そうですが」
「クラーラ様が体調を崩されたと他のお客様から連絡を頂きましたので、医務室にお連れ致しました」
「……そうでしたか。それはありがとうございます」
「クラーラ様の容態を確認されますか? 医務室までご案内致します」
「申し訳ございません。よろしくお願いします」
「それではこちらへどうぞ」
 執事はベルボーイ連れられて医務室へと向かっていった。
 ――クラーラは部屋に戻ってから一回外へ出た……?
 そうでもなければ、ベルボーイが言うように『他のお客様』から連絡が入らないはずだ。しかし、会場内でのクラーラと執事の様子を見るに、執事は常に離れずクラーラの後ろに控えていた。ならば、会場から出た後も共にいるだろう。部屋から抜け出したクラーラを探していたというなら合点がいくが、それにしては執事に焦った様子は見られなかった。
 ――なんだ、なにが引っかかってるんだ。
 このセレモニーの裏で、なにか大きなものが秘密裏に動いているとコナンは感じていた。
「……は、どちらに……」
「五階の……室へ……」
「ん……?」
 会話が聞こえてきて、コナンは思考の波から顔を上げる。
 引き寄せられるように声のする方へ歩いていくと、ホテルスタッフがなにやらバタバタと忙しなく動いていた。
 小さい体をさらに縮こませて様子を見守っていると、数人部下と見られる者を従えた主催者がやって来る。
「会長、警察の方々がお着きになりました」
「ああ、わかった」
 内緒話をするように廊下にいた二人のホテルスタッフが主催者に駆け寄った。
 ――警察? 中森警部ではないのか?
 キッド捕獲のために警察は既にホテルに張り込んでいる。今さら到着するというのはどこかおかしい。
 主催者とスタッフはエスカレーターに乗り上の階へと進んでいく。コナンは彼らの声が聞こえる距離を保ちながら後をつけ始める。
 一行は五階に到着するとエスカレーターから降りて歩き始めた。
 確かそちらには会議室があるんじゃなかったか。コナンが館内図を思い出しながら推測していると、スタッフの一人が携帯を取り出して電話にでていた。一分にも満たぬ通話が終了すると、スタッフは主催者に報告をする。
「今、他の役員が仕入れてきた者たちに至急こちらに向かうよう連絡を入れました」
「盗品が扱われていると世に知れ渡れば大問題になるぞ……」
 主催者は額に手を当てて唸り声を上げる。
 ――盗品!?
 コナンは声を上げてしまいそうになり咄嗟に口に両手を持っていった。
「しかし、匿名からの通報ということは悪戯と考えるのが妥当ではないでしょうか? キッドの件もありますし、騒ぎに乗じてというのも」
「……それで本当に盗品だと判明したらどうする。それこそ我社の名に傷がつくだろう」
 主催者の苦しい声を聞いてスタッフは皆顔を曇らせる。
「どちらにせよ、盗品という疑いが少しでもあるならば徹底的に調査をする必要がある。透明性を保たなければ、信頼は得られない」
 主催者は決心するように告げると、大きく足を踏み出して会議室に入っていった。
 最後の一人が入室しそうなところで、バタバタと駆けてくる足音が聞こえてくる。恐らく警察の者だとコナンは推察し、自分がここにいることがバレる前にエスカレーターに乗りこんだ。
 ――どうしてそんなことわかるんだ?
 宝石の入手ルートを知り尽くしている者からの通報だろうか。例えば、鑑定士や、宝石の取引を専門に扱う者。しかし、次郎吉の話を思い出す限り、今回展示されている宝石の中にはアメリカで手に入れたものもある。
 一番引っかかるのは『匿名』の通報という部分だ。なぜ名を伏せる必要があったのか。宝石展覧会を主催する会社は鈴木財閥とも縁が深い。そんな会社ならば、名を告げずに通報した方が恩恵が見込めると考えるのが普通だ。やはり、ホテルスタッフが言ったように悪戯の類いに含まれる通報なのだろうか。
 どの宝石が盗品の疑いがあるのだろう。コナンは展示品を一つひとつ思い返しながら考えを巡らせる。
 一番怪しいのは、キッドも狙っているオレンジスピネルの指輪だ。それは他の展示品と比べても骨董品のように古めかしい雰囲気があった。
 ――もう一度、展示品を見てみるか。
 なにか手がかりになるものが見つかるかもしれない。それに、もし本当にオレンジスピネルの指輪が盗品だというならば、キッドはどうなるのだろうか。
 思案しているとコナンはあっという間に宴会場にたどり着いていた。会場に入り真っ先に宝石が展示されているステージへ進もうとしたが、コナンはぴたりと足を止める。
 ディーノがいなくなったと思えば、すれ違いのようになまえが会場に姿を現したのだ。
 なまえは壁に背をあずけ、誰とも会話することなくグラスを片手にぼうっとしている。着替えたらしく、ネイビーのドレスはレモンイエローになっており、髪型もだいぶ違うものとなっていた。そしてやはり、彼女の近くにディーノはいない。
 ――気になることは多いが、まずは彼女から探ってみよう。
 コナンはごくりと唾を飲み込むと、ニッと口角をあげた。
「なまえさん!」
 名前を呼んで駆け寄ると、コナンに気づいたなまえは手を上げて「さっきぶり」と微笑んだ。
「なまえさん一人なの? ディーノさんは?」
「トイレに行くって言ってから帰ってこないよ。だから一人で待ちぼうけ」
 溜息をついたなまえはグラスを傾けた。
「一人じゃつまらなくない?」
「ううん、大丈夫。ちょっと疲れちゃったのもあってここで休憩中だから」
「ふーん。そうなんだ。僕てっきり皆から見えないように隠れてるのかと思ったよ」
「どうしてそう思ったの?」
「だって、行ったら質問攻めにされるでしょ? ……ディーノさんとのことについて、とか」
「さすが名探偵だね。その通り。園子ちゃんとか絶対『なにがなんでも全て洗いざらい吐きなさい!』みたいな勢いで来そうだから怖くてさ」
「……確かに」
 ディーノがクラーラに婚約者だと言ってなまえを紹介した時の園子たちのはしゃぎ様は凄まじかった。
「でも本当びっくりしたよ。婚約者だったんだね、ディーノさん」
 なまえは一拍遅れて目を見開いた。しかしすぐに表情は元に戻り、何事も無かったようにグラスを口に運ぶ。飲み物で濡れた唇でにこりと笑う姿は美しいけれど夜の香りがして、コナンはいけないものを見ている気分になった。
「ドッキリ大成功ってね」
「僕、なまえさんはてっきり……っ!」
「てっきり?」
 途中で言葉を切ったコナンを不思議がり、なまえは持っていたグラスを近くのテーブルに置いて、腰をかがめコナンに問いかける。二人の距離は近づき、今までよく見えなかった首元が露わになった。きわどいところに落とされたキスマークに、コナンは盗聴した時の彼女の声を思い出して顔を染める。
「どうしたの? 顔赤いよ?」
「えっ!? いや、その……」
 視線を惑わしながらもコナンが首元を気にしていることに気づき、なまえは首を傾げた。
「私の首、なにかついてる?」
「えっと……」
 コナンはどう返答したらよいのかわからなくなり口ごもる。
 暫くまごついていると、鶴の一声が二人の耳に飛び込んできた。
「ここにいたのか、コナンくん」
「すっ、昴さん?」
「皆が探していたよ」
「えっ、でも……」
 まだ聞きたいことがあるとコナンは視線で昴に伝えようとした。しかし昴はそれに気にせず歩美たちがいる場所を指差した。
「コナンくーん!」
「アイツどこいったんだよ」
「料理なくなっちゃいますよー!」
 三人が皿やグラスを片手にコナンを探していた。子どもたちがいる場所から現在コナンがいる場所は死角となっていて、こちらからは様子を見られるがその反対はできなかった。
「行っておいで」
「……わかった」
 昴の有無を言わせぬような促しに、コナンは冷や汗をかきながら返事をする。
 二、三歩駆け出してから自分を送り出すなまえと昴を振り返った。にこやかな笑みを浮かべる二人がなにを考えているのか、コナンはいつも以上に読み取れず口の中で小さく舌打ちをする。
 後ろ髪を引かれるようにコナンは皆の元へ向かっていった。

   *

 なまえとディーノは出席者の中でも特異な存在に思えた。朗らかな笑みを浮かべていたが、同時に他者を容易に近づけさせない雰囲気を醸し出していた。
 コナンが子どもたちに迎えられるまでの間、互いの間に言葉はなかった。二人してコナンがきちんと彼らの元に戻る様子を眺めていた。なまえもコナンが諦めの悪いことを知っているだろうから、完全にコナンの関心が子どもたちに持っていかれるまで待ち続けたのだろう。
 少しの間の静寂を味わって、コナンが子どもたちに連れられさらに離れていくのを確認してから、なまえは息を吸った。
「こんばんは」
「……こんばんは」
 行儀よくにこやかな挨拶に、昴は一瞬面食らった。
 なまえは完璧に他者に、それもこの会場内にいる出席者に挨拶をするような態度で接してきたのだ。
 胸の奥でとぷんと黒いインクが零されたようだった。
「まさかなまえさんもここに来てるだなんて思わなかったですよ」
「びっくりしました?」
 倣うように壁に背を預けながら話しかけると、なまえは悪戯が見つかってしまったかのように肩を竦めた。
「ああ。……婚約者がいるとはね」
 驚いたよとわざとらしく言うと、なまえは困ったように笑う。
「そんな言い方、意地悪ですよ」
 なまえは唇を尖らせて視線を寄越したが、すぐに目を閉じて大きく息を吐き、瞼を上げて会場を眺める。
「貴方なら見ててわかるでしょ? 簡単に言ったらアルバイトですよ。ディーノの虫除けスプレーみたいな。……あっ、あの子たちには内緒ですよ?」
 その方が面白いからと人差し指を口元に寄せる。
 子どもたちはからかいがいがあると言ってるようにも聞こえるが、実際は、彼女が話題の玩具にされているようなものだった。図々しく根掘り葉掘り聞きたがる子どもたちをひらりと交わして逃げ惑うのは自分自身なのに、わざとそれを実行しやすくしようとする。まるで他人事のように話すなまえは明らかに異質だった。
 子どもたちの注目を集める行動を起こすような素振りをすると思えば、現在彼女がいるこの場所は、離れた場所で食事を楽しむ子どもたちから死角となっている。
 なまえのちぐはぐな行動に、なぜだか酔いそうな気分になった。
「着替えたんですね」
「はい。よく見たら私もドレスにワインかかっちゃってて」
 形の良い唇がいつもよりも艶めいており、なぜだか居心地が悪くなってすぐに視線を外した。
「彼は一緒じゃないんですね」
「彼? もしかしてディーノのことですか?」
 なまえは「ディーノは人気者だなあ」と他人から我が子を褒められて喜ぶ親のような顔をした。
「着替えてたら先に出てっちゃったんですよね。会場にいるだろうと思って戻ってきたんですけど……入れ違いだったのかな」
 寂しそうにまつげを揺らすなまえに目を奪われそうになる。
 秀一は思考を切り替えるためにぎゅっと眉間に皺を寄せて、この会場に戻ってくる前に見た光景を思い出した。
 コナンがディーノを追うために会場を出ていった後、秀一もディーノを追いかけていたのだ。
 ディーノはコナンがギリギリで見失わないよう歩いていたが、途中からまるで隠れんぼのように姿をくらました。その後、結局コナンは追いつけなかったが、秀一はエレベーターに乗り込むディーノを目撃し、尾行を続行することに成功する。
 あの腕まくりには大きな意味がある。あれは、ワインが染みて腕まくりをしたのではなく、刺青を“見せる必要があった”のだ。それがなぜなのかは未だにわからないが、秀一はそう確信していた。
 尾行の結果、刺青の謎は迷宮に入りかけてしまったが、代わりに予期せぬ収穫があった。
 ――知っているのだろうか。
 なまえは、ディーノがしていたことを。
 ロビーで密会をするようにしていた二人。一見すると、ディーノが人目を盗んでクラーラを口説いているように見えたが、よくよく観察するとそうではなかった。
 クラーラの視線が自分に注がれていない時に、一瞬だけディーノが男の表情から戻ることが度々あった。その表情は、クラーラの前でなまえを婚約者と名乗った後、執事に連れられ去っていくブロンドを視線で追いかけている時の様子に酷く似ていたのだ。
 ディーノへの疑問は増えるばかりだが、それに以上になまえが気掛かりだった。
 着替えたなまえに見覚えがあったのだ。今日初めてなまえのドレスを見たはずなのに、初めて見た気がしない。
 秀一はなまえをじっと見つめて思い出そうとした。見つめられているなまえは突然黙りこくった昴に首を傾げている。
 どこかで似たような女を見た気がする。いつだ、どこで見たんだ。
 なまえに視線を注ぎながら、くだらないことを思いだそうとする自分を鼻で笑いたくなったが、それでも記憶の奥底へ意識を集中させた。
 そうだ。いつか見た夢に出てきた、城の中で出会ったドレスを着た女に似ているんだ。
「昴さん?」
「君は……」
 ――もしかして、あの夢の彼女は君なのか?
 それならば、どこかへ行かないよう、今度こそつなぎ止めなければならない。
 思考は麻痺し始める。秀一はなまえに向かって左腕を伸ばした。
 なぜ、あの男の口から婚約者だと聞いた時、胸がきしんだのか。本物の婚約者などではないと瞬時に気づいたのに、どうしてこんなにも彼女の隣に他の男が立っていると胸がざわつくのか。
 いつも近くにいることが多いなまえが傍にいないだけで、彼女がとても遠い存在に思えた。今まで知らなかった部分を、そして知ろうとしなかった部分を一気に見せつけられた。
 伸ばした手がなまえに到達する。艶やかな瞳と唇に刺激された扇情的な頬に手を添えようとした。中指があと一センチで触れるというところで、首筋につけられたキスマークを見つける。
 ピタリと手が止まった。
 バラバラだったパズルのピースが、すべてカチリと当てはまっていく感覚を覚えた。
 他人行儀のように振る舞う姿。自身を駒のように考えているかのような素振り。ここにいるようでここではないどこかを見据えているような瞳。心からの笑顔を知っているからこそ、本物ではないと違和感が拭えぬ下手くそな笑み。そして、婚約者を装う姿勢。
 そう、まるで、演じているような――。
「――君は、“だれ”だ?」
 薄く開いた唇は最小限働きしかしなかったが、吐息に輪郭をつけたような音がなまえに飛んでいった。
 変声機をつけているのに、本来の自分の声が身体の中に響いているようで、不思議な気持ちだった。
 なまえは目を見開いて固まった。ピクリとも動かないなまえは、そのまま生命の灯火が消えてしまったようだった。
 二人の周囲だけ音が消滅した。耳を澄ませば息遣いや心拍が聴こえてしまいそうである。会場内の雑音が遥か遠くで鳴り響き、海に潜った時はこんな感じだったかと古い記憶と答え合わせをしようとした。
 息継ぎが必要となるくらい、なまえとの沈黙は苦しかった。
「沢田姉ー!」
 突然、曇天を吹き飛ばすくらいの日に焼けた声がなまえを呼ぶ。初めて聞く男の声だった。
 名を呼ばれたなまえは瞬きを一つ二つして息を吹き返す。すると再び双眸に光が宿り、なまえは笑った。
 蕾から花びらが一枚ずつ開いていく様子を早送りにして見ている気分だった。
「――やだなあ、私は私ですよ」
 どうしちゃったんですかと首を傾ける無垢な瞳に映る自分は、笑ってしまうくらい困惑した表情を浮かべていた。
「沢田姉ー! どこだー!」
「あっ、了平。忘れてた。……ごめんなさい、呼ばれたので行きますね。また」
「待っ、……」
 なまえはこちらの言葉を耳に入れずすり抜けるようにして昴の横を通り過ぎ、名前を呼んだ男の元へ駆けて行った。
 中途半端に伸ばした手はなまえの残り香を掴む。
 手を握りしめたまま振り返ると、なまえは人懐っこい顔をして、鼻に絆創膏をつけたスーツの男と談笑していた。
 秀一は目にも見えないなまえの名残を見つけだそうと左手に目を落とす。そして、恐る恐る握っていた手を開いた。彼女に触れられなかった指先がビリビリと痺れている。
 耳の奥で、運命を告げるように心臓が忙しなくドアを叩いていた。

17,05.15